Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。