・「東アジア共同体」につき、鳩山首相は米国を排除しない旨を言い、岡田外相は米国抜きで、インド・豪州等も含むことを想定する旨発言している。
「東アジア共同体」構想の実現は現政権の重要政策の一つのはずだが、首相と外相でこうもイメージが違っていてよいのか?
もともと、鳩山由紀夫が(自民党<保守>派と異なる?)親アジア(とくに東アジア)姿勢を示しておきたくて、かなりの程度は幼稚な「思いつき」の域を出ないことを書いたことに、各閣僚のイメージの違いの原因があるのだろう。
しかし、首相と外相との間の重大な<不一致>ではある。
重要課題として掲げるテーマの<閣内不一致>を、なぜ、朝日新聞を先頭とするマスメディアは重大視して問題にしないのだろうか?。自民党中心内閣の場合だと、朝日新聞は一面に持ってきて、首相と外相の不一致を大々的に取り上げて、問責するのではないか?
・衆院選で近畿比例区で当選した民主党の渡辺義彦は、今年3月に大阪地裁により破産手続開始の決定を受けていた。そのことは選挙中は本人も有権者に公にしていなかった。
立候補資格の欠如や当選を無効とする効果はないとしても、破産手続の渦中にあるということは、渡辺義彦にとっての、重要な個人的履歴であり(しかも過去のものではない)、そのことを公にしていなかったのは、選挙公報への重大な(消極的意味での)虚偽記載にあたるのではないか。
ポルノ映画に出演していた以上に、現在に関係する、重要な個人情報であり、有権者に提供されていなければならなかった、と思われる。
しかるに、なぜ、朝日新聞等のマスメディアはこのことを大きく取り上げないのか?
ポルノ映画出演の過去もある程度はそうだろうが、破産手続中の者が国会議員として居座っていることを、その国会議員が民主党ではなく自民党所属であれば、朝日新聞を先頭とするメディアは一面でも大々的に取り上げて、少なくとも<道義的>責任を問題にするのではないか。
・たまたま二つ挙げたのみだが、建前として朝日新聞がジャーナリズムとして<権力監視・批判>を続けると言った(書いた)ところで、信用することはできない。
朝日新聞は2006年夏、安倍晋三が自民党総裁になりそうなときに、<福田(康夫)氏よ、対抗馬として立て>旨の社説を書いた。
2007年春、石原慎太郎の都知事再選が有力視されていた頃、<菅直人よ、対抗馬として立て>旨の社説を書いた。2007年7月参院選の前哨戦として、朝日新聞は都知事選の結果を気にしていたのだ。
とっくに明らかなことだが、朝日新聞(社)は、<ふつうの>新聞(社)ではなく、<政治団体>に他ならない。なお多くの国民が朝日新聞(社)が<ふつうの>新聞(社)の一つと見なしているようであることにこそ、現代日本の悲劇はある。
・そのような朝日新聞(社)が、自分たちに近いか、自分たちと同じ見解・主張・歴史観をもつ内閣を支持しない筈がない。そして、反対や攻撃から新内閣を守ろうとするのはむしろ当然又は自然のことだ。
朝日新聞(社)や同グループは、今後、再び「右派政権」(かつて安倍内閣を朝日新聞社説が称した言葉)が誕生しないように、懸命の努力をするだろう。
・週刊朝日10/16号(朝日新聞出版)は、冒頭に、「国会の質問王・前衆院議員」と紹介して、保阪展人に、「八ツ場ダムの隠された真実」と題する文章を書かせている。
保阪展人は社民党の前国会議員だったのだが、「社民党」との紹介が一言もないことにも驚く。あえて隠したとしか思えない。
週刊朝日の記者の文章ではなく本文の全体が保阪展人のもののようで、5頁分の紙面を保阪にまるまる提供していることにも驚く。
中身は、「八ツ場ダム」建設中止問題についての前原国交相の立場を支持するものだ。
この問題の賛否に立ち入るつもりも知識もほとんどない。
だが、明確なのは、朝日新聞(社)とほぼ同一視してよい週刊朝日が、この時期に、客観的に見て、民主党を応援する文章(5頁)を冒頭にもってき、かつ表紙でも大きく宣伝していることだ。
朝日新聞は、「八ツ場ダム」建設中止問題で民主党のイメージが悪くなるのを懼れた。前原大臣の意向に反対する地元住民や町長・知事等の声がかなりテレビ等で流された。朝日新聞(社)は、この辺りから民主党政権に傷がつき始めることを、さっそく危惧したのではないか。
10/25には参院補選もある。それに(民主党に不利な)影響が及ぶことを避けようとしたのではないか。
客観的・中立的に「八ツ場ダム」建設中止問題を扱ったのではないのは明らかだ。朝日新聞(社)・週刊朝日の<政治的>狙いを感じても当然だろう。
・だが、朝日新聞(社)はそんな<政治>性を持たないと考えている人物がいるようだ。
月刊WiLL編集長の花田紀凱。
花田紀凱は産経新聞10/10の「週刊誌ウォッチング」のほとんどを、上の保阪展人の文章(リポート)の紹介にあて、「詳細は是非このリポートをお読みいただきたい」と結んで、反国交省官僚、つまりは民主党の大臣の見解を支持するかのごとき文章を書いている。
なるほど保阪展人は重要なことを指摘し又は明らかにしているのかもしれない。だが、前社民党国会議員が書き、週刊朝日(朝日新聞出版)が掲載する内容を、花田紀凱のごとく簡単に又は安易に注目し又は<信頼>してよいのか?
花田紀凱は<保守>系(のはずの)雑誌・月刊WiLLの編集長。いつから、社民党と朝日新聞(・週刊朝日)にこんなに甘くなったのだろう?。
それとも、民主党批判ではなく国交省の官僚を批判しておくことの方が重要だと考えたのだろうか。
西尾幹二ーの文章を掲載する週刊朝日に、西尾幹二の皇室論議を支持している花田紀凱は親密感でも持ったのだろうか?
産経新聞の読者の中にも花田紀凱の文を読んで週刊朝日上掲号を購入した者もいるだろう。かくして、経営的にも花田紀凱は週刊朝日に貢献していることになる。
不思議で奇妙な構図だ。
朝日新聞社
民主党政権誕生を屋山太郎が大歓迎している。
イザ・ブログ上の屋山によると、「民意を反映した民主主義とは根本的に異なる」、明治以来の「官僚内閣制」が「終焉を迎えた」。そして、「民主党の『官僚内閣制』から『議会制民主主義』へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている」らしい。
また屋山は、「民意を汲み上げることを日本ではポピュリズムと非難する」が、「民意とほとんど無関係に政治が行われていることを国民が実感したからこそ、自民大敗、民主圧勝の答えを出したのではないか」、と書く。今回の結果は、上のような「実感」の答えではない、と私は思うが、この点はさておく。
憲法上、国会が(法律が必要な場合は)法律を制定し、「内閣」を筆頭とする行政官僚が法律を「実施」する。国会議員を「政治家」と言うならば、憲法上、行政官僚よりも「政治家」の方が上、政治家が行政活動(・行政官僚)を監視し、とくに法律に従って適正に行政がなされているかを監督することは当然のことで、あえて言うまでもない。
「官僚内閣制」という概念は-決して一般的ではないと思うが-法律自体が行政に「裁量」を認めていること、補助金のように具体的な事項を法律が定めなくてもよいとされる分野があること、法律を実施するための具体的細目等を定める政令・省令等々は内閣や所管大臣が定めるもので、実質的には補助部局たる事務次官以下(実質的には課長・課長代理・室長あたりが決定すると言われる)が決定していること、さらには法律案・法律改正案すら内閣に法案提出権がある(国会法)ことを根拠として、形式的・表面的には「内閣」提案でありつつ、実質的には事務次官以下(カッコ内、上と同じ)が決定してきた、といった現象を指しているのだろう。
これを行政「官僚」ではなく「政治家」に取り戻す、<政治家主導>にする、というのが民主党の方針であり、屋山太郎が拍手を送っているものだ。
しかし、いろいろと言いたいこともある。
まず、国会と内閣の関係の問題と捉えた場合、<政治家主導>というならば、国会構成員であると同時に行政担当者となった大臣・副大臣等々、あるいはそれ以下の行政官僚が法律(改正)案を検討して国会に提案できるということ自体が奇妙とも言える、すなわち、法律(改正)案を国会に提案できるのは(一定数以上の)国会議員に限る(いわゆる「閣法」をなくす)という抜本的改正も考慮されるべきと考えるが(その方向での国会法改正は違憲ではないだろう)、そんな議論は(マスメディア上では)誰もしていない。
法律(改正)案の検討のための審議会類を行政部局である「内閣」、「大臣」、各省「局長」レベルに置くことこそ、本当は奇妙で、国会こそが、国会議員=政治家こそが、字句改正の技術的なことも含めて法律(改正)案を形成・提出できる能力を身につけなければならないのではないか。また、そのような能力のある者こそが国会議員に選出されるべきではないか。
次に、屋山は事務次官会議を廃止し重要案件を「閣僚委員会」で決することを是としているが、一省でも反対なら閣議決定にならないのは異常であることは認めるとしても、「閣僚委員会」なるものに実質的決定権を持たせた場合、本来は内閣で議決すべき案件の場合(現行法上は法律案の決定もそうである)、「閣僚委員会」が実質的に「内閣」の権限を奪ってしまう危険がある。閣議による自由闊達な議論こそ「内閣」制度の基本だとすれば、「関係閣僚」だけに限った「閣僚委員会」なるものは(法制化するのか?)憲法・現行法律に違反するこことなる、あるいは「内閣」での議論を-事務次官会議と同様に?-形骸化する可能性がある。
第三に、これが最も言いたいことだが、「官僚」主導か「政治(家)」主導は憲法を離れていえば、システム(又は手段・方法)の問題にすぎず、それらのシステムを通じて形成される決定・判断・意思の合理性、他方に対する<優位>を何ら保障するものではない。
てっとり早く言って、「政治家」主導は結構だとしても、その「政治家」主導で決められた政策等が国民等にとって<悪い>ものだったら、どうなるのか。民主党を中心とする「政治家」たちが決定し実行しようとしている諸政策は、「政治家」主導だ、と歓迎するほどに<よい>ものなのか。
総じて、「政治家」主導の方がよい結果になるだろう、という見方はありうる。選挙で洗われる危険のない行政官僚ではない「政治家」は、次回の当選のために、行政官僚と違って「民意」を尊重して、政策判断・決定する、というのだろう。だが、むろん何が<よい・悪い>のかが問題なのではあるが、「民意」を尊重した政策判断・決定はつねに<よい>決定だとは絶対にいえない。
むろん「民意」は何かの問題もある。全国の国民か特定の地域の国民か、現在の国民か将来の国民も含めてか、等々。
要するに、<政治家主導>だからといって手放しで喜んで済む問題ではない。
「官僚内閣制」→<政治(家)主導>は憲法上はタテマエとして当然のことで、実質論をするとしても、<政治(家)主導>だからといって長期的観点を含めた日本国民の利益となる保障は、論理的には、どこにもない。<政治家主導>によって何が具体的に決定されるかが問題なのだ。
総選挙後の週刊朝日は表紙に「民主党革命」という語を使っていたが、<明治以来の大変革>というようなイメージは、おそらくは間違っている。スタイル・方法よりも(あるいはそれだけではなく)具体的政策の内容を議論すべきだ。
一 NHKニュース(例えば公示日18日の午後9時台)によると、今次の総選挙の<争点>は「政権選択」らしい。
産経新聞によっても同じで、18日夕刊は「政権選択・決戦の夏」が一面上の大見出し。
だとすると、いちいち確認しないが、朝日新聞・毎日新聞・日経新聞等々はすべて同じことを謳っているに違いない。
だが、「政権選択」が争点だというのは、むろん奇妙なことだ。
なぜなら、内閣総理大臣の指名について優先権をもつ衆議院の議員の選挙(総選挙)はつねに、「政権選択」のための、少なくともそれに直接関係する選挙だからだ。
佐伯啓思も7/22に書いていた。-「これほど奇妙な選挙もめずらしい。政策上の大きな争点が何も提示されず、ただ政権交代だけが争点になってしまった」。
これまでも一貫して総選挙は「政権選択」選挙だったのだが、1955年以降、自由民主党が第一党であることは変わらず、同党が過半数を占めるか、どの程度それを超えるか、過半数を割った場合に第二党以下による連立政権になるか、が現実的な<争点>になることはあった。事前にどの程度予測されていたかは不明だが、1993年には第二党以下による非自民・連立政権になった(第一党は自民党)。
こうした過去とは違って、第一党自体が代わり、民主党中心政権ができるかどうかが争点になっている、とマスメディアは言いたいのだろう。だが、総選挙はつねに「政権選択」選挙なのであり、これを争点とするのは厳密には誤っている。
具体的な政策論議を軽視して(全く無視しているとは言わない)、民主党か自民党か、政権はいずれの党に、ということを争点化すること自体が「政権交代」を第一の旗印とする民主党の戦略に沿ったもので、実際には民主党に有利に働いている。
結果としてそうなっているというより、むしろ意識してそういう争点設定をしているマスメディア等もあるだろう。朝日新聞・同系出版物・出版社しかり、岩波書店の月刊誌しかり。
なお、麻生太郎首相・自民党総裁が「政権」選択ではなく「政策」の選択をと主張しているらしいのは、民主党に有利な土俵設定を避けたいためだろうが、「政策」選択の結果としてやはり「政権」選択につながるのが総選挙で、厳密には正しくはない。
二 産経新聞の「高木桂一」の8/18夕刊の文章(署名記事)も嘆かわしいものだ。
高木桂一は「今回の総選挙」は「投票箱を開けずして勝負あったというムードが広がっている…」と書く。これが選挙・投票日前、しかも公示日にまともな新聞が載せる文章なのだろうか。
またこうも書く-①「保守合同で自民党が誕生してから半世紀余り、有権者は戦後初めて自ら政権を選ぶ機会を手にした。歴史的な意義をもつ政権選択選挙である」。②「二大政党が雌雄を決するリングが用意された。先進国で選挙による政権交代が実現しなかった日本の議会制民主主義が大きな転換期を迎えた」。
朝日新聞の記事かと見紛う。
第一に、日本の有権者はこれまでのほとんどの総選挙において、少なくとも自民党を中心とする「政権」を「自ら…選ぶ」ことをしてきたのだ。何を血迷ったことを書いているのか。1993年総選挙にしても、相対的多数派有権者の選択は「自民党(中心)政権」だっただろう。過半数を下回ったために高木のいう「疑似政権交代」になったが。
第二に、「選挙による政権交代が実現しなかった」ことが「日本の議会制民主主義」の問題点・遅れで、「先進国」並みになっていなかった、と言いたげだが、いったい何を喚いているのか。
欧米「先進国」としてとりあえず米・英・仏・独を念頭に置くが、「左派」政党であっても明確にコミュニズム(共産主義・社会主義)と理論的にも現実的にも離れている<反共・反社会主義>の立場に立ち、上のうちドイツ以外では「左派」政党も自国の核保有を支持する<健全で建設的な>政党だからこそ、「左派」政党にも政権を担わせることができたのだ。
米・民主党、英・労働党、仏・社会党、独・社民党は、日本のかつての社会党とは異なる(仏・社会党はいっとき社共連合を組むなど必ずしも一般化できないがここでは詳細に立ち入らない)。
日本社会党の少なくとも有力な部分が<容共・親社会主義>だったからこそ(そして党として日米安保に反対だったからこそ)、日本の有権者は同党に政権を委ねることができず、結果として自由民主党(中心)の政権が続いた、従って「政権交代」はなかったのだ。
高木桂一は長く新聞記者をしていると思われ、上の程度の知識くらい、持っているだろう。しかるに何故、上のような幼稚な、かつ朝日新聞のごとき<事実の捏造をするに近い>文章しか書けないのか。
高木はまたこうも書く-「国民が政権交代という未体験の果実で議会制民主主義のダイナミズムを味わい、政権交代定着への道筋をつけられるチャンスだ」。
上の文章は「政権交代」のために民主党に投票しようと主張しているに等しい。1993年の「疑似政権交代」ではない、正式・本来の「政権交代」をこの人は(そして産経新聞も?)望んでいるようだ。何と朝日新聞的で表面的かつ幼稚な(しかしとりあえずは時代迎合で何とか通用しそうな)主張だろうか。
また、投票日前の新聞記事にしては<公正・公平さ>を欠くもので、一般的な<新聞倫理>の観点からすら問題視できるものだ(「意見」・「主張」・「論壇」等ではなく、一般の報道記事の中の文章だ)。高木桂一は自ら、ヒドいと思わないか?
世論調査でほぼ明らかになっているようでもある「民意」を尊重するのが「民主主義」だ(そしてそれに沿って投票をするのが<KYではない>行動だ)と主張しそうな、そして二年前に朝日新聞等の報道ぶりを異様に感じず自社のそれを疑問視していた記者・山本雄史が民主党を担当して同党に関する記事を書き、保阪正康の本を半藤一利が評する書評記事を載せる産経新聞。
上の高木桂一の文章を読んで、ますます、産経新聞の購読を止めようという気持ちになってきている。
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