秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

有田芳生

1935/山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(2001)。

 数年前に社会主義・共産主義や日本共産党関係の文献を集中的に収集していたとき、つぎの本も手に入った。1990年-1994頃の共産党中央委員会報告集が1994年党大会直前のものも古書で意外に安価で入手できて、そちらの方をむしろ興味深く見ていたのだったが。
 山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
 「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
 1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
 以上は、上の本の「年譜」による。
 さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
 1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
 6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
 1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
 1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
 1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
 1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
 1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
 1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
 1988年、大阪経済法科大学客員教授。
 1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
 1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
 1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
 1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
 1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
 1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
 2000年、逝去。
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 以上、知らないことばかりだった。
 1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
 1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
 東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
 他にも、より強く感じることがある。
 第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
 上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
 死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
 第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
 不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
 不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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1847/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ③。

 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのだろうか。
 櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。
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 以上は、この欄の2017/04/05付、<1485/日本の保守-アホで危険な櫻井よしこ②>の最後の部分。
 上にいう根拠文献を見つけたので、以下に記して、関連したことを書く。
  櫻井よしこ編・あなたの個人情報が危ない!(小学館文庫、2002.11)。
 これは、住民基本台帳法の改正(・個人情報保護法の制定等)による住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の導入に反対するための「書き下ろし」の文庫本だ。
 櫻井よしこが編者として一人だけ名前を出し、櫻井よしこが「ジャーナリスト」という肩書きで「はじめに」を書いている。
 この「住基ネット」反対運動の書物に櫻井以外に21名が執筆している。そして、近年のいわゆる<保守系月刊三誌>に(しばしば)登場するするような論者は一人もいない。
 むしろ、私から見ると、「左翼」または「左派系リベラル」と感じる者の方が多い。
 例えば、澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信
 名前を現時点でも知らない人が8名いるので、21-8=13名のうちのこれら7名は、れっきとした「左翼」または「左派系リベラル」だと思われる。
 残る6名は、田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一、鈴木邦男、山田宏
 内容への細かな言及はしない。冒頭に記したように「住基ネット」導入に反対するもので、かつ実際にこのときは、上を含む関連法律の改正等はなされず、導入はされなかった、とだけ述べておく。
 気になるのは、櫻井よしこなる人物は、この頃いったい何をしていたかだ。
 現在も一貫しているようだが<自衛隊は違憲だ>から出発すべきだ、とも書いていた(憲法学者の大半と同じ?。だからこそ<九条2項存置自衛隊明記>論は「法理論的にはともかく」「現実的だ」という議論の仕方になる-2017年5月頃)。また2001年施行予定の情報公開法に対してもかなり技術的な点を指摘して批判をしていた。
 要するに、「澤地久枝、宮崎學、辻井喬、有田芳生、江川紹子、鳥越俊太郎、佐高信」といった人々のいわば代表者となり、「田原総一朗、大谷昭宏、吉岡忍、佐野真一」等の人々と共通する目的で仕事をすることを全く疎んじていなかった人物だ。
 2000年前後から2005-2007年頃の間に、櫻井よしこは<転身>した。それも、日本会議または日本会議関係者の「働きかけ」あるいは「引き抜き」によって、というのが秋月瑛二の拙い推測だ。
 なお、「左翼」・「左派系リベラル」から日本会議や櫻井よしこがいう意味での「保守」へと基本的立場を変えること自体を批判しているのではない。
 ①そのような<転身>を櫻井よしこ自身はいかほどに自覚・意識しているのか。
 ②そのような<転身>の理由・背景・原因をこの人自身はこれまでどのように説明しているのか。
 ③現在に櫻井よしこを「長」として又は「論壇の代表者」のごとく仰ぐ又は「かついで」いる人々は、櫻井よしこのこれまでの姿をいかほどに知っているのか。
 これらが気になり、危うい、と感じるだけだ。

1059/雑誌・撃論3号、中川八洋と日本共産党員。

 再び撃論第3号(オークラ出版、2011.11)に触れると、先に言及した「編集部」名義の「月刊誌『WiLL』は、日本の国益に合致しているか」(p.74-)は、「民族系」という語を何度か利用していることも含めて―「中川八洋教授に寄稿をお願いした」という書き方をしているにもかかわらず―、文体が中川八洋のそれにかなり似ている。
 また、「本紙編集部」名義で書かれている原発・放射線恐怖から「正気を取り戻すための良書リスト」も(p.116-)、中川八洋は原子力問題に技術的にも詳しいこと、菅直人を「済州島出身のコリアン」と中川が別の本で書いていたと思われる表現を用いていることなどから見て、中川八洋が執筆している可能性がある。
 あくまで憶測にすぎないが、万が一でも当たっているとすれば、出版業者・雑誌編集者としては邪道であることは論を俟たないだろう。
 オークラ出版、雑誌・撃論が、興味を惹きそうなテーマを背表紙に打っての、月刊WiLLについていう「ただ『儲かればよい』一辺倒の商売至上主義」に自ら(も)陥っていないことを願う。
 さて、この雑誌上掲号には中川八洋による「脱原発」西尾幹二批判の論考もあり、中川は西尾幹二を「民族系論客」と位置づけ、「非知識人」と称し、「嘘つき評論家」、「論壇ゴロ」と罵倒し(p.91-92、p.99)、「実質的共産党員」、「北朝鮮の代言人」とも評している(p.91、p.97)。
 原発問題については分からないとしか言いようがないが、また、西尾幹二のこれまでの見解・主張の全てに同感してきたわけでもないが、このような批判・罵倒の仕方は、小林よしのりの対敵表現をも上回るかもしれないほどで、やや乱暴過ぎるだろう。
 中川八洋が「コミュニスト」・「共産党員」という断定を好んで?することは前回にも紹介したとおりで、少なくとも一部については、当たっているだろう。だが、「コミュニスト」ではなく「共産党員」という認定の正しさは、日本共産党の名簿?でも見ないと証明できないことで、厳密には推測にすぎない(そして対象人物によって確度の異なる)もののように思われる。
 そういう意味での推定にすぎないが、中川八洋が言及してはいないが、私は、たしか今年に逝去した井上ひさしは日本共産党員でなかったかと疑って(推測して)いる。
 不破哲三=井上ひさし・新共産党宣言(光文社、1999)における、不破に対する井上の「へりくだり」ぶりは尋常ではない。また、井上は、井上ひさしの子どもに伝える日本国憲法(講談社。絵は共産党国会議員だった松本善明の妻・いわさきちひろ)、二つの憲法―大日本帝国憲法と日本国憲法(岩波ブックレット)の著者でもある。政治性、マルクス主義者性を感じさせない作品等も多いのだろうが、「左翼」・憲法改正反対論者であったことは間違いなく、何よりも、大江健三郎や奥平康弘等々とともに<九条の会>の呼びかけ人だったのだ。
 井上ひさしはとくに国政選挙の際に、日本共産党を「支持(推薦)します」という学者・文化人の一人として名を出していなかっただろうか。
 「支持者」だから「党員」ではない、ということにはならない。日本共産党は学者・文化人には党の基本的な路線に矛盾しない限りでの(他の一般党員とは異なるより広い)「自由」を与え、世間・社会での名声あるいは知名度を自らのために利用してきている。
 かつて、哲学者・古在由重は日本共産党の「支持(推薦)者」の一人として日本共産党のパンフなどに名前を出していたが、この人物は最晩年まで日本共産党員そのものであったこと(党籍のあったこと)、そして原水禁運動に関する日本共産党中央との考え方の違いによって離党したか、離党させられたことが、古在由重の葬儀または「お別れの会」の世話をした川上徹の本でも、明らかにされている。

 井上ひさしも、(こちらは最後まで)日本共産党の党員だった可能性はあるものと思われる。
 世間一般の人々が想定しているよりもはるかに、日本共産党員である者は多い、と見ておく必要がある(ついでながら、今は民主党国会議員の有田芳生は元日本共産党員。父親は日本共産党国会議員だった)。
 そのような推測からすると、「国民的」映画の映画監督で、NHKが「家族」関係名画100とやらを選択させている山田洋次も、十分に怪しい。この人物は<九条を考える映画人の会>とやらの重要メンバーだが、かなり以前から、日本共産党のパンフ類に同党を「支持(推薦)」する学者・文化人の一人として名を出していたような気がする。
 そのような想いで渥美清主演映画を観ると、そうではない場合よりも違った感想も生じるのだが、今回は立ち入らない。
 少し元に戻ると、井上ひさしの葬儀の際に「弔辞」を述べたのは、先にこの欄で言及した直後に文化勲章受章者として名を出した丸谷才一だった。丸谷が共産党員だとはいわないが、「左翼」ではあるだろう。
 これに関連して続ければ、丸谷才一は素直に?受賞したが、文化勲章受章を「戦後民主主義者」であることを理由に拒否したのが、大江健三郎だった(翌年に杉村春子も拒否)。
 これは数年前に(たぶん)この欄で書いたことだが、大江健三郎は、とりわけ、自らが嫌悪する「天皇陛下」と対面して、陛下から勲章を授けられることを嫌悪し忌避したのだ、と思っている。
 再び雑誌・撃論第3号に戻ると、これには、西村真悟「沖縄戦を冒涜する大江健三郎は赤い祖国へ帰れ」も掲載されている(p.164-)。
 西村は最後のあたりで、日本に帰化した(日本人となった)ドナルド・キーンと大江健三郎を対比させ、大江に対して「あこがれの人民共和国にでも帰化し移住されたらどうか」と勧告?している。趣旨は十分によく分かる。
 日本の天皇からの叙勲を拒否し、外国の国王(やフランス政府)からの勲章は受ける、という「心性」でもって、よくもぬけぬけと日本に、日本国民として(しかもたしか世田谷区の高級?住宅地に)居住して生きていけるものだ、と感じるのは私だけではあるまい。
 雑誌・撃論から始め、最後に同じ雑誌の別の文章に触れて、この回は終わり。

0476/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-1。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)は、三一書房から1960年に刊行されていた同一タイトル・内容の本の「新版」だが、「新版のあとがき」(直木)を除いて、三一書房版と異ならない。こんな経緯はともかく、新日本新書とは有田芳生日本共産党員だった時代に勤務していた新日本出版社の「新書」で、有田の企画・編集した本が日本共産党中央の不興を買って有田が日本共産党を除籍されたことでも明らかなように、実質的には日本共産党の出版物だと言っても誤りではない。少なくとも、日本共産党に都合の悪いことやその主義・主張に矛盾する内容は書かれていないものと推測される。さらに、執筆者の一人の藤谷俊雄は元・部落問題研究所(日本共産党系)の理事長で、日本共産党員だったと推測できる人物だ。
 そのような新日本新書が「伊勢神宮」について書いているとなれば、興味を惹かないわけがない。1960年時点ですでにあった「まえがき」で藤谷は「伊勢神宮の真実」を語る旨を書いているが(p.10)、ある面では、日本共産党系の出版物ですら、伊勢神宮について、~のことは肯定している、という形で利用することもできる。例えば、直木孝次郎執筆部分では、日本書記の記述は疑う必要があるが、「七世紀の天武天皇の頃に天照大神を祭る神宮が伊勢にあったこと」は「間違いない」、とある(p.13)。神社本庁又は(伊勢)神宮の言っている歴史がいかほど信用できるのか、という疑問をもつ者も、<日本共産党系の出版物ですら>認めているとなれば、疑念を解消するだろう。
 もちろん私の関心は敗戦後から現在に至る伊勢神宮に関するこの本の叙述内容にある。
 最近に読んだ本と比べて、まず、GHQの<神道指令>の前文をそのまま詳しく引用しつつ肯定的評価を与え、かつ憲法20条(政教分離条項)も全文を引用して歓迎的に叙述している点が異なる。
 憲法20条については、はたして適切かと疑問をもつが、以下の文章がある。-「無神論者だけではなく、宗教についてもっともまじめに考える宗教者たちが、この憲法の信教の自由に関する規定を心から歓迎したのは明らかである」(p.205)。
 このあたりですでにさすが日本共産党又は日本共産党系という感想が生じるが、伊勢神宮に対して<冷淡な>感覚をもって記述していることは、次のような文章(藤谷俊雄)からもうかがえる。
 ・「戦後数年間の神宮の荒廃はめだつものがあった」。
 ・「あるときは占領軍のジープが…殿舎の前まで乗りつけて、アメリカ兵が五十鈴川に釣り糸をたれて魚をとり、手あたり次第に神域の大木を切り倒したりしても、…衛士たちは、だまってひっそりと、遠まきにこの光景をながめているだけであった」。
 引用だけでは感じ取れないかもしれないが、こうした文章からは、<愉快に感じて>書いている気分が染み出ており、決して伊勢神宮を<気の毒に感じて>書いているのではないことがわかる。上の第二の文などは、いったい何のために挿入されているのか、と訝しく感じざるをえないものだ。
 上のように荒廃しかつ参拝者の激減や式年遷宮の延期もあったが、藤谷は次のように言う。
 ・「日本国家および軍国種主義とかたくむすびついてきた神社が、この程度の打撃をこうむったことは当然であって、…むしろ打撃は少なすぎた」(p.207)。
 もっと打撃を被り、(伊勢神宮等の各神社と神社制度の)衰退そして解体・崩壊があればよかった(その方が望ましかった)、という書き方だ。さすがに日本共産党又は日本共産党系。
 ついで、参拝者数の復活・増大、式年遷宮(1953年)の成功裡の実施等について、こんなことが指摘されているのが目を惹く。
 第一。<遷宮のための「奉賛会」による募金活動が活発になされ、旧町内会・隣組組織による「半強制的な寄付」があちこちであった。かかる組織の募金活動をGHQは禁止したが「一向にききめがなかった」のは、①「保守勢力が、意識的にサボタージュしたこと」、②「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」による。>(p.209)
 旧町内会・隣組組織にあたる又は近いものは今日でも町内会・自治会として残存している。簡単には論じられないが、一般的に<古いもの>・<国家・行政に利用されるもの>と認識するのは間違いだろう(そこまでこの本が踏み込んで書いているわけではないが)。
 また、上の②のように、「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」ことを消極的に評価していることが興味深い。現在でも「神社の氏子組織」は強固さの程度の差はあれ、残存していると思われる。そして、上の<町内会・自治会>の問題も含めて、戦後又は近年に喪失・崩壊しつつあるとされ、その喪失・崩壊がむしろ批判的に又は憂慮的に捉えられることが多いと見られる<地域共同体・地域コミュニティ>問題にかかわっている。
 日本共産党又は日本共産党系の本は「地方の神社の氏子組織が解体されずに残っていた」ことを否定的に評価していた、ということを記憶しておこう。
 第二。<「戦後の神社復興」に手を貸したものとして「交通資本や観光の産業資本」を無視できない。近鉄(近畿日本鉄道)は「奉賛会」に500万円もの寄付をした。「もうけんがための神社参拝の宣伝」か゜中世以来の「巡礼運動」を「再生産」している事実を「見直す」必要がある。>(p.210)
 藤谷は「無責任な大衆煽動」という表現まで使っているが、遅れてであれ式年遷宮が実施され、参拝者数も回復してきたことについて、その背景の重要な一つを「もうけんがための」「産業資本」の動きに求めているわけだ。
 さすがに…、というところだが、これはあまりに卑小で、一面的な見方だろう。敗戦直後は日々の生活に忙しくて神宮参拝をできなかった人々がある程度落ちついてのちに伊勢神宮を参拝をするようになったことは「交通資本や観光の産業資本」による「もうけんがための神社参拝の宣伝」による、とは、あまりにも参拝者の心情を無視している、と考えられる。
 私にはおそらく理解不可能だが、敗戦・国土の荒廃という衝撃のあと、伊勢神宮に赴き、再び手を合わせる人々の心中は、いかなるものだっただろうか。たんなる遊興や観光の気分でなかったことは明らかだろう。そんな国民大衆の心情を、日本共産党員又はマルクス主義者もしくは親マルクス主義者は理解できないに違いない。
 一回で終える予定だったが、さらに別の回で続ける。

0288/そして、宮本顕治もいなくなった-日本共産党。

 いつか、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」というタイトルで一文を書こうと思っていた。つい先ほど、同氏が死去したことを知ったので、宮本顕治もいなくなってしまった。98歳。追悼する、という気持ちは私にはない。
 新党綱領を制定した1961年とそのときの共産党大会が現在の日本共産党の<(表面的な)議会主義的・平和主義的>路線の実質的な始まりで、1961年こそが同党の新設立の年だ、それまでの共産党は名前は同じでもコミンテルン・コミンフォルムの影響を受けすぎた別の政党だった、という説明の仕方も可能だった、と思われる。そうすれば、1922~1960年までの(50年以降の分裂と少なくとも片方の<武装蜂起>路線も)現在まで問題にされ批判されている事柄は現在の党とは無関係だと強弁することはできただろう。
 しかし、そうしなかったのは、宮本顕治らの戦前組、そして<獄中組>の<プライド>が許さなかったからだろう。そしてまた、戦前からの活動経験と10年以上の獄中経験こそが宮本顕治ら一部の者に対して、一種の<カリスマ>性を与えたのかもしれない。
 それにしても、1961年以降の日本共産党は、上に、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」と書いたが、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成のように、宮本顕治が自らに反抗する(反対意見をもつ)同等クラスのものを徹底的に排除しいく過程だっただろう。社会主義国でなく資本主義国内の共産党でも<独裁>・<(実質的な)個人崇拝>容認思考は形成されていたのだ、と考えられる。
 犠牲者は、それぞれ事由は違うが、春日庄一志賀義雄(日本のこえ)、そして(最)晩年を党員として生きることも許されなかった袴田里見野坂参三…と続いた。<新日和見主義>とされた一群の者たちや有田芳生などの個別のケースの者を挙げているとキリがない。
 一般の日本共産党員は何ら不思議に思っていないようだが、宮本顕治から不破哲三への実質的権力の移譲、不破哲三から志位某への実質的権力の移譲は党大会で承認されたわけでは全くない。幹部会委員会か常任幹部会委員会か知らないが、一般党員には分からない数名(たぶん数十名ではない)の<仲良しクラブ>の中での<密室>の話し合いか又は前任者による<後継指名>によって決まったわけだ。そこには<党内民主主義>なるものは一片もない。あるのは極論すればただ<個人的嗜好>だろう(もちろん共産党の実質的代表として「立ち回れる」能力・知識があることは条件とされただろうが)。
 そういう政党を作り、ここまで40年以上長らえさせたのは、おそらくひとえに宮本顕治の力にかかっている。
 いつかも書いたような気がするが、宮本は二度と入獄の経験などしたくないと心から強く(皮膚感覚を伴って)考えていたに違いない。そして、武装闘争による逮捕→党員数減少・一般国民からの支持の離反などは御免こうむりたいと強く願っていたに違いない。
 その結果が、1961年党綱領だった。そのおかげで日本共産党はまだある。日本共産党の専従活動家として同党に生活を依存している者も多いに違いない。その者たちのためにもある程度の数の議員をもつ政党として日本共産党を存続させていかなければならない。-かかる発想は現在の志位和夫にもあるだろう。
 その代わりに、日本共産党のいう民主連合政府→民主主義革命→社会主義社会・共産主義社会という道は<夢の夢>へとますます遠ざかっている。職業的活動家を扶養するだけの新聞収入と議員歳費収入のある政党として、今後も<細く長く>生きていくつもりだろうか。
 本当はソ連・東欧社会主義国崩壊の時点で、日本の新聞等のマスコミ・論壇は、<日本にコミュニズム政党が存在する意味>を鋭く問わなければならなかった。それを怠った日本のマスコミ・論壇は、それら自体がかなりの部分マルクス主義に冒されていた、というべきだろう。
 勿論現在でも<資本主義国・基本的には自由主義国の日本での「共産主義」政党の存在意義>を問うことができるし、問うべきだろう。しかし、そのような論調はわが国のマスコミ・論壇では必ずしも大きくはない。マルクス主義者の<残党>がまだ一定の影響力をもっているからに他ならないと思われる。なんと日本は<多様な思想>を許容する<寛大で自由な、優しい>国なのだろう
 以上、宮本顕治逝去の報に接して一気に。

0196/有田芳生と日本共産党、そして川端治。

 二回ほど有田芳生について元日本共産党員だと書きつつ、離党の事情についてはきちんと確かめないで、推測混じりで、「可能性がある」というような曖昧な書き方をしてきた。
 有田芳生の現在の政治的・社会的影響力はさほど大きくはないという判断もあったからだが、
前回に言及したこともあり、ご本人のサイトから彼の<離党事情>等を確かめてみた。
 以下、有田芳生公式HP・今夜もほろ酔いの中の「共産党」フォルダの第一頁以下の文および同フォルダ内の「哀しい日本人と日本共産党」「私の査問体験」による。
 有田芳生が所属していた日本共産党から「査問」を受けた一度目は1983年。当時同党の雑誌・文化評論の編集に携わっていたようだが、上田耕一郎副委員長(当時)と小田実のこの雑誌1981年1月号上での対談を担当したことがきっかけになり、この対談後に小田実が既成左翼批判をしたことから<党内に小田実的市民運動を浸透させようとする「陰謀」がある>という疑いがかかったらしい。そして、「本部勤務員にふさわしくない」とのことで「職場を追われた」。私の推測を挿入すると、この後、日本共産党系出版社の新日本出版社に移ったのだろう。
 二度目の、そして離党につながった「査問」は1990年。前回に言及した本がきっかけになったかもしれないと前回に書いたが、違っており、正確には同じ出版社からの松岡英夫=有田芳生編・日本共産党への手紙(教育史料出版会、1990)の刊行が契機だった。
 有田はこう書いている。-「この本は、日本共産党について率直な意見を、原稿枚数の制限をせず自由に述べていただくことを目的とし、その趣旨に賛同してくださった加藤周一さんや住井すゑさん(故人)、新村猛さん(故人)など各界15人の方々に登場していただいた」。
 そして、この本の実物を私は今手元に置いているのだが、HP上に記載のとおり、「あとがき」で有田は次のように書く。-「日本共産党が時代の変化に敏感に対応して、どのような『再出発』をしていくのか。それは、ひとり共産党員や共産党支持者だけの問題ではない。私の尊敬する政治家は『その民族がどのような共産党を育てるかは、その民族の運命に関わる』と常々語っていた。ソ連・東欧の歴史的な政治動向は、そのことを世界の人々に劇的に明らかにした」(p.221)。
 これに続く文章は現物によるとこうだ。-「こういう時期に、この日本という国の共産党は国民の目にどのように映っているのだろうか。そのことを常日頃、共産党に関心を注いでいる人たちに、なにものにもとらわれず発言してもらおう…-こういう問題意識で編集したのが本書である」。
 けっこう長い文章の末尾はこうだ。-日本共産党の動向は「日本そのものの行方と深くかかわっていると思っている」、この本が「一つのきっかけになり、自由で建設的な議論や対話が広がることを切に願ってやまない」。(p.228)
 上で太字にした部分などは日本共産党の一党員の資格で対外的に書けるものではないことは容易に想像がつく。さて、有田のHP内文書に戻る。
 「この単行本を出すことで、規約違反の容疑があると査問を受けた。発売前にゲラ刷り(本になる前に誤植などを点検するための印刷物)を常任幹部会に提出していたことなど、まったく意味のないことだった。こういう単行本を出すことが「党員としてふさわしくない」との判定を下され、共産党から除籍された」。
 18歳で入党してから20年後の「除籍」だったらしい。
 若干元に戻ると、上の本に「手紙」を執筆しているのは、上記の3名の他、飯塚繁太郎、稲葉三千男、加藤哲郎、黒田了一、清水慎三、寿岳章子、田口富久治、田畑忍、中馬清福、日高六郎、藤井一行、星野安三郎の各氏だ。
 全員が「左翼」的だが、日本共産党員でない人もいるし、党員(だった)だろうと推測できる人もいる。
 さて、この<事件>の感想は、日本共産党員は外部の人も含めて「なにものにもとらわれず」に「自由で建設的な議論や対話」をしてはいけないという、日本共産党の組織的体質、つまりは<民主集中制>なるものの腐臭に充ちた気持ち悪さ、に尽きる。
 と書いて、ここで終わってもよいのだが、さらに続けよう。
 有によると、「共産党の主張は納得できるものではなかった。だが、党本部が行なう規約の解釈や決定に個人がかなうわけがない」。しかし、「査問官たちは「最終的な決定が下れば連絡する」と言った」ので待ったが、「何の連絡もないままに半年が過ぎた」ので「私は査問の担当者に電話をかけるにした。返事はあっけなかった。/「あっ、半年前に除籍されていますよ」/何をいまさらという、まるで役所の窓口で聞くような事務的口調だった」。
 こんなものなんですかねぇ。20年間も党員だった者に対する扱いというのは。
 また、有田は統一協会に関する6冊の本を著しているようなのだが、彼は、日本共産党の統一協会関係の本や赤旗記事には、彼の本を明確に参照しているところがあるにもかかわらず、参考文献として「有田芳生・…」という記載は一切ない、という。そしてこんなふうに書いている。
 「共産党にとって、私という人間は存在しないのである。いや、正確にいえば、共産党に批判的なことを書けば敬称も付けずに私のことを「転落者」「反共主義者」と罵倒するくせに、都合の悪いときには存在を無視するのである」。
 有田芳生が日本共産党から
「転落者」「反共主義者」と罵倒されているとは知らなかった。
 有田はまた、次のような日本共産党に対するもっと厳しい言葉も吐いている。 
 「麻原彰晃逮捕翌朝」の『赤旗』が私を「反共を売り物にする有田芳生」と敬称さえ付けずに報じたのを眼にしたときの驚き。そんな人格が中央委員会を構成しているのだとようやく目が覚めた出来事だった。誰が書いたのかもわからぬ匿名の罵倒。せせら笑うかのように背後から切りつけた者たちに私はもはや幻想は持たない」。
 日本共産党を離党したからといって、非日本共産党にはなっても反日本共産党になるとは限らない。なおも親共産主義で親日本共産党である人もいるだろう。
 有田芳生は私はまだ親日本共産党で、4月東京都知事選挙の際の浅野某民主党推薦候補への批判ぶりからして、結局は日本共産党の吉田某候補に投票したのだろうと勝手に推測していたが、-どうでもよいようなことだが-違っていたかもしれない。「私はもはや幻想は持たない」という言葉はなかなか激しいものだ。
 有田はさらに、旧知の日本共産党員が偶然にでも有田氏と出くわすと、悪い人物と出会ったふうに話そこそこに遠ざかっていく、というようなことも書いている。
 除籍された元党員・古在由重の追悼会の世話したことが契機になって自らも除籍されたのは、川上徹だった。日本共産党員たちにとって、除名又は除籍された者とふつうに会話を交わすこと自体が<処世>に響いてくるのだ。党中央から睨まれ、警戒され、除籍とかになると、まさに<生活>そのものが影響を受けるのだろう。
 別に有田芳生に親しみは湧かないし、同情もしないのだが、日本共産党の陰湿さを改めて感じた有田HP読みだった。
 一つ、私には大事なことを忘れていた。前回にも山川暁夫という氏名を出しているが、この山川暁夫という人は、「本名は山田昭、党内では川端治というペンネームで活躍」と書かれている。そして、1972年の<新日和見主義>事件で離党していたこの川端との関係を、有田氏は最初の査問の際にしつこく訊かれたのだという。
 この「川端治」という名前を、私は突然に思い出した。1970年前後、大学生の私は誘われていった集会で、むろん内容は忘れたが、この人の、正確には「川端治」と紹介された人の「講演」をたぶん一度だけ聴いたことがある。「講演」というよりは、「アジ演説」に近いもので、やや高い声での<煽動>の仕方には迫力があった。
 いつだったかの正確な記憶はむろんない。いずれにせよあの頃から、あの時代から、もう40年近く経った…。あの「川端治」という人は(当時に明確に共産党員との認識があったわけではないが)、あの日から数年後には日本共産党から追われていたのか…。そしてその後、この人は<新しい党作り>に関係していたとか…(有田HPによる)。
 いろいろな人生があるものだと思う。そして、多少は、「青春」時代への感傷につながらなくもない。

0195/有田芳生(構成)・短い20世紀の総括(1992)。

 外から見ていると、日本共産党の「奇妙さ」は、袴田里見・野坂参三という戦前から少なくとも1970年代までの最高幹部を簡単に除名したことでも十分に感得できる(宮本顕治の実質的な「独裁」。その前に除名された者に春日庄一や志賀某がいたが私には現実的記憶がない)。
 また、 チャウシェスク時代の在ルーマニア赤旗特派員某氏や北朝鮮元特派員萩原遼、拉致問題に取り組んだ兵本達吉らを党から切らざるを得なくなったことでも解る。
 有田芳生構成・短い20世紀の総括(1992.02、教育史料出版会)を座談会部分を残して読んでいるが、田口富久治、山川暁夫、加藤哲郎、稲子恒夫の各氏とも<スターリン時代になってからソ連は社会主義(を目指す)国でなくなった >なんてことは書いていない。むしろ「現存(していた)社会主義国」という語があるようだ。
 田口は言う(p.13)-「政治的・組織的思惑や防衛心理に由来する自己欺瞞や知的怯懦は、いっさい捨てなければならない」。ソ連等崩壊後の日本共産党の言動、すなわち<ソ連は社会主義国ではなかった>などと言うのは「自己欺瞞や知的怯懦」そのものではないのか。
 ところで、この本への執筆者は、日本共産党員でありつつ、党中央には批判的な学者たちであった可能性がある。少なくとも、田口富久治、加藤哲郎両氏はそのようだ(のちに除名又は除籍の可能性がある)。
 そしてこのような本を企画して「構成」した有田芳生自身も日本共産党から「睨まれた」可能性が高い。有田芳生の日本共産党<除籍>の原因となった本の一つかもしれない、という多少の興味も惹く本だ(但し、新日本出版社刊ではないので、除籍後の仕事かもしれない)。
  なお、かつて京都から有田某との共産党国会議員が出ていて有田芳生がその子息だとは知っていたが、芳生という名がヨシフ・・…・スターリンというスターリンの個人名に由来するとは!(p.210)
 有田芳生は現在は日本共産党とは一定の距離を保っているようだが「人間の自由や平等を求める社会主義の理念が、いまでも人類思想の大きな遺産であることを否定できるものはいないだろう」と述べるようでは、「社会主義の理念」の意味によるにせよ、まだ甘い。
 だが、マルクス主義を支持しいずれ日本も社会主義国になると考え発言していたはずの知識人・大学人等が1989-91年以降どのように「自己切開」・「自己省察」しているのかと厳しく問うているのは共感できる(p.199-)。とりわけ日本共産党員たる知識人・大学人には、有田とともに問い糾したいものだ。

0113/諸君!6月号と正論6月号の一部を読む。

 1月前の東京都知事選の浅野史郎敗北の原因につき、諸君!6月号(文藝春秋)の伊藤惇夫「小沢一郎は「化学反応」を起こせるか」は、浅野の「周辺には常に「市民運動家」や「市民グループ」が寄り添っていた」が、「彼らの中には左翼活動家崩れや”プロの市民”が多数紛れ込んでおり、大半が普通の市民でないこと」を「「普通の都民」も敏感に感じとっていた」ことを挙げている(p.105)。
 正論6月号(産経)の佐々淳行「「反石原」勢力の実態は「全共闘」だった」の中身にはこの題に即した部分がないのだが、タイトルが敗因を示唆している。むしろ、同誌同号の遠藤浩一「「保守系」圧勝が示した民意とは」が、浅野の「知名度が上がるにしたがって、左翼リベラル臭も漂うようになった」とし、統一地方選前半を「左翼リベラル」の敗北と総括している(p.127)。
 「左翼リベラル」という語の厳密な意味は問題になりうるが、雰囲気?としては、それぞれに異論はない。何しろ、上野千鶴子が明瞭に支持し、五十嵐敬喜らと集会を開いて立候補を唆したのが浅野史郎だったのだ。
 有田芳生は浅野を批判していたので、彼は、投票したとすれば、(石原慎太郎氏に投票するような御方ではないので)たぶん日本共産党の吉田某に対してだっただろう(ずいぶんとお節介な推測で申し訳ない)。
 ところで、伊藤惇夫、遠藤浩一の各論稿は7月参院選、民主党や「無党派」に言及しているが、必ずしも一致しているわけではない(当然だ)。
 紹介はやめて、私のコメントを付すが、「無党派」なる層が大量に存在していることは日本の政党政治の未熟さ、政党に魅力がないことの現れだし、自民党、民主党ともに(とくに民主党が)その基本的考え方が明瞭ではなく、いずれも(とくに民主党だが)反・非主流派的集団を抱えていることの影響もある、と思われる。
 そして、小沢一郎と旧社会党左派・横路某等が「手を組んでいる」らしい民主党の基本的理念は甚だ解りにくく、自民党と安倍内閣にとっては幸いにも、「無党派」層の支持が参院選でも民主党に集中しそうにはないようだ。
 民主党代表が小沢一郎であることは自民党と安倍内閣にとっては幸いで、清新で自民党よりやや「進歩的」イメージの者が代表であれば、7月参院選では自民党・安倍内閣は完璧に「危険」だったような気がする。
 「無党派」層の大量の存在(と投票率の低さ)の原因は、政治や政治家に関する一般マスコミ・メディアの報道の仕方も大きい、と考えている。細々としたことも含めての政治家の粗探しや、党争的又は政略的な政治家の発言・行動に注目した報道を続けていれば、実際以上に、政治家(と政党)のイメージは悪くなるに決まっている。
 朝日新聞がその先頭にいるだろうが、日本のマスメディアは、<政治不信>をバラマき、社会を安定させず、好んで攪乱の方向に導いているとの印象をもっている。ジャーナリズムとやらを、少し吐き違えているところがあるのではなかろうか。
 突飛だが、社会を安定させず、攪乱させるのは(又はそういうイメージを醸成するのは)、共産主義者の戦略でもあろう。彼らにとって、資本主義社会が落ち着いた、安定した社会であってはならないのだ。良好な秩序がなく、混乱している筈なのだ。新聞・テレビニュースばかりを見ていると、ある程度はそんなイメージも持ってしまう。日本の多くのマスメディアは、客観的には「共産主義者たち」に奉仕している

0102/日本共産党は「反党分子」がいる団体とは共闘しない(らしい)。

 宮地健一のHP(「共産党問題、社会主義問題を考える」)で知ったのだが、日本共産党は7月の参院選の比例区には、今まで25人立候補させていたのに、5人しか候補を立てないらしい。25人でも5人でも、日本共産党票をどれだけ集められるかだが、前回程度の430万票だと前回と同じ4人は困難になり、下回ると3人になる可能性がある、東京選挙区の候補が当選しないと、当選者は計3で、非改選者を含めて9名から7名になる、という。宮地氏の言葉だが、「ますます泡沫政党化する」わけだ。
 上の最悪予想のとおりだと、3年ごとの各回の当選者数は、15→5→4→3。どう見ても<減少>、<衰退>傾向にあるとしか判断できないことになる。この最悪予想がアタることを、期待しておきたい。
 同じ最新のファイルに、日本共産党が「平和共同候補実現運動」又は「共同候補・共同リスト市民運動」に敵対し、共闘しない理由が4点に整理・分析されている。私の関心を最も惹いたのは第四点の、「批判・異論分子が参加する市民運動・団体の社会的排除の必要性」だ。
 その部分には、「共同候補・共同リスト市民運動」参加者の中に元日本共産党員等の「批判・異論分子」がいることが、具体的な固有名詞でもって紹介されている。
 私は知らない名前もあるが、全て列挙して記録しておこう。
 針生一郎中里喜昭(この2人は民主主義文学同盟員で1982年の「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の「お願い人」)、吉田嘉清草野信男(1984年、原水協で「反党活動」)、丸木位里丸木俊夫妻(中核派滝田をかくまった容疑で査問・除名)、古在由重(1984年、原水禁運動にかかる「分派活動規律違反行為」で除籍)、霜多正次(1983年の民主主義文学同盟問題で「反党活動」・除籍)。
 改行して、川上徹(既述の元「全学連」委員長、元民青同盟幹部、「新日和見主義」者として査問を受けつつも離党はしなかったが、1990.09の「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画し事務局側の一人となった。日本共産党は家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らとともに呼びかけ人になっていた党員に「手を引け」と「個々に指令した。ほぼ全党員がやめたのに、川上徹だけが、指令を拒否」。「規律違反で除籍した反党分子を偲んだ規律違反」として「査問し、除籍」)。
 さらに、「市民の風」と「平和共同候補実現運動」代表呼びかけ人の加藤哲郎(一橋大学教員)、呼びかけ人の田口富久治(名古屋大学名誉教授)、柴山健太郎(労働運動研究所)(川上徹も呼びかけ人の1人)。
 全く知らなかったが、加藤哲郎と田口富久治は、『日本共産党の七十年』が名指しで批判しているらしい。
 田口富久治といえば、私が大学生の頃はマルクス主義政治学者で、しかも日本共産党員と見えた(当時はそのとおりだったようだ)現役の大学教授だった(名古屋大学)。
 読んでいないが、田口は『マルクスと丸山真男の間で』とかいうような本を近年刊行していたかと思われる。かつて所属し、熱心に活動した政党(共産党)から「敵視」されるとは、いかなる気分だろうか。
 日本共産党の内部問題だとはいえ、<冷酷>な政党だという印象は拭えるはずがない。除籍した「反党分子」の死に際して積極的に「偲んで」はいけないのだ(「反党分子」の死は喜ぶべきことで、唾でも吐きかけよ、というのが同党の-正規ではないにしろ事実上の-方針・指令だろうか)。その組織原則・「民主集中制」によるのだろう。
 なお、有田芳生も新日本出版社に勤務中に何か「問題」を起こして日本共産党員を辞めた筈だ。上記の「平和共同候補実現運動」等にはもはや関与はせず、テレビ・コメンテイターをし、テレサ・テン等に関する本を書いたりしているようだが、強制的な離党だったかどうかも含めて、ヒマなときにネットで調べてみよう(彼のHPにある程度は書かれていた記憶がある)。

0091/立花隆とは何者か。知の巨人では全くない、「戦後民主主義」の凡人。

 1980代には、立花隆(1940-)の本をよく読んだ。文庫本になっていたものはたぶん全て読み、いくつか単行本も買っていた(田中角栄裁判関係等)。その後、彼が脳死やら臨死体験とかについて書き出してからはほとんど読まなくなっていった。時評的なものは何冊か買ったし、一時期は彼のサイトを「お気に入り」に登録してときどきは覗いていたような気もする。
 しかし、昨年に立花隆・滅びゆく国家(講談社、2006)を一瞥(正確には一部を熟読)して、驚きつつ、<これはいけない>と思った。
 この人の問題点は、基本的には、第一に、共産党および同党が支配する中国についての認識が甘すぎる、第二に、かつての日本についての、彼が大方の日本人に欠けている(そして自分こそ正しくもっている)とする「歴史認識」があまりに単純すぎる、ということだろう。もう少し具体的に書いてみる。
 第一に、立花の上の本173-7頁はいう。2005年年05月の中国の「反日」デモを知って、日本の「60年安保から70年安保にかけて」の日本の世相と「そっくり」だと「直感的に感じた」、中国人青年の「反日」デモを見て「基本的に反米」だった当時の日本の青年たちを思い出す。ある程度「生活にゆとり」ができてこそデモあるいは「民族的大爆発」が生じやすいのだが、日本の「60年安保」はそれで、最近の中国も「大まかな状況」としては「似ている」。また、中国でも?「学生運動」が歴史的に重要な役割を果たした旨もいう(p.188-9)。
 中国の「反日」デモを知って、こんな馬鹿な印象を記述するのが立花隆という人物なのだった。バカも休み休み…と言いたい気持ちになる。
 まず、今の日本ですらそうだが、中国のデモに届出又は許可が要るのは当然で、かつ中国においてこそ厳しく事前に取り締まられていることは殆ど常識だろう。そして中国の「反日」デモの発生が自然的なものでなく当局の積極的許容があったことは疑いなく、さらには証拠は出にくいだろうが、「唆し」があった、要するに「官製」だった(だからこそあれだけの大規模になった)とも十分に推測できる。この点ですでに、日本政府が積極的に許容又は動員したのではない「60年安保から70年安保」のデモとは違うのだ。
 一昨年秋の小泉靖国参拝の際に一つも「反日」デモはなかったようだし、安倍内閣発足以降も「反日」デモの報道はない。これは、デモ自体が中国政府当局に「管理」されている証左だろう。
 第二に、あとの叙述もふまえると、立花は中国が現在経済成長又は発展期にあって日本の60年代あたりの段階に相当しているという印象を持っているように読める。
 しかし、資本主義国・日本と中国共産党支配の中国とをそうやって比較すること自体が間違っている。市場経済を導入した社会主義と言っても社会主義国でなくなったわけでも、自由・民主主義等の理念を共有できる国になったわけでもない。この、基本的・根本的な社会体制の差違を無視して、一時的・表面的な経済の動向でもってのみ両国の時代的発展の段階を比較しようとする試み自体が馬鹿げている。
 また、そもそも中国の「経済発展」は幻で、いずれ中国共産党の支配は終了する、との予測も少なくなし、私もそう予測している。ソ連型社会主義と同じく中国型社会主義もまた失敗するのではないかとの予想は十分に成り立つが、立花は今の調子?で「成功した」社会主義国が実現するとでも考えているのだろうか。
 立花隆は戦時中の中国で生まれたらしく、平均的知識人以上に中国のことを知っているつもりなのかもしれないが、それは幻想にすぎないようだ。また、何らかの「愛着」を中国に対して感じるのは自由だが、それによって、現実を見る目を曇らせてはならないだろう。
 第三に、1940年05月生まれの立花はおそらく大学生として「60年安保」のデモや集会に参加したことがあるのだろう。それはそれでよいが、「60年安保」闘争は学生・市民も参加していたとはいえ、社会党・共産党等の、「革命」を目指していた、親ソ連・親社会主義の団体を中核とした「闘争」だった。樺美智子もまた、共産主義者同盟=ブントという政治団体の積極的構成員(もともとは日本共産党員でのちに離党)だった。
 民主主義擁護という側面も最終盤では出てきたし、反米民族主義という側面もむろんあったのだが、中核的運動家にとっては「反米」は親ソ連・親社会主義を意味し、社会主義へとつながる「革命」への一歩として「60年安保」闘争は位置づけられていたはずなのだ。そのような闘争と昨年の中国の「反日」デモの、どこに類似性・相似性があるというのか。
 いずれも親社会主義的という点で共通しているかもしれない。だが、日本のかつてのそれは、資本主義国内での、経済成長が始まった時期の安全保障政策をめぐる、基本的には資本主義ではなく社会主義を目指す方針をもつ団体を中核とする運動だったのに対し、中国のそれは社会主義国内の、安全保障政策とは無関係の、政権党=共産党の主張に沿った特定の資本主義国・日本を攻撃しておく運動だ。繰り返すが、どこに類似性・相似性があるというのか。
 また、今振り返ってみて、親ソ連・親社会主義を中核理念としていた60年の闘争又は運動は<善>あるいは<正義>だった、と総括してよいのか、という基本的疑問がある。立ち入らないが、あの「60年安保」闘争はその後の日本に<悪い>影響を与えた、と私は考えている。
 第四に、188-9頁に国共合作に踏み切らさせたのは「学生運動だった」と書いてある。反論できる資料は手元にはないが、はなはだ眉唾ものだ。冷徹な毛沢東の判断、そしてコミンテルン又はコミンフォルムの強い働きかけ又は勧告があったというのが、より正しいだろう。
 第五に、立花は小泉首相(当時)に対して、中国・韓国へのひざまずいての「ドイツ」式謝罪も要求している(p.204等)。杜撰にも中・韓の区別もしていないが、この人は、戦後補償・「謝罪」に関する日独比較の基本文献を読んでいないのでないか。
 第六に、皇室問題では愛子様、女系・女性天皇を支持する(p.112-)。執筆時期から見て宥恕の余地はあるが、しかし、皇太子夫妻が第二・第三子を望まれるなら「高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだ」、「不妊治療に踏み切れば、対外受精で…妊娠することはほとんど約束されているとほとんど知人夫妻にでも言うがごとく「助言」するに至っては、どこかおかしいと私は感じた。
 立花がわざわざ書かなくても必要な検討は夫妻ご本人たちこそが考えておられるのでないのか。上のように活字で明記してしまう感覚は、国家・国民統合の「象徴」に対する敬意の欠落の表れだろう。さらに言えば、おそらくは天皇・皇室という「非合理」なものを「国民の総意」で廃止したいというのが彼の本音だろうと推測される(大江健三郎と同じだ)。
 最後に、立花は教育基本法の改正にも憲法の改正にも反対の旨を明言している。勝手に推測するに、「戦後民主主義」のもとで立花(橘隆志)は十分に「成功した」、今のままでよい、という「保守的」気分があるのでないか。現教育基本法の条文を抜き出してこれで何故いけないのかと問う姿勢からは、(中国には存在しない)表現の自由、「個人主義」、反体制的風潮の存在の容認といった「戦後」の恩恵を彼は十分に受けたと感じていることを示しているように思われる。
 以上のような点は、この本と同様に月刊誌・週刊誌等への連載寄稿をまとめた、櫻井よしこの『この国を、なぜ愛せないのか』(ダイアモンド社、2006.06)と比べてみるとよく分かる。
 北朝鮮・拉致問題への言及が立花本には一切なく!、櫻井本には当然にある。精読していないが、立花本には(小泉は靖国参拝で中国を「挑発」するな旨言うくらいだから)中国批判、将来の中国への憂慮を示すフレーズは全くないのでないか。
 某書籍ネット販売サイトのこの本に関するカスタマーレビュー」の見出しだけをいくつか挙げてみても、「立花隆にしてこれか」、「真に滅びゆくのは誰?」、「知の巨人?」などがあった。それぞれ私も同感する。
 立花隆はまた、月刊現代2006年10月号に、「安倍晋三に告ぐ、「改憲政権」への宣戦布告」と題する一文を巻頭に掲載している。
 殆ど読まないこの雑誌を珍しく買ったのも、この立花隆論稿があったからだが、一読して、幻滅した。
 こんなのを巻頭にするとは月刊現代も落ちぶれた。全体としてもかつてはもっと賑やかで興味を惹く記事が多かった気がする。講談社は最近ヘンになっているのではないか。
 講談社のことはともかく、立花論文?は昨年08月15日の東京大学での南原繁関係の集会にかかる原稿が元にあるようで、羊頭狗肉著しい。
 特定の政権への「宣戦布告」と公言するためには、現在の日本を取り巻く国際又は東 アジアの政治環境の認識は不可欠だろうが、異常にも、アメリカも北朝鮮も中国も、言葉としてすら出てこない。そして基本は、岸信介のDNAを受け継ぐ安倍首相を、精神的には「DNA」を引くと彼は「思うくらい」の南原繁を援用しながら立花が批判するというものだ。これを読んでほとんどすべてにノーと感じた。
 「安倍の政治的見解は、ほとんど戦後民主主義社会の根幹をなす枠組みを全否定しようとするもので、いわば南原繁が作ったものをすべてぶちこわしたがっている…」。
 南原繁が「あの時期にあったればこそ、我が日本国はいまこのようにあることができるのだ」。
  もっとも、「戦後の金権腐敗政治、対米追随路線」は南原のではなく、岸信介のDNAを引く人々によるというから、立花によれば、現在の日本のよい(と彼が考える)点は南原繁DNA悪い点(同前)は岸信介DNAによる、とキレイに(アホらしく単純に)説明できるわけだ。
 だがそもそも、南原繁ってそんなに偉かったのか。南原繁とはそれほど立派な人物だったのか。彼は1946年03月に貴族院議員に勅選されているが、手元に資料がないが、日本国憲法案に反対の発言をした旨の文章を読んだ記憶がある。また、Wikipediaによれば、1946年02月11日にはあえて「日章旗をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化創造」を説」いた、らしい。これらが正しいとすれば、なかなか立派な面があるとしても、南原は立花がいう「戦後民主主義社会の根幹」を作った人物などでは全くないことになる。
 また、歴史的に俯瞰してみると、全面講和論は間違いだったし、60年安保闘争も決して日本国民の「成果」といえるようなものではない。1950年05月の吉田茂の「曲学阿世」との南原批判は適切なものだった。
 全面講和論は客観的には社会主義諸国に迎合し追随するものだった(岡崎久雄・吉田茂とその時代p.287-8(PHP、2002)参照)。立花隆は、世間の一部におもねているという意味で言うと、「曲学阿一世」ではないか。
 「60年安保闘争」を当時「煽った」大学人・知識人たち(主観的には共産党や共産同のように「革命」への一里塚と見ていなくとも)の氏名をいつかすべて記録しておきたいものだ。
 直後の総選挙で社会党等が政権を取れずかつ1/3以上の議席を得たことはその後の日本政治に決定的影響を与えた。自主憲法棚上げについても、経済至上主義選択についても。「永世中立」論の主張者・南原繁の肯定的な歴史的評価は早すぎ、かつ誤っているだろう。
 ところで、元日本共産党党員・有田芳生氏は立花隆への特別の敬愛心でもあるのだろうか、上の月刊現代が出た後の彼のブログの中で、「安倍晋三への宣戦布告」と題して、「安倍が総理となり戦後民主主義の枠組みを破壊するために闘うというなら、わたしもまたその安倍的「思想」と闘うしかない」と書いている。日本共産党を離党することは反共産主義者になることを意味しない。ましてや「戦後民主主義」の色濃き残映を、有田氏もまた、依然として背負っているわけだ。

-0057/朝日新聞は進路とは逆の方向に光を照し続けてほしい。

 朝日新聞が退潮を防ぐために「ふつうの」新聞になることを願ってはいない。新聞自体を廃刊していただくのがベストだが、そうでなければ、日本が進べき方向とは逆の方向に光を煌々と当ててくれる、逆の意味での「導きの灯火」の役割を見事に果たし続けてほしいものだ。
 ところで、有田芳生につき、この日記の09/06で今は日本共産党とは「一定の距離を保っているようだが」と書き、09/21には「当時は党員だったかと思える」と書いたが、彼自身のサイト内を見ていて正しい推測だったことが分かった。
 彼が編集者の一人となって日本共産党「除籍」の原因になった『日本共産党への手紙』(教育史料出版会、1990) の古書が今日配達されてきたのは不思議な偶然だ。
 人の良さそうな彼はしかし、コミュニズム又は共産党幻想から完全には抜けきってはおらず、「反体制」的心情を残しているかに見える。共産党員でなくなることが例えば自民党支持者に変わることを意味するわけではないのは当然のことだ。また、上の本も正面からの共産主義批判・日本共産党批判ではなく共産党員そのもの又は共産党の強いシンパの15人が日本共産党への注文等を書いたものにすぎないので、当面は読まずに積んでおこう。
 有田は核武装検討発言の中川昭一、麻生外相を「酔っぱらいのように声高に持論を主張」すればいいものではないと批判しているが、「酔っぱらいのように声高に」という副詞には必ずしも客観的でない感情が入っていると思う。
 また、彼のかかる批判は今朝の朝日社説とも同じなのだが、朝日の「なんとも危うく、不見識な発言だ。…聞き捨てならない」との冒頭の文などは<やや>ヒステリック又は感情的な印象がある。
 一方、本日の産経社説は「核武装・もう思考停止はやめよう」と題して朝日・有田と対立する。このあたりにも国論の大きな分裂がわが国にあることを感じるが、今の危機には間に合わないとしても一般論としては産経を支持したい。
 核の抑止力が第三次大戦を防ぎ、かつ軍備拡大競争に負けたことはソ連崩壊の一因となった。核保有国・中国との将来の本格的「闘い」を想定しておく必要もある…。安倍首相が言った如く、国会議員の自由な議論を封じることはできない。ましてや、マスコミ、一般国民は何でも自由に検討し議論できる。特定のテーマについてのタブー作りは、言論の自由を自ら放棄するに等しい。

-0041/社会主義・マルクス主義(共産党等)からの離脱は正しい。

 昨日安倍晋三が自民党新総裁に決定。社民党の福島瑞穂が今までで「戦争に一番近い人」とかコメントしていた。それ自体厳密な議論が必要な日本人の無条件の「戦争」嫌い=絶対的「平和」選好の傾向を利用して、9条の会と同様に「戦争」という言葉を使って国民を脅迫しているわけだ。
 安倍を100%支持はしないが、相対的にマシな人だろう。人物も政党もいずれが・誰が「相対的にマシ」かで判断する他はなく、「小沢一郎の」民主党よりは安倍の自民党がまだマシに思える。小沢氏には「党派性」にからむ選挙戦略だけでなく、広く国益・公益を思慮していただきたい。
 何げなく有田芳生のサイトをまた見ていたら、0919付に日本共産党の上田耕一郎の対談本を買おうとして結局やめた、という超「個人的」話があった。
 有田は共産党系雑誌・経済の編集者として上田・小田実の対談を企画して「政治的に厳しく追及された」と書いている。彼は当時は党員だったかと思える。それにしても、小柴昌俊は別として対談相手3人のうち2人が小田と鶴見俊輔ではとても(買うのは勿論)見る気になれない。
 昨日言及した本の中で林道義は「私が犯した最大の間違いは、旧ソ連・中国などの社会主義国を本当に理想を追求している国だと思い込んだことである。…20歳前後…に気づくことができた。社会主義と言われる国々は、人間性を否定する最悪の独裁国だと気づいた」と率直に書いている。
 戦後70年代くらいまでにかかる幻想をもった(思い込んだ)人々は悪びれることなく正々堂々と誤っていたことを認めるべきだし、そのことこそ讃えられるべきだ。日本には「変節」という言葉もあって、いったん社会主義・マルクス主義にシンパシ-を持った(又は共産党・社会党に接近した)人がそれらから離れることについて本人が自らを精神的に苛むことがありうる。疑問をもちつつ社会主義・マルクス主義(共産党・社民党)から離れられない人こそ、勇気・正義感がないのだと悟るべきだ。社会主義・マルクス主義は「宗教的」だから、離脱に何らかの苦痛・葛藤が伴うことはありうるが多少はやむをえない。
 勝谷誠彦の小説よりも小池真理子の「望みは何かと訊かれたら」に魅かれてサンデー毎日でなく週刊新潮を4週連続で買った。もともと最も読みがいのある週刊誌だが、この小説は70年代前半の非代々木系(反共産党系)「学生運動」を、やや遅い1952年生れの作家にしては本当らしく描写している。

-0040/若宮啓文、有田芳生はいい名前だ。

 これまた古いが朝日の「いっそ…夢想する」で有名な若宮啓文が同紙8月28日のコラムで加藤紘一自宅放火という「テロ」に対する小泉首相等の反応の遅さを詰っている。拉致という明確な国家「テロ」の問題をとりあげるのは日朝国交正常化の「障害」と明記して横田滋氏等から総スカンを食った朝日が、再述すれば、国家「テロ」問題よりも国交正常化優先すべきとの見解だった朝日が、「テロとの戦いはどうした」という見出しのコラムを掲載する資格は全くない。
 何げなく有田芳生のサイトを見ていたら0912付の最後に「安倍の改憲を含む戦後の枠組み解体路線には断固として与しない」とあった。改憲問題は別として、「戦後の枠組み」とは一体何を意味しているのかが問題だ。常識的にみて、「戦後」の全てが良かったか悪かったかという問いは、従って「解体」に一括賛成か反対かの選択は無意味だろう。むろん、「進歩」があったことを否定しないが、しかし、有田の詳しいオウム事件・サリン事件や悪質少年犯罪事件はまさに「戦後」が生み出した現象でないか。「解体」との結論にならないとしても憲法・教育も含めた「枠組み」の妥当性を疑ってみること自体は大切だろう。
 渡部昇一=林道義=八木秀次・国を売る人びと(PHP、2000)を読了し、西尾幹二=八木秀次・新国民の油断(PHP、2005)を通読した。
 フェミニズム・ジェンダーフリー論の帰結のヒドさに愕然とした。有田は後者で紹介されている「自由な」教育も「解体」しないで維持したいのか。また、後者によると、エンゲルスは『…起源』で家庭内で夫は支配者でブルジョアジ-、近代家族は「プロレタリア-ト」たる妻の「家内奴隷制」で成立とまで書いていた。なるほど、マルクス主義とフェミニズムは「個人」のために「家族」を崩壊させる理論なのだ。そして、男女平等といった表向き反対しにくいテ-ゼが利用されて、「家族」の解体がある程度進行してしまっていることも感じる。その結果が、親の権威の欠如(=親子対等論)等々であり、「家族」の崩壊はオウム事件、悪質少年犯罪等と、さらに晩婚化・少子化とも決して無関係でないと考えられる。結局はマルクス主義の影響によってこそ、日本社会は大切なものを喪失してきたのだ。まさに「悪魔の理論」といえる。

-0035/「九条の会」アピ-ル文の無知と大谷昭宏・有田芳生。

 憲法改正の意図は<日本を戦争をする国に変える>ことにあるとの「九条の会」の言明は、二重の意味で無知かつ欺瞞的だ。
 第一に、憲法改正>九条改正により日本が<戦争をする国>になるとは具体的にどういう意味かの説明がないが、とくに何故<戦争をする国>になるのかの論理的・理由付け的説明がない。
 第二に、既述のように「自衛戦争」をする権利を九条一項は否定していないにもかかわらず、「戦争」=悪という一般的前提に立っていると見られる。「戦争」一般を悪と見る考え方は戦後日本にのみみられる特殊な「平和教」と言ってよいものだ。
 それに、九条二項の「前項の目的を…」を生かして、同項により禁止されるのは「侵略」のための「戦力」・「交戦権」に限られる(「防衛」目的のそれらは許容される)との政府・多数学説は採用していない有力学説もあるようなのだが、アピ-ル文はそんなことに思いを巡らしていない。
 ともあれ、九条改正により日本が<戦争をする国>になるとの論証されていないウソを書き、<戦争をする>ことが自衛戦争であっても悪であるかのごとき誤ったバカな考え方を前提に書かれているのが「九条の会」アピ-ルだ。
 保守派・右派は中国等特定アジア諸国、靖国問題、皇室典範問題等に筆を割くことが多いが、憲法改正阻止に焦点を合わせて「闘い」を準備している、又は開始している左派の存在をもっと意識して反撃すべきではなかろうか。
 昨日触れたことに関連するが、中国は戦後、米等の国連軍、ソ連、ベトナムと実際に「戦争」をした国、カンボジア内戦を応援した国、日本・台湾にミサイルの照準を合わせている国であって、軍事費を増強している。そんな国に日本を「軍国主義化」などと批判する資格はない。しかるに「右旋回」、「復古調」と基本的に中国と同様の認識を示す人々が日本国内にいるのだから、嘆かわしい。
 大谷昭宏はスポ-ツ新聞に「改憲を叫ぶ男に託していいのか」と安倍晋三を批判した。
 有田芳生は立花隆への特別の敬愛心でもあるだろうか、「安倍が総理となり戦後民主主義の枠組みを破壊するために闘うというなら、わたしもまたその安倍的『思想』と闘うしかない」、を含む文の題を「安倍晋三への宣戦布告」としている。ああ、やれやれ、昔ながらの発想だ。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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