思想家か、「売文業者」か。
こういう問題を設定すれば、西尾幹二が後者であることは、はっきりしている。「自営の文章執筆請負業者」なのだ。63歳までは国立大学教員の「安定した」地位と「電気通信大学教授」という肩書きだけでは西尾は満足せず、「売文」を通じて世間的に「有名に」なりたかった、強い「自尊心」を満足させたかったわけだ。
だが、文章を執筆して原稿料や印税を得ることを主たる生業とする者は全て「売文業者」なのだから、問題は、西尾幹二は<どのような>文章執筆請負業者であるのか、だ。
その文章が示す主張・見解に一貫性がないこと、しばしば「無知」であること、単純幼稚な「思いつき」をさも深遠な内容をもつかごとくに堂々と書ける「神経」をもつこと、これらは、西尾幹二の諸文献・文章を少しはまとめてきちんと読んでいると、容易に気づくことができる。
----
一 先日に2019年の<文春オンライン>上の西尾の発言に言及した。
あらためて読んでみると、言及した以外にも興味深いことに気づく。
幼稚な「歴史」観を、単純には論じきれない「歴史」叙述とは何かの問題を、つぎのように語って<得意になって>いるようであるのも面白い。内容にここで検討し、論議するつもりはない。インタビュアーは辻田真佐憲。一行ずつ改行する。「歴史と物語の関係」に入る前に、として、こう述べている。
「さきに私の考える『歴史』の定義をお話しした方がよいでしょうね。
私がまず申し上げたいのは『過去』と『歴史』を一緒に考えるのは根本的な間違いであるということです。
過去というものはもはや動かないものですね、一度起こったことは不可逆。
たとえば人生におけるなんらかの事故で失明という災いが生じれば、それはもう元には戻らない出来事ですね。」
「しかし、人は動かしようのない過去に対しても心を動かします。
人生の災いに対して自殺するほどの苦しみを感じるかもしれない、あるいは事故の責任を他に求めて社会的正義を訴えようとするかもしれない。
あるいは時が経って事故を神が与えた試練ないしは慰めとさえ感じ、宗教的に浄化させるようになるかもしれない。
ある出来事に対する人の心の動きは、その時その時によって違うわけです。その心の動きによって変わって見える過去が『歴史』です。
つまり『歴史』とは動くものなのです。」
少しは具体的例への言及があるが、省略する。
いずれにしても、「はぁ?」、「それで?」という感想が多くの人々に生じるだろう、あるいは、人の「心の動き」をえらく大切にする人なのだな、という感想も生じるかもしれない。
2011年頃に遠藤浩一との対談で、これまでの自分の仕事は全て「私小説的自我」の表現でした、と語った人物だけのことはある。
----
二 安倍晋三首相(当時)について語っていることも、関心を惹く。インタビュアーの辻田真佐憲が「『保守の真贋』(2017年)で日本会議や国民文化研究会、日本政策研究センターといった安倍首相を運動的・思想的に支える組織を『保守系のカルト教団』と強い言葉で批判」、安倍首相自身についても「拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない」と「厳しく批判」と、さらなる発言を求めたのに対して、こう答えている。一行ずつ改行。
「安倍さんについては、私にだけではなく多くの人の目に、その正体が現れたという思いが年々強くなっていますね。
人たらしって言うのかな、威厳はないけれども敵は作らない絶妙さを持っている一方、旗だけ振って何もやらない無責任さがあります。
憲法改正がいかに必要であるか、炉辺談話的に国民に腹を割って説明をしたことが一度でもありますか。
中国の脅威について、世界地図を広げながら国民に説明したことはありますか。
憲法改正についても安全保障についても、やるやるとぶち上げておきながら、はっきりしたことは示さないまま時間切れを迎える。
私はかつて安倍さんに“言葉を持つ政治家として”大きな期待を持っていたんですが、今となってはあと10年経たないうちに歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろうと思っています。」
―それでも西尾さんの言う「安倍さん大好き人間」がいっぱいいる。
「ええ、バカみたいにたくさん。
何があの『大好き人間』の悪いところかというと、彼らの目的は政治ではなく安倍さんを頭目として首相の位置に置き続けること自体が、自己目的化していることです。
もっぱらその目的のために彼らが言論を戦わせているところ。最近の保守系の雑誌をめくればすぐにわかりますよね。『月刊Hanada』にしろ『WiLL』にしろ『Voice』にしろ。」
―『正論』はいかがですか。
「『正論』は辛うじて私の安倍批判を載せますから。
もっと安倍批判を保守の立場から堂々と論じることのできる人が、僕以外にもたくさんいるはずなのに、メディア側が抑えている。」
このように、安倍晋三に対しては批判ばかりをし、安倍支持者・同雑誌も弾劾している。
----
三 批判または擁護は、それはそれでよいとして、秋月にはきわめて不思議に感じることがある。
西尾幹二は、上から約一年半後の月刊正論2020年7月号に「安倍晋三と国家の命運」と題する文章を寄せた。この主題で何を言いたいのか、よく分からないまま「たらたらと」、どちらかと言うと批判的に安倍首相の時代を追っているが(なお、直後に安倍内閣は退陣した)、最後の一文の一つ前の文はこうだった。
「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが、今や現実が見えなくなり、変化をこわがっている」。
たしかに批判的なトーンで終わってはいるが、上に見た2019年1月での発言とはまるで異なる。
2019年1月には、安倍内閣について、「歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろう」とまで言っておきながら、この2020年7月号では、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という積極的・肯定的側面を明記している。
これでは、<矛盾>または<一貫性の欠如>と指摘されても仕方ないだろう。
----
しかし、西尾幹二においては、「一貫性」の維持など、大した問題ではない。見解や評価を何の理由を示すことなく変化させることくらいは、平気のことだ。
2019年の初めには、<保守の立場からの安倍内閣批判>と銘打った自分の書物に言及されたために、あえて批判だけ述べたのかもしれない。2020年の夏には、月刊正論に掲載予定のの原稿であることを意識して、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という、同編集部や月刊正論の読者(の多数?)を意向を「忖度」した文章を挿入したのかもしれない。
そのときごとに微妙に表現の仕方や内容それ自体を変えること、掲載予定の新聞や雑誌の<傾向>を考慮(・忖度)しつつ文章を書くこと、これは「自営の文章執筆請負業者」=「売文業者」である西尾幹二の本質に属する。
なぜ、それでよいのか。理由を示さないままでの趣旨の変更は、ときには「ニュアンス」の変更ですら、「良心のある」文章執筆者ならば、避けたいところだろう。
そのような「良心」は、西尾幹二にはない。そう断言してよい。
西尾にとっては、注文に即して、所定の枚数(・字数)の原稿を書いて編集者に渡し(メールを送信し?)、ともかくも雑誌や新聞に掲載されて、<自分の名前>が知られつづけることこそが重要なのだ。
----
四 上の2019年のインタビューへの回答の中に、西部邁・小林よしのり等々は「『国民の歴史』がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう」(だから私と対立したのでしょう)、というのがあった。この書の売れ行きが良かったことを、この人は何度も述べている。
しかし、購入者の全てが西尾著の内容を支持したわけではない。だいぶ昔に、当時に流行した羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968年12月)を私も購入したが、少しだけ捲って、あとは全く読まなかった記憶が私にはある。だから、購入されても(売れても)読まれなかった場合も少なからずあった、と推測される。
しかし、西尾幹二にとって重要なのは、自分の書物がきちんと読まれること、さらにはその内容としての見解・主張が共感され、支持されることではない。
そのようであるにこしたことはないだろう。しかし、この人にとって重要なのは、多数の購入者によって、著者である<自分の名前>が広く知られることだ。「西尾幹二」の名が「有名」になれば、それで十分に満足なのだろうと推察される。
全集の「後記」でも含めて、この人はしばしば、<この本は〜部売れた>とか書いている。販売部数は、自分の見解・主張が支持された数量とは一致しない。だが、<名前が知られた>、「有名」になった、「えらい人」だと何となく思わせた、という数量とはかなり一致しているかもしれない。だからこそ、西尾幹二は、「売れ行き」・販売部数にひどく執着しているのだと考えられる。その<全集>がどの程度売れているのかは、私は全く知らないけれども。
——
こういう問題を設定すれば、西尾幹二が後者であることは、はっきりしている。「自営の文章執筆請負業者」なのだ。63歳までは国立大学教員の「安定した」地位と「電気通信大学教授」という肩書きだけでは西尾は満足せず、「売文」を通じて世間的に「有名に」なりたかった、強い「自尊心」を満足させたかったわけだ。
だが、文章を執筆して原稿料や印税を得ることを主たる生業とする者は全て「売文業者」なのだから、問題は、西尾幹二は<どのような>文章執筆請負業者であるのか、だ。
その文章が示す主張・見解に一貫性がないこと、しばしば「無知」であること、単純幼稚な「思いつき」をさも深遠な内容をもつかごとくに堂々と書ける「神経」をもつこと、これらは、西尾幹二の諸文献・文章を少しはまとめてきちんと読んでいると、容易に気づくことができる。
----
一 先日に2019年の<文春オンライン>上の西尾の発言に言及した。
あらためて読んでみると、言及した以外にも興味深いことに気づく。
幼稚な「歴史」観を、単純には論じきれない「歴史」叙述とは何かの問題を、つぎのように語って<得意になって>いるようであるのも面白い。内容にここで検討し、論議するつもりはない。インタビュアーは辻田真佐憲。一行ずつ改行する。「歴史と物語の関係」に入る前に、として、こう述べている。
「さきに私の考える『歴史』の定義をお話しした方がよいでしょうね。
私がまず申し上げたいのは『過去』と『歴史』を一緒に考えるのは根本的な間違いであるということです。
過去というものはもはや動かないものですね、一度起こったことは不可逆。
たとえば人生におけるなんらかの事故で失明という災いが生じれば、それはもう元には戻らない出来事ですね。」
「しかし、人は動かしようのない過去に対しても心を動かします。
人生の災いに対して自殺するほどの苦しみを感じるかもしれない、あるいは事故の責任を他に求めて社会的正義を訴えようとするかもしれない。
あるいは時が経って事故を神が与えた試練ないしは慰めとさえ感じ、宗教的に浄化させるようになるかもしれない。
ある出来事に対する人の心の動きは、その時その時によって違うわけです。その心の動きによって変わって見える過去が『歴史』です。
つまり『歴史』とは動くものなのです。」
少しは具体的例への言及があるが、省略する。
いずれにしても、「はぁ?」、「それで?」という感想が多くの人々に生じるだろう、あるいは、人の「心の動き」をえらく大切にする人なのだな、という感想も生じるかもしれない。
2011年頃に遠藤浩一との対談で、これまでの自分の仕事は全て「私小説的自我」の表現でした、と語った人物だけのことはある。
----
二 安倍晋三首相(当時)について語っていることも、関心を惹く。インタビュアーの辻田真佐憲が「『保守の真贋』(2017年)で日本会議や国民文化研究会、日本政策研究センターといった安倍首相を運動的・思想的に支える組織を『保守系のカルト教団』と強い言葉で批判」、安倍首相自身についても「拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない」と「厳しく批判」と、さらなる発言を求めたのに対して、こう答えている。一行ずつ改行。
「安倍さんについては、私にだけではなく多くの人の目に、その正体が現れたという思いが年々強くなっていますね。
人たらしって言うのかな、威厳はないけれども敵は作らない絶妙さを持っている一方、旗だけ振って何もやらない無責任さがあります。
憲法改正がいかに必要であるか、炉辺談話的に国民に腹を割って説明をしたことが一度でもありますか。
中国の脅威について、世界地図を広げながら国民に説明したことはありますか。
憲法改正についても安全保障についても、やるやるとぶち上げておきながら、はっきりしたことは示さないまま時間切れを迎える。
私はかつて安倍さんに“言葉を持つ政治家として”大きな期待を持っていたんですが、今となってはあと10年経たないうちに歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろうと思っています。」
―それでも西尾さんの言う「安倍さん大好き人間」がいっぱいいる。
「ええ、バカみたいにたくさん。
何があの『大好き人間』の悪いところかというと、彼らの目的は政治ではなく安倍さんを頭目として首相の位置に置き続けること自体が、自己目的化していることです。
もっぱらその目的のために彼らが言論を戦わせているところ。最近の保守系の雑誌をめくればすぐにわかりますよね。『月刊Hanada』にしろ『WiLL』にしろ『Voice』にしろ。」
―『正論』はいかがですか。
「『正論』は辛うじて私の安倍批判を載せますから。
もっと安倍批判を保守の立場から堂々と論じることのできる人が、僕以外にもたくさんいるはずなのに、メディア側が抑えている。」
このように、安倍晋三に対しては批判ばかりをし、安倍支持者・同雑誌も弾劾している。
----
三 批判または擁護は、それはそれでよいとして、秋月にはきわめて不思議に感じることがある。
西尾幹二は、上から約一年半後の月刊正論2020年7月号に「安倍晋三と国家の命運」と題する文章を寄せた。この主題で何を言いたいのか、よく分からないまま「たらたらと」、どちらかと言うと批判的に安倍首相の時代を追っているが(なお、直後に安倍内閣は退陣した)、最後の一文の一つ前の文はこうだった。
「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが、今や現実が見えなくなり、変化をこわがっている」。
たしかに批判的なトーンで終わってはいるが、上に見た2019年1月での発言とはまるで異なる。
2019年1月には、安倍内閣について、「歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろう」とまで言っておきながら、この2020年7月号では、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という積極的・肯定的側面を明記している。
これでは、<矛盾>または<一貫性の欠如>と指摘されても仕方ないだろう。
----
しかし、西尾幹二においては、「一貫性」の維持など、大した問題ではない。見解や評価を何の理由を示すことなく変化させることくらいは、平気のことだ。
2019年の初めには、<保守の立場からの安倍内閣批判>と銘打った自分の書物に言及されたために、あえて批判だけ述べたのかもしれない。2020年の夏には、月刊正論に掲載予定のの原稿であることを意識して、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という、同編集部や月刊正論の読者(の多数?)を意向を「忖度」した文章を挿入したのかもしれない。
そのときごとに微妙に表現の仕方や内容それ自体を変えること、掲載予定の新聞や雑誌の<傾向>を考慮(・忖度)しつつ文章を書くこと、これは「自営の文章執筆請負業者」=「売文業者」である西尾幹二の本質に属する。
なぜ、それでよいのか。理由を示さないままでの趣旨の変更は、ときには「ニュアンス」の変更ですら、「良心のある」文章執筆者ならば、避けたいところだろう。
そのような「良心」は、西尾幹二にはない。そう断言してよい。
西尾にとっては、注文に即して、所定の枚数(・字数)の原稿を書いて編集者に渡し(メールを送信し?)、ともかくも雑誌や新聞に掲載されて、<自分の名前>が知られつづけることこそが重要なのだ。
----
四 上の2019年のインタビューへの回答の中に、西部邁・小林よしのり等々は「『国民の歴史』がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう」(だから私と対立したのでしょう)、というのがあった。この書の売れ行きが良かったことを、この人は何度も述べている。
しかし、購入者の全てが西尾著の内容を支持したわけではない。だいぶ昔に、当時に流行した羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968年12月)を私も購入したが、少しだけ捲って、あとは全く読まなかった記憶が私にはある。だから、購入されても(売れても)読まれなかった場合も少なからずあった、と推測される。
しかし、西尾幹二にとって重要なのは、自分の書物がきちんと読まれること、さらにはその内容としての見解・主張が共感され、支持されることではない。
そのようであるにこしたことはないだろう。しかし、この人にとって重要なのは、多数の購入者によって、著者である<自分の名前>が広く知られることだ。「西尾幹二」の名が「有名」になれば、それで十分に満足なのだろうと推察される。
全集の「後記」でも含めて、この人はしばしば、<この本は〜部売れた>とか書いている。販売部数は、自分の見解・主張が支持された数量とは一致しない。だが、<名前が知られた>、「有名」になった、「えらい人」だと何となく思わせた、という数量とはかなり一致しているかもしれない。だからこそ、西尾幹二は、「売れ行き」・販売部数にひどく執着しているのだと考えられる。その<全集>がどの程度売れているのかは、私は全く知らないけれども。
——