産経新聞に報道されていたかどうかは知らないが、週刊新潮7/29号(新潮社)の櫻井よしこの連載コラム(p.148-149)によると、外国人地方参政権問題につき、6/04の政府答弁書は(鳩山内閣時代のものではある)、最高裁1995(平成7年).02.28判決の<本論>のみを引用し、「政府も同様に考えている」と述べているらしい(質問者は山谷えり子)。
鳩山由紀夫が昨年に上掲最高裁判決の<傍論>部分を援用して<(付与しても)違憲ではないと考えている>と答弁していたのを(ナマか録画のニュースでかは忘れたが)記憶しているので、櫻井よしこの紹介のとおりならば、大きな、重要な変化ではある。
そして、この政府答弁書とは明確に矛盾した言動を閣僚等がしているとすれば、問題視する必要がある。
だが、気になったのは、次の点だ。
上掲最高裁判決の本論は<憲法は積極的には外国人地方政権を保障していない>旨を述べているのだが、櫻井よしこは、これを引用した答弁書を<「外国人参政権は禁止」と読める答弁書>と理解している。すなわち、<積極的に保障はしていない>=<禁止>、というふうに理解している。
百地章も同様なのだろう。だが、論理的に見て、外国人地方参政権を<積極的に保障はしていない>=~の付与を<禁止している>、ということに単純になるのかどうか。単純にはならないという前提のもとで(裁判官全員一致で)いわゆる<傍論>も書かれたのだ。
とくに強調してあげつらうつもりはないが、この問題に限らず、訴訟・判決にかかわっても歴史認識等にかかわっても、<保守>論者には概念・論理の明晰さが要求される。
主題から離れて一般化すれば、具体的論点について、<保守>論者は、概念・論理の明晰さ・一貫性について<左翼>に負けてはいけない。<保守的>気分・情緒だけの表出では、<インテリ>たちを多数とり込んでいる<左翼>に敵わないのではないか。
最高裁平成07.02.28判決
辻村みよ子・憲法〔第一版〕(日本評論社、2000=B)は、平成7年最高裁判決を紹介したあと、以下のようにも批判している。
①「傍論」での「地方自治制度の趣旨」を根拠にした判示は、「本論」での憲法「九三条解釈にも反映されなければならなかったのではないか」(p.166)。
これは前回紹介の後藤光男の論と同じく、「傍論」を支持する(少なくとも積極的に反対しない)立場から、簡単には、「本論」をこそ「傍論」に合わせるべき旨を言っているわけで、百地章とは真逆の立場からの「矛盾」の指摘だと理解することもできる。
辻村みよ子は次のようにも書く。
②上記判決の「傍論」が「永住者等」を「国民に準じて考えるべき存在」としているとすれば、この「永住者等」は「地方公共団体と密接な関係をもっているだけではなく、すでに日本の国政にも十分密接な関係と関心をもつ者であり、国政レベルでの参政権についても許容説を導くことができるかどうかが問題となる」。
語尾は曖昧になっているが、国政レベルでの選挙権付与「要請説」論者だからこそ、このように書けるのだろう。
辻村の叙述で注目されるのは(A・B同じ)、<永住市民権説>というものに立ち(これは近藤敦も同旨だとされている。Ap.149)、その論拠の一つをフランスの1793年憲法に求めていることだ。
このフランスの憲法はジャコバン独裁時の、ロベスピエールらによる<人民(プープル)主権>を採用した憲法だが、辻村みよ子は、よほどこの<社会主義を先取りしたような、そして「先取り」したがゆえにこそ施行もされず失敗したとされる>憲法がお好きらしい。
辻村の文章は次のようなもの。
「…選挙権者の範囲に定住外国人を含めるか否かの議論の際には、欧州連合条約における『欧州市民』権(…)や…フランスの『人民(プープル)主権』論に基づく1793年憲法(主権主体である人民を構成する市民が選挙権者となる)のように、選挙権者に該当する具体的な『市民』概念を介在させることも理論上は有効である。このような『新しい市民』概念の確立による選挙権者の拡大を図ることが望ましいと考えられる」。
国籍保持者以外への<選挙権者の拡大>が望ましい=「善」または<進歩的>という発想自体にすでに従えないのだが、ここには、「左翼」の中に多い、そして鳩山由紀夫も影響を受けているようである、(「国民」とは区別された)独特の「市民」概念・「市民」論があるのは明らかだ。
こういう、既に凝り固まった人を善導?するのはもはや困難かもしれない。
別冊宝島・緊急出版/外国人参政権で日本はなくなる(宝島社、2010)によると、民主党・自民党・公明党・社民党・国民新党・みんなの党のすべてが「外国人国政選挙権」の付与に反対している(民主党は川上義博の個人見解とされる)(p.80以下)。日本共産党は「積極的な反対でないため回答を保留」したらしい(p.91)。
平成7年最高裁判決およびこうした諸政党の態度を見ると、「外国人国政選挙権」についての(憲法による)「(付与)要請説」は、きわめて少数の、異様な(?)学説のはずだ。日本共産党よりもはるかに<付与>の方向に傾いた説なのだ。
だがしかし、この説は、日本の立派な?憲法学界では、決して珍奇でも稀少でもなさそうだ。
誇ってよいのか、嘆くべきなのか。日本の憲法学界、つまりは百地章等を除く圧倒的多数の憲法学者たちは、親コミュニズムのゆえか、外国の「左翼」的・「進歩的」文献にかぶれているゆえか、健全で常識的な感覚を失っているのだはないか。すでに「日本人」では意識の上ではなくなっており、かつそのことを恥じることもなく、むしろ<誇り>に感じているのではないか。異様な世界だ。
<法学(憲法学)>の世界にあまり詳しくはない方々には、上のようなことを知っておいていただきたい。東北大学、名古屋大学、早稲田大学といった<有力な>大学の教授たちの学説であることも含めて。
1 外国人参政権に関する最高裁平成7年2月28日判決に関与した元最高裁裁判官の園部逸夫、および園部を批判している百地章の議論については、すでに一度だけ触れた(3月14日エントリー)。
このときは日本会議・月刊「日本の息吹」3月号というマイナーな(?)雑誌又は冊子に載っていた百地章の文章を手がかりに、産経新聞2/19の記事と絡めて書いた。 月刊WiLL3月号(ワック)に、百地章「外国人参政権・園部元最高裁判事の俗論」がある(p.203)。こちらの方が、長く、より正確な百地の論考のようだ。 前回(3/14)、百地が紹介しているとおりならば、「そのような『法の世界から離れた俗論』にすぎないとされる『傍論』を含む判決理由の作成に参画し合意したのは園部自身ではないか、という奇怪なことになる」と書いた。かつての自分を批判することになることを元最高裁裁判官が言うのだろうか、という思いが、<奇怪なこと>という表現になっていて、まさか…という気分が全くないではなかった。 しかし、今回の百地章の文章を読んで、まさにその<奇怪なこと>を園部逸夫はしている、と断定してよいものと思われる。 関心の高い人にはすでに無意味・無駄かもしれないが、整理・確認の意味を含めて、百地の文章から、園部逸夫発言を抜き出す。 ①朝日新聞1999年6月24日-上記最高裁判決で「傍論を述べて立法に期待した」。 ②自治体法務研究2007夏号-所謂傍論部分を「傍論…としたり、重視したりするのは、主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である」。 B・阿比留瑠比ブログ2010年2月19日-所謂傍論部分は「確かに本筋の意見ではないですよね。つけなくても良かったかもしれません」、「なくてもいいんだ」。 筆者(秋月)が直接に確認できるのは③A・Bだけだが、とりわけ、①と②の間には、私の理解ではより正確には、最高裁判決そのものと②の間には、異常な懸隔、この上もない奇怪さがある。自分が関与した(しかも「主導した」とすら言われる)判決部分について、「傍論…としたり、重視」するのは「法の世界から離れた俗論である」と言ってしまえる感覚・神経は尋常のものではない。 3 私は上記最高裁判決の論理は成り立ちうるもので、「矛盾」しているとまでは言えない、と理解している。この点につき、百地章は「論理的に矛盾」している旨を詳論している。 同趣旨のことは別冊宝島・緊急出版/外国人参政権で日本がなくなる日(宝島社、2010.04)の「百地章先生に聞く! いちからわかる憲法違反の外国人参政権」でも、「…傍論だし、しかも本論と傍論は矛盾している」(p.72)と述べられている。 潮匡人に対する批判的コメントをしたりもしたが(その前には渡部昇一をとり挙げた)、広くは<仲間>だと主観的・個人的には考えている者の述べていることに(<仲間うちの喧嘩>のごとく)逐一反論しない方がよいのかもしれない。しかし、私のような理解(判例解釈)も成り立つとなお考えているので、簡単に述べておく。 上記最高裁判決の、百地のいう「本論」(理由づけ)は、そのままに全文を引用すると次のとおり。①・②…は秋月による挿入。 <〔①〕憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。〔②〕そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和三五年(オ)第五七九号同年一二月一四日判決・民集一四巻一四号三〇三七頁、最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。」 百地章も認めているように(月刊WiLL5月号p.205)、上のとくに②・③は、「外国人への参政権付与は、たとえ地方選挙権であっても認められない(禁止される)」とは「明言していない」。 それを百地は、上の前段の「」内のように最高裁判決(本論)を<解釈>しているのだ。百地がp.210で「」付きでまとめている「本論」は、判決文そのものの引用ではなく、百地の<解釈>を経たものにすぎない。そして、これは成り立つかもしれない一つの(最高裁判決の)<解釈>なのかもしれない。 しかしながら、少なくとも、絶対的にそのような内容の解釈しか出てこない、という文章ではない、と私は読んで(解釈して)いる。 最高裁の上の文章で明確に述べられているのは、憲法93条2項は「我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」(②)、同じことだが、「我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえない」(③)ということだけだ。 これを、憲法(93条2項)は積極的に(地方参政権を)付与していない、とだけ<解釈>し、法律でもって付与することは憲法上「禁止されているものではない」(許容されている)〔所謂<傍論>中〕とつなげることは、決して<論理矛盾>ではない、と思われる。 上のような<特定の解釈>を採用すれば、たしかに「矛盾」している。しかし、そもそもそのような前提に立たなければ、「矛盾」しているとは言えないだろう。 本来は些細な問題かもしれない。あるいは、<政治的には>百地見解に従っておけばよいのかもしれない。だが、日本文の読み方として、いずれが適切な、または自然なものなのか、百地先生の教えをあらためて乞いたいものだ。
月刊「日本の息吹」3月号では園部見解の典拠の一つは「日本自治体法務研究」とされていたが、正確には、「自治体法務研究」という雑誌(9号、2007夏)。
2 あらためての感想の第一は、やはり園部逸夫という人物の<いかがわしさ>になる。裁判官時代は優れた、まともな人だったのかもしれない。だが、あくまで百地章による紹介・引用を信頼して感じるのだが、少なくとも自分が関与した上記最高裁判決に関するその後の園部の発言ぶりは、異様だ。
③A・産経新聞2010年2月19日-所謂傍論部分には「政治的配慮があった」。
そしてこのあと、「〔③〕このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、…」と冒頭でまとめたあとで、所謂<傍論>へとつなげている。
つまり百地章はすでに特定の解釈を加えて<本論>を理解し、そのうえで<傍論>と「論理的に矛盾」している、と主張しているわけだ。
一 産経新聞2/19朝刊一面トップは「参政権付与は在日想定」等の見出しで、一定の外国人への地方参政権付与は違憲ではない(付与しなくても違憲でもなく法律レベルで判断できる)旨の「傍論」を明記した平成07.02.28最高裁判決の際の最高裁裁判官の一人だった園部逸夫への取材(インタビュー?)結果を紹介した。そして、園部見解は「外国人参政権推進派にとっては、大きな打撃」になるとの評価を強調しているように読める(署名は小島優)。
また、かつて上記最高裁判決「傍論」の論旨にあたるいわゆる「部分的許容説」を採っていた憲法学者(中央大学・長尾一紘)が反省しているらしいことも含めて挙げて、翌2/20の産経新聞社説はあらためて<外国人参政権付与>反対を述べた。見出しは「付与の法的根拠が崩れた」。
こういう報道や主張自体を問題視するつもりは、むろんない。
但し、厳密には、「付与の法的根拠が崩れた」とまでは言えないだろう。
なぜなら、平成7年最高裁判決は何ら変更されていないし、その「傍論」部分を否定する新しい最高裁判決は出ていないからだ。
かりに園部逸夫が「主導的役割を果たしたとされる」(2/19)のが事実だとしても、その園部がのちに何と発言しようと、最高裁判決自体(「傍論」を含む)が取消されるわけではない。問題の最高裁判決の理由(「傍論」を含む)は5名の裁判官が一致した見解として書かれたもので、その内容を修正・限定するいかなる法的権能も、現在は私人にすぎない園部にあるはずがない。
それにしても、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代>(占領期の「特殊な」教育を少年・青年期に注入された、1930-35年生まれの世代。大江健三郎等々を含む)にほとんど近い園部逸夫とはいかなる人物なのか。
問題の「傍論」部分には「(在日韓国・朝鮮人を)なだめる意味があった。政治的配慮があった」と明言したらしい。
5人の裁判官の合意の上で書かれたはずの文章部分について、当時の裁判長でもない一人の裁判官だったはずなのに(裁判長であっても許されないが)あとからその趣旨・意図を解説してみせる、というのは、取材記者による誘導があったかもしれないが、かなり異常だ。
判決理由中で書かれた文章が客観的に社会に残されたすべてであるはずなのに、他の4人に相談することもなく(?)一人で勝手に注釈をつけるのはどうかしているし、その内容も異様だ。
この点では、テレビ中継は見ていないが、産経新聞3/6によると枝野幸男(行政刷新相)が参院予算委員会で語ったという、「政治的配慮に基づいて判決したのは最高裁判事としてあるまじき行為だ」との批判は当たっている。
「その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)という裁判官の職責に抵触していない、「良心」と<政治的>配慮は区別し難い場合もあるから、という反論・釈明は可能かもしれないし、もともと園部逸夫の発言の趣旨が厳密に正確に報道されたのか、という問題もあるかもしれない。
しかし、紙面によるかぎりは、園部逸夫という人が、最高裁裁判官だった者としてふさわしくない発言をしているのは確かだ。
そして、最高裁裁判官になった人ですら、ひいては最高裁判決ですら<政治的>配慮をすることがある、ということを(あらためて?)一般に知らしめた、ということでも興味深い。
園部逸夫の歴史認識には正確でないところがあるようだが、いずれにせよ、朝鮮人・韓国人に対する<贖罪意識>が基礎にあるように推察される。そして、かかる<贖罪意識>は、上に触れた<特殊な世代>のみならず、そのような世代の意識を継承した、またはそのような世代によって教育を受けた、より若い世代にも―裁判官を含む専門法曹の中にも―広く蔓延している、と見られる。
この(中国人に対するものも含む)<贖罪意識>と、日本「国」民ではない多様な文化を背景とする人々との「共生」、<多文化共生社会>を目指そうという一種のイデオロギー-後者は「ナショナルなもの」の無視・否定という戦後の大きな<思潮>に含まれる、またはそこから派生している―が、外国人(地方)参政権付与「運動」の心理的・精神的支柱に他ならないだろう。
二 某神社(神宮)のグッズ販売所(?)のカウンターに、日本会議という団体発行の月刊「日本の息吹」3月号というのが自由にお取り下さいという感じで置かれてあったので、初めて見たこの雑誌(冊子)を持ち帰り、少し読んだ(ひょっとして有料だったのか?)。
百地章が「提唱者も否定した外国人参政権」という一文を寄せている(p.12-13)。
提唱者=長尾一紘も改説して「否定」し、当事者として「主導したと思われる」園部逸夫元裁判官もいわゆる「傍論」を「批判」している、という。
百地章によると、園部逸夫は三年前の某雑誌(日本自治体法務研究9号、2007年)で、「この傍論を重視するのは俗論である」と「批判」したらしい。百地は「園部氏もさすがに傍論が一人歩きしているのはまずいと多少は責任を感じられたのでしょうか」、「となれば…傍論の当事者たる裁判官によっても否定されたことになります」と続けている。
二つの感想が湧く。まず第一に、叙上のとおり、いったん書かれた判決理由がすべてであって、裁判官を退いてから、あとで何らかの修正・限定をしようとしているとすれば、そのような文章を書いた園部逸夫は異様だ。それに、百地引用部分のかぎりでは、「傍論を重視する」、「俗論」の意味がいずれも明瞭ではない。前者は要するに<程度>問題だと思われるし、後者の「俗論」とはいかなる意味の言葉なのかもはっきりしない。傍論は「法の世界から離れた俗論」だと言うならば、また、園部は「主観的な批評に過ぎず…」とも書いているらしいが、このような「傍論」の理解は奇妙だと考えられるし、そもそもそのような「法の世界から離れた俗論」にすぎないとされる「傍論」を含む判決理由の作成に参画し合意したのは園部自身ではないか、という奇怪なことになる。
つぎに、百地章は「したがって部分的許容説はもはや崩壊したも同然です」とまとめているが、ここで「崩壊したも同然」とだけ書かれ、「崩壊した」と断定されていないことに、(少なくとも法的には)注目される必要がある。
百地章も認めるだろうように、平成7年最高裁判決は変更・否定されずにまだ「生きて」いるのだ。
提唱学者が改説し、当事者裁判官の一人がその意味を減じさせようとするかのごとき発言をした、と書いて、あるいは報道して、その<政治的>意味をなくそう(または減じさせよう)とすることに反対するつもりはない。だが、平成7年最高裁判決が法律による参政権付与を許容する「一定の在日外国人」の範囲は同判決の文言に照らして厳密に検討する必要があるとしても、「法的」(あるいは「判例」としての)意味が完全になくならないかぎりは、それはなおも<政治的>意味を完全には失わないだろう。
心ある法学者または憲法研究者がなすべきことは、<傍論>にすぎないとか、提唱者や当事者裁判官も否定・批判(疑問視)しているとかと言い募ることではなく、憲法解釈論としていわゆる「傍論」部分を正面から批判し、判例変更を堂々と主張し要求することではないか、と思われる。
平成7年最高裁判決について、主文に直接につながる部分と「傍論」とは<矛盾>している、と批判する<保守派>の論調もあるようだ(百地章も上の文章の中で「この奇妙で矛盾した傍論」と書いている)。
だが、憲法上は権利として保障(付与)されていないが法律で付与することは違憲ではない(法律で付与しなくても違憲ではない)という論理は一般論としては成り立つものだ。憲法上の「人権」等として保障されていなくとも、法律レベルで具体的権利が付与されている例はいくらでもある。
憲法15条のみの問題として把握するのではなく、国政と地方政治(地方行政)は同一ではないことを持ち出して、憲法92条(「地方自治の本旨」)・93条(「住民」)上のいわば白紙部分を法律で補充することを容認する、という憲法解釈を採用することがまったく不可能とは思えない(そして、そのような旨をいわゆる「傍論」は明言したことになる)。
このことをふまえたうえで、国政と地方政治(地方行政)は同一ではないが、いずれも広義には「国家」の統治作用であり、明瞭に区別することはできない(=地方政治・行政も狭義の「国」政と無関係ではなく、影響を与える)、等々の議論をして、平成7年最高裁判決のいわゆる「傍論」部分を正面から問題視することの方が、よりまっとうでまともな議論の仕方だろう。
遅ればせながらの、かつ傍流(?)的感想として。
- 2007参院選
- L・コワコフスキ
- NHK
- O・ファイジズ
- PHP
- R・パイプス
- カーメネフ
- ケレンスキー
- コミンテルン
- ジノヴィエフ
- スターリン
- ソヴェト
- ソ連
- ソ連解体
- トロツキー
- ドイツ
- ニーチェ
- ネップ
- ヒトラー
- ファシズム
- フランス革命
- ブハーリン
- ボルシェヴィキ
- ポーランド
- マルクス
- マルクス主義
- メンシェヴィキ
- ルソー
- レシェク・コワコフスキ
- レーニン
- ロシア革命
- ワック
- 不破哲三
- 中国
- 中国共産党
- 中川八洋
- 中西輝政
- 丸山真男
- 九条二項
- 佐伯啓思
- 保守
- 全体主義
- 八木秀次
- 共産主義
- 北朝鮮
- 大江健三郎
- 天皇
- 安倍内閣
- 安倍晋三
- 安倍首相
- 小学館
- 小林よしのり
- 小沢一郎
- 屋山太郎
- 岩波
- 左翼
- 慰安婦
- 憲法九条
- 憲法学界
- 憲法改正
- 文藝春秋
- 新潮社
- 日本会議
- 日本共産党
- 日本国憲法
- 月刊WiLL
- 月刊正論
- 朝日新聞
- 桑原聡
- 樋口陽一
- 橋下徹
- 櫻井よしこ
- 民主主義
- 民主党
- 江崎道朗
- 池田信夫
- 渡部昇一
- 産経
- 百地章
- 皇室
- 石原慎太郎
- 社会主義
- 神道
- 立花隆
- 竹内洋
- 自民党
- 自衛隊
- 花田紀凱
- 若宮啓文
- 菅直人
- 西尾幹二
- 西部邁
- 読売
- 諸君!
- 講談社
- 辻村みよ子
- 週刊新潮
- 遠藤浩一
- 阪本昌成
- 鳩山由紀夫