秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

最高経済会議

2874/R.パイプス1990年著—第15章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第五節/工業生産の低下
 (01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
 しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
 ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
 このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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 「I. 全国の大工業生産(脚注1)
  1913 100
  1917 77
  1919 26
  1920 18」
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 「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
  石炭 27.0
  鉄鋼  2.4
  綿糸  5.1
  石油 42.7」
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 「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
  1913 100
  1917 85
  1918 44
  1919 22
  1920 26」
 ----
 「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
  1918 100
  1919 82
  1920 77
  1921 49」
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 (脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
 (脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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 (02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
 この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
 「プロレタリアートとは何だ?
 大規模工業に就労する階級だ。
 そして、どこに大規模工業があるのか?
 どんな種類のプロレタリアートなのか?
 おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
 なぜ、怠惰なのか?」(注96)
 これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
 しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
 ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)
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 (脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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 第六節につづく。

2870/R.パイプス1990年著—第15章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
 (13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
 西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
 ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
 しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
 経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
 1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
 最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
 「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
 数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
 会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
 会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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 (14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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 (15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
 1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
 官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)
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 (脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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 最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
 共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
 「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
 この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
 彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
 彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
 ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
 『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
 このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
 彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
 しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
 上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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 「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
 そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
 原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
 暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
 別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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 (16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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 (17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
 1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
 ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
 トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
 実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
 最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
 シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
 「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
 「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
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 (18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
 かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
 --------
 (19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
 1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
 しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
 しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
 やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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 第四節、終わり。

2869/R.パイプス1990年著—第15章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立②。
 (07) 最高経済会議は、巨大な私的部門がその統制の外に残ったままだったということだけでも、「国民経済と国家財政を組織する」という課題を、部分的にすら実現しなかった。
 供給人民委員部に譲歩しなければならなったので、食糧その他の消費用品を配分するという任務を全うすることもしなかった。
 実際のところ、最高経済会議は、ソヴィエト・ロシアの国有産業を管理する—いや正確には、管理することを試みる—主要な機関になった。換言すると、異なる名前をもつ産業人民委員部だった。
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 (08) ボルシェヴィキは、十月のあとすぐに、企業の国有化を開始した。
 ほとんどの場合、所有者または経営者が「破壊活動(sabotage)」に従事したという理由で、工場施設を剥奪した。
 剥奪したそれらを、ボルシェヴィキは工場委員会に委ねた。
 ときには—従前の臨時政府の地方政府閣僚だったA. I. Konovalov の織物工場について生じたことだが—、政治的復讐を動機として収用が行なわれた。
 国有化された企業の所有者は、補償を受けなかった。
 国有化のこうした任意で無計画の段階が最高に達したのは、1917年12月のPutiov 工場の収用だった。
 ほとんどの収用は、政府の指示によってではなく、地方機関自身の主導でもって行なわれた。—最初は地方ソヴェトによって、のちには最高経済会議の地域支部によって。
 1918年8月に行なわれた調査によれば、国有化された567企業のうち、そして没収された214企業のうち、五分の一だけが直接にモスクワによる指令にもとづいていた(注72)。
 --------
 (09) ロシア産業の体系的な国有化は、1918年1月28日の布令でもって始まった(注73)。
 これを起動させたのは、Lari n だった。
 ベルリンでの通商交渉に出席したLarin は、ドイツの実業家たちはロシアの大企業の支配権を握るつもりだ、と結論づけた。
 ボルシェヴィキは、ブレスト=リトフスク条約で、ソヴィエトの経済諸法の規制から中央諸国の会社を除外することに同意し、それらがロシア領土内で資産をもち、事業活動を行なうことを認めた。
 国有化された資産の所有者には、適正に補償がなされるものとされていた。
 ロシア人がその企業をドイツ人に売却する場合、当該ドイツ人は支配権を握るか補償を受けるかの選択をするのを可能にする、そういう条項があった。
 Lari n はレーニンに、国有化措置を一挙に行なうことだけがドイツがロシアの産業の支配者になるのを阻止することができる、と説得した(注74)。
 レーニンがそうするのを躊躇したとすれば、ドイツの反応を懸念したからだった。多数のボルシェヴィキはそうした措置がドイツとの外交関係に亀裂を生み、反ボルシェヴィキ「十字軍」を形成する刺激になることを怖れていたのだ。
 この恐怖には、結局は根拠がなかった。「不誠実だ」と不満を述べながらも、「[ドイツは]全ての[ロシアの]産業の国有化を黙認し、ロシアに対して宣戦を布告することはなかった」(注75)。
 国有化される資産についてドイツの利害関係者には完全な補償が保証され、連合諸国のそれには否認された、というのがその理由だった。
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 (10) 1918年6月28日の布令は、100万ルーブルの資本をもつか、それ以上を会社か組合が所有している全ての企業と鉄道の国有化を、補償なくして、命じた。
 国有化された事業の施設その他の資産は、国家に移された。
 経営者たちは、厳しい制裁で威嚇されつつ、その地位にとどまるよう命じられた。
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 (11) それ以降、国有化の過程が進行した。
 1920年の秋までに、最高経済会議は、総計200万人の労働者のいる、3万7226企業を、名目上は管轄した。
 国有化された企業の13.9パーセントは1人しか雇用せず、ほとんど半分には機械装備がなかった。
 しかし、実際には、最高経済会議はこれら企業の一部しか管理せず(ある権威によると4547企業)、残りが国有というのは、名前だけにすぎなかった(注76)。
 1920年11月、政府は、ほとんどの中小企業を国有化する追加の布令を発した(注77)。
 1921年の初めに、書類上は、政府は、一人の作業場から巨大な工場まで、ほとんど全ての製造施設を所有し、経営した。
 現実には、一部しか支配せず、管理したのはさらに少なかった(脚注)
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 (脚注) 防衛産業の組織化については、明確でない。1918年8月、最高経済会議は、Krasin の指揮のもとに軍需用品の生産に関する委員会を設立した。この委員会は、拘束力のある軍部からの命令を受け取り、企業へと渡した。やがて、軍需用品の供給の責任は防衛会議(Sovet Obolony)がもつことになった
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 (12) 最高経済会議—かつて「トラストのトラスト」と呼ばれた—は、幹部会によって指揮される、巨大な官僚機構を発展させた。
 それは、垂直に(機能面で)また水平に(領域面で)組織される諸機関へと分割されていた。
 垂直の諸組織は、<glavki>または<tsentry>と呼ばれた。これらは1920年遅くで42を数え、それぞれが産業生産の一分肢に責任をもち、委員会によって指揮された。
 それらは、塗料、塩、紙について各々Glavlak、Glavsol、Glavbum のように、頭文字化された名称をもった(注79)。
 この会議の構造や活動を企画するのに大きな役割を果たしたLari n は、のちに、その発想を外国から得ていたことを承認した。
 「私はドイツの<戦争社会>に注目し、ロシア語に翻訳し、労働者精神を混ぜ、<glavki>の名前で通用させた」(注80)。
 <glavki>に加えて、最高経済会議には、1920年にほとんど1400の、地方支部の網があった(注81)。
 会議の組織図は、幹部会が太陽を、<glavki>、<tsentry>や地方諸機関は惑星とそれらの月を示す、天界図に似ていた(注82)。
 ————
 ③へとつづく。

2867/R.パイプス1990年著—第15章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第四節/最高経済会議の設立①
 (01) すでに記したように、ペテログラードでの権力奪取のあと、レーニンは、ロシアの産業上の資産を収用するつもりでなかった。
 彼には産業経済を運営することの複雑さを単純化し過ぎる強い傾向があったけれども、職業的革命家の党が自分たちだけで産業経済を稼働させるのは不可能だ、ということを理解できる現実主義者だった。
 政治的圧力によって「国家資本主義」という考えを放棄せざるを得なくなったが、彼は、国民経済には中央計画による紀律が必要だ、と考え続けた。
 1918年3月、レーニンは、政府の直面する任務を、つぎのように語った。
 「会計の組織化、大企業の統制、国家経済全体の、億万の人民が単一の計画によって指導されるのを可能にするよう機能する巨大な機構への移行」(注61)
 トロツキーは、同意した。
 「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる。これが意味するのは、調整者—すなわち供給と需要の法則の『自由な』展開—の廃絶だ。
 不可避の結末—すなわち社会の需要への生産の従属—は、原理的には生産の全分野を覆う<統合した経済計画>によって達成しなければならない。」(注62)
 --------
 (02) Larin は、レーニンの依頼に応じて、ロシアの経済を指揮する中央の行政および計画の機関を設立する案を作成した。
 若干の修正のあと、1917年12月2日に、国家経済最高会議(Vysshyi Soviet Narodnogo Khoziaistva, VSNKh)を設置する布令が発布された(注63)。
 1921年に国家計画委員会(Gosplan)と改称されるこの機関は、共産党が政治分野を支配するのと同じ独占的地位を国の経済について(少なくとも理論的には)与えようとするものだった。
 「理論的には」と言うのは、私的な農業部門と大きくかつ増大している物品のブラック市場の存在を考えれば、VSNKh は決してソヴィエト・ロシアの経済を統制することすらできなかったからだ。
 ソヴナルコムの指揮を直接に受けるこの機関の公式の任務は、「国民経済と国家財政を組織する」ことだった。
 基本計画を策定し実施するものとされたが、そのために、生産、配分、金融の全ての分野を国有化し、シンジケート化する権能が与えられた。
 トロツキーによれば、もともとは、供給、農業、輸送、財政、貿易の各人民委員部を、最高経済会議の一部門にすることが意図されていた(注64)。
 この会議はさらに、地方ソヴェトの経済部門について責任をもち、それが存在しない場合は会議の支部を設置するものとされた。
 最高経済会議は、概念上は、社会主義経済の条件であるHilferding の観念での「総合カルテル」に適合しようとするものだった。
 それは実際には、はるかに穏健なものに変わった。
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 (03) レーニンは、会議の指揮をAleksei Rykov に委ねた。この人物について、ある知人は、「温かい心をもつ知識人」、むしろ「古い時代の地方出身の親切な医師」と叙述した。
 別の者は、彼は地方<zemstvo>にいる農学者か統計学者を思い出させる、と書いた(注66)。
 たしかに彼は、ロシアの経済を上から下まで知っている人物でも専門家でもなかった(注67)。
 彼はBonn の農民家庭に生まれ、大まかな教育を受けたあと、レーニンのための職業革命家の仕事をした。
 身なりは貧しく、手入れは行き届かず、小声でゆっくりと話した。このような癖のおかげで、力強いとの評判を得た。
 しかし、のちに判ったように、彼は決定が要求されるときに全く無力だった。
 そのような行政的才能の欠如によって、始めるのが困難で全く不可能な仕事が、彼に任された。
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 (04) 最高経済会議の背後にいる真の実力者—「ロシア経済のSaint-Just」—は、Iurii Larin だった。
 専門家にすらほとんど知られていないが、この半身が麻痺していてつねに痛みを感じていた人物は、独特の歴史的業績の評価を要求できる資格があった。たしかに、30年という信じ難く短い期間に大国の国家経済を破綻させた、と他の誰も主張できなかった。
 Larin は、レーニンに大きな影響を与えた。レーニンは、その独裁の最初の2年半のあいだ、他のどの経済助言者に対してよりも、彼の語ることに注意深く耳を傾けた。
 Larin は、困難な諸問題についての迅速で急進的な解決方策を、つねに用意していた。そのことで、経済の「魔術師」との評価を得た。
 Metropole ホテルの高級室にある彼の事務所は、きわめて狂信的な経済構想をもつロシア人たちにとって、巡礼の聖地だった。
 そうした構想はいずれも鼻にもかけずに却下されることはなく、多くは真摯に検討され、いくつかは採用された。
 レーニンが彼の助言に幻滅を感じるようになり、最高経済会議の幹部会から追放したのは、ようやく1920年の初めだった。
 そのときまでLarin は、その考え方と人柄によって最高経済会議を支配した(脚注)
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 (脚注) Lenin, Khronika, XIII, p. 243, p. 267. この時期の経済計画家のほとんどはスターリンと衝突し、射殺された。だが、小児麻痺の犠牲者のLari n は、幸運にも1932年まで生き、自然死を遂げた。
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 (05) Larin は1882年にクリミアで、ユダヤの知識人家庭にMichael Aleksandrovich として生まれた。そして、自ら「反目的雰囲気」と称したものの中で少年期を過ごした(注68)。
 18歳の年に、ある急進的組織に加入した。そのときから、典型的なロシアの革命家の人生を歩み、地下活動、違法な労働組合の組織、監獄か流刑地での服役のあいだを繰り返した。
 政治的には、メンシェヴィキの側にいた。
 高等教育を受けなかった。経済に関する知識は、新聞、多量の雑誌、小冊子を読むことで獲得した。
 戦争中に報道記者になり、Stockholm からリベラルな新聞の<Russkie Vedomosti>のために、ドイツの国内発展に関する報告を提出した。
 革命後に書籍としてまとめられた、彼のよく読まれた論考類は、ドイツの「戦争社会主義」に魅惑されていたことを示していた(注69)。
 1917年の春にペテログラード・ソヴェトで働き、同年9月に、ボルシェヴィキへと移った。
 ボルシェヴィキ独裁の最初の数ヶ月、彼は、多数の重要な布令の草案を作成し、ときには布令を発した。
 ソヴィエト・ロシアが最高経済会議を設立し、経済計画の策定を始め、外国債務をデフォルトにし、産業を国有化し、実際的諸目的がありつつ、通貨を廃止したのは、大部分はLarin に依っていた。
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 (06) 最高経済会議は、知識人たち、主としてメンシェヴィキや独立派の専門家を魅きつけた。政治的帰属を問わない仕事を提供し、体制反対者にも自分たちは人民に役立っているという感覚をもつのを許したからだ。
 最高経済会議はすぐに、官僚制的ヒドラへと膨大化した。モスクワの、かつては二級のホテルが位置したMiasnitskaia 通りの大きなビルに本部があった。その専門家たちは、全国へと広がった。
 設立から10ヶ月後(1918年9月)、6000人の職員を雇用していた。彼らには、一日あたり20万ルーブルが俸給として支払われた(注71)。
 この職員数と給与総額は、過大ではなかっただろう。かりに、最高経済会議が、企図されたこと—すなわち国家の経済の指揮—を行なっていたならば。
 しかし、現実には主として、誰も注意を払わない布令を発することや、誰も必要としない官僚制的機関を形成することに専念した。
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 ②へとつづく。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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