Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
——
第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
(05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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(脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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(06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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(脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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(07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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(08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。
スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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(09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120)
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(10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。
のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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後注。
(110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
(111) Ibid.
(112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
(113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
(114) LS, XXIII, p.228.
(115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
(116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
(117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
(118) Pethybridge, One Steo, p.155.
(119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
(120) Ibid., delo 270.
(121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
(122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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第9章第四節、終わり。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
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第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
(05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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(脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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(06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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(脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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(07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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(08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。
スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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(09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120)
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(10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。
のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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後注。
(110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
(111) Ibid.
(112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
(113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
(114) LS, XXIII, p.228.
(115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
(116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
(117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
(118) Pethybridge, One Steo, p.155.
(119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
(120) Ibid., delo 270.
(121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
(122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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第9章第四節、終わり。