秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

明治天皇

2153/明治維新考⑤-2020年の日本史学界の新著。

 小林和幸編・明治史研究の最前線(筑摩書房、2020)。
 上のうち、久住真也「第一章/維新史研究-幕末を中心に-」。
 興味深いことがいくつか書かれている。
 1989年に大学に入学した執筆者(1970~)によると、マルクス主義に関する知見がないとかつての研究は「簡単に理解できない」。その点で、彼よりも「20年ほど年配の研究者」との間には「理解の程度に大きな差がある」と実感する、という。
 久住によると、マルクス主義的明治維新観の代表は遠山茂樹・明治維新(1951)で、幕政改革派→尊皇攘夷派→倒幕派→維新官僚という政治勢力の系譜をたどるのを特徴とする。だが、「維新の政治主体」に着目した研究傾向はやがて下火になり、1989年以降の「マルクス主義の権威低下」とともに「唯物史観」による研究も低調になり、1980年代後半には「明治維新=絶対主義の成立」という見方は「効力を失」った。p.17ー18。
 日本史学=マルクス主義という<偏見>はなおあるが、安心してよいかもしれない。だがむろん、マルクス主義・「唯物史観」でなければよい、というわけでもない。
 驚くべきであるのは、幕末・維新の政治過程に関するかつての通説?が、今やそうではない、または必ずしもそうでない、といういくつかの指摘だ。例えば、以下。
 ①王政復古クーデタ(1967年12月)は、「徳川慶喜=幕府の打倒を目指したものではない」
 ②「王政復古で成立した政府」は、鳥羽・伏見戦争(1968年1月勃発)以後の政府と違って、「天皇よりも『公儀』(諸藩代表者の意見)原理が優位に立つ政府」で、「天皇親政は成立していない」。以上、p.26。
 ③坂本龍馬斡旋という薩長盟約(1966年3月)は「倒幕の軍事同盟」ではなく、同盟の打倒対象は<一会桑>だった。p.28ー29。
 その他いろいろと興味深い論点は多いが、<薩摩>は一貫して倒幕派ではなかった旨の指摘(p.25)は秋月もその通りだと感じる。第一次長州戦争で長州を敵としていたのは、薩摩だ。
 「明治の元勲」に一部はなっていった志士個人ではなく、政治主体としては「藩」(=「国家」)に着目する必要がある、とするのも、素人ながら同感する。
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 今さらながら、現に生起したことから「過去」を説明または解釈する、ということの誤謬を考える。また、戦後の「左」も「右」も、それらの単純な明治維新イメージには、共通するところがある。
 さらに、現実に起きた具体的「明治維新」は、いかほどに後期水戸学・藤田幽谷の<思想>と「つながる」のかどうか。

2120/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13②。

 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
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 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。

  前回に記した少なくともかつての泉涌寺と天皇・皇室との深いつながりを、すでに取り上げたつぎの新書から確認しておこう。結論的に、同じことが書かれている。
 かつて「天皇家自体が非常に熱心な仏教徒」で、「国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇…、聖徳太子であった…」等と述べたあと、泉涌寺につき、こう書かれる。別に触れる予定の事項を除く。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)。p.231-。
 ・「1242年、四条天皇が12歳の若さで崩御」した際に「泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺〔みてら〕』と呼ばれるようになった」。
 ・「さらに、南北朝時代の1374年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬された」のを始まりとして「9代続けて天皇の火葬所となった」。
 ・「江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている」。
 ・泉涌寺にある「天皇の墓は九重の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)が祀られている」。
  さらに上掲書には、こう書かれている。近くに御陵があるというだけではない。
 ・「泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる」。
 ・「各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」。
 ここにいう「歴代天皇」とは全ての天皇ではなく、位牌=尊牌のある天皇の意味で、天武系=持統系の称徳・孝謙天皇までを含まないと思われるが、それ以降は全てとされる。位牌の存在理由も含めて、ここでは立ち入らない。
 泉涌寺の作成にかかる小冊子には、つぎのように毎「朝夕」について書かかれている。
 「今も毎日御回向が行われている」。p.10。
 毎朝夕かどうかの明記はないが、「毎日」だ。その旨は、初めてこの寺を訪問したときに聞いて、驚いた記憶がある。
 さらに、同小冊子は、「御月並」=毎月の特定の日の「法要」について、こう書く。p.31。
 位牌のある天皇と同列以上の特別の扱いがなされている。
 ・毎月7日/昭和天皇、同10日/昭憲皇太后〔明治天皇皇后-秋月注〕、同16日/香淳皇后、同17日/四条天皇・貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同25日/大正天皇、同29日/明治天皇。
 また、毎年の「御例祭」の「法要」が、つぎの天皇・皇后について行われるとされる。
 ・毎年1月7日/昭和天皇、同1月11日/英照皇太后〔孝明天皇妃〕、同5月17日/貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同6月16日/香淳皇后、同7月29日/明治天皇、同12月25日/大正天皇。
 これら「法要」が霊明殿で行われるのか、仏殿でなのかはよく分からない。
 しかし、<仏教式>のものであることは言うまでもないだろう。
 ついでに、つぎによって、これまで記したことの一部を補足しておく。
 芳賀徹「御寺の風格」上村貞郎=芳賀徹監修・泉涌寺/新版・古寺巡礼京都27(淡交社、2008年)所収。
 ・「…、まことに皇室の菩提所、『御寺』と呼ばれるふさわしい、荘重で、しかも清明に気配に満ちた境内なのである」。-p.8。
 ・「…、明治維新以降、泉涌寺が受けた打撃は大きかった。…天皇家の遠忌法要も葬儀も神式となって、泉涌寺では行われなくなったからである。その上に明治4年(1871年)には寺社領の上知(没収)令が出されて、…20数万坪の土地を約4万坪に減らされたという。…少なくともいったんは官有地となった。」-p.14。
 ・明治天皇、大正天皇の例に倣って、「昭和天皇も御在位の間にいくたびか皇后陛下とともに泉涌寺においでになり、御陵と霊明殿に参拝なさったという」。-p.15。
 ・「いま平成の天皇と美智子様も御上洛の折にはよく泉涌寺にお立ち寄りになり、御先祖の霊に参拝しておられるらしい」。-p.16。
  仏教様式での回向・法要のほか、興味深いのは、御陵・陵墓の「向き」と泉涌寺の建造物の位置関係だ。
 上の古寺巡礼京都27(2008)に末尾にこれがかなり明確になる地図があるが、寺院境内や御陵であることによるのだろう、一般的な地図やネット上の地図(例、google map)では空白が多い。
 下は、ネット上にある、泉涌寺・月輪陵・孝明天皇陵=後月輪東山陵の位置関係を示す古い図面(左)または写真(右)。左は上が「北」、右は上が「東」。
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 専門的にまたは学問的に神社・寺院の「向き」というのが本当にあるのかどうかは知らない。しかし、寺院の場合は本尊たる仏像の顔の「向き」、あるいは参拝する方向とは反対の方向が「向き」だと言えるだろう(但し、本尊仏像がない寺院もある。京都・永観堂の「みかえり」阿弥陀如来像のように顔と身体部分が一致していない稀な仏像もある)。
 「南」向きが多いようでもあるが(とくに神社の場合)、南向きが「通常」または「原則」とは言えないだろう。「北向」や「東向」が現在の寺院名の一部にされている場合もあるし東西本願寺(京都市)・法然院(同)や浄瑠璃寺(京都府木津川市)の本堂に当たるもの(および本尊仏像)は「東」向きで、「西方」(西方浄土?)を向いて参拝する。但し、浄土真宗を含めて、全ての寺院が「東」向きではもちろんない(例、三重県津市・高田専修寺)。
 泉涌寺の場合、やや西北方向に傾いているが、仏殿(本堂に当たると見られる)・舎利殿は「西」向きだ。仏殿・舎利殿とほとんど同じ中心線上に「勅使門」があり、その南に「霊明殿」自体の門と見られる<唐門>・空地・「霊明殿」がある(左の地図の左端半ば辺りの舎利殿の右下)。
 この霊明殿と月輪陵・後月輪陵との位置関係は現地では必ずしもよく分からなかったが、上左の地図が示すように、唐門・霊明殿の中心線が御陵の入口の門および陵区画の中心線と重なってはいないとしても、霊明殿で「東」向きで回向・法要する僧侶・参拝者等方向は、月輪陵・後月輪陵の区画の一部を間違いなく向いている。全体として、御陵と向かい合っている、と言ってよい。
 これは何を意味するのか。
 霊明殿で回向・法要のために読経し瞑目する等々の人々は、諸天皇の位牌のみならず、月輪陵・後月輪陵の各陵墓に対してもまた向き合っているのだ。陵の門を入って間近に各陵墓に参拝する場合もむろんあるのだろうが、陵墓参拝は(まとめて?)泉涌寺の一部である霊明殿でも行うことができる、ということなのではないかと思われる。
 このことは、孝明天皇までの天皇陵等については、「みてら」として当然のことだったのかもしれない。
 しかし、現在でも毎日霊明殿で、仏僧によって回向が行われている、ということは相当に興味深いだろう。また、諸法要が霊明殿ではなく仏殿で行われているとしても、その方向は上の御陵の陵墓の方向を向いている。
 なお、霊明殿の北に「本坊」とされる建物があり、現在観覧することのできる部分の区画または各部屋は、全て、天皇・皇族およびこれらの付き添い者の用に供されていたものだ。「玉座」とされている部屋もあって、「本坊」の東南にある小ぶりの庭園に向かって「南」面しており、その中心線は、霊明殿の東端またはそれと御陵との間の空地を走っている(陵の方を向いていない)。
 上の二つの地図・写真で気づいたが、一般には見ることのできない月輪陵・後月輪陵の各陵墓は、霊明殿・仏殿等がやや西北に傾いて「西」向きであるのに対して、「真西」を向いているようでもある。これは意識的で、「真西」を向かせるという明確な理由があるのではなかろうか。
  孝明天皇陵・英照皇太后陵(後月輪東山陵・後月輪東北陵)へは一般にはこの二つに共通の門の近く(上の右の写真の「孝明天皇陵前広場」)までしか行けない。
 だが、ネット上の写真等を見ていると、興味深いことに気づく。
 第一に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、「西」を向いておらず、「南」向きであるようだ。
 第二に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、<仏教式>ではない。何重かの「円墳」のようなかたちをしている。上の左の地図およびつぎのネット上の写真を参照。下の写真は上が「北」。左下が月輪陵の一部。
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  英照皇太后陵ではなく孝明天皇陵は明治改元(遡及)前の1867年に造られている可能性はあるが、明治天皇即位後であることは間違いない。そして、孝明天皇陵の造営については、明治新政権の幹部・神官たちの意向が相当に働いたのではないか。
 以下は、全くの素人の推測だ。 
 孝明天皇は明治天皇の実父の先代天皇、英照皇太后は中山慶子が実母であるところ形式上だげは「母」とされた人物。明治天皇を中心とする新しい時代を築こうとする新政権中枢は、この二人の陵墓を粗末・質素なものでなく大きなものにしようとした。
 しかし、場所は江戸時代の長い伝統・慣例によって泉涌寺付近としたが、光格(1840没)、仁孝(1846没)の両天皇とも違う区画を選び、かつ、すでに<仏教式>でないものにすることとした。したがって、第一に九重石塔を用いず、第二に泉涌寺の霊明殿の方向を向かせないことにした。
 仏教によるという伝統からの切断、泉涌寺からの分離が、すでに試みられているように見える。
 図説天皇陵(新人物往来社、2003)は孝明天皇の陵墓を「円丘」だと記す。
 一方で、月輪陵・後月輪陵にある天皇陵墓は「九重塔」だと明記している。
 九重石塔は陵墓の飾りの一種かと思っていたが、陵墓の方式・様式そのものだと理解されている。そのような、江戸時代、御水尾から仁孝までの天皇の各陵墓とは、明瞭な違いをあえて示しているのが、孝明天皇(・英照皇太后)の陵墓だ。
 この①「円丘」、②南向き、ということが<神道式>だといえるかどうかは分からない。古代の前方後円墳は<神道式>なのか、天武・持統合葬陵は<神道式>なのか、といった問題設定はほとんどなされてきていないだろう。
 いずれにせよ、しかし、明治天皇の即位後の新しい時代に、先帝・孝明天皇の陵墓についてもまた江戸幕府時代の「伝統」に従わない、「新しい」様式によることが決断された、と言えそうだ。
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 この機会に、<十三重石塔>も、二つだけ例示しておく。
 下は順に、清水寺(京都)、法住寺(同)。

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1766/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑦。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)-①。
 この本は秋月瑛二にある種の大きな「諦念」と「決意」を裡に抱かせたものなので、全体を読むに値しない本だとは思いつつ、もう少しコメントを続けよう。
 江崎道朗は、昨年に上に続いてつぎの本もある。
 ②江崎・日本は誰と戦ったのか(KKベストセラーズ 、2017.11)
 前者には末尾に参考文献のリストはないが、後者は末尾にじつに多数の文献を列挙している。
 その中には、前者①で当然に参考文献として明示されていても不思議ではない、(もとは月刊正論(産経)に連載されていたはずの)福井義高・日本人が知らない最先端の「世界史」(祥伝社、2016)も挙げられている。
 この福井著は「第5章/『コミンテルンの陰謀』は存在したか」を含む。そして江崎の①よりもはるかにこの主題をよく知っていて興味深いのだが、江崎の①はこれを完全に無視している、と言ってよい。
 後者②で名前だけ(?)列挙しつつ、じつはきちんと読んでいないのではないかと推測されるのは、この福井著以外にも多数ある(なお、福井義高は上掲書の続編の「2」も昨年に出版している)。 
 また、後者の参考文献リストを見て不思議に思ったのは、http//: 等々のいわゆる電子情報の所在を記したものが、少なくなくあったことだ。ウェブ上の関係情報も自分(江崎)は見ているぞ、ということなのだろう。
 しかし、江崎道朗がウェプまたはネット上の関係電子情報を少なくともきちんと読んでいるのかは、全く疑わしい。
 なぜなら、昨年の夏の上の①では、コミンテルンの「謀略」をテーマの重要な一つにしながら、レーニン全集やスターリン全集等々のとっくに邦訳書がある中で、レーニンやスターリン等のコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会や同執行委員会での報告・演説にすら全く目を通していないことが、ほとんど明瞭なのだ。
 したがってむろん、福井・上掲著p.93-96のレーニン全集からの引用部分など、「共産主義」と日本の間に密接に関係しているにもかかわらず、江崎は知らないことになる。
 江崎道朗の仕事のキー・パーソンは、山内智恵子という人物かもしれない。
 この人名は前者①の「はじめに」に世話・支援への感謝の対象として出てくる。
 一方、この山内智恵子という名は、後者②ではいわゆる「奥付け」の中に「構成・翻訳」として記載されている。
 推測されるのは、後者②で列挙されている多数の(少なくとも)英語文献はすべてこの山内が翻訳したものであって、その邦訳文書を江崎は見たかもしれないが自分自身は直接に原書を読んでいないこと、そして上に言及した)http//: 等々のいわゆる電子情報は全て山内が気づいたものであって、おそらくは翻訳メモ類を見る以外には、江崎道朗は何ら関与していない、ということだ。
 それに、「構成」とはいったい何のことだろう。江崎道朗は、章や節の組み立て自体も山内智恵子に任せているのではないか。
 そしてまた推測するに、後者②は、特定の一つまたは二つの(邦訳書がない)英米語文献を-櫻井よしこがしばしばするように-「下敷き」にして、自分の文章のごとく<巧く>まとめたものだろう。
 江崎道朗は、いったいどんな自分の本の出版の仕方をしているのだろう。
 出版不況とか言われている中で、<悪書は良書を駆逐する>(これはどこか違ったかもしれない)。
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 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08) 
 この本が決定的に間違っていて、全体としては<政治的プロパガンダ>=政治宣伝のアジ・ビラにすぎない点は、聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法という単直な流れを「保守自由主義」なるもので捉え、かつ明治天皇と昭和天皇をこの流れの上に置いていることだ。
 上にすでに、少なくとも三つの論点が提示されている。
 ①聖徳太子の十七条の憲法-五箇条の御誓文-大日本帝国憲法、とつなぐのは適切か、いかなる意味で適切か。平安、鎌倉、江戸等々の時代には何もなかったのか。
 ②「保守自由主義」と理解するのは適切か。そして、そもそも「保守自由主義」とは何か。
 ③上の中心?線上に明治天皇・昭和天皇を位置づけるのは適切か。いかなる意味でそうなのか。これは、明治天皇と昭和天皇を本来は分けて検討する必要もある。
 江崎道朗のこの本が提起している論点は、こんなものだけではない。
 基本的な論点になるが、江崎は「保守自由主義」を「左翼」と「右翼」の「全体主義」とは別のものとして位置づける。
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 回を改めるが、じつにいいかげんなことに、江崎道朗は、「保守自由主義」、「左翼全体主義」、「右翼全体主義」そして「左翼」・「右翼」および「全体主義」のきちんとした定義、理解の仕方をほとんど示していない
 決定的な、致命的な大欠陥だ。文学部出身者らしく?、イメージ・ムード・雰囲気・情緒だけで書いているのだ。 ほとんど<むちゃくちゃ>な本だと言える。
 次回以降により丁寧には書くが、また、例えば、「共産主義」と「社会民主主義」には最初の方で意味の説明をいちおうはしつつ、のちに急に「社会主義」という言葉を登場させるが、「社会主義」という語の解説はない。
 なぜこんな不思議な、奇妙キテレツの本が、新書として販売されているのだろう。
 江崎道朗が参照する文献のきわめて少ないことおよび「左翼」文献があること、これらによってレーニンまたは共産主義・社会主義に関する記述がきわめて「甘い」、「融和的」なものになっていることは別に触れる。

1452/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のB。

 ○広く日本史について素人としての関心はある。明治維新とか明治憲法とか明治の「元勲」たちということになると、かつて、ソウル・南山の西側中腹あたりにあった、安重根記念館を訪れたことを思い出す(タクシーで一人で行き、帰りはソウル駅近くまで歩いて降りた)。
 安重根は伊藤博文射殺犯で(1909年)、若き「愛国」テロリストふうかと想像していたが、記念館での展示物を見ていて、教育者であり知識人の一人だったと知った(筆字も達筆だ)。
 おそらくそのときか、日本への帰国直後だが、安重根は伊藤に対する「斬奸状」(にあたるもの)を書いていて、その中に、日本の天皇を弑虐した「罪」を挙げていたことも知った。それは、伊藤が、当時の天皇(明治天皇)の「ご父君」、つまり孝明天皇を殺害した、というものだった。
 朝鮮の人からすれば伊藤という「元勲」と日本の天皇・皇室との関係など本来は関心はないはずだが(日本の天皇のことを気にかける必要はないはずだが)、と思ったりしたが、それ以上の追究は当時はしなかった。しかし、伊藤博文と天皇殺害という関連だけでも、印象に残りつづけたのは確かだ。
 ○あらためて近年に読書渉猟をしていると、孝明天皇は皇女和宮の兄で明治天皇の父親・先代(これらはかつての知識の中にあったと思う)、そしてその当時は傍流だった光格天皇の孫。幕末の天皇で、明治改元直前に死亡していることが確認できる。
 そして、これが上の安重根にも関連するが、孝明天皇の(突然の発症による)死には、徳川幕府に対抗する薩長一派側の意向が働いており、孝明天皇の(その時点で)対幕府融和的な姿勢(「公武合体」方針)を「邪魔」・「有害」だと判断した者たちが、最終的には(直接に手をかけた訳ではむろんないが)朝廷内に関係者がいた岩倉具視が、天皇殺害を命令した、という<噂>があったらしい。
 <噂>がそれらしく思われていたらしいことは、上の安重根の記憶又は認識でも明らかだろう。岩倉具視であれば、まだ若い伊藤(周旋屋だともされた)は明治維新前はさほどの接触はなかっおたかもしれないが、のちに何かを知った可能性はないではない。伊藤から見ればとんだヌレギヌかもしれないのだが、朝鮮半島の人までその少なくとも<噂>を知っていたというのは、驚きの事実だろう。
 一番最近に見たからこそ記せるが、歴史小説を三つ集めた松浦行真・激流百年(サンケイ新聞社、1969)の中の一篇「洛北の虹・岩倉具視」の最後・末尾には、あくまで歴史小説だが、つぎの趣旨の文章がある。
 明治天皇が危篤の岩倉具視を慌てて見舞った、その岩倉の国葬への参列公家衆の一部から、「お上(明治帝)は親のかたきの死に目を見にゆかれた」という「ささやきが聞かれた」。「あの孝明帝の死にまつわるくらい風貌…」。
p.174。
 他にも、歴史小説家・中村彰彦の、学者を超えるかもしれない<推理>(岩倉による暗殺の肯定の方向。小説ではない)を読み終えている。
 ○ところで、光格天皇は(本流の皇嗣ではなかったためもあってか)天皇・皇室・朝廷の「権威」の回復に努めた江戸期には珍しい人物であるらしい。
 櫻井よしこもまた、立派な天皇(の一人)だった旨を、とくに記している。すなわち、同・週刊新潮2017年2/9号のコラム欄は、全体を光格天皇を讃える内容で埋めている。引用はしない。今のところ生前譲位の最後の天皇らしいことと関連させて、皇室改革をし、天皇の権威=「皇威」を高めようとする「強い皇統意識」のもち主だった、という。
 ここでただちに疑問が生じる。孝明天皇は光格天皇の直系の孫で、櫻井よしこが<明治天皇を「中心にして」近代明治日本を建国した>、と褒め称える明治天皇の実の父親だ。
 なお、この「明治天皇を中心にして」という部分は、櫻井よしこ・日本の息吹2017年2月号(日本会議)の文章の中で使われているはずだ。
 そしてまた、孝明天皇は、天皇にしてはきわめて珍しく、武家政権(徳川・江戸幕府)に対してモノを言い、反抗もしている。
 条約(対米通商条約)締結には「勅許」が必要だと、主張したのだ。外交権の行使に天皇の同意がいるとすれば(形式的・儀礼的ならばともかく)、これは立派な「権力」(の一部)に他ならない。もはや「権威」なるものを超えすらしている。
 いや、これ自体が当時の朝廷内の<反幕府>一派が誘導した可能性はあるが、しかし、孝明天皇はどうやら個人としても<攘夷>を(少なくとも当初は)貫きたかったかに見える。
 変節が著しいともいえる薩長一派は、最初は<尊皇攘夷>を掲げて、<開国>方針の徳川・江戸幕府側(例えば井伊直弼)をイジメていたのだ。その返礼として、吉田松陰はタイミングが悪くて刑死になってもいる。この当時は、孝明天皇も<邪魔>ではなかったに違いない。
 孝明天皇とは、じつに、天皇の「権威」を体現しようとした人物だったのではないか。践祚の際に16歳だった明治天皇よりもはるかに、またその後の明治天皇と比べても、<意思>・<肉声>らしきものが感じられる。
 しかるに、櫻井よしこが、光格天皇と明治天皇に皇室の権威という観点から肯定的に言及はしても、孝明天皇に同様の趣旨で触れないのはなぜか。同様の趣旨で肯定的に評価しようとしないのはなぜか。
 櫻井よしこは、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)に依拠して、上の週刊新潮で多くのことを引用、紹介している。
 藤田覚の上の著は、しかし、孝明天皇についても多く触れている。半分ほどは孝明についての書物だ。
 そして藤田は冒頭で、つぎのようにも述べて導入している。
 「なかでも孝明天皇は、…国家の岐路に立ったとき、頑固なまでに通商条約に反対し、尊皇攘夷を主張しつづけた。それにより、尊皇攘夷、民族意識の膨大なエネルギー、を吸収し、政治的カリスマとなった」。p.9。
 櫻井よしこがとくに取り上げた光格天皇との関係についても、冒頭部で、つぎのように書く。
 光格天皇の「皇統意識、君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それをバックボーンとして開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに…鎖国攘夷を主張した」。p.11。
 ちなみに、藤田作だという冒頭の川柳は、ゴロがよいように秋月が少し変えると、以下のようになる。
 <光格がこね、孝明がつきし王政餅、食らうは明治大天皇>。p.9参照。
 かくのごとく、櫻井が依拠し引用している藤田覚著には、たっぷりと孝明天皇も登場するのだ。
 そして、櫻井は、同・週刊新潮の2/16号では、藤田著等によりつつ、孝明天皇に論及している。
 しかし、その扱いは、光格の場合とまるで異なる。<皇威>という観点から孝明天皇を肯定的に紹介する論調では全くない。
 もう一度書こう。櫻井よしこが、光格天皇や明治天皇に皇室の権威を高めたという観点から肯定的に言及しながら、孝明天皇についてはその点はいっさい無視して、称賛していないのはなぜか。孝明天皇も、まさに<皇威>を実際に高めた立派な人物だったとなぜ肯定的に評価しないのか。
 結論は、はっきりしている。
 <薩長史観>を前提とした、戦前に主流の<史観>を持っているからだろう。
 光格はともかく、孝明天皇は、明治新政府登場までに亡くなった、薩長側に対する<敗者>の側の天皇だったのだ。
 歴史は勝者が作る、あるいは描く、ともいう。現在の日本で主流の<史観>も、戦争勝利者であるアメリカらの「連合国」が形成した、とおそらく言えるだろう(「東京裁判史観」という、渡部昇一が好んで用いているらしき概念は、狭すぎる)。
 戦後主流の<史観>を持ちたくないからといって、-「皇国史観」と言ってしまうのは語弊があるかもしれないが、-戦前の日本にあった<薩長中心史観>、つまり明治維新・開国・近代日本の建設をほとんど全面的に<良かった>ものと理解する史観に立つのは、既述のように、たんなる<裏返し>にすぎず、歴史を冷静には見ていない、と考えられる。
 要するに、櫻井よしこの歴史観・歴史認識も、最近の文章ではかなりの程度、「観念」論であり、「政治的」色彩を帯びているのだ。そしてまた、櫻井よしこの天皇譲位反対論も、この「政治的」・「観念的」歴史観に多分に依拠している、と言えるだろう。
 櫻井よしこのような歴史家・歴史研究者ではない者が(私・秋月ごときがこうした欄で何を書いても許されるかもしれないが)、活字となって広く読まれる可能性がある文章の中で、単純すぎる「政治的」・「観念」論を表明しないでいただきたい。読者は、櫻井よしこらが書いていないこと、言及していないことに、むしろ注目する必要がある。
 週刊新潮での櫻井よしこには、同じ趣旨でたぶんもう一回触れる。

0649/天皇・皇室と伊勢神宮をあらためて考える-たぶん・その1。

 一 ある本(冊子)を読んで、神宮(=伊勢神宮)に関して又は当地を奉参されて天皇陛下がお詠みになった歌のいくつかを知り、いささかの感動を覚えた。他にもメモしておきたい事項を多く含む本(冊子)だが、まずは、天皇陛下御製を紹介しておく。<左翼>や神宮(=伊勢神宮)参拝の経験のない人には何の感慨も湧かないかもしれないのだが。
 明治天皇
 「とこしへに民やすかれといのるなるわが世をまもれ伊勢の大神」
 明治天皇(日ロ戦争勝利後のポーツマス条約締結後、1905年)
 「久方のあめにのぼれるここちしていすずの宮にまゐるけふかな」
 大正天皇(皇太子時代のご結婚の報告の際、漢詩、1901年)
 「納妃祇告げて神宮を謁す/一路車を馳す雨後の風
 継述敢て忘れんや天祖の勅/但菲徳を漸ぢ窮り無し」(訓みは木下彪)
 昭和天皇(1980年5月、三重県での全国植樹祭の前)
 「五月晴内外の宮にいのりけり人びとのさちと世のたひらぎを」
 昭和天皇
 「わが庭の初穂ささげて来む年のみのりいのりつ五十鈴の宮に」
 今上天皇(皇太子時代、ご結婚報告の際)
 「木にかげる参道を来て垣内なり新しき宮に朝日かがやく」
 今上天皇(1993年の式年遷宮の翌春、1994年=平成6年)
 「白石を踏み進みゆく我が前に光に映えて新宮は立つ」(以上、p.42-44)
 二 この本(冊子)によると、天皇の神宮(伊勢神宮)ご親拝の回数は次のとおり。
 明治天皇-3、大正天皇-5(うち皇太子時代4)、昭和天皇-11(別に皇太子時代に7回)、今上陛下-3(別に皇太子時代に8回)。
 皇后の、天皇とご一緒ではないお一人でのご参拝の場合を含む回数(皇太子妃時代を含む)
 昭憲皇太后(明治天皇妃)-1、貞明皇后(大正天皇妃)-4、香淳皇后-8、美智子皇后陛下-8(以上、p.41-42)。
 三 ある本(冊子)とは、大原康男・戦後の神宮と国民奉賛(伊勢神宮崇敬会〔叢書10〕、2005年11月、400円)だ。本文、計54頁。
 伊勢神宮や天皇とは直接の関係はないが、いわゆる<村山談話>の「空虚」性、それが公的にも絶対的なものではないことは、大原康男産経新聞12/16の「正論」欄の文章がとりあえずは最もしっかりと書いていたように思う。
 四 上につづける。月刊正論2月号(産経新聞社)の安倍晋三=山谷えり子対談の中で安倍晋三は、①「侵略」概念を使った最初の首相は細川護煕、②その次の首相の<村山談話>以降、これを継承するかが(マスコミの)「踏み絵」になった。③換わる<安倍談話>を出そうとしたが、(橋本首相→小渕首相の)1998年の日中共同宣言でいわゆる「村山談話」の「遵守」を明記していることを知り、一方的に破棄できにくくなった。④国会では「継承」を表明しつつ、<政治は歴史認識を確定できない。歴史分析は歴史家の役割だ>と答弁し、野党から実質的には「継承」でないとの批判を受けた、といった苦労?話を述べている。日中共同宣言における<村山談話>(正式名称はもっと長い)の「遵守」という文言は、外務省の官僚が下準備をし、無神経になっている当時の内閣(・総理大臣)が無意識に・無自覚に了承したのではないか。
 散漫になったが、今回は以上。

0468/1945~1947年の神社と昭和天皇。

 先の大戦終了後、GHQによる占領開始期の神社(とくに伊勢の神宮)と天皇(・皇室)の関係やそれに関するそれぞれの対応・行動は現在の日本人に広くは知られていない。
 1.敗戦前において、ということは明治維新以降の所謂<国家神道>の時代だが、神道は「宗教」とは考えられていなかった。戦前に<宗教団体法>という名の法律があったが、「教派神道」と言われたものを除く神道(およびその関係機構)はこの法律の規制対象ではなかった。
 この宗教団体法は1945年12月28日に廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・即日施行された。
 2.その約二週間前の12/15に発せられたのがGHQの「神道指令」。その第一項は「伊勢の大廟に関して宗教的式典の指令、ならびに官国幣社その他の神社に関しての宗教的式典の指令はこれを撤廃すること。」だった。GHQは神道も「宗教」と見なし、(日本)国が伊勢の神宮等の神社による式典挙行の指示を出すことを禁じた。
 以上の二点はほとんど、千田稔・伊勢神宮―東アジアのアマテラス(中公新書、2005)p.203-4による。この著の表現によると、「神道指令」により、「…軍国主義、…過激なる国家主義的宣伝」のための再利用の「防止」を目的として「GHQは国家と神道の結びつきを断ち切った」(p.204)。
 3.この「神道指令」が発せられる約1カ月前、したがって神道(と神社)が制度上もまだ「国家」と不可分だった時期の最後に、天皇(昭和天皇)は(伊勢)神宮等を行幸・巡幸された。
 細かく書けば、11/12-皇居出発・神宮内宮「行在所」泊、11/13-外宮(豊受大神宮)・内宮(皇大神宮)参拝、京都・大宮御所泊、11/14-奈良・神武天皇陵(畝傍御陵)参拝、京都・桃山の明治天皇陵参拝、京都・大宮御所泊、11/15-京都駅から東京へ。
 以上も千田・上掲書による(p.201-2)。この際の天皇陛下の心境を私ごときが正しく推測することなどできる筈もないが、この「巡幸」は「終戦奉告」(千田)であり、昭和天皇は<敗戦>を皇祖(天照大神)・神武天皇・明治天皇の順序で、それぞれの御霊に対して<報告>されたのだと思われる(千田は明記していないが、参拝の順序は無意味・偶然では全くなかっただろう)。
 4.敗戦前において、神社の土地(境内地)は国有財産(>「公用財産」)だった。なお、寺院の土地(境内地)は国有財産のうち「雑種財産」とされ、寺院が使用する間は(おそらく「無償」で)国から各寺院に「貸しつけ」られていたが、1939年(昭和14年)に(おそらく「無償」で)「譲与」された。神社境内地はその年以降も国有財産(・「公用財産」)のままであり、土地以外の建物や組織(・人員)を含めた意味での「神社」は、「国の営造物(公共施設)」の一種だった。
 以上は、「おそらく「無償」で」の部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.254による(執筆=新田均)。
 5.敗戦後のGHQの国家・神道分離方針のもとでは、上のような法的状態は維持できない。GHQ「神道指令」(1945.12.15)の後で、神社の土地を戦前の昭和14年までの寺院との関係と同様に国有財産としての「雑種財産」に変更したうえで各神社に「貸しつけ」ることが計画された。だが、1946年3月に憲法改正草案(あるいは「新憲法」草案)が発表され、そこには<政教分離>も掲げられていたため、この計画実現は不可能となった。<(無償)貸しつけ>は神社(・神道という宗教)を有利に扱う(特定の宗教に「特権を与える」)ことになるからだった。一方で、<有償での(土地等の)買取り>では、資力のない神社は「自滅する以外に」なかった。
 以上も殆ど新田均執筆部分の神社本庁の上掲書p.254によっている。そして、かかる状況のもとで<無償譲渡>の実現が「緊急の課題」となり、日本国憲法の施行の前日(1947年5月2日)に国から各神社への<無償譲渡>が―<用地等(無償)払い下げ>とも表現できる―実現した、という。
 知らなかったが、何とも際どいドラマが展開されていたものだ。
 もともと書き記しておきたかったことにまだ至っていない。再び回を改める。
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