秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日経サイエンス社

2048/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)③。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 <第10章・私は「自由」なのか?>の後半、「認識論的自由意思論」。p.302-。
 「自然法則の基本的性質」からする自由意思論に加えて、「認識論的自由意思論」なるものが提示される。この部分の方が、<哲学者>の思考にまだ近い。
 茂木によると、「自由意思」概念は、「時間」の認識と深い関係がある。
 そして相対性理論のもとでの「相対的時空観」では四次元の中に「空間」と結びついて「時間」が最初から「そこに存在」するので、「自由意思」なるものは成立し得ない。
 この「相対的時空観」は、私たちの「直感」上の「時間」とは異なり、アインシュタインの過去・現在・未来の区別は「幻想」だとの言明は「正しい」としても、この「幻想」は強固であって、この「幻想」が「自由意思」と深くかかわる。
 どのようにか。これは、つぎのように論述される。
 ・「現在」が生成して「過去」が消滅する。「現在」時点でには「未来」は存在しない。「未来」が作成されたときに「現在」は消滅する。
 上のことが意味するのは、「未来」は「現在」には存在しないからこそ、つまり「未来」は不分明だからこそ、「自由意思」が作動して「未来」の私たちの行動が決定される、ということだ。
 ・「相対的時空観」では「幻想」ではあっても、私たちの一定の「やり方」の「認識」構造がある限り、「幻想」下での「自由意思」の存在を正当化できる可能性がある。
 さらに、つぎのように展開されもする。これによると、「幻想」を前提としなくても済むことになる。
 すなわち、「相対的時空観」が最終的真理ではなく、「時間の流れ」を記述する「未来の自然法則」が存在する可能性がある。
 やや中途半端な感もあるが、これでこの辺りを終えて、茂木はさらに、①<「自己」と「非自己」の区別>、②<自由意思と「選択肢」の認識>の問題に論及する。
 ①では例えば、飛んできたボールを避けるのと「飛んできたボール」を頭に浮かべて避ける練習?をする際の「自己」の内部・外部が語られる。
 ②では、「自由意思」といってもそれによる選択肢の数や範囲は限られる、として、つきの(私には)重要なことが叙述される。
 ・「どのような選択肢が認識に上るかは、私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素にかかっている」。
 重要なのは、「どのような選択肢が認識に上るか自体を決めるのは、私たちの自由意思ではないということだ」。p.309。
 さて、適切な<要約>をしている、または<要旨>を叙述しているつもりはないが、以下が、この章での「議論」の茂木による「まとめ」のようなので、省略するわけにはいかない。p.309-p.310。
 前回に述べた大きな論脈の第一と今回の第二のそれぞれに対応して、こうなるだろう。
 第一。自由意思が存在するとしても、「アンサンブル限定」の下にある。但し、宇宙の全歴史の時間的空間的限定を考慮すると、「有限アンサンブル効果」を通して、「事実上の自由意思が実現される可能性がある」。
 第二。「認識論的自由意思論」の箇所では「自由意思」の条件を検討したが、未熟で検討課題が多い。
 以上のうえで、さらにこう書いている。p.310。
 ・「私の現時点での結論」は、現在知られている「自然法則が正しい」とすると、「自由意思」が存在しても「かなり限定的なものになる」、ということだ。
 ・「アンサンブル限定」という制約のつかない「本当の意味で自由な」「自由意思」は「存在しないと考える方」が、「量子力学の非決定性の性質、相対論的な時空観から見て、自然なように思われる」。
 さて、このように「現時点での結論」を記されても、特段の驚きはないだろう。
 「本当」のであれ、「事実上」のであれ、「自由意思」は存在する、と考える、そう観念する、ということができなくはないだろうからだ。
 それに、この書での茂木健一郎の論述は1997年時点での彼が30歳代のときのもので、体系的には(江崎道朗著などと比べてはるかに)しっかりしているが、現時点での彼や脳科学上の学問状況を反映しているとは言えないと思われる。もともとが、仮説・試論の提示なのだと思われる。
 むろん、仮説・試論の提示であっても、こうした分野に疎い「文科」系人間にとっては、脳科学の一端らしきものを知るだけでも意味があった。
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 なお、立ち入るならば、上のp.309の論述には、素人ながら疑問をもつ。
 「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」によって「どのような選択肢が認識に上るか」を決めるのは、「私たちの自由意思ではない」、と茂木健一郎は叙述している。
 的外れかもしれない。しかし、決定する時点で「自由意思」は働いていないとしても、「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」は、簡単には自分たちの「経験」等々自体が、自分たちの「自由意思」の介在が100%なくして発生したのではない、のではないだろうか。
 <自由意思>を働かせる選択肢の数・範囲が(残念ながら宿命的にも)限られているのは、おそらく間違いはない。
 しかし、その限られて発生する選択肢の範囲や内容自体の中に、なおもほんの少しは「自由意思」が介在しているものがあると思われるのだが。
 さらに、第9章<生と死と私>も、この欄で紹介・コメントする予定だ。
 ***
 なお、茂木の原書では「自由意思」は全て「自由意志」と表記されている。はなはだ勝手ながら、「自由意志」では何となく?落ち着かないので、全て「自由意思」に変更させていただいている。

2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 9/12に全読了。計313頁。出版担当者は、松尾義之。
 <第10章・私は「自由」なのか?>、p.282~。
 まえがき的部分によると、「万能の神」のもとでも人間に自由意思があることは自明のことだったが、いわゆる「人間機械論」がこの「幻想」を打ち砕き、<人間的価値>の危機感からニーチェやサルトルの哲学も生まれた。
 ここで「人間機械論」とは、茂木によると、人間の肉体は脳を含めて「自然法則に従って動く機械」にすぎないとする論で、彼によるとさらに、「私たち人間が、タンパク質や核酸、それに脂質などでできた精巧な分子機械であるという考えは、現在では常識と言えるだろう」とされる。
 「心」も「自由意思」も、「自然法則の一部であるということを前提として」、茂木は論述する。
 単純な「文科」系人間、あるいは人間(とくに自分の?)の「精神」を物質・外界とは区別される最高位に置きたい「文学的」人間にとって、回答は上でもう十分かもしれず、以降を読んでも意味がないのかもしれない。茂木健一郎とは<考えていることがまるで違う>のだ。
 しかし、同じ人間の(しかも同じ日本人の)思考作業だ。
 読んで悪いことはない。かつまた、その<発想方法>の、「人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ」と喚いていた小川榮太郎とはまるで異質な発想と思考の方法の存在を知るだけでも、新鮮なことだ。
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 茂木健一郎の設定する最初の問いはこうだ。p.285。
 「果たして、自然法則は、自由意思を許容するか?」
 この問題は、「自然法則が、決定論的か、非決定論的か」と同じだ。
とすると、「私たちの意思決定のプロセスを制御している神経生理学的な過程、すなわちニューロンの発火の時間発展を支配する自然法則が、決定論的か、非決定論的か」ということになる。
 「ニューロンの時間発展を支配」する自然法則が「決定論的」であれば、「自由意思」はなく、「非決定論的」であれば、「自由意思」はある。p.286。
 なお、「自然法則が決定論的」であるということは、その自然法則にもとづいて私たちが将来を「知る」ことができることを必ずしも意味しない。p.287。
 現在の状態を完全に「知る」のは不可能なので、将来の状態の予測にも誤差が生じる。「カオス」だ。しかし、「カオスの見られる力学系は、時間発展としては、あくまでも決定論的」なのだ。p.288。
 このあと茂木は、「量子力学」への参照に移る。
 量子力学上は、「ある系の現在の状態から、次の瞬間の状態を完全に予測することはできない」。計算可能なのは「確率」だけで、この「不確定性」は「系自体の持つ、本来的な性質」であって、「量子力学は、本質的な非決定性を含んでいる」。
 しかし、「電子、光子」などの「ミクロな世界」について意味がある量子力学の「非決定性」を、ニューロン発火過程に適用できるのか?
 このあとの論述は「文科」系人間には専門的すぎるが、第一に「シナプスの開口放出に含まれる量子力学的な不確定性」が「自由意思」形成に関係するとする学者もいるとしつつ、茂木はそれに賛同はせず、かつ量子力学の参照の必要性は肯定したままにする。
 第二に、量子力学にいう「非決定性」というものの「性質」が問題にされる。p.292-。
 そして、茂木健一郎が導くとりあえずの、大きな論脈の一つでの結論らしきものは、つぎのとおりだ。
 ・量子力学の「非決定性」といっても、それには「アンサンブル〔集合〕のレベルでは決定論的」だ、という制限がつく。
 ・「量子力学が、自由意思の起源にはなり得たとしても、その自由意思は、本当の意味では『自由』ではない。なぜならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。」p.294。
 ・「アンサンブル限定=個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、…全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。」
・「個々の選択機会」について「その結果を完全には予測できない」という意味で、「自由意思」が存在するように「見える」が、同じような「選択機会の集合」を考えると、「決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できる。」
 ・「現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想するのは不可能」だ、というのが量子力学の「非決定性」だ。しかし、「あなた」のコピーから成る集合〔アンサンブル)全体としての挙措は、「完全に決定論的な法則で予測することができる。」p.295。
 というわけで、分かったような、そうではないような。
 「個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由ではない」(p.296.)と再度まとめられても、「自由」や「決定」ということの意味の問題なのではないか、という気もしてくる。
 もっとも、茂木健一郎は、より厳密に、つぎのようにも語る。
 ・選択機会の集合(アンサンブル)に関していうと、「現実の宇宙においては、可能なアンサンブルがすべては実現しないことが、事実上の自由意思が実現する余地をもたらすという可能性」がある。p.297。
 ・「宇宙の全歴史の中で」、「まったく同じ遺伝子配列と、まったく同じ経験」をもつ人間が「二度現れる確率は、極めて少ない」。このような「個性」ある人間による選択なのだから、ある「選択機会が宇宙の歴史の中で再び繰り返される確率は低い」。こうして、私たちの「選択」は生涯一度のみならず「宇宙の歴史の中でただ一回という性質を持つ」。とすれば、選択機会のアンサンブルの結果は「厳密に決定論的な法則」で決定されるとしても、その「選択機会が宇宙の全歴史の中でたった一回しか実現しない」のでその結果は「偏り」をもつ。しかもこれは「量子力学が許容する偏り」であり、この「偏り」を通じて、「事実上の自由意思が実現される可能性」がある。
 このあと、茂木は、現在の(1997年の)量子力学の不完全さを指摘し、今後さらに解明されていく余地がある、とする。
 さらに、もう一つの大きな論脈、<認識論的自由意思論>が続く。p.302-。
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 ここで区切る。小川榮太郎はもちろんのこと、西尾幹二とも全く異なる、人間の「自由」に関する考察があるだろう。
 1997年の著だから茂木自身の考えも、脳科学も、さらに進展しているかもしれない。
 まだ、紹介途上ではあるものの、しかし、秋月瑛二の想定する方向と矛盾するものではない。
 簡単に言えば、自然科学、生物科学、脳科学等によって、人間の「心」、「感情」、「(自由)意思」についてさらに詳細な解明が進んでいくことだろうが、人間一人一人の脳内の「自由」はなお残る、ということだ。あるいは少なくとも、いかに科学が進展しても、生存する数十億の人間の全員について、その「思考」している内容とその生成過程を完璧に把握しトレースすることは、「誰も」することができない、ということだ。
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