Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
——
第五節・レーニンの孤立①。
(01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
そのようなことは不可能だと、考えていた。
1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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(脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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(02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。
彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
きわめて深刻な矛盾が発生した。
また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
----
(03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
----
(04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
----
(脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
(脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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(05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。
「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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(脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
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(06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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後注。
(123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
(124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
(125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
(126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
(127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
(128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
(129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
(130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
(131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
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第五節①、終わり。②へと続く。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
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第五節・レーニンの孤立①。
(01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
そのようなことは不可能だと、考えていた。
1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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(脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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(02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。
彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
きわめて深刻な矛盾が発生した。
また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
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(03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
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(04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
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(脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
(脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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(05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。
「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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(脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
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(06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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後注。
(123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
(124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
(125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
(126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
(127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
(128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
(129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
(130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
(131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
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第五節①、終わり。②へと続く。