秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本共産党

2772/中村禎里・日本のルィセンコ論争(新版, 2017)。

  中村禎里(米本昌平解説)・新版·日本のルィセンコ論争(みすず書房、2017)
 なかなかすごい本だ。いろいろな意味で。
 生物学・遺伝学に関する〈自然科学〉系の書物だ。但し、遺伝に関心はあり、L・コワコフスキの書物でもソ連の戦後の学問に関する叙述の中で触れられているから、全く理解できないというのでは全くない。
 もう少し大まかな紹介をすれば、第一に、特定の主題に関する、日本の、しかも特定の一時期の、学問史、科学史の書物だ。
 第二に、政治または政党・党派と学問(自然科学)の関係に関する書物だ、
 政治または政党・党派とは社会主義(・共産主義)、ソヴィエト連邦・同共産党(スターリン)、一定時期の日本共産党を意味する。
 推測ではあるが、原著者がこれを執筆し(初版著は1967年)、米本昌平が冒頭にやや長い〈まえがき)を書きつつ実質的には新版=「50周年記念版」の刊行を推進したようであるのも、上の第二点に理由があるように思える。そうでなければ、21世紀にもなれば相当に古い、かつ生物学上の一論争(主として戦後直後、1950年年代)に関する書物を10年ほど後に出版したり、そのまた50年後に新版を刊行したりする気になれないのではないか。
 もっとも、それだけに、秋月瑛二に興味深いものではあっても、一般むけの書物ではない。遺伝学に何の関心もなかったり、そもそもソ連・スターリンや日本共産党を興味の対象にしない日本人にとっては、何やら面妖なことが書かれているだけの書物でしかないだろう。
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  日本に今でも民主主義科学者協会法律部会(2023年11月以降の現会長は小沢隆一)というのがあるが、この名称は、かつて「民主主義科学者協会」という学会または「科学者」の組織があり、現在までずっと存続しているのは「法律部会」だけであることを示している。かつては「政治(学〉」部会も、「生物(学)」部会等の自然科学系の「部会」もあった。1946年に民主主義科学者協会「理論生物研究会」発足、1950年に同「生物部会」に発展。
 書物をめくって確認しないが、「論争」参加者・関与者の中にはこの<民科>「生物部会」の会員も少なからずいた。
 現在の「法律部会」についてもそうだが、当時の民科「生物部会」の中にも当時の日本共産党の党員はおり、またソ連や〈社会主義〉の影響を受けた学者たちはいたものと思われる。
 中村禎里(1933〜)は論争の当事者ではなかったとしても彼らの次の世代の生物学者(研究者)として、民科「生物部会」の会員だったようだ。そうでないと、「論争」のとくに遺伝学上の意味を理解できないし、けっこうの大著を執筆もできなかったに違いない。
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  ルィセンコ学説、ルイセンコ論争の内容には触れない。
 L・コワコフスキの書物でもかなり詳しく言及されていたが、ルイセンコ(1896-1976)の学説は、ソ連共産党中央の支持を受けたー上の中村著はこう書く。p.64-。 
 1948年の「ソ連農業科学アカデミー会議」の報告の多数はルイセンコ学説支持で、会議の最後に会長のルイセンコが登壇して発言した。
 私への質問書の一つに「わたくしの報告にたいして党中央委員会はどんな態度をとっているか」というのがある。私は答える、「党中央委員会はわたくしの報告を検討し、それを是認した」と。
 つづいて、「嵐のような拍手、熱狂的な賞賛。全員起立」。
 反ルイセンコだった有力学者某はすぐのちに「党中央委員会の決定にしたがって、自説を放棄すると宣言した」。
 なお、ルイセンコ説に対比された「ブルジョア」学説は「メンデル・モルガン主義」と称された、という。このモルガン(モーガン)の名は、DNAの構造の解明へとつながっていった、メンデル以降の細胞学・分子生物学・遺伝学等のいわば〈嫡流〉にあった重要人物として、「染色体」や「細胞」等に関する記述の中で、この欄で出したことがある。
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  中村著は表向きは強調しているのではない。しかし、この本で初めて知った(確からしい)ことがある。
 L・コワコフスキの書物がルイセンコの関連して日本共産党に触れているわけがない。
 中村著は何気なくこう明記している。1949-50年に日本でのルイセンコ論争に関して新しい状況が生まれた。第一、ルイセンコ著の比較的忠実な翻訳書が刊行された。第二、ソ連での論争・対立の状況も知られるようになった。第三はこうだ。p.63。
 「第三に、日本共産党が、その機関誌紙を通じて、また指導者の発言を通じて、ルィセンコ説支持の態度をはっきりとうちだした」。
 これは相当に興味深い。中村は「日本共産党」(同党員)という語をほとんど使っていないが、日本での論争参加者の中にはおそらく間違いなく、当時の「日本共産党員」もいただろうと推測させる。 
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 自然科学上の議論、論争に、現在の日本共産党が容喙することはないだろう。
 しかし、例えば「政治」理論とか「歴史」認識とかの、政治学や歴史学に関係することには、当然のごとく干渉している、と考えられる。「歴史認識」が歴史学・歴史研究者の研究・判断の対象であることは言うまでもない。声明等を出さなくとも、日本共産党の綱領自体が、ロシア革命や「ソ連(共産党)」に関する、一定の理解・認識を前提としている。ロシア史・ソ連史ひいては世界史の学者・研究者であって日本共産党員である者が、党の理解・主張から全く自由であるとは考えられない。
 「法律部会」関係でも、「一字一句変えさせない」(数年前の小池書記局長。テレビ報道による)と現日本国憲法について言っていた日本共産党が、またその旨を主張しているはずの日本共産党中央があるなかで、憲法九条以外についてであれ、「憲法改正」の具体的議論を日本共産党員たる憲法学者・研究者が自由にできるわけがない。彼らは、「学問・研究の自由」を自ら制限し、一部を放棄しているわけだ。むろんまた、民科「法律部会」会員も日本共産党の多少とも強い影響下にある。
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2705/池田信夫のブログ033—日本共産党・松竹伸幸②。

 池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号から。同じ一節から、さらに感想等を記す。
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  池田はこう書く。
 「私は上田耕一郎とは一度、話したことがあるが、宮本のスターリニズムとはまったく違う気さくな人だった」。
 上耕と話したことがある、ということが書きたかったことかもしれない。しかし、一度話したくらいで、ある一人の日本共産党員が「スターリニズム」でない「気さく」な人だったと論定することは不可能だろう。たしかに、上田耕一郎が相対的に「自由に」語っていた印象は、私にもある。
 しかし、共産党員というものは、非党員・「大衆」に対して<演技>を平気でするものだと思う。直接には気さくに、愛想よく接しながら、党員たちだけの内輪の会合では、その非党員について辛辣な批評をし、ときには罵倒するくらいのことを平気でしているかもしれない。共産党員というのは、真面目であればあるほど、「内」と「外」を使い分ける、ある意味では<スパイ>のような二重人格者ではないか。
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  松竹伸幸は、近年では日本共産党中央とは一致していないらしき主張をしていたから、とっくに党員でなくなっていた、と私は何となく推測していた。だから、最近までまだ党員だったと知って驚いた。
 しかも、党中央による「除名」決定を不服として「再審査請求」とやらをしているらしい。
 ということは、自分の除名は不当だ、自分をまだ日本共産党員のままでいさせろ、と主張していることになるだろう。
 松竹さん、そんなに「日本共産党員」でいたいのかね
 批判しているような党中央をもつ政党など、喜んで辞めてやる、ということにならないのか、不思議でしようがない
 松竹伸幸の近年の行動は、<最後に一花咲かしたい>という程度のものでないか。その影響を受けて、朝日新聞社説が松竹への実質的支持と日本共産党への注文を書いたというのだから(私は読んでいない)、茶番劇であっても、ある程度の波風を立てるものだ(池田信夫までもが取り上げた)。 
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 ネット情報等によると、松竹伸幸は2000年の第22党大会前後に日本共産党中央委員会職員として政策委員会外交部長(2004年)等の要職にあり、2001年7月には参議院議員選挙に日本共産党の候補として立候補した(落選)。そして、2005-6年までは、中央委員会の事務局職員だったらしい。
 ということは、おそらく間違いなく、この人物は2000年の志位和夫・幹部会委員長による指導体制の発足を少なくとも容認し、その中で少なくとも5年程度は生活してきた
 にもかかわらず、種々のことがあったのだろうが、その後の彼の活動を党中央が問題視し始めるや、志位和夫の党内出自や経歴を批判し始めたのだとすれば、その心情は決して高潔なものではない(委員長公選制の主張など、この党にとっては奇抜な論点だ)。秋月は松竹伸幸という人物をほとんど「信用」していない。
 なお、松竹伸幸がまだ正統な?党員だった時代に出版した書物に、以下がある。いずれも、志位和夫・幹部会委員長の時期に出版されている。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)
 松竹伸幸・レーニン最後の模索—社会主義と市場経済(大月書店、2009。これは、レーニンの1921年のネップ政策を擁護・称讃するもので、日本共産党・不破哲三の<市場経済を通じて社会主義へ>論に沿うものだった)。
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  池田信夫の叙述に戻ると、その小論の表題(「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」にすらしているが、池田は、日本共産党が取り得た「もう一つの」可能性として、「党内闘争で上田兄弟が勝っていたら『社公民』に近い立場になり、野党を大同団結させて政権をになう社民勢力ができたかもしれない」と考えているようだ。
 しかし、池田の言う「今さら言ってもしょうがないないが」という以上に、そんな可能性がわずかにでもあっただろうか。
 日本共産党はコミンテルン日本支部として出発した、そのかぎりで「社民」主義と決別して発足した政党だ。それを維持して、日本社会党は、ある時は是々非々であっても、異質で対抗する政党だと自己認識してきた。
 したがって、「上田兄弟」路線の勝利→「社民」勢力の大同団結のためには、以下が必要だっただろう。すなわち、戦後すみやかに、または遅くとも1961年党大会=宮本体制発足までに、それまでの、「マルクス=レーニン主義」に立つ日本共産党と(かりに名前だけは維持するとしても)実質的に異なる政党になったと宣言しておくこと。
 宮本顕治には、過去の自分史からして、そんなことはできなかった。そしてまた、1970年に宮本委員長のもとで書記局長になり、1982年に宮本議長のもとで委員長となった不破哲三も、そんな可能性を(本心では)想定していた、とは思えない。不破は、宮本顕治によってこそ選抜されたのだ。
 「社民」主義への転換の最も良い機会は、1991年末のソヴィエト連邦解体だったかもしれない。欧州の「共産党」は雪崩を打ったようにソ連解体に対応し、大雑把に言うが、解党するか、「レーニン主義」政党ではなくなった。
 しかし、日本共産党は、<ソ連は社会主義国家ではなかった>と再定義して、その基本的立場を変えなかった。宮本顕治の力の弱化からしても、「社民」主義への転換の絶好のチャンスだったかもしれないが、1994年党大会までに実権をほぼ握ったかに見える不破哲三は、その「道」を選ばなかった。
 「上田兄弟」の(本音での)主義・路線なるものは、幻想であるか、または彼らの自己批判までにかぎって存在したもののように見える。
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  日本共産党が<社民主義>政党に転換または変質する可能性は、かなり読まれたらしいつぎの書物でも論及され、かつその可能性が肯定(または推奨)されているようだ。論評・感想を予定しつつ、まだこの欄でこの点に触れていない。
 中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)
 その可能性は、ないだろう。そのためには、1922年以降の全ての党の歴史を否定し、当然ながら「科学的社会主義」のもとで「社会主義・共産主義」の社会を目ざす、とする現在の党綱領を廃棄しなければならない。
 そんなことをこの党はできない。そして、ずるずると弱体化・劣化していく道を歩んでいくだろう。当然ながら、レーニンが1902年の「何をなすべきか」が示した<前衛>党組織・意識、1921年ロシア党大会で導入した<分派禁止>原則を、日本共産党が今になって、根本的なところで否定できるはずはない。
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2704/池田信夫のブログ032—日本共産党・松竹伸幸。

  池田信夫が「左翼」として批判的に論及してきたのは圧倒的に、のちの国民民主党と分岐した立憲民主党だった。日本共産党にはほとんど言及してこなかったように見える。
 その池田が珍しく共産党に言及している。
 池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号—「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」
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 田村智子の「スターリン的」体質うんぬんはさて措く。「レーニン主義」の共産党・組織原理をこの党が維持していることは間違いないだろう。
 池田信夫のこの小文章に触れたくなったのは、つぎによる。
 松竹伸行の書物に影響を受けつつ書いたようでもある(戦後・宮本顕治以降の)日本共産党の、とくに指導部・幹部の「歴史」のイメージは、私のそれとは相当に異なる。
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  松竹伸幸の最近の話題の?書物は、私は読む気がない。
 だから、池田の文章を読んでの推測になるが、松竹伸幸は自らと直接に対峙した日本共産党の最高幹部だった志位和夫に焦点を当てて、同党幹部批判をしているのではないだろうか。
 池田自身の文章たる性格がどの程度あるのか分からない。但し、こんなことが書かれている。
 <宮本顕治は権力を手放さなかった。
 宮本が議長退任後に上田兄弟(不破哲三・上田耕一郎)は党内人事で「リベラル派」を起用しようとしたが、宮本は「阻止し」、「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」。
 「志位はスターリンに対するベリアのような役割を果たして党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。
 この人事も宮本が主導した」。
 上田兄弟の路線は最終的に挫折した。>
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  秋月は熱心な日本共産党ウォッチャーでないし、共産党(に関する)評論家ではない。
 しかし、上の叙述は「上田兄弟の路線」なるものを重視しすぎているだろう。
 決定的には、不破哲三の位置づけが小さすぎる、という印象が強い。
 私のイメージでは、1991年12月末のソ連解体から1994年7月の党第20 回大会までのあいだに、「ソ連」の見方に関する激しい論議とともに、宮本と不破の間での激烈な対立があった。
 そして、「ソ連」は社会主義国家でなかったと新しく定義されるとともに、党内人事でも、不破哲三が宮本に対して最終的にも勝利した。
 少しく、年表的に追ってみよう。
 1994年党大会のとき、宮本は満85歳。不破哲三は、満64歳。
 1990年の第19回党大会の時点で、不破哲三は幹部会委員長。宮本は、中央委員会議長。なお、この大会後、志位和夫が書記局長になった。
 宮本顕治は1994年党大会後も中央委員会議長だったが、1997年の第21回党大会で退き、なお維持した「名誉議長」職も2000年の第22回党大会で失った。
 この2000年、不破哲三が中央委員会議長となり、幹部会委員長に志位和夫が選ばれた。
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 松竹伸幸の影響を受けてか、池田信夫は、1990年に志位和夫を書記局長に「抜擢」したのは宮本であり、その後実力をつけて、不破哲三とは無関係に?、2000年の志位・委員長と不破・議長への就任があった、と叙述しているようだ。
 志位の書記局長職には幹部会委員長だった不破の同意・了解が少なくともあっただろう。
 また、不破70歳、宮本92歳、志位46歳のときの不破から志位への幹部会委員長職の委譲?は、もはや宮本はほとんど関係なく、不破の判断または二人の合意でもって行われたように推測される
 志位和夫が委員長になるまでは、不破が委員長だった。そして、委員長交代後も不破哲三が党内に影響を持ち続けたことは、不破はその後も中央委員会委員であることはもちろん、幹部会かつ常任幹部会の委員の一人だったことでも明らかだろう(党の社会科学研究所所長という要職?にもあった)。
 秋月は志位に対して凡庸だという印象しかもっていなかったので、幹部会の中でずっと不破哲三が「にらみ」を効かしている、と感じていたものだ。
 以上からして、宮本が「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」、志位は「党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。この人事も宮本が主導した」という叙述は、かなり奇妙だ。
 1994年以降、宮本顕治にいかほどの「実権」があったのだろうか。この時期にそもそも、「反宮本派」はいかほどいたのだろうか。宮本に<人事を主導する>力があったのか。
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  ひょっとすると、松竹伸幸は、<志位和夫憎し>のあまり、「党史」を正しく叙述していない、あるいは正しく記憶していない、のではないか。
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2640/中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)①。

 中北浩爾・日本共産党—「革命」を夢見た100年(中公新書、2022)
 出版直後ではなく、数ヶ月あとに読了している。あまり記憶には残っていないが、この書の一部を再読して、日本共産党やこの書自体に関して、感想等を述べておく。
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  上の中北著は「はじめに」で、欧州の「急進左派政党」との比較、「ユーロコミュニズム」と日本共産党の「宮本路線」の異同の検討がその歴史も含めて必要だとし、それら等をふまえて「終章」で現状分析と当面する「選択肢」を論じる、とする。
 矛盾してはいないのだろうが、しかし、「終章」では欧州の「急進左派政党」や「ユーロコミュニズム」に言及することは少ない。但し、「社会民主主義への移行」と著者が推奨するらしき「民主的社会主義への移行」という選択肢の提示に役立っているのかもしれない。
 そうすると「社会民主主義」と「民主的社会主義」の区別が重要になる。そして、日本共産党の現在の綱領の骨格を維持した日本「共産党」という名称のままで可能なのか、も問題になる。中北は後者には論及していないようだ。
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  「ユーロコミュニズム」と日本共産党「宮本路線」が同じではないのは共産主義政党の成立以来の歴史から明瞭なことで、あらためて指摘するまでもない。
 封建制→(絶対主義)→資本主義→社会主義という「歴史の発展法則」が(マルクス・エンゲルスによって提示されたように)存在するとすれば、封建制・絶対主義以降の国家・「革命」政党にはこれらから決別する「(ブルジョア)民主主義革命」とそれはもう遂行されたとみて「社会主義革命」を目指すかの選択が強いられたはずだ。フランスやイタリア等では「社会主義」革命という一段階だけが残っていた。
 日本共産党はいわゆる「講座派」の立場から前者の<二段階>革命論を創立時から採用していたのは、諸テーゼからも明らかだ。
 戦前の綱領的文書は日本共産党が独自に策定したのではなく、ロシア・ソ連の共産党(・コミンテルン)に「押しつけられた」面が決定的だっただろう。ロシア帝制は1917年2月に崩壊したにもかかわらず天皇制がまだ残っている戦前の日本にはまだ「(ブルジョア)民主主義革命」だ必要だ、とロシアのボルシェヴィキたちは容易に判断したのかもしれない。
 もっとも、第一に、レーニン「帝国主義論」(1917年9月刊行)によると、「帝国主義」とは資本主義の「最高の」、「独占主義的」段階のようなのだが、そうすると、日本は「半封建的絶対主義天皇制」のもとで「帝国主義」戦争を遂行していたことにになる。これは、概念または語義に矛盾をきたしていたのではなかろうか?
 第二に、帝政崩壊を招来したロシア「二月革命」が、「(ブルジョア)民主主義革命」だったかは、疑わしい。
 それ以降も、来たるべき「革命」の性格や担うべき政党・運動の性格や共産党とプロレタリアートや農民の役割分担等々について、メンシェヴィキとボルシェヴィキの間等で、議論があった。
 中核にいるべきは「自分(たち)」だという点でレーニンは一貫していただろう。しかし、上の点に関するレーニンの主張・理解が明瞭だったとはいえない。「全ての権力をソヴェトへ!」とのスローガンを1917年四月から「十月」までずっと掲げたのでもない。
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 中北著もまた、100年間で日本共産党が「変わらない部分」は、「日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、その後に社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきてこと」だ、と明記している。この点は現在の同党綱領を読んでも明らかだ。
 戦前の労農諸派、戦後の日本社会党との対抗の意味もあっただろうが、中北も頻繁にこの概念を用いているらしき「二段階革命論」の採用こそが、欧州のかつての共産党のほとんどとの違いであり、1991年12月以降も日本共産党がなおも勢力を残存できた根本的な「理論的」背景だったと考えられる。そしてまた、「民主主義」科学者協会法律部会(民科)の会員のような、「民主主義」のかぎりで一致する者たちを党(・日本共産党員学者)の周囲に置くことができた原因でもあった。
 なお、ロシアでのこの問題に関する事情の判断は容易ではないが、連続する(永続的)「二段階革命」論というのはトロツキーのほか、「革命の商人」とのちに言われた、レーニン・ボルシェヴィキへのドイツ帝国からの資金援助を媒介したともされるパルヴス(Parvus)によって唱えられていた、ともされている。トロツキーは1917年7月に遅れて入党したボルシェヴィキで、弁舌に秀でていたともに「理論家」でもあったようだ。
 なお、以下を参照。R・パイプスの著(試訳)→No.1453→No.1551L・コワコフスキの著(試訳)→No.1610→No.1661
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 つづく。
  

2630/日本共産党と4月統一地方選挙・松竹伸幸。

  日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月10日に声明を発して、同年4月の統一地方選挙の前半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 道府県議選では「前回選挙で獲得した99議席から22議席を後退させる結果となりました」。また、新たに4県が「議席空白となりました」。
 政令市議選では、「前回選挙で獲得した115議席から22議席を後退させる結果となりました」。
 同じく日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月24日に声明を発して、後半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 「4年前の選挙と比べると、東京区議選挙で13議席減、一般市議選挙で55議席減、町村議選挙で23議席減となり、合計91議席の後退となりました。議席占有率は前回の8.08%から7.28%に後退しました」。
 明らかであるのは、そのスピードの緩急は別として、地方レベルでも見られる、日本共産党の力の衰退傾向だ。 
 すでに明らかにされているように。党員数、機関紙購読者数も顕著な減少傾向を示している。この傾向は緩やかであれ、今後一貫して続くだろう。
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  「日本共産党の65年」、「日本共産党の70年」、「日本共産党の80年」を同党中央委員会名義で出版してきた日本共産党だから、間隔が空いてもさすがに2022年には「日本共産党の100年」を出版するのだろう、「最長の歴史もつ政党」を誇るのだろうと予想していたが、ついに発行されなかった(2023年4月末現在)。
 全体として、活動能力が落ちていることは間違いない。100年史を執筆することのできる人材が枯渇しているのだろうか。あるいは、党の100年の歴史の「総括」的叙述をし始めると、基本的部分ですら中央委員会または同常任幹部会内部で「理論闘争」が起きて、収拾がつかなくなるのだろうか。
 ともあれ、1970年代に日本共産党とその基本「思想」に共感し、同党の描く将来を夢見て入党し、2020年代に70歳前後になり、人生の「晩年」を迎えて、約50年間の<日本共産党員>たる地位を放棄すると決断したらしき松竹伸幸(1955年生、2023年「除名」)も含めて、一度きりの人生の20歳代から70歳前後まで、つまり人生の活動期間のほとんどを<日本共産党員>として過ごしてきた者たちの現在の心情を想像すると、憐憫の情に耐えない。じつに気の毒だ。そのような人々の人生は、一回かぎりの人生は、いったい何だったのか。
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  松竹伸幸がまだ共産党員だったとは知らなかったが、この人の近時の主張の内容、朝日新聞社説等による擁護論の内容等に興味はない。つぎのようにだけ付言する。
 <分派の禁止>、党中央と異なる見解の「党外」での公表の禁止は、1921年3月のロシア共産党10回大会で明確に採用され、世界の各「共産党」も採用した共産主義政党の根本的な組織原理であり、「体質」だ。これが変更されることは「共産党」と謳うかぎり、あり得ない(だからこそ、レーニン主義的組織原理を維持する「共産党」は今や世界にきわめて希少な存在になっている)。
 松竹伸幸は自分の言動がどのような結果をもたらすかを、かつての日本共産党中央委員会要職者という経歴からしても、熟知していたはずだ。
 最後に<華々しく散ろう>と考えたのかもしれないが、「茶番劇」にすぎないだろう。見解・政策方向の違いに原因があるのではなく、要するに、<日本共産党には未来がない>と、人生の最終盤に入ってようやく明確に悟った、というだけのことではないか。
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2618/なか休み—日本共産党の大ウソ33。

  1917年「十月革命」が「革命」だったか「クー・デタ」だったかという問題は、それぞれを、とくに前者をどう定義するかによって解答は異なりうるので、定義・理解を明確にしないままでの論争は無意味だ。たしか、L・コワコフスキはこの問題に拘泥しておらず、むしろ<革命ではあった>旨を述べていた。
 だが、<資本主義から社会主義へ>をよいもの、進歩的なもの、「歴史の発展方向(法則)」に添ったもの、という理解を前提にして「社会主義革命」だったと理解するのは、その後に「社会主義国家」ではなく、「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家・社会ができたという意味だとしても、とんでもない大間違いだ、と考えられる。
 日本共産党はかつてから一貫して(つまり創立からずっと)「社会主義革命」説という誤った前提を採用しつづけている。
 現在に有効な(?)第28回党大会による2020年綱領でも、明確にこう書いている。
 「一九一七年にロシアで十月社会主義革命が起こり、第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した」。 
 「資本主義からの離脱」はよいこと、という見方とともに、「十月社会主義革命」だった、という認識が示されている。
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  この、レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」の見方は一貫したものだ。これ自体を変更しないかぎり、日本共産党はどんなに外部から助言?されても、その名称を変更することはあり得ない、と考えられる。
 レーニンは「資本主義→社会主義(・共産主義)」を当然の発展方向と考え、そう宣言していたはずだ。十月革命は、ソ連時代はずっと「大十月革命」・「大社会主義革命」だった。
 また、そもそも「日本共産党」という名称自体がレーニンが呼びかけて結成された「コミンテルン」の存在を前提にしている。同党は1922年7月が創立とされるが、厳密には同年12月のコミンテルン大会で、その結党=コミンテルン支部となること、が承認された。
 そして、「共産党」(英語ではCommunist Party)という名称自体がコミンテルン側に(もともとはレーニンの21条件の一つとして)要求されていたことで、加盟を望むならば「共産党」と名乗る必要があった。あるいはおそらく一般論としては、遅くとも加盟後には「共産党」と名乗らなければならなかった。
 このことは、社会主義を標榜する諸「社会主義」政党と分離・決別することが要求されていた、ということを意味する。1918年に正式には「共産党」と改称したボルシェヴィキが、かつてロシア社会民主(労働)党内部でメンシェヴィキと分離・決別してレーニンを長として立党されたのと同じように。
 (「ボルシェヴィキ」の方が広く知られていたようで、これと「共産党」は別の党だと思っていたロシアの民衆もいたとされる。また、ボルシェヴィキ自体が、公式文書に必ずといってよいほど「共産党(ボ)」(「…(b)」)とわざわざ括弧書きを挿入して、かつての?ボルシェヴィキだとの意味を明確にしていた。)
 この基本方向=「共産党」への純化は、国・地域によっては、広く「社会主義」諸党派が合同・協力することを妨げた。
 日本でも、この「純化」しての結党は早すぎる等々として「解党主義」が有力になり1924年にいったん解散・「解党」されている(松崎いたる・日本共産党·悪魔の百年史(2022,飛鳥新社)等々。のちに「再建」)。
 なお、この「共産党」純粋主義は、その他の社会主義諸政党(社会民主党派)との対立と社会民主主義諸党の敵視につながる。ドイツでは、ドイツ共産党は同社会民主党と「共闘」する=統一戦線を組むことをせず、そのことは、ナツィス・ヒトラー政権の誕生を決定的に助けた(社・共両党の合計獲得議席数はナツィ党を上回っていた)。コミンテルンが「統一戦線」方針へと転換したのは1935年。
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  レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」、1919年「コミンテルン」結成、1922年末(日本共産党のコミンテルン加入とほとんど同時期の)「ソヴィエト連邦」設立以降、ロシアまたは「ソ連」はどうなったか。
 日本共産党の現在の2020年綱領はこう書く。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。…。
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤り…。」
 ソ連は一定時期以降「社会主義国」(「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家という意味であれ)ではなかった、とうことを日本共産党が最初に明言したのは1994年だった。同年の第20回党大会が採択した新綱領はその旨を初めて明記した。
 その頃の不破哲三らの主張には、国際社会主義運動内部でのソ連共産党のその他の(資本主義諸国のものを含む)共産党に対する覇権主義・「大国主義」とソ連という国家自体の覇権主義・「大国主義」を意識的に混同させて、日本共産党は後者と積極的に闘ってきたのだ、という「大ウソ」があった。
 現在でもこの「大ウソ」は維持されている。2020年綱領は、こう明記する。
 「日本共産党は、科学的社会主義を擁護する自主独立の党として、日本の平和と社会進歩の運動にたいするソ連覇権主義の干渉にたいしても、…にたいしても、断固としてたたかいぬいた」。
 大笑いだが、この「大ウソ」批判を繰り返さない。1980年代後半に中国共産党に対して、ソ連は「社会帝国主義」国ではなく「社会主義」国だと説得または助言?していたのは、日本共産党・不破哲三ではなかったのか。
 興味深く思い出すのは、今手元に資料そのものを置いていないが、第一に、かつて1994年党大会のときに、不破哲三による綱領改定中央委員会報告に対して、「では、(一定時期以降)ソ連はいかなる国家だったのか」という質問が代議員から出たことだ。これに対して、不破は、<科学的社会主義でも分からないことはあるのです>と答えた。
 相当に面白い。以下の四で言及する時期から1991年まで長ければ1924年〜1991年までの68年間(これは1917年10月以降の74年余の90%を超える)、短くとも1931年以降の60年余り(同じく80%超)、「ソ連」はどう基本的に性格づけられる国家・社会だったのか。資本主義国?、半封建的絶対主義国?
 第二は、1994年ではなくソ連「解体」後の1992年頃だったが、まだ中央委員会議長として健在だった宮本顕治が、<スターリンがナツィス・ドイツとの戦争に勝利したことは、それはそれとして積極的に評価しなければならない>と述べていたことだ。
 いずれも興味深い。いずれ、資料そのものを引用して紹介するだろう。数年前までに収集して読んだ、当時の日本共産党関係文献は(各中央委員会総会報告討論集のかなりも含めて)、まだ所持している(きわめて安価で出回っていた)。
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  想定した以上に長くなったので、最後に「おぼえ書き」的に記しておく。
 要点は、現在の2020年綱領は「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別しているが、レーニンの死は1924年1月なので、ほぼ1923年と1924年の間に決定的で重大な境界線が引かれると考えられているのか、ということだ。
 また、ほとんど同じことだが、1994年の不破哲三・中央委員会幹部会委員長報告はすでに第19回党大会で「『レーニンが指導した時代』と『その道にそむいたスターリン以後の時代』とを区別することの重要性を強調し」たと豪語?しているが、レーニン「指導」の時代とスターリン「以後の時代」は、大まかにであれ、いったいいつ頃の時点を境に区別されるのか、ということだ。
 1923年、レーニンはまだ生きていた。「1923年」は「死後」ではない。しかし、1923年にレーニンは「指導」していたのか?
 日本共産党創立前の1922年4月に、スターリンは書記長(総書記、第一書記)に就任している。日本共産党結党とコミンテルン加盟は、スターリンが書記長の時代にあったことだ。
 この時期はすでに「スターリンの時代」、あるいは少なくとも「レーニンとスターリンの時代」または「レーニンとスターリンたちの時代」ではなかったのか?
 あるいはひょっとして、スターリンが明確にレーニンが1921年に主導して導入したNEP政策を放棄する、1927-28年あたりを、今の日本共産党は大きな境界の時期として想定しているのだろうか?
 あるいは、「大テロル」が始まる1931-32年あたりなのか?
 「正しい歴史認識」というなら、日本共産党は、あるいは日本共産党の党員学者は、ソ連が「社会主義への途」を進まず「転落」した時期について、上のような疑問に答える義務があるのではないか。
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2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
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 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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 第9章第四節、終わり

2574/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第11節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第11節へ。1922年12月、コミンテルン第4回大会で、日本共産党は正式にコミンテルンの支部となった。
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 第8章/第11節・外国共産党に対する統制の強化。
 (01) 新経済政策は、ソヴィエトの外交政策にも、影響を与えた。外交は今ではかつて以上に、異なって相反する次元で機能していた。在来の外交通商と、非在来的な転覆活動の二つの次元。
 モスクワは、NEP の統合部分だった通商と投資を促進するために外国と通常の関係に入ることを懸念していた。
 軍事行動は、放棄された。性急で即興的だった1923年のドイツでの蜂起の失敗は別として、ヨーロッパで蜂起を起こすという企てはもうなかった。
 その代わりに、コミンテルンは、西側の諸組織に徐々に浸透するという戦略をとった。//
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 (02) ソヴィエト内部では経済自由化の一環として政治的抑圧が強化された、と叙述してきた。
 同じことは、国際共産主義運動についても言えた。
 その運動に課された21項目の条件は、外国の共産主義組織をモスクワに従属させた。だが、コミンテルンは対等な共産党の連合体だという幻想は維持された。
 この幻想は、1922年12月のコミンテルン第四回大会で一掃された。
 同大会決定は、つぎのことを明確にした。第一に、外国の諸共産党は独自の見解をもつ権利を有しない、第二に、双方が衝突した場合は、ソヴィエト国家の利益が外国の共産主義運動よりも優先する。//
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 (03) ヨーロッパでの革命の切迫性についての考えは、逆説的に、外国のコミンテルン支部に対するモスクワの立場を高めた。
 「まさに世界革命にはもはや今日的可能性がないがゆえにこそ、(外国の)諸共産党は、その希望をソヴィエト・ロシアへとつなぎ止めなければならない。
 ロシアだけが革命時代の階級闘争に勝利して出現した。また、無数の敵から自らを防衛することにも成功した。
 ロシアは、来たる世界革命の象徴であり、世界資本主義に対する力強い防波堤だった。
 外国の諸共産党にその国の権力の奪取が困難に思われれば、それだけ固く、諸共産党はソヴィエト・ロシアに結集しなければならない。
 この憂鬱な世界情勢のもとで、ソヴィエト・ロシアこそが世界じゅうの共産党員の祖国であるべきであることほど、当然のことはない。」(注216)
 戦後世界の安定は「憂鬱な」報せだった者たちには、ともかくもこの文章の執筆者にはそうだったが、モスクワはじつに唯一の希望だと思えた。
 そしてモスクワは、この現実から適切な結論を導きだした。//
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 (04) この第四回大会を準備して、モスクワは、コミンテルンの組織構造から、連邦主義の痕跡を全て排除することを決定した。
 責任者だったブハーリンは、21項目の第14項について、これはソヴィエト・ロシアが「反革命」を撃退するのを外国の諸共産党が助けることを要求するものだったが、外国諸共産党はいかなるときでもソヴィエト政府の外交政策を支持する義務がある、ということを意味すると解釈した。(注217)
 要するに、共産主義者はソヴィエト・ロシアという唯一の祖国をもち、ソヴィエト政府という一つの政府をもつのだ。
 共産主義者は、この政府が外交関係上の行為としてしたことを、ソヴィエト同盟と「ブルジョア国家」—自国を含む—との同盟であっても、同意しなければならなかった。ロシア共産党の政治局が決定した、ソヴィエト・ロシアの必要に応えるのならば。 
 この項目は、1922年にRapallo で締結されたソヴィエト・ドイツ条約に対して、無言の批判があり得ることをとくに意識してのものだった。//
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 (05) コミンテルンの最高の名義上の決議に外国の党が疑問を持ったり口出ししたりするのを阻止するために、コミンテルン第四回大会は、これ以降は構成諸党はコミンテルンの大会が行われた後でのみそれらの各大会を開催する、と決定した。
 こうした手続によって、各諸党の代議員は独立した決議を動議として提出する権利を持たないことが確実になった。
 コミンテルンへの代議員たちは、各自の党からの拘束的な命令を携えて来ることが禁止された。そのような命令は、「国際的で、中央志向のプロレタリア政党の精神と矛盾する」がゆえに、無効であり、無意味とされた。
 各国の共産党大会にオブザーバーを送ることが、1919年以降のコミンテルンの慣例となった。これは今ではつぎの規定によって公式に承認された。すなわち、「例外的状況では」、「最も包括的な権限」を与えられて外国党が21項目の条件や大会決定を履行しているかを監督する代理人を各国の党に派遣する権能を、コミンテルン執行部に与える規定。つまりは各国の党を支配し、服従しない構成党を除名する、そのような権能だ。
 各国の党は、それらが選んだ代表をコミンテルン執行部に送る権利も、剥奪された。執行部メンバーは、大会によって選出された。
 コミンテルンの役職を辞任することは、コミンテルン執行部の承認がなければ認められなかっただろう。その理由は、「共産党の全ての執行部の役職は、それを担う個人に帰属するものではなく、全体としての共産主義インターナショナルのものだ」、ということだ。
 新しい執行部の25名のうち15名は、モスクワに居住することが要求された。(注218)//
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 (06) こうした全てのことは、すでに1903年以降のボルシェヴィキ党の慣例であり、第二回大会で採択された規約にも黙示的には存在した。
 1922年の決議で新しかったのは、その曖昧さだった。すなわち、ロシア人とその外国の支持者は形式的には対等だとの見せかけすら、全て欠落させていた。
 モスクワが代弁者として使っていたドイツの代議員のHugo Eberlein は、ロシア人の優越性についての不満を、つぎのように切り捨てた。//
 「将来的にも、コミンテルンの運営では、その最高幹部会と執行部において、ロシア人同志にはより力強い、最も力強い影響力が与えられなければならない。国際的な階級闘争の領域で最大の経験を積み重ねてきたのは、まさに彼らだからだ。
 彼らだけが、革命を現実に実行した。そのような背景の結果として、彼らは、経験について、他の地域からの代議員の誰よりもはるかに優っている。」(注219)
 第四回大会は、ブラジルからの代議員の反対を除く満場一致で、新しい規則を採択した。
 「共産主義インターナショナルは今や、厳格に中央志向の、軍型の紀律をもつ、ボルシェヴィキ世界党へと、変質した。(第四回)大会が示したように、疑うことなくロシアの命令を進んで受け入れる用意のある組織へと。
 そして、世界じゅうの諸共産党は今や、実際には、ロシア国家も支配している政治局によって支配される、ロシア共産党の一支部となった。 
 諸共産党はかくして、ロシア政府の代理機関へと零落した。」(注220)
 この変質はしばしばスターリンによるものとされるが、レーニンがコミンテルン政策の設定の責任者だったときに起きたことだ。//
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 (07) GPU は、外国の従属者たちを監督するのを助けるべく、今やコミンテルン執行部との緊密な作業関係に入った。
 GPU は、外国の9首都に支所を開設した。ほとんどはソヴィエトの外交使節として。
 各支所は、いくつかの隣接諸国についても責任をもった。
 かくして、GPU のパリ事務局は、イギリスとイタリアを含む、フランス以外の七つの西欧諸国での秘密行動を指揮した。
 GPU 支所の活動の中には、コミンテルン工作員を監視することがあった。(注221)
 コミンテルンの活動は、多様だった。
 1922-23年には、24の言語での298冊の出版を財政援助した。(注222)
 また、植民地諸国からの学生たちを扇動的技術で訓練する学校を運営しもした。//
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 (08) このような進展に失望したのではなく苦悩したヨーロッパの社会主義者たちは、コミンテルンと協働するという希望を捨てなかった。
 彼らは、コミンテルンが自分たちを「社会ファシスト」と扱ってその隊列を分断しているのを無視しようとした。そのことはむしろ、国際的な社会主義運動を弱体化させた。
 社会主義者たちは、つねに宥められようとした。
 しばらくの間は、その希望は実を結ぶように見えた。
 1921年のドイツ反乱の大失敗の後、レーニンは社会主義者との「統一戦線」戦術を定式化した。共産主義者は西側では弱すぎて、自分たちだけで行動することができなかったからだ。
 レーニンは、ある程度までは、労働組合主義者や社会主義者と協働しようと決定した。
 彼はこの考えをコミンテルンの執行委員会に提示した。その執行委員会では、ジノヴィエフ、ブハーリンその他からの強い反対に遭った。
 レーニンは、トロツキーの助けで、何とか抵抗を克服し、その考えをコミンテルン第三回大会(1921年6-7月)に提示した。
 「社会帝国主義者」や「社会主義裏切り者」との協働という考えは強い憤激を生んだが、大会は最終的にはそれを認可した。(注223)
 レーニンは同時に、ロシアの社会主義者たち(メンシェヴィキとエスエル)との協働は許さなかった。表向きは「ソヴィエト当局の敵」だったからだが、本当は、外国の社会主義者とは違って、彼らは権力を目指す重大な競争相手だったからだ。(注224)//
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 (09) 新しい戦術の結果は、1922年4月の第二回(社会主義)インターナショナルの会合へのコミンテルンの参加だった。この会合はベルリンで開かれ、「資本主義」の力の増大に対する闘争の共同綱領の策定と、ソヴィエト・ロシアの承認を目的としていた。(注225)
 1923年5月、ヨーロッパの社会主義諸党は、別途、ハンブルクに集まった。
 それらは、630万の党員と2560万の投票者を代表していた。—この数字は、コミンテルンに加盟した諸党の何倍もの強さを示していた。(注226) 
 新しい組織が設立され、労働者・社会主義インターナショナル(LSI)と称された。
 この組織は、構造的には連合的(federated)で、構成諸党は自由に国内問題について決定することができた。
 メンシェヴィキとエスエルは、集合した者たちのために、ソヴィエト・ロシアの状態とそこでの社会主義者の運命を示す荒廃した絵を描いた。
 彼らは丁寧に拝聴されたが、しかし、無視された。
 イギリスからの代議員は、嵐のごとき喝采を浴びたのだったが、この大会をつぎのように思い出した。
 「ロシアの収容施設での犠牲者や処刑されたり国外追放されたりした人々に対する責任が追及されたのは、主として西側の資本主義諸政府だった!」(注227)
 ソヴィエト・ロシアに関する決議は、ロシアの内部問題への外国の干渉の全てを非難した。
 その決議は、ソヴィエト政府の「テロリスト的手段」を非難する一方で、こう主張した。
 「(資本主義政府による)いかなる干渉も、ロシア革命の現在の段階での過ちを是正させることではなく、革命それ自体を破壊することを意図している。
 干渉すれば、本当の民主主義の樹立からははるかに離れて、血に飢えた反革命家たちの政府を設立させるにすぎないだろう。それは、西側資本主義によるロシア人民の搾取を促進する手段たる行動になる。
 ゆえに、本大会は、全ての社会主義諸党に対して、…干渉に反対するだけではなく、ロシア政府の完全な外交的承認とロシアとの正常な外交関係および通商関係の迅速な回復を、呼びかける。」(注228)//
 ヨーロッパの社会主義諸政党と諸労働組合は、言葉上は彼らが何もすることができないロシアの共産党支配を非難しつつ、彼らが影響力を発揮できる立場にある諸政策を是認することによって、本質的には、モスクワと同盟した。
 ボルシェヴィズムをロシア革命の一「段階」と理解することによって、彼らはそうした。これは、ボルシェヴィズムの不愉快な特質は一時的なものだ、という意味を包含していた。
 そして、それに代わる唯一の選択肢は「血に飢えた反革命者」による政府だ、と主張した。
 また、ソヴィエト・ロシアの外交的承認とロシアとの正常な通商関係の回復を、要求したのだ。//
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 (10) 「統一戦線」は、その内部矛盾から—かつて分裂に関係していた社会主義者たちとの統合が、いかにして可能だっただろうか—、そして第二および第三の両者のインターナショナルの隊列内部での強い反対によって、ほとんど直ちに崩れ落ちた。
 まもなく、コミンテルンは、社会主義者を再び「社会ファシスト」として扱うようになった。//
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 後注
 (216) Julius Braunthal, History of the International, II (1967), p.258.
 (217) Bukharin in Izvestiia, No. 6/1,743 (1923.1.11), p.3.
 (218) Protokoll des Vierten Kongresses der Kommunistischen Internationale (1923), p.994-7.
 (219) Ibid., p.807.
 (220) Braunthal, History, II, p.263.
 (221) Dennis, Foreign Policies, p.366.
 (222) Ibid., p.369.
 (223) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed (1959), p.61-65.
 (224) Lenin, PSS, XLV, p.131.
 (225) Braunthal, History, II, p.245-250; TP, II, p.704-5.
 (226) Braunthal, History, II, p.264.
 (227) Ibid., II, p.269. Protokoll des Internationalen Sozialistischen Arbeiterkongressen in Hamburug (1923), p.80 を引用.
 (228) Brainthal, History, II, p.270. Ibid., p.105, p.107 を引用。
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 第11節、終わり

2565/柳原滋雄・日本共産党の100年(2020)。

 柳原滋雄・ガラパゴス政党.日本共産党の100年(論創社、2020)
  この書物(計250頁ほど)の各章の表題は、つぎのとおり(一部に割愛あり)。プロローグ・エピローグは省略。
 第一部/朝鮮戦争と五〇年問題。
  第1章・日本共産党が「テロ」を行った時代。
  第2章・組織的に二人の警官を殺害。
  第3章・殺害関与を隠蔽し、国民を欺き続ける。
  第4章・日本三大都市で起こした騒擾事件。
  第5章・共産党の鬼門「五〇年問題」とは何か。
  第6章・白鳥事件—最後の当事者に聞く。
 第二部/社会主義への幻想と挫折。
  第7章・「歴史の遺物」コミンテルンから生まれた政党。
  第8章・ウソとごまかしの二つの記念日。
  第9章・クルクルと変化した「猫の目」綱領。
  第10章・原発翼賛から原発ゼロへの転換。
  第11章・核兵器「絶対悪」を否定した過去。
  第12章・北朝鮮帰国事業の責任。
  第13章・沖縄共産党の真実。
 第三部/日本共産党"政権入り”の可能性。
  第14章・「スパイ」を最高指導者に君臨させた政党。
  第15章・日本国憲法「制定」に唯一反対する。
  第16章・テロと内ゲバの「母胎」となった政党。
  第17章・「被災地」での共産党の活動。
  第18章・「日本共産党は"横糸“が欠けていた」。
  第19章・京都の教訓—庇を貸して母屋を取られる。
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  著者(1965-)は元「社会新報」記者。
 少し捲っただけで、まともには読んでいない。奇妙な「マルクス・レーニン主義」理解を披歴したり、「暴力革命」を捨てていないと言いつつ最後に公安調査庁の文書によってそれを正当化するような、程度の低い共産党批判書よりは、「事実」が書かれているようで、マシではないか。
 巻末に「付論」の中に、つぎの四綱領文書が掲載されているのは、役に立つだろう(但し、一部省略あり)。カッコ内はこの著者。
 ①1951年綱領(徳田綱領)。
 ②1961年綱領(宮本綱領)。
 ③2004年綱領(不破綱領)。
 ④2020年改定綱領(志位綱領)。
 ③は中国・ベトナムを「市場経済を通じて」社会主義をめざしている国家と位置づけた綱領だ(第23回党大会。④でまた変わる)。
 しかし、第20回党大会が採択した1994年綱領もまた、きわめて重要だと考えられる。これによって、<ソヴィエトはスターリン時代に社会主義国ではなくなっていた>旨が明記された。1991年12月〜1994年7月まで、少なくとも1992-93年の二年間は、日本共産党は公式にはこの問題には口をつぐんでいた。不破哲三は、「大国主義」・「覇権主義」と闘ってきたと、ソ連共産党という政党とソ連という国家自体の区別を曖昧にしたまま、何やら吠え立てていたけれども。
 なお、この年、この綱領後は、形式的にも宮本顕治の影響力はなくなった。1992-93年は宮本と不破の間の、ソ連認識も含めての「闘争」があったに違いない。
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2560/左翼人士—参院選前に共産党に期待する53名。

 2022年6月7日(火)の「しんぶん赤旗電子版」。
 「共産党躍進に期待します」というメッセージを「各界著名53氏」が寄せている。
 もちろんこの中にれっきとした党員はいるだろう。
 証明はできないが、浜矩子、甲斐道太郎はそうではないか。
 近年の常連の内田樹は、いつかその主張を書物等で読んで、分析してみたい。
 それにしても、例えば1970年代、1980年代と比べて、共産党支持・推薦の「各界著名」人は<小粒>になったものだ
 松本清張、水上勉もかつてはいた(下に出てくる窪島誠一郎は実子)。有馬頼義の名もあったような気がする。
 国民的映画監督の山田洋次の名が、いつの間にか消えている。
 もっと前は、芦川いづみという女優の名があったかもしれない。
 演劇界の大物、滝沢修や杉村春子の名もあった。
 下に出てくる「日蓮宗本立寺」や「真言宗泉蔵院」というのは何処にあるのか知らないが、かつては京都・清水寺の老「貫主」の名もあった。
 選挙前のこうした報道や選挙用冊子・ビラで日本共産党「応援団」の氏名をたどっていくと、この政党の「栄枯盛衰」もある程度分かるかもしれない。
 ついでながら、白井聡が名を出しているのは、どういう「趣味」だろう。レーニン主義者、反・反共主義者だから不思議ではないが、名を出せるほどの人物なのか。
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 嵐圭史(俳優)、安斎育郎(立命館大学名誉教授)、池田香代子(翻訳家)、池辺晋一郎(作曲家)、石川文洋(報道写真家)、井上麻矢(こまつ座 代表取締役)、いまむらいづみ(女優)、鵜澤秀行(俳優)、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)、宇都宮健児(弁護士、日本弁護士連合会元会長)、浦添嘉徳(日本勤労者山岳連盟会長)、遠藤教温(日蓮宗本立寺住職)、大野晃(スポーツジャーナリスト)、大原穣子(方言指導)、岡崎晃(日本キリスト教団牧師)、岡野八代(同志社大学教員)、小川典子(ピアニスト)、奥田靖二(淺川金刀比羅神社宮司)、尾畑文正(真宗大谷派僧侶)、甲斐道太郎(大阪市立大学名誉教授)、北村公秀(真言宗泉蔵院住職)、清末愛砂(室蘭工業大学教授)、窪島誠一郎(作家)、古謝美佐子(沖縄民謡歌手)、小林秀一(プロボクシング元日本チャンピオン)、小松泰信(岡山大学名誉教授)、沢田昭二(名古屋大学名誉教授)、ジェームス三木(脚本家)、島田雅彦(作家)、白井聡(政治学者)、鈴木宣弘(東京大学教授)、鈴木瑞穂(俳優)、高口里純(漫画家)、竹澤團七(文楽三味線奏者)、立川談四楼(落語家)、立川談之助(落語家、立川流真打)、土橋亨(映画監督)、中原道夫(詩人、日本ペンクラブ会員)、西川信廣(演出家)、浜矩子(同志社大学教授)、二見伸明(元公明党副委員長)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、本田由紀(東京大学教授)、本間愼(元フェリス女学院大学長、東京農工大学名誉教授)、前田哲男(ジャーナリスト)、増田善信(気象学者)、松井朝子(パントマイミスト)、松野迅(ヴァイオリニスト)、松元ヒロ(コメディアン)、松本由理子(ちひろ美術館・東京元副館長)、山崎龍明(浄土真宗本願寺派僧侶)、山中恒(作家)、山家悠紀夫(暮らしと経済研究室主宰)。
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2557/「前衛」上の日本共産党員⑯—2013年9月号。

 既述のように、日本共産党中央委員会理論政治誌である月刊誌『前衛』に執筆しているのは、この党の議員・職員等であることが明記されていなくとも、余程の特別の事情のないかぎり、明確に党員だと見られる。非党員がこの性格の雑誌に執筆できるはずは、余程の例外を除き、あり得ないだろう。
 「青木 理」もまた、党員だと思われる。例外に当たらない。No.1627/2017.07.06参照。
 以下は、『前衛』2013年9月号による。正確には、この時点についての推定にはなる。
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 松宮 輝(火ヘン)/産業技術研究所—原発ゼロ社会。
 山田 朗/明治大学教授—政界の歴史修正主義。
 林 博史/関東学院大学教授—安倍・橋下の慰安婦発言。
 久保田 貢/愛知県立大学准教授—歴史認識・太平洋戦争。
 羽淵三良/映画評論家—反戦・平和映画の伝統。
 佐藤哲之/弁護士—全国B型肝炎訴訟。
 米沢 哲/日本医労連中央執行委員—介護。
 山﨑龍明/武蔵野大学教授・寺院前住職—核・原発等。
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 以上。
 この号ではまだ、不破哲三の連載が続いていた。

2430/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。。

 左翼人士-民科法律部会役員名簿・第26期(2020年11月~2023年10月)等。
  役員
 理事長/三成美保(奈良女子大学)
 副理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)、豊島明子(南山大学)、本多滝夫(龍谷大学)
 全国事務局事務局長/清水雅彦(日本体育大学)
 理事(50名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田順子(神戸大学)、岡田正則(早稲田大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、金澤真理(大阪市立大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、桐山孝信(大阪市立大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、篠田優(北星学園大学)、清水雅彦(日本体育大学)、白藤博行(専修大学)、新屋達之(福岡大学)、清水静(愛媛大学)、鈴木賢(明治大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(岐阜大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、中坂恵美子(中央大学)、永山茂樹(東海大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、張洋介(関西学院大学)、人見剛(早稲田大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松岡久和(京都大学)、松宮孝明(立命館大学)、三島聡(大阪市立大学)、水谷規男(大阪大学)、三成美保(奈良女子大学)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山下竜一(北海道大学)、山田希(立命館大学)、吉村良一(立命館大学)、和田真一(立命館大学)、亘理格(中央大学)。
 監事(4名) 今村与一(横浜国立大学)、川崎英明(元関西学院大学)、小森田秋夫(神奈川大学)、三成賢治(大阪大学)
  上記以外で会員であることが明らかな者〈学会・研究会報告者、機関誌執筆者・機関誌編集委員)。
 前田達男(金沢大学)、山形英郎(名古屋大学)、河上暁弘(広島市立大学)、太田直史(龍谷大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、岡田知弘(京都橘大学)、稲正樹(元国際基督教大学)、木下智史(関西大学)、秋田真志(弁護士)、大島和夫(神戸市外国語大学)、渡邊弘(鹿児島大学)、松井芳郎(元名古屋大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、奥野恒久(龍谷大学)、中村浩璽(大阪経済法科大学)、根本到(大阪市立大学)。
 以上
 出所-同会機関誌『法の科学』の末尾(日本評論社刊)。
 ……
 参考
 一 理事と監事を合わせて、2名以上が選任されている大学。
 国立/名古屋大学4、大阪大学2、琉球大学2
 公立/大阪市立大学3
 私立/立命館4、早稲田3、関西学院2、専修2、中央2、南山2、龍谷2。
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  稲子恒夫(1927〜2011)、長谷川正安(1923〜2009)、室井力(1930〜2006)
 いずれも故人で、かつて名古屋大学教授だった。専門科目はそれぞれ、社会主義法またはソヴィエト法、憲法、行政法。
 そしていずれも、少なくとも在職中はれっきととしたかつ著名な日本共産党員で、当然に民科法律部会の会員だった。
 稲子恒夫は、1969年の時点で日本共産党名古屋大学教職員支部の支部長で、自宅で会議を開催したりして、「全共闘」派に対する日本共産党名古屋大学「総支部」?の判断等を決定していた。事実上、当該大学の学生・大学院生支部をも拘束した、と見られる(400人の党員学生、1000人の民青同盟員が当時いた、という)。
 但し、ソ連が解体した1991年12月以降に、名古屋大学の同僚だった水田洋(文学部)に「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」と告白した、という。名古屋大学退職は1990年。
 そしておそらくはすみやかに日本共産党を離れ、ソ連の新しい資料も豊富に用いて、総計1100頁に近い、実質的に単独編著の『ロシアの20世紀』(東洋書店、2007)を刊行した。死の4年前、80歳の年。レーニンに対しても、明確に批判的だ(客観的資史料によるとそうならざるをえないとも言える)。
 以上につき、参照→1989/宮地健一による稲子恒夫
 民科=民主主義科学者協会は「民主主義」で結集しているので、自由にロシア革命について考えてよいとも言える。しかし、日本共産党員でもある同会員は、日本共産党に固有のロシア革命観があるので、そうもいかない(はずだ)。少なくとも名古屋大学関係党員には、上の稲子著は必携、必読であるべきだろう。
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 稲子恒夫もやや広義での「公法」部門に属していただろうが、稲子を別としても、憲法・長谷川正安、行政法・室井力を両トップおする<名古屋大学公法部門>には、他の大学には見られない特徴があった。すなわち、民科法律部会会員の数の多さだ。
 機関誌『法の科学』の最新号でも、松井芳郎(国際法、名古屋大学名誉教授)が森英樹(2020年死亡。憲法・元名古屋大学)への追悼文のなかで、「名大公法」という語を何度か使っている。
 1990年から30年以上、2000年から20年以上経つ。大学生時代から共産党員だった者も中にはいるかもしれないが、指導教授—大学院生という指導・被指導、就職の世話をする・受ける等々の人的関係・人間関係のつながりは、今日でもなお、健在のようだ。
 現在の所属大学だけでは分からないが、上に氏名を挙げた者のうち、少なくとも以下は、すべて<名古屋大学公法部門>出身者・関係者だと推定される。順不同。
 本多滝夫(龍谷大学)、愛敬浩二(名古屋大学)、大河内美紀(名古屋大学)、市橋克哉(名古屋経済大学)、榊原秀訓(南山大学)、渡名喜庸安(琉球大学)、本秀紀(名古屋大学)、緒方桂子(南山大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山形英郎(名古屋大学)、豊島明子(南山大学)、松井芳郎。
 以上だけで、12名。他に、少なくともかつて、鮎京正訓もいた。
 鮎京正訓はベトナム法研究者。市橋克哉もソ連解体前はソ連の行政(法)制度の研究をしていた。
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2417/西尾幹二批判031。

  西尾幹二は2017年に「つくる会」10周年記念集会にあてて、かつての福田恆存らには「反共」だけがあり「反米」はなかったが、前者に加えて「反米の思想」も掲げたのは<われわれが最初だった>旨を書き送った。全集第17巻712頁(2018年)で読める。この欄でもすでに「根本的間違い」に簡単に言及して引用・掲載した。
 「つくる会」のこととして西尾は書いていたが、「われわれ」の初代会長だった西尾幹二自身も含めている、と理解して差し支えないだろう。
 ここでの論点はいくつかある。
 根本的には、第一に、「新しい歴史教科書をつくる会」という運動団体かつ歴史教科書作成団体は本当に明確に<反共かつ反米>を掲げていたのか、だ。
 私は胡散くさいと思っている。設立当時の文書や『史』という機関誌等を丁寧に読めば、西尾の10年後の「うそ・ハッタリ」は明確になるのではなかろうか。
 第二に、西尾幹二自身が、本当に「反共」かつ「反米」という思想的立場に立っていたのか、だ。
 とくに気になるのは、西尾における「反共」性、「反共産主義」性だ。
 この点は、別途検証するに値する。ここでは、西尾の文章の中には、マルクス、レーニン、スターリンの文章の引用はもちろん多少とも内容のある紹介や論評は全くないと見られる、とだけ記しておく。「反共」と言いつつ、この人は、「共産主義」とはどういうものかをまるで知っていないままだと見られる。この人がまだ若い頃の、ソ連「遊覧」旅行の記録でもそうだ。
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  秋月の語法では「反共」性と称してよいと考えるが、その点は措くとしても、西尾幹二においては「反中国」性が弱いということはこれまでも数回は触れた。
 この人は「反米」的主張をかなり明確に行なってきた。この点を知りつつも、私自身もまた素朴な愛国主義者であり、素朴なナショナリストであり(以上、小林よしのりと同じ)、日本が欧米と同じになる必要はなく、同じになることがある筈もないと思っているので、西尾の「反米」主張も、その限りで諒としてきた経緯はある。
 中川八洋が西尾を<民族派>の中に含めるのも奇妙だと感じてきた。単純な<民族派>ではないものが西尾にはある、と理解していたからだ。
 それに、少なくとも2010年前後には<保守>が「親米(保守)」と「反米(保守)」に分類されることがあったのはすこぶる奇妙なことだったが、西尾自身が自分は<反米でも親米でもない>と書いているのを読んだ記憶がある。
 また、いずれかの雑誌上で岩田温が<保守>論者を「親米」か「反米」かを二つのうちの一つの対立軸として分類整理する図表を載せていたが、そこでは西尾幹二の名は、「親米」と「反米」を区切るまさにその線上に置かれていた(この記憶に間違いはない)。
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  前置きが長くなった。
 二で記した経緯からするとやや驚きでもあるのだが、「下掲」の2006年末の雑誌上で、西尾幹二は明確に、「反中国」よりも「反米」を優先し、強調する発言を行なっている。
 これは、やはり、西尾の<根本的間違い>を示している。これでは<民族派>と一括されてもやむを得ない。また、「反米(保守)」派の主張でもあっただろう。
 ついでに。「反米」も「対米自立」も、日本共産党の基本的主張だ。アメリカ帝国主義に「従属」している(未だ「独立」していない)、というのが、この党の状況認識だ(現綱領上の表現を確認はしていない)。
 西尾にはきっと不本意だろうが、これで「反共」性がないか乏しいとなると、「民族主義」政党でもある日本共産党とどこがどの程度違うのか、という根本的疑問も出てくる。
 もっとも、これは西尾幹二についてだけ当てはまるのではない。1997年の設立時にソ連崩壊により「マルクシズムの誤謬は余す所なく暴露された」と書いて、もはや共産主義・マルクス主義との闘い、これらの分析・研究は必要がないと宣言したがごとき日本会議についても言える。
 西尾と日本会議が結局は同質・同根であるようであるのも、不思議ではない、と言うべきか。
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 2006年の安倍晋三内閣発足1月後の座談会で、西尾は、「『真正保守』を看板に掲げた安倍氏」の不安材料、期待できそうにない理由を計4点挙げているが、最後の点として、こう明言している。
 「同盟国としてのアメリカの存在です。
 私は、安倍さんが日本の保守再生に取り組む際に、実はこれがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない。
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちのほうが大きい。
 座談会「保守を勘違いしていないか」諸君!2006年12月号(文藝春秋)75頁。
 ソ連解体をもって「冷戦」は終わった、これからは各国の各「国益」追求の対抗・競争の時代だ、と考えてしまった、日本の「保守」の主流かもしれない部分の悲劇が、ここにも示されている。
 地理的・地域的に近接した欧州諸国やそれらと文化的共通性のあるアメリカの論壇が、そういう論調だったのは、理解できなくもない(しかし、共産主義・マルクス主義の研究者・専門家たちは、L・コワコフスキも含めて、中国等の存在になお注目していた)。
 本来、常識的なことのはずだが、ソ連解体で終了したのは<対ソ連(・東欧)との関係での冷戦>だった。
 中国、北朝鮮、ベトナム等の存在を、東アジアに位置する日本の論者が無視または軽視してよい筈はなかった。
 そして今や、<いわゆる保守>は、中国・韓国に「民族」意識で対抗し、男系天皇制度の維持を最大目標として結集しているようだ。悲惨、無惨。
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2395/日本共産党「赤旗」読者の減少。

 <日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+>で知って、同日・7/08付の「しんぶん赤旗」(ネット上)で確認したが、日本共産党の「総選挙闘争本部」なるものは、つぎのように明記している。
 「6月は、全国が都議選勝利に大きな力を注ぎながら、総選挙準備にとりくみましたが、党勢拡大では、残念ながら入党の働きかけが1027人、入党申し込みが189人にとどまり、『赤旗』読者も、日刊紙1323人、日曜版4610人の後退、電子版74人増となりました。」
 興味深いのは、「『赤旗』読者も、日刊紙1323人、日曜版4610人の後退」という部分。
 2021年6月の一月で、「赤旗」日刊紙読者が1323人、日曜版4610人減少したと明記している。都議会議員選挙の前月、総選挙が今秋にはあるという6月であるにもかかわらず。
 読者数というのは実際に読まなくなったというのみならず〔実際にどの程度読まれているかなどほとんど明確にならないだろう)、購読(契約)の打ち切り数を意味すると思われる。
 あえて単純化してこれが1年続くとして計算すると日刊(本紙)・日曜版合計で、一年に約7万部減少することとなる(人=部として)。ご時世からして「電子版」への切り替えがあったとしても、この約7万減という数字に変わりはないだろう。
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 「しんぶん赤旗」が日刊・日曜版合わせて100万部を切ったと同党自らが明らかにしたのは、2019年後半だった(だろう)。
 最多時には350万部ほど発行していた(1980年代)。
 ソ連解体後の1994年の第20回大会頃でも、党員数を10万人ほど減らしながらたぶん約250万の発行部数はあった。
 そのとき(27年も前だが)と比べても、1/2以下。
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 しかし表向き少なくとも20万の党員はいるようだし、国会へも議員を送り込んでいる。自治体の議会議員についても少なくとも都や道府県・大都市ついては同様。
 いまだに「社会主義・共産主義」の社会の実現を綱領に明記する政党があること自体が不思議なのだが、1991年のソ連解体、ソ連・東欧に対する関係での「冷戦」終了後、すでに30年経った。
 日本共産党が弱体化の趨勢途上にあることは間違いないだろうが、その衰退傾向の速度は、早いのか遅いのか。
 党員数20万人だとすると、また「赤旗」日刊紙読者20万(日曜版が約80万)だとすると、月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 三誌の毎月の発行部数または熱心な読者数の合計よりも、間違いなく多いだろう。
 それでも少なくなった、と言えるのか?

2387/日本共産党の大ウソ32—「真に平等で自由…」とは。

  不破哲三は現在でも日本共産党常任幹部会委員の一人で、何と50年以上、同党の幹部であり続けている。
 その不破哲三は、日本共産党は「将来構想」がある点で、他政党とは異なる、ただ一つの政党だと、自慢していたことがあった(何かに明記されている)。
 ここでの「将来構想」とは10年後のことでは、もちろんない。不破の言う「未来社会」のことだ。
 日本共産党の現綱領(2020.01.18)も、この部分を変更していないだろう。
 最後の「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」の中((十六))にこういう部分がある。
 (なお、同党は(不破理論・「解釈」?に従い)「共産主義は社会主義の高次の段階」という社会主義、共産主義の用語法を1990年代から採用していない。「社会主義・共産主義」と並列させるのが正しい?慣例だ。)
 ①「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。」
 ②「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会
への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。」
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  あまりにアホらしいので、逐一言及するのもアホらしいが、<暴力革命を諦めていない>などという幼稚な、何とでも反論できる批判しかできない人が多いので、以下も、少しは意味があるかもしれない。
 第一。これは予言・予測か、それとも「目標」か?
 真面目な共産党員は両者を統一・統合したものだ、<理論と実践の一致だ>などと言うかもしれない。
 しかし、上の区別は重要なことだ。
 かりに「正しい予言」を含んでいるというならば、何ゆえに、何の資格と能力があって、(少なくとも日本の)将来・未来を「正しく」予見できるのか?
 「科学的社会主義」によって「正しく」予言・予見しているのだ、などと主張しているなら(たぶんそうだろう)、すでに「狂っている」。
 誰も、ヒト・人間それ自体、それが形成する社会の将来・未来を、「正しく」予見することなどできない。
 <歴史の発展が証明する>のだ、などというおバカさんは、もうやめて欲しい(と言っても、<聞く耳を持たない>という表現の仕方も日本語にはある)。
 実践的な「目標」だというならまだよいが、将来の社会について「科学的予測」などという戯れ言葉を使ってはいけない。
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 第二。「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」の展望が(ようやく?)開かれる、という。
 こうした表現に「美しさ」を感じる面妖な人もいるのかもしれない(真面目な共産党員はきっとそうだ)。
 だが、例えば、①「原則としていっさいの強制のない…」と言うなら、「原則」と「例外」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 ②「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」と言うなら、「真」に「平等で自由な…」と、そうではない、つまりニセ・虚偽の「平等で自由な…」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 さらに、「自由」と「平等」は完全には両立し難いとするのが、少なくとも現在の人類の一致した「知見」ではないかと思われるが、上の「共同社会」では(なお、この言葉はもともとはドイツ語のGemeinwesen だろう)、「自由」と「平等」はいかにして統合・統一されるのか、少しくらいは気にかけて欲しいものだ。
 いろいろな「価値」がある。それらがせめぎ合って、現在の社会や国家ができている。「自由」と「平等」だけではない(諸「価値」としてこの二つに加えてただ一つ「効率」=「便利さ」を挙げていたのが40歳代のL・コワコフスキだった)。生命尊重とか「民主主義」とか、次元や層の異なる諸「価値」もある。
 ++
 第三。上の「共同社会」への「本格的な展望が開かれ」たあと、どうなるのか?
 展望が開かれて、その「…共同社会」が実現・完成したとかりにしよう。
 その後について日本共産党綱領が語るのは、「人類史の新しい発展段階に足を踏み出す」ということだけだ。
 これでは、「真の」将来・未来の<科学的予見>には厳密にはならない。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か? ここで再び原始共産制(・アジア的生産様式)→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義・共産主義という「歴史の発展法則」がまるで輪廻転生のごとく?反復するのではあるまい。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か?
 そこでは、IT技術はどうなっているのか、脳科学あるいは生物科学はどう「変化」しているのか?
  情報通信技術の将来・未来は? ゲノム発見技術はどのように利用されているのか。「ガン」はとっくに克服されているのか?、「心不全」で死ぬ人はもういないのか? おや、人間の生も死も「消滅」するのか?
 ひょっとして、「人類史の新しい発展段階」に入って、人類・人間の歴史は「終わる」のか?
 いや、何かが「終わる」と、通常は、つぎの何かが「始まる」はずなのだが。
 ++
 もっと前の段階についてすでにある、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」などという、完璧に空虚な言葉を、政党の綱領に掲げたりしない方がよい。
 日本共産党には、あるいはそれが依って立つその「主義」には、<思考方法>自体に、根本的に「狂っている」ところがある。「暴力革命」うんぬんといった低次元の問題ではない。
 日本共産党に対しては、こうした「言葉」に酔った「夢見ぶり」(夢想者ぶり)をこそ批判すべきだ。
 ——

2314/大学・法学部の教員人事と日本共産党。

  池田信夫が数年前のブログで、自然科学と違って<文科系学問>の評価はむつかしく、経済学を別として、法学部・文学部の(教員の)人事は「コネ」による、というようなことを批判的に書いていた。経済学を除き法学部・文学部の人事は「コネ」、という部分に記憶間違いは(たぶん)ない。
 明らかに日本共産党員だとみられ、民科法律部会の理事・副理事長の小沢隆一(小澤隆一)は、法学系教員がたぶん1名(多くて2名)と思われる東京慈恵会医科大学の教授に、何故就任しているのだろうか。もっともこれは法学部の話ではない。
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  第一。ある大学・法学部である科目の教員の人事があり、特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、そもそも<論理展開>が論文のレベルに達していないとして正規手続きに移行するのに反対した。
 教授会の(出席者)全員による無記名投票で、僅か一票だけ賛成票が多く(予備段階なので票数はそのときは公表されなかったらしい)、人事は最後まで(提案者には結果は首尾よく)進んで終了した。
 のち、別の日本共産党の党員と思しき教員は、<あと一票だった(らしい)。惜しかったなぁ>とつぶやいて、残念がった。
 これは私が関係者から直接に聴いた話。その関係人物は「賛成(可)」票を投じたらしい。
 第二。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、<何故今どき、こんな主題の研究なのか>等と発言し、正規手続きに移行するのに反対した。
 提案している当該科目の関係者たちは善後策を話し合い、このままでは正規の審査後の採用決定(学部教授会としての)に必要な3分の2以上の多数を獲得できないだろうとやむなく判断し、提案自体を取り下げ、正規手続に移行しなかった。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 第三。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、外国語の読み方に誤りが多い等と発言して反対し、別の日本共産党シンパらしき(たぶん民科法律部会所属の)審査(査読)委員の一人は、外国の—と—は異なる「思想」であるのに並列するとは何事かという趣旨の発言をして、これまた反対した。
 提案自体の取り下げはなく正規手続に移行したが、採用決定に必要な3分の2以上の多数に1票だけ不足し、「正規に」提案が却下された。
 最初は賛成の様子だったが、最終的には「反対(否)」に回った、別の日本共産党シンパらしき(たぶん民科法律部会所属の)教員もいたらしい。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 第四。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、複数の日本共産党員と思しき人物が反対し、結局この場合は、採用決定に必要な3分の2以上の多数に2票不足し、提案が否決された。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 その関係者が話の中で「ニッキョーというところ」という言葉を挿んでいたので何のことかといぶかった。だが、なんと、ニッキョー=日共=日本共産党で、「日本共産党」グループが反対したことを、その関係者は知らなかった。
 第五。ある大学・法学部での教員人事一般に関する話。
 日本共産党の党員+その硬いシンパのグループの人数と、これに反対する(迎合しない)グループの人数がほぼ3分の1ずつで拮抗している。
 どちらも「過半数」すら獲得することができず、人事がなかなか進まない。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
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  20歳くらい年上の教員がかつて言っていたことを思い出す。
 「(教授会構成人数のうち)彼ら(日本共産党員)の数を、3分の1以上にしてはいけない。」
 3分の1があれば、たいていの教員人事は、可でも否でも、「日本共産党員グループ」の意のままになるだろう。

2125/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨26。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。一昨年秋の指摘を、再度紹介しておこう。
 「わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、思い出すと、上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだが(但し、1943年に解散)、少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだが、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 追記すれば、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
 (なお、秋月は、竹内洋の書物を清水幾太郎関連も含めて多数所持し、多数読了すらしている)。
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 上の著で江崎が高く評価する(五箇条の御誓文-明治憲法-昭和天皇につながるとする)聖徳太子・<十七条憲法>関係部分について、前回の一昨年秋(2019年10/12)でこう記した。
 ・「江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方」だ。
 ・とすると、「江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする」。(!!)
 ・「①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていない」。「聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。/それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?」
 ・「さっぱり分からない。異常であり、異様だ」。
 小田村寅二郎、1914~1999。
 竹内洋はきっと、この人物の詳細を知らないだろう。また、江崎書(らしきもの)が戦後の小田村寅二郎がどう生きたのかをいっさい書かないのは、なぜだろうか。
 「生長の家」という言葉を出さざるをえないと見られる。江崎も書名を明記しているが、江崎が依拠しているのは、小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)だ。
 次回へと続ける。

2113/日本共産党・2019年10大ニュース。

 しばしば閲覧して、Recent Comments まで全て目を通しているサイトに、以下がある。
 <日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+キンピー問題笑える査問録音公開中>。
 これの「2019.12.26/20:46」の投稿に、以下が掲載されている。日本共産党の「専門用語」は、解りやすいように、ごく一部追記した。また、執筆者の説明は、勝手にかなり省略している(紹介している部分はそのままある)。
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 「恒例今年の10大ニュース。
 1/赤旗日刊紙、日曜版合計で100万部割れ。
  やっぱりトップはこれでしょう。赤旗が売れなければ党財政は破綻必至。
 2/参議院選、ちょい負け。
  思ってたより善戦。次はこうは行かないだろう。
 3/共産党、再び東京大学学生自治会掌握に動く。
  教養学部自治会を取りに来る可能性はなきにしもあらずだったが、日共民青を隠してFREEとかいうフロント団体を作ってやるなんざ、恥でしょう。
 4/宮本岳志先生、大阪12区出馬、供託金没収!
  今年一番驚愕したニュース(笑)。しかも近年まれに見る惨敗で終わった。
 5/新潟県委員会元副委員長が妻を殺す。
  今年2番目に驚いたニュース。
 6/第6回中央委員会総会。
  今回の6中総は、拡大しようにも、もう中央委員会はどうしていいのかわからない、お手上げ状態なのを自ら認めた中央委員会総会であった。
 7/共産党の広告が上手になる。
  数少ない共産党関係の朗報。
 8/地方議員団の党機関離れが一部で発生。
  共産党地方議員が党に反旗を翻すことはこれまでにもあった。しかし今年の福島県いわき市、埼玉県草加市など、議員団が丸ごと党の意向に反対するなど、少なくとも私はこれまで聞いたことがない。
 9/愛媛県議選で、候補者翌日離党宣言!
 10/菊池桃子結婚に逆ギレ(笑)。
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 筆坂秀世(元日本共産党幹部)のブログものも全て読んできている。上のサイトも、今後も「健闘」してほしい。

2057/池田信夫のブログ015-高坂正堯。

 池田信夫ブログマガジン2018年10月29日号「高坂正堯の孤独な現実主義」。
 高坂正堯が書いたものを熱心に読んだ記憶はないが、ごく常識的なことを書いたり語ったりしていた記憶はある。
 池田信夫はいう。高坂が「論壇」で孤独だったのは京都大学出身と関係がある。東京大学(法学部)を中心とする「論壇の主流は非武装・非同盟の理想主義」だったからだ。
 「非武装・非同盟の理想主義」とは日本共産党ではなくかつての日本社会党の主張だろうか。そして、池田によると、「論壇はなくなったが、今もマスコミの主流は彼の批判した一国平和主義である」。
 2018年時点での「マスコミの主流」はどうなのかはよく分からないが、朝日新聞・東京新聞および系列のテレビ局等は、アメリカ(と日本?)の「好戦」気分に反発する「平和かつ護憲」路線なのかもしれない。
 そういうことよりも、池田信夫が高坂正堯を好意的・肯定的に取り上げていることの方が興味深い。
 池田によると、高坂は「民社党に近いリベラルだった」。
 そして、「こういう中道右派が育てば、日本の政策論争も少しは健全なものになったかもしれないが、彼の早すぎた死で、日本には安全保障に関する論争がなくなってしまった」。
 おそらく確かなのだろう。高坂は「自民党には投票したことがない」と言っていたらしい。
 高坂を<保守反動>の国際政治学者とみていた<容共・左翼>も多かっただろうから、上の指摘はすこぶる関心を惹く。
 そして再び思い出すのだが、かつて自由社の社長だった石原萌記は、もともとは日本社会党右派の人脈の中から出発した。そして、「社会党」というと<左翼>のイメージではあるが、しかし<反共産主義>の明確な人物だった。だからこそ江田三郎・江田五月を応援し、またかつての民社党関係者や財界を含む<保守>的人々との交流も深かった。
 高坂正堯、1934年5月生~1996年5月。満62歳。
 確かに、早すぎた。
 石原萌記、1924年11月生~2017年2月。満92歳。
 石原は長寿だったが、石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)を刊行してその人生の一区切りをつけたと見られる。この本には 高坂の論考類による主張の紹介も何箇所かで行われている。そして、この年は、高坂の死の3年後。
 この時期、つまりソ連解体1991年12月の後の10年足らずの間は、重要な時代だったとともに、日本に明確な<反共・自由主義者>が消失していった、または数少なくなっていった大きな画期だったようにも思われる。
 いや、実質的には<反共・自由主義者>は多くいたに違いない。
 しかし、重要なのは、多くいたし、現にいるのだろう<反共・自由主義者>たちが、かつての福田恆存等々と違って、「保守」とは自称しなくなった、そう標榜しなくなった、ということだ。
 なぜか。1997年設立の日本会議、「愛国」・「日本」・「天皇」の右翼団体が<保守>を標榜し、産経新聞社等のマスコミ・メディアがこの団体とその背後の情報・読書<需要>を商業的に利用しようとしたからだ、と思われる。これに巻き込まれた、または進んでこの界隈に入っていった<もの書き>=文章作成非正規雇用者たち、もいた。
 これは、この頃にはイメージがよくなってきたとされる「保守」という言葉の、誤用であり、簒奪だった。
 石原萠記やその著書については、さらに触れなければならない。間接的にせよ、L・コワコフスキらが1970年代前半に組織したシンポジウムと関係があったことは、この欄ですでに触れた。
 雑誌・自由に寄稿していた、日本文化フォーラム(1956年~)や日本文化会議(1968年~1994年、初代理事長・田中美知太郎)のメンバーたちの論調や人脈は、この1990年代の半ばから後半にほとんど途切れたのではなかろうか。
 日本会議の活動家たちは石原萠記の「左翼」性を強調し、日本文化フォーラム・日本文化会議の歴史を決して高く評価しないのだろうが、日本会議には全く欠如している感のある「知性」・「理性」があり、また<反共産主義>の明確さにおいて、立派な<保守>だったと思われる。
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 1991年/ソ連解体。
 1991~93年/宮沢喜一内閣。
 1993~94年/細川護熙内閣。
 1994年/日本共産党第20回党大会-「ソ連は社会主義国でなかった」。宮本顕治・中央委員会議長。不破哲三・幹部会委員長。
 1994年/日本文化会議解散。村山富市内閣発足。
 1994年/福田恆存、逝去。
 1995年/戦後50年・村山内閣談話。新進党結成。
 1996年/新しい歴史教科書をつくる会発足。
 1996年/高坂正堯、逝去。
 1997年/日本会議発足。
 1997年/日本共産党第21回党大会。書記局長・志位和夫。宮本顕治は退任。
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2042/講座・哲学(岩波)や哲学学者と政治・社会系学者・評論家。

 岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
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 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。

1996/池田信夫のブログ008-マルクス。

 池田信夫ブログ2019年6月26日/7月1日「共産党の時代がやって来た」。
 最後に「意外に共産党の時代が来るかもしれない」とは、冗談がきつい。
 池田はマルクス主義の歴史をよく知っているらしい。今回も、こんな文章がある。
 ・「マルクスは国有化を否定したが、その後の社会主義では『生産手段の国有化』が最大のスローガンだった」。
 ・「マルクスが『プロレタリア独裁』を主張したのは戦術論であり、レーニンが暴力革命を起こしたのは、労働者階級の存在しないロシアでは、それ以外に政権をとる手段がなかったからだ」。
 ・マルクスは「未来の共産主義社会では、生産を管理するのは簿記のような機械的な仕事になると考えた」(→人工知能→共産党でも)。
 いくらでも議論ができそうな気がするが、ともあれ、池田信夫はマルクスに「若い頃に影響を受けた」とこの数年以内にどこかで明記していた。
 そして印象としては、マルクスだけは守りたい、または少なくともマルクスだけは全面的には否定したくない、という気分を持っていることが分かる。
 マルクスと資本論に関する著書もあるくらいだから、私などよりはるかにマルクスを読んでいる(読んだ)に違いない。
 しかし、マルクスと解体した「ソ連」またはマルクス・レーニン・スターリンの「関連」を冷静に、かつ多面的に論じるのは困難だし、<現実政治>または日本共産党の存在のもとでの日本での議論・検討がいかほどに学問的に?きちんと行われたかは、はなはだ疑わしい。
 秋月もまた、単純にマルクス=レーニン=スターリンと等号化できないことは当然のこととして理解できる。
 「マルクス=レーニン主義」というのはスターリンによる、その「真」の継承者として自分を正当化するための造語だった。上の三者のうちの最大の断絶はマルクスとレーニン・スターリンの間にあるだろう。日本共産党・不破哲三らが同意するはずはないが、後者は<レーニン・スターリン主義>または<ボルシェヴィズム>または<ロシア共産主義>と一括することができる。
 つい最近に試訳した1975年論考=<スターリニズムのマルクス主義的根源>でも、L・コワコフスキはスターリン時代に定式化された以上にマルクスの思想は「豊かで、繊細で、詳細だ」ということを認めている。
 また、その大著の中には、<レーニン主義はマルクス主義に関する可能な「解釈」の一つ>だと明記されていて、レーニン(・スターリン)の「責任」は全てマルクスに起因する、などとは書かれていない。
 L・コワコフスキほどに慎重で、注意深い、冷静な見方をする人物は稀少だろう。
 そして一方で、彼は、スターリニズムの「根源」はマルクスにある、レーニンもスターリンも決してマルクス主義を「歪曲」し、それから「逸脱」したのではない、決して「反マルクス主義」ではないと熱心に説く。
 彼によると、<真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定>という等式には、「非マルクス主義のものは何もない」。
 あるいは、「マルクス主義の歴史哲学」は、「本質的に歪曲される」ことなくその「解釈」を通じて、スターリニズムに「イデオロギー上の武器」を与えた。
 150年ほど前のマルクス(・エンゲルス)の書いたことと、レーニンの書いたこと・したこと、スターリンの書いたこと・したことの「関連」を、単純に語れるはずがない。単純な原因・結果の関係ではない。
 思想、政治綱領、個別政策方針、さまざまの次元がある。<イデオロギー>が全てを決定したわけではないが、<マルクス主義>が全く無関係だったわけではなく、レーニンもスターリン(のイデオロギーと現実政治)も<その数ある延長線上にあったものの一つ>だと見ることも全く不可能ではない。
 これは、歴史の見方に関連する。ある観念・主張(例えばマルクス主義)があったとして、その後の進展はそれの<必然>か、無関係の<偶然>か。
 これがL・コワコフスキが1975年の小論考で最後に触れていた点だ。
 ***
 そして、<必然>か、無関係の<偶然>かは、社会・歴史のみならず、個々人・ヒトの一生についても語りうる基本要素だ。
 ①遺伝(生物的必然)、②環境(生育中の影響)、③本人の<自由な意思>。
 マルクス主義に魅力があるのは、こうしたことをも考えさせ、適切だったかは別として、人間の、とくに青年期の男女たちに<生き方>に関する観念を与え、若者に特有の(幼くて単純な)<理想>に訴えかけたことにあるだろう。

1989/宮地健一による稲子恒夫。

 ロシア革命(とくにネップ)や日本共産党の詳細な主張・歴史認識に関心をもったのはとりわけ2016年になって以降だったように思う(むろんそれまで江崎道朗のレベルで全くの無知だったわけではない)。
 早々に入手したのは、古書でも安価ではなかったと思うが、以下だった。
 稲子恒夫編・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。
 本文から事項索引まで、計1069頁。別に、はしがき・目次で計15頁。
 「編」となっているが、稲子以外の執筆者はいない。
 稲子恒夫、1927~2011。名古屋大学法学部教授、同大学名誉教授。
なお、レシェク・コワコフスキ、1927~2009。
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 <宮地健一のHP>の中に、稲子恒夫に関する以下の記述がある。宮地によるものだと思われる。**(1)と**の間は、「」を付けないが、引用。但し、一部に下線を付し、全角数字は半角に改め、一文ごとに改行した。**(1)と**(2) がある/この区分けは秋月による。
 **(1)
 稲子恒夫名古屋大学法学部教授は、著名なソ連法学研究者で学者党員だった。
 ソ連崩壊前、彼は、ソ連体制・レーニン賛美党員で有名だった。
 しかし、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」などに直接接し、愕然とした。
 彼は、ある時、水田洋名古屋大学名誉教授に会って、『私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた』と告白した。
 その会話内容を私(宮地)は、水田教授からじかに聞いた。
 その後、稲子名誉教授は、脳梗塞の後遺症にもかかわらず、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析し、下記『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)を、70歳・1998年から80歳・2007年にわたり、10年間掛けて完成させた。
 私(宮地)が別件の大須事件取材で、稲子宅を訪問した時点も、彼は1069頁のすべてを自分でパソコンに入力している最中だと語った。
 彼は、出版後の2011年8月に死去した。
**(2)
 ちなみに、稲子教授に関するエピソードを一つ書く。
 1969年、全国の大学封鎖運動と同時期に、新左翼・革マルが、名古屋大学の文学部・教養部を封鎖し、立てこもった。
 名大の共産党3支部-(1)教職員支部・(2)院生支部・(3)学生支部は、封鎖対策問題でグループ会議を初めて開いた。
 私(宮地)は、共産党愛知県委員会の代表で参加した。
 私は当時、(3)学生党委員会と(2)院生支部も担当していた。
 3支部からトップが2人ずつ参加した。
 (3)学生党委員会は、共産党員400人・民青1000人を抱え、全学部だけでなく、文化部ほとんどにも共産党グループを配置していた。
 (2) 院生支部も全学部にできていた。
 場所は、稲子宅だった。
 稲子教授は、(1)教職員支部のトップだった。
 テーマは、封鎖解除をどうするか、だった。
 稲子教授の提案で、圧倒的多数の共産党・民青組織は、封鎖を包囲し、ビラ・立看板などの宣伝行動をするだけで、武力解除方針を採らないという結論で合意した。
 その時点、広松渉は、名古屋大学文学部教授で、ドイツ語・哲学を教えていた。
 彼は、封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた。双方に暴力的出来事もなく、新左翼・革マルはまもなく自ら封鎖を解除した。
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 稲子恒夫が日本共産党系くらいの知識は私にもあって、この欄の<マルクス主義法学講座>(日本評論社-編集担当/林克行)の紹介の中でも、稲子が有力な「マルクス主義法学」の研究者だったことが分かる。
 上によると、それ以上に、稲子恒夫は、名古屋大学の同党「教職員支部」のトップだったというのだから、「院生」と「学生」を除き、実質的には日本共産党名古屋大学総支部長だったと見てよいと思われる。
 その稲子恒夫が1991年12月のソ連解体以降に、名古屋大学同僚(・文学部)の水田洋に、こう告白したのだという。
 「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」。
 1927年生まれの稲子は、1992年に65歳。
 1961年にはすでに入党していたのだろうから、少なくとも(人生の最も活動的な)30年間を、「根本的に間違っていた」「認識」をもって、ソヴィエト法または社会主義法という科目の教師およびこの分野の研究者として過ごし、かつ日本共産党という政治団体の有力な構成員を務めてきた、ということになる。
 一度きりの人生。哀切感、気の毒という感覚、を覚える。
 彼の現役?活動中に敵対していた勢力の一員だった者からすると、そう単純なものではないかもしれないが。
<宮地健一のHP>には「学者党員」に関するその他の記述もあるが、今回は省略する。
 田口富久治、長谷川正安等々、なぜか名古屋大学の法政・人文関係には日本共産党員教授が多い(多かった)。法学部といっても、公法・政治学分野に限られるかもしれないが。また、水田洋も。
 ところで、上に出てくる名古屋大学文学部教授・広松渉(廣松渉)は、のちに東京大学教養学部教授になった。1933~1994。
 廣松渉・生態史観と唯物史観(講談社学術文庫、1991。原書1986)の「はじめに」の中に、こういう旨の記述がある。「」は引用。
 梅棹忠夫の<生態史観>論文の「論趣には体制側のイデオロ-グを随喜せしめるものがあり」、一方で、「マルクス学徒の神経を逆撫でする言辞に充ちている」。梅棹論文はたしかに「唯物史観を採る者にとって甚だ"癇に障る" 代物である」。
 上の宮地健一の記述によると、広松渉は「封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた」。
 広松渉(廣松渉)自身の記述によっても(上に言及の部分以外も含めて)、日本共産党員または同党系の研究者ではなくとも、この人は「マルクス学徒」、「唯物史観を採る者」ではあったわけだ。
 日本の「左翼」の、または<左翼的雰囲気>の層の厚さ・深さを知っておく必要があるだろう。かつまた、ここには日本に独特なものがあると見られることも。

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
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 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1935/山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(2001)。

 数年前に社会主義・共産主義や日本共産党関係の文献を集中的に収集していたとき、つぎの本も手に入った。1990年-1994頃の共産党中央委員会報告集が1994年党大会直前のものも古書で意外に安価で入手できて、そちらの方をむしろ興味深く見ていたのだったが。
 山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
 「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
 1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
 以上は、上の本の「年譜」による。
 さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
 1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
 6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
 1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
 1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
 1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
 1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
 1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
 1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
 1988年、大阪経済法科大学客員教授。
 1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
 1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
 1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
 1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
 1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
 1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
 2000年、逝去。
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 以上、知らないことばかりだった。
 1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
 1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
 東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
 他にも、より強く感じることがある。
 第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
 上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
 死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
 第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
 不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
 不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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1911/言葉・文章と「現実」④-革命。

 「法」よりも大切なものがある。
 これは、そのとおりだ。
 人の生命を最も尊重されるべきと考える人にとって、「法」よりも生命は重い。
 但し、「法」は、この場合は日本の刑事法だが、いろいろなことを配慮しているもので、例外的には「人殺し」を容認している。「死刑」、「正当防衛」等。
 「死」の定義も「脳死」問題も、おそらくは殺人罪(共犯を含む)・自殺幇助罪等との関係で問題になるのだろう。
 元にさっそく戻って、「法」よりも大切なものがある。これは、そのとおりだ。個々人にとって、「法」などが介在しない生活が望ましいかもしれない(しかし、かなりの程度は実質的、客観的に、そうでもないことは別に述べたい)。
 しかし、問題が「国家」の行動あるいは国政に関係する場合には-ここでの「国家」はいわゆる狭義の「政府」だけではなくて少なくとも立法・司法も含み、地方「自治」体も含む-、簡単に、「法」よりも大切なものがある、と主張してはいけない。
 花田紀凱が編集長している雑誌で、すでに月刊Hanada になっていただろう、ある号の読者投書欄の冒頭に、こんな主張が掲載されていた。
 ①<憲法よりも国家の方が大切だ。>
 この考え方は、法律レベルに落とすと、つぎと同じだろう。
 ②<情報公開「法」(法律)よりも軍事機密保持の方が大切だ。>
 これらの主張の趣旨は、私にもよく理解できる。
 だが、理解できる、というのは、そのとおりだと肯定する、という意味ではない。
 上の①に絞る。かつて、櫻井よしこは、「自衛隊は違憲だ」ということから出発しなければならないと明記していた。
 しかし一方で、2017年5月頃につぎの旨を、これまた明記した。
 <法理論的には問題があるが、現実的には、安倍晋三「自衛隊」明記提案も「したたか」で、容認できる。> これもこの欄で既述。
 そして、櫻井よしこが共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」とやら(正式名を確認しない)は、自衛隊員の名誉のためにも?<憲法に自衛隊明記を!>という運動をしているらしい(現実にはたぶん、日本会議派の活動員たちがしているものと思われる)。
 少し戻ると、<法的には問題があるが、現実的には>という櫻井よしこの発想は、<革命>を容認するものだ、と批判的に、この欄で指摘したことがある(2017年夏頃までに)。
 この考え方は、上の①とほとんど変わらない。
 本来の、この人が純粋には理解する「法」よりも「現実的政策」を優先させてよいことがある、ということを認めているからだ。
 国家・国政について、<国家の方が「法」よりも大切だ>と主張しはじめると、いったいどういうことになるか?
 これは「革命」を容認することだ。
 ここで「革命」は、「法」的正統性に関する<連続性>を絶つ、という意味でさしあたり用いる。
 「法」よりも「国家」が大切であるならば、「国家」のためには「法」を無視しても、同じことだが侵害しても、よい、つまり既存・現行の法・憲法との関係で「違法」・「違憲」であってもよい、ということになる。これは、<革命>を容認することだ。
 櫻井よしこの頭の中には、こういう<思想>が少なくとも一部にはある。
 そしてまた、花田紀凱も共感したのかもしれないが、<憲法よりも国家の方が大切だ。>という主張は、これを全面的・一般的に肯定する<思想>だ。
 なぜか、を少し叙述してみよう。
 問題はそもそも「国家」・「国益」とは何か、いったい誰が・どの機関が、どうやって判断するのか、にある。
 人によって「法」よりも大切だと考える「国家」・「国益」の意味内容は異なりうる。
 それを、自らの、又は自分たちの「国家」観、「国益」観でもって決定せよ、というのならば、そしてその場合には「法」>「憲法」を無視してよいという主張は、<革命>を、そして(曖昧な概念だが)<全体主義>の到来を容認するものだ。
 この点では、安倍晋三首相も、自民党も、<革命容認>思想に立ってはいないものとほぼ断定することができる。安倍首相は自らの地位が日本国憲法・公職選挙法・国会法等々に基づくことを当然に自覚・意識しており、「自衛隊」の存在とその組織や行動可能範囲が憲法(日本国憲法)に違反してはならないことを、十分に知っているものと思われる。
 だからこそ、憲法の現九条に関する内閣の「解釈」を変更したうえで、(安倍内閣は)いわゆる平和安全法制を国会に提案し、限定的集団的自衛権の<行使>を容認することに(内閣ではなく)国会も賛成して、諸法律が改正・制定された。
 この内閣・国会による「憲法解釈」を覆すことができるのは司法権(究極は最高裁判所)だが、そのような措置・判決は出ていないので、現在の状態は決して「違憲」ではない。
 従ってむろん、<立憲主義>に違反してもいない(正確には、そのような結論を、今の憲法上で出しうる権限ある国家機関が出していない)。
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 余計なことに(いつものように)立ち入れば、「立憲民主党」というのは奇妙奇天烈な名称の党だ。
 数十年前の内閣(内閣法制局)の憲法九条「解釈」だけが(またはそれまでが)合憲で、それ以外は憲法に違反し、「立憲主義」に違反すると(某一学者の影響を受けて?)考えているのだろうが、そもそも自分たちの「憲法解釈」だけが唯一正当だとする根拠はどこにもない。
 別途書いてもよいが、<立憲主義>にさほど深遠な意味があるわけではない、と秋月は理解している。
 これは要するに、「法律」=議会制定成文法よりも上位にある「憲法」が、法律制定機関(国会)・司法・行政権(地方「自治」体の立法・行政を含む)を制約し、拘束する、というだけのことだ。
 権力=政府(=安倍内閣?)だなどと理解してはならず、それよりも広い。
 核心的で最も重要な意味は、「国権の最高機関」・「唯一の立法機関」とされている国会=世俗的・一時的な「立法」者ですら、憲法には違反してはならない、ということだ。このような意味での「立憲主義」の採用はたしかに、「近代」以降のことだろう。
 かつてのソ連・現在の中国等は「立憲主義」国家か否かを、「立憲民主党」の諸氏には答えていただきたいものだ。
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 元に戻る。
 「国民」主権という場合の「国民」や、その「国民」による「国家」意思決定(・反映)手続は多様であり得る。したがって、何が「国民の意思」なのか「国民主権」に合致するかを簡単に答えることはできない。当たり前のことだ。
 興味深いかもしれない事例問題を作ってみよう。
 ①日本共産党とその党員・支持者たちが、ある程度の「実力」組織をもち、あるいは警察・「自衛隊」の内部にも党員・支持者を拡大して、これら組織の過半員は党員・支持者であるか積極的には同党に反対しない者になっている。
 ②日本共産党が現在または将来の「国会」、つまりは国民代表者であるはずの国会議員たちは、<真の>「国民」代表ではなく、<真の>「国民」の意思を示すものではないと判断・決定し、どこかで(国会議事堂前も使って?)数十万規模の大集会を開き、かつ地方各地で同様の集会を開く。
 ③かつそれが独自にもつ「実力」組織はもちろん、警察組織・「自衛隊」は、上の集会等を規制できず、少なくとも「実力」をもって解散させることができない。
 ④地方を含む上の集会参加者は事実上、首相官邸、多くの省庁の建物、警視庁および同類の地方の役所を(道府県警察本部も含めて)「制圧」する。
 ⑤日本共産党はあらかじめ<新政府>閣僚名簿を用意し、東京のどこかに<新内閣>が構成されたとし、集まったマスコミ等に今後の政策方針も発表する。
 ⑥これらに関して果敢な何らかの措置を首相・警察庁長官等の権限者は発することをせず、又はすることができず、国会(衆参の区別をしないで書く)の多数派の議員団が特別の法律を議決・公布・施行して対処しようとするが、躊躇する議員も与党内にいて、協議に時間を要する。そして、「新政府」樹立等の報道等に接したり、国会内の共産党議員の主張・意見に立腹したりして、動揺したり立腹したりした結果として、与党議員はかなり退席してしまう。
 ⑦残る国会議員たちだけでぎりぎり現行国会法等が定める定足数を充たすことが判明し、共産党議員団は現国会を「自主解散」をし、実質的には<真の>国民の意思を代表するものとして「新政府」を正統な内閣として承認し、「新政府」のもとで現公職選挙法にもとづく選挙によって新しい国会を構成する旨の提案をし、同党と共闘政党および与党内「日和見」議員を足すとぎりぎりの過半数はあったので可決される(過半数でよいかの議論は一部または相当にあったが、結果的には無視された)。
 ⑧共産党および同党議員団は国会の<過半数議員>が賛成した<有効な>議決であるとし、「新内閣」への行政権移行を宣言し、国内・国際的にも大きく宣伝・報道する。
 さて、この事態、あるいは<権力移行>は、「暴力」革命なのか「平和」革命なのか?
 そもそも「革命」にあたるのか、そうではないのか。
 <真の>「国民」の意思に基づくというのは本当か? しかし、出席国会議員の<過半数>は新政府をそれとして正当化した、ということはどういう意味をもつか?
 いろいろな場合・動きを(米軍とか天皇とかの言動等を)想定して記述すると複雑になるので、避けている。
 言いたいのは、「平和」革命か「暴力」革命か、あるいは「革命」か否かは、実際にはさほど明確になるのではないだろう、ということだ。
 これは、元々は「国民」とか「国民の意思」という言葉から書き出したのだったが、とりわけ最後の「暴力革命」という言葉・概念の理解の仕方になる。
 そして、日本共産党が「暴力革命」路線を捨てていないコワイ党だといくら主張したところで、その「暴力革命」の意味を明確にしておかないと、全く意味がない。この批判は絶対に概念的、理論的には、日本共産党にコタえていないだろう(そのおかげで票が減るのはイヤだろうとしても)。
 ロシアの十月革命(新暦11月)の<新政府設立>=「社会主義革命」と少なくとものちに言われた一日または数日間、「実力(=暴力)組織」は存在していたが、じつはほとんど「血」は流れていない、つまり旧体勢派(当時のケレンスキー首班の臨時政府側)に多数の死者が出たのでもない。大殺戮、大虐殺といったものは起きていない。
 しかし、どうもこれは<暴力革命>だとされているようでもある。
 しかし、上の日本の?事例は、現憲法下の「国会」が何とか機能しており、法的連続性を何とか認めようとしており、かつかりに抵抗する国民・旧大臣等の大殺戮等がなかったとすれば、ロシア革命よりはさらに穏便な<権力移行>なのではないか?
 ともあれ、基本的な言葉・概念の使い方によって、「現実」はいかようにでも形容され、表現され得る、という面がある。
 <真の国民の意思>が何かはむろん容易には具体的に判明しないが、<それを代表する>とする政党・同党議員がまさにそれを代表すると「思い込んで」、実力組織の用意も含めて、強力に上のような「事例」を生じさせることはあり得るのではないだろうか?? 彼らにとって、「国民主権」原理と、なんら矛盾していないのだ。もともと国会以外では、<多数者に支えられた>新政府なのだ。
 なお、1917年10月、第ニ回全国ソヴィエト大会でのメンシェヴィキ等の「退席」はボルシェヴィキ(のちの共産党)に明らかに有利になっており、たぶん<全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会>の名前でレーニンは<臨時政府は打倒された>等の声明を発した。
 長くなったがともあれ、「暴力革命」という概念の意味も明確ではなく、その範囲内に一定の「現実」が該当するか、という問題が生じることも当然にあり得るだろう、ということだ。
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 日本会議会長の田久保忠衛は昨年か一昨年の同会機関誌「日本の息吹」定例号かその特別号で、以下の旨を明言していた。
 <あらためて綱領・設立宣言等を読んでみたが、なかなかいいことを書いているではないかと思った。>
 会長が「あらためて」読んでこう感じた、というのも幼稚な感じがするが、これに関して言いたいのは以下だ。
 どの組織・団体もその設立趣旨・規約等々に<悪い>こと、一般的に<指弾されるようなこと>は書かないだろう。人を殺す団体です、とか日本の破壊を目指す団体です、とかはまず(前者はたぶん絶対に)書かない。
 設立宣言等に書いていることと、客観的にその組織・団体が行っている活動の効果や影響は(それがあるとして)同じであるとは全く限らない。「言葉・文章」と「現実」的機能が同じであるはずがない。
 日本共産党もまた、その綱領で、「社会主義」・「共産主義」という言葉を気にかけなければ、「なかなかいいこと」らしきものを書いている(以下、現行の綱領の一部)。
 ・「…さらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 ・「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」。
 前者のうち、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」。なかなか、美しい社会ではないか。とくに「真に平等で自由な人間関係からなる…」は気にいった。「真に」と書いてあるから、では「ニセ」は?という疑問が生じるし、「原則として」とあるのも、タマにキズだけれども。

1899/G・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス(2016)。

 ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
 L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
 一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
 また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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 カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
 ①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
 ②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
 これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
 ①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
 小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
 小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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 上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
 ・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
 ・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
 ・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
 ・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
 ・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
 ・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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 このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
 Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
 「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
 イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
 マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
 多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。
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 しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
 Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
 T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
 だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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 日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
 <身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
 かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
 なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。

1869/宮地健一HPによる日本共産党の異様性・稀少性。

 <宮地健一のホームページ>の中の、コミンテルン型共産主義運動の現状-ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り→1/ヨーロッパの発達した資本主義国における転換・終焉の3段階・2/ヨーロッパ各国・各党の終焉の経過と現状→3)/発達した資本主義国での運動…ユーロ・コミュニズムといわれた諸党、の中につぎの表が掲載されている。宮地作成のものと思われる
 <(表1)レーニン型前衛党の崩壊過程と割合
 この表は、「レーニン型前衛党」の要素として、①プロレタリア独裁理論、②民主主義的中央集権制、③前衛党概念、④「マルクス・レーニン主義」、⑤政党名=「共産党」を挙げ、ヨーロッパ各国および日本と<社会主義4国(中国・北朝鮮・ベトナム・キューバ)>の各<共産党>がどのように維持したり、放棄等をしたりしているのかの「現状」を示している。
 これによると、社会主義4国は北朝鮮の党名が「労働党」である以外は全て「堅持」している。
 ヨーロッパ(東欧は除外)各国の共産党は、⑤の政党名(政党形態)の項によると、1.イタリア-「左翼民主党」に1991年に改称、2.イギリス-1991年に解党、3.スペイン-1983年に分裂、4.フランス-「共産党」維持、5.ポルトガル-「共産党」維持。
 以上と日本(日本共産党)をすでに比べてみると、日本と同じなのはフランスとポルトガルだけ。
 ④「マルクス・レーニン主義」の堅持状況は、1.イタリア-放棄、2.スペイン-放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。
 そして宮地は日本(日本共産党)は「訳語変更堅持」だとする。これは、「科学的社会主義」という語・概念への言い換えのことを意味するとみられる。
 以上までで日本(日本共産党)を比べてみると、日本と同じなのは、すでにポルトガル(ポルトガル共産党)だけ
 ③の前衛党概念の堅持状況も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。宮地によると日本は「隠蔽・堅持」。
 ②の民主主義的中央集権制という組織原則については、1.イタリア-1989年に放棄、2.スペイン-1991年に放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。宮地によると日本は「略語で堅持」。おそらく「民主集中制」だろう。
 この点も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。
 ①のプロレタリアート独裁理論については、1.イタリア-1976年放棄、2.スペイン-1970年代前半放棄、3.フランス-1976年放棄、4.ポルトガル-1974年放棄
 ここで、初めて、日本とポルトガルの違いが出てくる。
 日本共産党は「プロレタリアート独裁」という言葉(訳語)を変更しているが、実質的には維持しているからだ。宮地健一も、日本共産党につき「訳語変更堅持」と明記している。
 宮地健一は、この表の上すぐと下で、つぎのように日本共産党の基礎的な現状についてまとめ、コメントしている。一文ごとに改行。
 「資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。
 ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。
 よって、5つの基準・原理のすべてを、『訳語変更、略語方式、隠蔽方式』にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。

 「21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。」 
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 「世界で日本共産党ただ一つ」、「日本共産党という一党だけが」ということは<誤り・間違い>であることの論拠にはならない。
 しかし、日本には<左翼>または<容共>者が欧米各国に比べて異様に多いということの根本的な原因を、この日本共産党という独特の政党・政治組織の存在に求めることは誤りではない、と考えられる。
 上に記されているような意味で「世界でただ一つ」の共産党がある程度の組織を維持しつつ存在するがゆえに、安心して?、朝日新聞社等々の「左翼」メディアがあり、また、立憲民主党等の「左翼」政党がある。岩波書店(・日本評論社法学系)等の「左翼」出版社もある。
 立憲民主党はともあれ、朝日新聞社、岩波書店等々の中には、当然のごとく日本共産党員もいる。
 また、日本共産党の路線が<先ず民主主義革命>であるために、「民主主義」という旗印(これに近いのが「平和」・「護憲」)を支持して日本共産党の周囲に、ある程度の範囲の者たちが集まってくる(そして入党勧誘の候補者になる者もいる)ということになる。
 こうしたことの背景にはさらに、日本はほぼ日本語だけで社会が動き、(共産主義・共産党に関するものも含めて)英語等の外国語による世界の情報が十分に正確には入っていない、ということがある。
 上の宮地健一が示すような現状は、日本ではほとんど知られていないだろう。
 そうした外国語情報の流入は意図的に阻止されていることがある、と考えられる。
 明らかに<反共産主義>の文献は、どの分野であれ、日本語に訳されて出版されることが全くないか、ほとんどない。少なくとも大手出版社はそのような文献の邦訳書を出版しない。
 欧米では意見・感想の違いはあっても読書されて当然の、例えばレシェク・コワコフスキの大著、リチャード・パイプスの二著の邦訳書がいまだに日本に存在していないのは、その顕著な例だろう(一方で、欧米の若手<親マルクス主義系>研究者の本が簡単に邦訳されたりしている)。

1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
 ***
 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1853/<ファシズムの兆候>と闘うつもりの日本の左翼-神谷匠蔵の一文から①。

 <民主主義対ファシズム>という(基本的対立構造に関する)幻想の解消を秋月瑛二が日本での主要課題の第一に挙げたことがあるのは、むろん、そのような幻想をなお抱いている人々が多い-欧米よりも顕著に多い-という判断による。
 大まかにいってそのような人々は、護憲・改憲の議論にもかかわって「ガラパゴス左翼」とか「えせリベラル」とか称される人々(・組織や政党)に該当するので、この課題または論点は、少なくとも一部の論者たちにとっては、すでに無視してよい論点として決着済みの可能性はある。
 しかし、依然として上のような「基本的対立構造」に関する「理解」をしている人々が顕著に存在していると見られる。簡単に言えば、日本の社会・政治諸現象の中に「ファシズム」の兆候が見られ得るとし、その兆候が見られたとすればそれを批判的に指摘し、それと闘うことこそが「正しい」見方で、そのような立場を採るのが「正しい左翼」であり(当然に正しくないことはあり得ない)共産主義者(>日本共産党員)だとする、そういう人々だ。
 「言論プラットフォーム」なるアゴラの中で知ったが、1992年生まれらしい、信じがたいほどの若さの神谷匠蔵は、2017年1月の文章の中で、主題は「ポピュリズム」ではあり、また上のような私の論脈の中でではないが、上のような「リベラル左派及び共産主義者」の考え方・発想の仕方を、つぎのように述べている。
 神谷・2017年1月5日付「左派によって歪められた『ポピュリズム』の実像」。
 ・「左派」は「今日でもあらゆる右派的な言動の中に『ファシズム』の影を、『全体主義』の影を、…見出しては恐怖を語り『先の大戦の惨禍』が再び繰り返される可能性をあらゆる点に見出し、その芽を潰すことで『人類』に対して政治的に貢献できていると思いたい」のだろう。
 ・「左派のポピュリズム批判」は第一次大戦後から現在まで「一向に変化して」おらず、ヴィシー政権・ナチスおよびドイツ国民を「批判」したのと同じ言葉でトランプ氏やルペンに対する「人身攻撃」を浴びせているだけだ。彼ら左派が「『ポピュリズム』を批判する時、その念頭にあるのは常に第二次大戦の記憶であり、ナチスであり、ヒトラーである」。
 ・ポピュリズムは必ずしも「人種差別」や「排外主義」という要素を持たずたんに「娯楽至上主義」であり得るのであって、鍵は「大衆の熱狂」だ。にもかかわらず「左派および共産主義者が敢えて『無知な大衆の人種差別的排外主義的感情の発露』へと矮小化した」のは彼らに都合が良かったからだろう。
 ・つまり「リベラル派・左派は」、「ナチスと自分たちを区別する為にあたかもナチス的な『ポピュリズム』においては人種差別思想が不可欠の要素」だっかたのごとく語り、「そうすることで自らの『ポピュリズム性』を隠蔽してきたのである」。
 ・さらに言えば、「ポピュリズム」=「反知性」、自分たち=「知性」だと主張できるように「ポピュリズム」を再定義したのだ。かくして、「『知的で教養ある貴族の良識ある保守主義』と『大衆の扇動によって体制変革を試みる革命主義』の二項対立図式」を、見事に「『人種差別的な大衆感情を利用する極右』と『異文化に理解のあるリベラリスト』へとひっくり返した」。
 ファシズムとは直接に関係がない部分まで引用してしまった。
 しかし、「『先の大戦の惨禍』が再び繰り返される可能性をあらゆる点に見出し」、「念頭に」置くのは「常に第二次大戦の記憶であり、ナチスであり、ヒトラーである」というのは、欧米について語られていても、まさに日本の「左翼」=容共主義者の現在の主張の仕方、基本的発想にもあてはまる。
 「ナチスであり、ヒトラーである」は、「ナチスであり、ヒトラーであって、それと軍事同盟を結んだ日本の軍国主義者たち」と言い換えた方がよいかもしれない。
 繰り返すが、彼らにとって先の大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争であり、共産主義者=ソ連は前者の側に含まれていた。そして、この戦争に「唯一」反対して闘った「栄光ある」日本共産党もまた前者の側にいたのだ。
 首相としての戦後70年談話で怪しくはなったが、それ以前の日本共産党・不破哲三による同党中央委員会政治理論誌・前衛上の論考では、安倍晋三は第二次大戦の「悪」、日本の「侵略」性を認めない→日本はドイツ(+ファシスト・イタリア)と軍事同盟を結んで戦った→ナチス容認→ゆえに「ネオ・ナチス」だ、という単純かつ簡単な(かつ幼稚な)論法と結論が述べられていた(いまだに不破哲三は日本共産党の最高幹部の一人のはずだ)。
 何かといえば少なくとも内心ではナチスとかファシズムに結びつけ、安倍晋三、安倍・自民党や安倍政権という「右派」政権を警戒し危険視して打倒しよう(少なくとも混乱させよう)というのが日本の「左翼」=容共主義者の<怨念>に満ちた基本発想であることを知っておく必要がある。
 こうした、現実認識というよりも政治的な主張に客観的には「協調」しているのは、改憲問題にかかわっての一定の憲法学者・憲法研究者だ。すでに過去のものだが、<集団的自衛権>行使容認をめぐる2015年あたりの安保法制の合憲性や真の語義からは逸脱している「立憲主義」をめぐる問題があった。
 上のような基本的対立軸の設定そのものに差異があること、その設定軸自体に内在する間違いがあること、いや我々も「民主主義」の側にいるのであって「ファシズム」を容認しているわけではないなどと反論・釈明し始めてはならないということ、を意識すべきだ。
 キミたちのいう「民主主義」とは何か?、その中には「正しい」ものならば(あるいはスターリン的以外ならば)共産主義(コミュニズム)も含まれるのか??、としつこく問う必要がある。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1838/2018年8月-秋月瑛二の想念④。

 月刊正論2017年3月号の「編集部作成」のチャート(マップ)は、「保守の指標」と題しつつ右上・左上・左下・右下という反時計回りの4象限をつぎのように示す。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派。
 月刊正論・産経新聞はAで、朝日新聞はCなのだそうだ。
 秋月瑛二が2017年の1/30や2/02で示したのは、つぎだった。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)。

 対米協調・不信+自尊・自虐という二基準と保守・容共+リベラル・ナショナルという二基準とどちらが「優れて」いるか、あるいは少なくともどちらが<視野が広い>か、ということには再びたちいりはしない。
 ここで問題にしたいのは、こうした何らかの二つの要素だけを組み合わせた<社会思潮>の四分類程度で複雑・多岐にわたる「思想」・「意識」等を整理・把握できるのか、という問題設定の仕方そのものだ。
 なるほどある程度の「単純化」は必要で、そうしないと「知的」作業が成り立たない。
 しかし、わずかの四分類(四象限化)で済ませること自体が、タテ・ヨコ(上下・左右)の二次元しかない一枚の(平面の)紙の上の作業であることの限界を示しているだろう。
 つまり、三つ目の対立軸を立てて、平面四角形ではなく、サイコロの形のような立体的、三次元的四方型を想定しての思考方法を、最低でも、しなければならないだろう。
 ヒト・人間の本能に内在する感覚からしても、この程度の思考程度はかなり容易に行えそうな気がする。二次元の四象限化程度では、<簡略化>が行き過ぎている可能性がすこぶる高い。
 上のような四象限化を「公式に」示した月刊正論編集部は、その頭の単純さを暴露しているようなものだ。もっとも、それにお付き合いして対案を考えた秋月もおかしいかもしれない。
 もっと多様で柔軟な発想をすべきで、思考の方法や基準を「硬直」させてしまってはだめだ。
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 例えば、「日本会議」と日本共産党は、真反対の側にいると相互に意識しているかもしれない。
 例えば平面上に一つの円があるとして、かりに前者が左端近くに、後者が右端近くにある、としよう(これも、あくまでかりにだ)。たしかに、両者は真反対の側にいて、対立しているように見える。
 しかし、その同じ円形を底面・上面とする円柱を、つぎに想定してみる。
 底から、または上からその円柱を覗いたとする。
 たしかに真下又は真上から見ると、両者は真反対側にいて対立しているようだ。
 しかし、例えば透明の円柱全体を横から眺めたとすると、「日本会議」と日本共産党はいずれも、底面部(下部)又は表面部(上部)に並ぶように存在していて、円柱全体の中ではきわめて近い位置にいる、ということが考えられる。
 対立していそうでいて、この両者は、それぞれの「観念」的な単純発想において、きわめてよく似ているのではあるまいか。
 いつか、つぎの趣旨を書いたことがある。
 不破哲三・日本共産党は「未来」にユートピアを求め、櫻井よしこ・「日本会議」は(日本の歴史・伝統/天皇という)「過去」に理想を求めようとする
 いずれも現在・現況に不満で、過去か未来の「空中の一点」に変革・回復目標を設定する点で、共通しているのではないか。
 むろん、これらは、現存勢力の支持・団結を維持し拡大するという、世俗的・卑近的な「政治的」目的をもつことでも共通するが、これは今回はさて措く。
 円柱を想定するとすれば、もちろんそれ以上に、円球、つまり地球のような丸い立体を想定し、かつその表面部分(地表面や海面)だけではなく、透明なガラス球のごとく内部・奥(地底・海底)も見える、という球形を想定することができるだろう。
 先だって、宇宙空間にいて眺めているような発想が必要だとも書いた。かりに上下・左右・前後について可視能力のある点的な物体の中に認識主体がいるとすれば、それ自体または他者の移動の方向が<上下・左右・前後>のいずれであるのは分からない、それらのいずれでもありうるのではないか、ということを書いた。
 だが、発想・思考のためには何らかの「軸」が必要だとすると、東経・西経/北緯・南緯の二つの軸で表現しうる地表面(・海面)に加えて、地球の中心(地核)までの距離(深さ)をも加えた三つの軸くらいはやはり必要かもしれない。そうでないと、全てが<相対的>になる。
 またこのように円球を想定した思考は、サイコロ的四方型を想定するよりも、はるかに複雑な思考をすることができる。
 上下・縦横・左右の三次元的発想によると、四象限ではなく、2×2×2の八象限化が可能だ。これでも線的(一次元)、平面的(二次元的)思考よりは、優れている。
 だが、所詮はまだ、<社会思潮>等を八つに分類することができるにすぎない。
 世の中には、もっと多数の、無数に近い論点、対立点がある。
 この点、その「内部」を含めた、表面ではなくてむしろ「内部」の位置こそに注目する円球・地球的発想では、ほとんど無限の位置を設定でき、かつ何らかの方法・基準・指標でそれを表現することが可能だ。
 もとより、ヒト・人間の一個体には、このような厳密で複雑な作業をする能力はない。しかし、発想としては、この程度に複雑・多様であることを意識して、「観念」化・「硬直」化を可能なかぎり回避する必要がある。
 唐突だが、では上の「厳密で複雑な作業」をITはすることができるか。将来的にも、絶対にすることはできないだろう。


1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1820/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文①。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 この邦訳書の原書はつぎで、その下に挙げる、ドイツ語訳書もある。
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)
 =Archie Brown, Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein, 2009)
 これらの原書、独訳書には(当然だが)ない著者自身による「日本語版のための序文」というのが、上掲の邦訳書の冒頭に付いている。
 英国人研究者であるA・ブラウンが共産主義と日本や日本共産党との関連について言及していて、秋月瑛二にはすこぶる興味深い。
 英国の一研究者による共産主義と日本の関係の理解そのものもそうだ。しかしさらに、日本人と日本の「知識人」または知的産業従事者たちはどの程度に、このA・ブラウンの指摘または言明に共感するのか、またはそれらと同様の感覚を共有しているのか、かなりの程度の疑問を感じるからでもある。
  いくつかの点をそのまま引用しつつ、若干の感想、コメントを記したい。一文ずつ区切る。
 ①(冒頭すぐ)「共産主義は日本にとっても大きな意義を持っていた。
 たとえこの国が共産主義の支配下に入る可能性はほんのわずかもなかったとしても、である。
 第二次世界大戦後の全期間を通じて、ソヴィエト連邦からの脅威があったし、中国への不安が日本外交に影響を与えた。
 潜在的な共産主義からの攻撃に対する不安こそ、アメリカ合衆国との緊密な外交関係と軍事的協力の主要な理由であった
。」
*この四つめの文の意味を理解できないか、共感できない人々が日本の「左翼」には今でもいるに違いない。
 対等な「関係」や「協力」ではなくて「対米従属」ではないかという論点はさておき、 「潜在的な共産主義からの攻撃」、つまりかつてのソ連、中国、北朝鮮等、現在の中国・北朝鮮等による「潜在的な」または顕在的な攻撃に対する不安・恐怖を示す以上に<アメリカ帝国主義>あるいは<覇権主義・アメリカ>を批判し、攻撃する心性の人々が日本にはまだ相当数存在していると思われる。
 簡単にいって、<左翼>であり、スターリンは別としてもレーニンまたは少なくとも<マルクス>には幻想を持っている人々だ。
 ②(第三段落冒頭)「ヨーロッパで共産主義が崩壊したとき、たいていの共産党は崩壊するか、社会民主主義政党として再出発した。
 日本では、…、共産党がその党名を保ち、議会に代表を有しているという点でやや異色である

 しかしながら、…、議席ははるかに少なくなっている。
 とはいえ、日本共産党はかつてヨーロッパや北米の共産主義研究者の注目を集めていた。
 …『ユーロ・コミュニズム』として知られる改革派傾向の一翼を担ったからである。<一文略>
 地理的な隔たりがあったにもかかわらず、日本共産党はイデオロギー的に、モスクワのソビエト正統派の守護者ではなく、改革に取り組みつつあったイタリア共産党やスペイン共産党に接近したのである」。
 *上の第一・第二文のような認識・感覚を日本の多くの人または日本共産党員およびその支持者たちが有しているかは、疑わしいだろう。
 日本にまだ「共産党」が存続していることは「やや異例」だとされる。但し、私にいわせれば「かなり異例」、または少なくともふつうに「異例」なのだ。
 共産主義とか「共産党」の意味それ自体にかかわるが、この問題は、日本共産党は「共産主義」を実質的には捨てたとか、カウツキーの路線にまで戻ったとかの論評でもって無視することはできないはずだ。
 なぜなら、現在の日本共産党は今でも<ロシア革命>と<レーニン>をの積極的意味を否定していないし、自分の存在の根本である1922年に存在した<コミンテルン>の意味を否定しているわけでもない。そして「社会主義・共産主義」の社会を目指すと、綱領に公然と明記しているのだ。
 但し、著者も現時点のこととして書いているのではないだろうが、上の後半のように「ユーロ・コミュニズム」の一環、イタリアやスペインの共産党と似た類型の党として現在の日本共産党を理解することはできないだろう。すでに「ユーロ・コミュニズム」なるものはおそらく存在せず、少なくともイタリアでは1991年のソ連解体後すみやかに(当時にあつた)イタリア共産党は存在しなくなったからだ。
 日本に「共産党」と名乗る政党が存在し続け、国会に議席まで有していることの不思議さ・異様さを、より多くの日本人が意識しなければならない、と思われる。
 **関連して、<左翼のお化け>のような感が(私には)する和田春樹は、つぎのように2017年に発言していた。
 和田春樹「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しいのですが、それは元をたどればコミンテルンの影響が強かったことに起因しています」。
 現代思想2017年10月号/特集・ロシア革命100年(青土社)p.48。
 江崎道朗が2017年8月著でいう「コミンテルンの謀略」とは中身を見ると、要するに「共産主義(者)の(日本への)影響」ということなのだが、そんなことくらいは、知的関心のある日本人なら誰でも知っていたことで、珍しくも何ともない。
 ゾルゲがソ連の赤軍の「スパイ」で尾崎秀実が日本国内で工作員として働いたことくらいは日本史または共産主義に関心をもつ者ならば誰でも知っていることだ。そして、尾崎秀実の法廷での最終陳述書等もまた、戦後にとっくの昔に公表・公刊されている。
 (江崎道朗が2017年8月になってゾルゲや尾崎秀実がしたことを確認したとしても、何の新味もないだろう。それとも、江崎は自力で?新資料でも発掘したのだったのだろうか。)
 戻ると、日本の「左翼」の和田春樹もまた、(江崎道朗とは異なる意味での)「コミンテルン」の日本に対する影響の、現在にまで残る強さを認めているのだ。また、「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しい」ことも、つまりは日本の「異例」さも認めている。
 上に引用部分にはないが、和田春樹は「日本共産党」にも言及する。しかし、江崎道朗は、少なくとも戦後の共産主義や日本共産党への論及はパタリと止めて<逃げて>いる。
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  アーチー・ブラウンによる「日本語版のための序文」には、あと少し紹介・コメントしたい部分がある。

1813/江崎道朗2017年8月著の無惨⑮。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 前回に触れたように、後掲の邦訳書の「付録資料」の冒頭に訳者・萩原直が注記を施して、この「付録資料」の大半の翻訳は村田陽一の編訳書によることを明記している。
 つぎのものだ。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)。
 従って、江崎道朗は日本語によるこの6巻本が30年以上も前までに「公開」されているのを、(仮に以前は知らなくとも少なくともこの注記によって)当然に知ったはずなのだ。
 しかし、詳細で網羅的ふうに感じられるこの<コミンテルン資料集>に江崎がいっさい接近しようとした気配がないのは、何故なのだろうか。
 <コミンテルンの陰謀>を主題の一つとするかのごとき表題を付けながら、コミンテルンについて、この村田陽一編訳書を参照しようとせず、「コミンテルン」に関する叙述で萩原直の訳書に最も依拠しているのは、何故なのだろうか。
 日本の読者を馬鹿にしているか、本人の「無知」によるとしか考えられない。
 ちなみに、村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)は、この数年内の私でも簡単に入手できている。
 コミンテルンそれ自体が作成・発表した文書・資料がすでに日本語になっていることは何ら不思議ではない。おそらくは戦前から存在しており(日本に関する有名な27年や32年テーゼもある)、戦後のスターリンの死やフルシチョフ秘密報告があってもまだスターリンが日本の(トロツキストら以外にとっての)<容共・左翼>の「輝きの星」だった時期に、(レーニン全集やスターリン全集等もそうだが)スターリン期を含む戦前の<国際共産主義組織>の諸文書・資料の邦訳がないと想定すること者がいるとすれば、よほどの「無知」か「しろうと」だろう。
 萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(1998)の「付属資料」の大半が本当に村田陽一の訳と同じなのかを確認する手間はかけない。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻/1918-1921年(大月、1978)の概要は、つぎのとおり。
 資料件数-総数101。江崎道朗が<抜粋>だけの邦訳を見て、とんでもない誤解・無知をも示している全てで計4の文書の<全文>を含む。これらを江藤が一見すらしていないことは明白。
 以下、前回に記した江藤言及の4資料と対照させておく。右端はこの資料集第1巻での最初の頁と最終の頁だけから見た総頁数。
 ①1919.01.24/招待状-資料2(4頁)
 ②1920.07.28/民族植民地テーゼ-資料45a, 45b(8頁)。
 ③1920.08.04/規約-資料40(4頁)
 ④1920.08.06/加入条件-資料39(5頁)。
 その他、資料部分総頁-二段組み、538頁。「注解」総頁-54頁、「解説」総頁-24頁。数字つき最終頁-628(横書の頁が他にp.12まで)。
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 江崎道朗がコミンテルンについて最も依拠した、つぎの本・邦訳書の原著者はいったいどういう人物なのか。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。

 まず明確なのは、日本語版の<ウィキペディア>には、いずれの氏名でもヒットしない。
 不十分、不正確なところはあっても、L・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリックは、日本語版の<ウィキペディア>にも出てくる。
 つぎに明確なのは、英米語版<Wikipedia>でもKevin McDermott または Jeremy Agnew はの項目または欄はない。前者より著名らしき同名の者が、football-player や singer-song writer にはいる。後者と同名のより著名らしき、映画関係著述者はいる。
 結局のところ、Jeremy Agnew(ジェレミ・アグニュー)の現在については、かつて上の著の共著者らしいことは分かっても、それ以上に明らかにならないようだ。
 つぎに Kevin McDermott は少し前にどこかの高校の歴史の教師という知識を得たのだったが、<Kevin McDermott+historian>で、現在探してみると(といっても今日ではない)、つぎが分かった。<Wikipedia>ではなく、イギリスの大学教員紹介のサイトからだ。
 イギリス・シェフィールド大学とは別のシェフィールド・ハラム大学の「上級講師」(senior lecturer)。「20世紀東欧・ロシアの歴史家。共産主義チェコスロヴァキアとスターリニズムソ連が専門」とある。出生年不明。所属学部等には面倒だから立ち入らない。
 1998年刊行の邦訳書にはどう紹介されているかというと、K・マクダーマットは「チェコ労働運動史」、G・アグニューは「イタリア共産主義運動」の各「研究家」とカバー裏にあるだけで、訳者自身の文章(訳者あとがき)でも(本の内容ではなく)二人に関しては何も触れられていない。
 以下で触れる点も参照すると、1998年時点ではおそらく、二人ともに大学、研究所等の正規構成員ではなかったように見える。当時の推定年齢は30歳台だ。G・アグニューは20歳代後半だった可能性もある。
 いずれにせよ、K・マクダーマットは「博士」の学位はあるようだが、おそらくは50歳台以上でも(イギリスの教育・研究制度をよく知らないが)<教授職>を有しない。
 要するに、<コミンテルン史>を共著として刊行しているが、イギリスおよび英米語圏諸国でさほどに著名な、あるいは評価の高い研究者ではなく、当時はほぼ全く無名だったように推察される。
 原書刊行1996年以降のロシア革命やコミンテルン関係書物について詳しくないが、少なくとも今のところ、この著が参照されているのに気づいたことはない。
 それに、内容にもかかわるが、二人が書いている冒頭の「謝辞」によると、「まえがき」と「おわりに」を除く計6章のうち第5章は別の人物(原書によって正確に綴ると Michael Weiner, シェフィールド大学東アジア研究センター所長)が執筆しており、およそ二つの章は(二人の共同執筆なのかどちらかのものなのか不明だが)既発表の論文を修正・追加等をしてまとめたものだ。二人にとって最初の書籍公刊だった可能性が高い。
 したがつて、いちおうは年代を追って「コミンテルン史」を叙述しているが、この書で初めて体系的に整理して叙述したものでもなさそうだ。
 追記すると、20歳代(または30歳代)の若い研究者が論文類をまとめて初めて一冊の本にするのは日本でもあることだと思うが、共著というのは珍しいだろう。しかも、かりに指導教授だつたとはいえ?、一部をその別の人物が書いているのも、日本ではあまり例を知らない(「まえがき」くらいで意義を語る、というのはあるかもしれない)。
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 こんなことを書いても、江崎道朗は本文を何ら読まず、「付録資料」だけを(致命的な誤読・誤解をしつつ)利用しているにすぎないと思われるので、江崎道朗にはきっと、何の意味もないだろう。
 ただ、関心を惹くのは、第一に、大月書店が、なぜこの本の訳書を刊行したのか、ということだ。これはこの本の内容にかかわる。
 また、第二に、日本共産党直系の新日本出版社や学習の友社でなくとも、(マル・エン全集、レーニン全集等の出版元で)<容共・左翼>であって、1990年以前は明らかに日本共産党系だったと思われる大月書店の刊行物を、なぜ簡単に?江崎道朗が利用したのか、というのも不思議だ。
 加藤哲郎が<左翼>であることを多分知らないほどだから、大月書店という出版社名を何ら気に懸けなかった可能性はある。しかし、この邦訳書の巻末には、同社刊行のマル・エン全集CD-ROM版等の宣伝広告も載っていて、この社の<左翼>性に-常識的には-気づかないはずはないのだが。
 より決定的で明確な、江崎道朗の<反・反共>インテリジェンスに対する<屈服>、したがって、江崎に<共産主義者のインテリジェンス活動>を警戒すべきとするような文章を書く資格はないだろうという、江崎のこの著に現にある叙述については、さらに別に書く。

1810/西部邁という生き方①。

 西部邁(1939.03~2018.01)の名は「保守」論客として知っていたし、少しはその文章を読んだが、教えられるとも、尊敬できるとも、ほとんど感じなかった。
 私の勉強不足といえばその通りだろう。しかし、かつての全学連闘士でのちに「保守」派に転じたというわりには、-以下の点では佐伯啓思も同じだが-共産主義に対する批判、日本共産党に対する批判・攻撃が全くかほとんどないのは不思議だ、と考えてきた。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)や同・保守の遺言(平凡社新書、2018)は、「保守」をタイトルに冠しているが、所持すらしていない。
 西部邁・ファシスタたらんとした者(中央公論新社、2017)は購入したが、一瞥したのみ。
 但し、これが連載されていたときの月刊雑誌はとくに最初の方を少しはきちんと読んだことがある。しかし、熟読し続けようとは思わなかった。
 単行本を一瞥してもそうだが、<オレが、オレが>、<オレは、オレは>という自己識別意識・自己中心意識で横溢していて、何やら見苦しい感がするところも多い。
 きっとよく勉強して(共産主義・コミュニズムについては勉強は終わったつもりだったのかもしれない。これは<日本会議>も同じかもしれない)、よく知っているのだろう。
 しかし、何故か惹かれるところが、自分の感受性にフィットするところがなかった。
 それよりも、記憶に残るのは、つぎの二点だった。月刊雑誌掲載時点の文章によるのだと思われる。以下、記憶にのみよるので、厳格な正確さは保障しかねるが。
 第一。マルクスやレーニンの本を読まないうちに、つまりはマルクス主義・共産主義の具体的内容を知らないままで、東京大学(経済学部)に入学した直後に、日本共産党への入党届(加入申請書?)を提出した。いわゆる浪人をしていないとすると、満18歳で、1957年4月以降の、その年度だろう。
 第二。いわゆる<1960年安保騒擾>に関係するだろう、すでに日本共産党は離れていたとき、何かの容疑で逮捕され、かつ起訴されて有罪判決を受けた(これは彼が付和雷同した一般学生はもちろん、ふつうの活動家学生でもなかったことの証しだろう)。
 しかし、有罪判決であっても、<執行猶予>が付いた
 第一点も興味深いがさておき、この第二の、<執行猶予>付き有罪判決というのが、印象に残った。
 なぜなら、<執行猶予>付きというのは単純な罰金刑ではなくて身体拘束を伴う人身刑だと思われるが、執行猶予が付いたからこそ、収監されなかった。
 そして、収監されなかったからこそ、完全に「自由」とは言えなくとも、大学に戻り、学生として卒業し、大学院へも進学することができた(そのうちに、<執行猶予>期間は経過し、そもそも実刑を科される法的可能性が消滅する)。
 ここで注目したいのは、おそらくは当時の大学(少なくとも国公立大学)での通例だったのだろう、有罪判決を受けた学生でも休学していれば復学を認め、休学中でなければそのまま在籍を認めた、ということだ。
 つまり、学生に対する正規の(日本の裁判所の)有罪判決は、少なくとも当時の東京大学では、その学生たる地位を奪う、または危うくする原因には全くならなかった、ということだ。
 執行猶予付きではなくて実刑判決であれば(当時の状況、司法実務の状況を知って書いているのではないが)、その後の西部邁はあっただろうか
 収監が終わったあとで彼は経済学を改めて勉強し、大学院に進み、研究者になっていただろうか。
 一般的な歴史のイフを語りたいのではない。
 大学あるいは一般社会にあった当時の(反・非日本共産党の)学生の「暴力」的活動に対する<寛容さ、優しさ>こそが、のちの西部邁を生んだのではないだろうか。
 当時の(少なくとも東京大学という)大学の学生に対する<寛容さ、優しさ>というのは、要するに、当時の、少なくとも東京大学を覆っていた<左翼>性のことだ。余計だが、当時の東京大学には、法学部だと、宮沢俊義も、丸山真男もいた。
 しかして、西部邁は自分の人生行路を振り返って、<反左翼だったらしい>彼は、かつての大学、国公立大学、東京大学にあった<反体制・左翼>気分によって「助けられた」という想いはあっただろうか。
 東京大学教養学部に教員として就職して以降の方がむろん、西部邁の重要な歴史なのだろう。
 だが、それよりも前に、彼にとって重要な分岐点があったようにも思われる。これは、「戦後日本」の特質、あるいはそれを覆った「空気」に関係する。
 こんなことは西部邁の死にかかわって言及されることはないが、何となく印象に残っていたので、記す気になった。

1803/言葉・概念のトリック②。

 記憶に残る、世界史的にも画期的だったのではないかと思われる新しい言葉・概念に、「社会主義(的)市場経済」というものがある。
 市場経済=market economy というのは「自由(自由主義)経済」と同じで、「計画経済」とは異なる資本主義経済とほとんど同義だとずっと思ってきた。
 ところが、日本共産党ではなくて中国共産党(・鄧小平)が1991年12月のソヴィエト連邦解体の後で「市場経済」の導入を謳い始めて、中国の経済上の「社会主義的市場経済」というものを打ち出した。
 これとソヴィエト連邦の解体<=ソ連との関係での冷戦終焉>は無関係ではなかっただろう。
 ソ連解体後の日本共産党は綱領をかなり重要な点について大きく変え、新綱領採択の1994年の党大会以降、<①ソ連はスターリン以降「社会主義国」ではなかった。②そういうスターリン・ソ連と日本共産党は闘ってきた>とヌケヌケと言い始めた。
 そして、<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を歩む、と明言した。
 かつまた、<③レーニンは<ネップ>(1921~)の時期にこの新しい路線を確立して積極的に動いたが、全てをスターリンが台無しにした>、という破天荒な「物語」を作り出した。
 現在の日本共産党によると、中国・ベトナム・キューバの三国は<市場経済を通じて社会主義へ>の途を進んでいる「社会主義国」あるいは少なくとも資本主義からは離脱した国だとされる(北朝鮮については、同党ですらこれを否定する)。
 日本共産党の「大ウソ・大ペテン」には今回は立ち入らない。
 興味深いのは、市場経済=資本主義経済という概念設定を崩して、「市場経済」には資本主義的なそれと社会主義的なそれがある、という新しい二分が生まれたことだ。
 要するに、(中国や日本共産党によるとだが)「市場経済」=資本主義的市場経済+社会主義的市場経済になったのであって、「市場経済」という語・概念の範囲は従来よりも拡張された、と思われる。
 これは、<民主主義>の中に<プロレタリア民主主義>あるいは<人民民主主義>も含めるという、一種の概念のトリックなのではないだろうか。
 むろんこれは、中国や日本共産党が追求する(または現に国家として追求しているはずの)「市場経済」の意味にもかかわる。
 日本共産党のいう資本主義国内での(とりあえずの)「市場経済」路線はともかくとして、国家権力全体を共産党が掌握している中国での「市場経済」政策とはいったい何なのだろうか。
 つまり本当に、資本主義的「市場経済」とともに、それは「市場経済」という上位概念で括れるようなものなのだろうか。
 中国経済はもとより中国自体の専門家でもないから、よく分からない。
 つぎに、「保守」または「保守的」という語・概念は欧米世界でもほぼ一般に存在するようだが(conservative、the Conservatives)、日本でのこの言葉の使い方は、「リベラル」(リベラリズム、あるいは「自由主義」)のそれと同様に、かなり日本に独特なものがある。
 正確には、端的にいって「保守」=「天皇」又は「日本主義」と主張している、またはこれを前提としている、有力かもしれない潮流がある。
 これは用語法の大きな誤りではないか、と感じてきている。
 「尊皇」・「天皇制度肯定」あるいは(「反日」と対決するという)「日本」主義は、ナショナリズムではあっても、私に言わせれば「保守」の不可欠の価値・要素ではないだろう(立ち入らないが、ここでの「尊皇」・「天皇」は彼らの観念上のもので、現憲法上のものではないし、まして今上陛下を意味してはいない)。
 「保守」という語・概念のワナに嵌まって、反日本共産党=一部の者たちにいう「保守」と理解してしまうと、とんでもないことになる。かなり長い間、秋月瑛二は、日本でいう<保守>は(も)、当然に反共産主義・反日本共産党を最大の「要素」とするものだろうと漠然と考えてきた。
 数年前から感じてはいるのだが、これは、完全に誤解であり、言葉・概念のトリックに欺されていたのだった。恥ずかしいものだ。さらに書く。

1800/言葉・概念というもののトリック。

 言葉あるいは概念はふつうは何らかの現実や現象を把握して何らかの意味があるものとして作られ、用いられるものであって、一定の現実や現象そのものを複雑な諸要素・諸側面を全て網羅したものとして意味させているのではない。
 当然のこととして、何らかの捨象と抽象化・単純化が行われているものとして、言葉あるいは概念は理解されるべきものだ。
 そうであるにもかかわらず、言葉・概念が一人歩きする、言葉・概念の正確な意味についての正確な合致がないままに(異なる意味を持たしていることを意識しないままに)議論が行われることもある。
 また、そもそも、重要で議論の多い言葉・概念であるにもかかわらず、その正確なまたは厳密な意味を明らかにしないままで、何らかの論述や評論等を行っている者も多い。
 以上だけでは足りないが、このような言葉・概念の特性を利用して、種々の政治的主張も行われてきている。
 「社会民主主義」という語の由来は知らないが、おそらくは「民主主義」または「民主政体」をいちおうは是とできるものであることを前提として、それに「社会的」または「社会主義的」という限定を付したものだろう。
 レーニンのボルシェヴィズムはのちに「レーニン主義」または「レーニン的マルクス主義」とも言われる。
 しかし、レーニン・ボルシェヴィキもまた一時期は(ロシア)「社会民主労働党」の一員だったのだから、むろんマルクス主義=社会主義ではないとしても、少なくとも広い意味での「社会民主主義」者だったことはあった、と言ってよいだろう。
 「社会民主労働党」から分派して(当時はレーニン自体が積極的な「分派」活動者だった)<ボルシェヴィキ>派と名乗ったのもロシア語での「多数派」・「少数派」にかかわる語感とその利用という興味深い点はある。
 それはともかく、この当時およびそれ以降のレーニンの「民主主義」・「民主政体」という言葉又は観念に対する態度も興味深い。
 資本主義をもたらす革命が「自由・民主主義」の革命だとすれば、そこでの「民主主義」はブルジョア的なものであって、究極的には(あるいは社会主義社会)では否定されるべきものであるかもしれない。
 そのような趣旨で、レーニンは「民主主義」・「民主政体」の欺瞞的なブルジョア性を厳しく批判したとされる。
 しかし一方で、「民主主義」・「民主政体」は良いものだとする広範な空気?をも、おそらく(政略的判断として)意識したのだろう。
 いつ頃か、どの論考からかは確認しないが、レーニンが目ざすのは「真の民主主義」、「プロレタリア-トの民主主義」、「民衆・人民の(people's)民主主義」だとも主張し始めた。
 この点以外にもレーニンの発言・記述には独特の一貫性のなさ、不整合性があるので、レーニン全体をその全集類等を通じて過不足なく理解するのはほとんど困難だろうと、私は感じている。そのつど、そのつどの、現実の情勢に応じた?「適当な」言い回しがあるのだ。
 さて、上により、「民主主義」・「民主政体」には、ブルジョア的・市民的なものと「プロレタリア-ト的」・「人民的」の二種があるとになる。
 これは、言葉・概念の大きな進展と「分化」だ。
 このことによって、かつての「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)という国名もありうる(ありえた)ことになる。
 日本共産党の現在の立場は、<ブルジョア的・市民的>民主主義・民主的制度を最大限利用して「プロレタリア-トの」・「人民の」民主主義・民主政体へと移行させることだろう。同党が最初の段階として目ざすと綱領上明記するのは、そのような「民主主義革命」だ。つまり、直接の「社会主義革命」を標榜しているのではない。
 つぎに、「議会制」・「代表議会制」・「議会主義」についても似たようなことが言える。
 ロシアの1905年「革命」後に設立された<ドウーマ>(選挙による議員で成る)に対する態度についても、ボルシェヴィキ党内部で対立があった。レーニンは、参加する(ボルシェヴィキの議員を送り込む)こと自体を否定はしなかったはずだ。
 マルクス主義者を自認する者にとって、現存する「議会制」・「代表議会制」にどう対応するかは一つの重要論点だ。ブルジョア(・市民)のための<欺瞞>装置ではないのか。
 1960年代に日本共産党・不破哲三は<人民的議会主義>というのを主張した(論考類をまとめたものだろう、同名の著書がある)。
 これによって、<議会主義>には「人民的議会主義」とそうではない体制的な・ブルジョア的な?「議会主義」があることになった。
 これは言葉・観念の大きな意味をもつ<分化>だった。
 これによって当時以降の、1961年綱領以降の日本共産党は、<議会議員のための選挙>を安心して、かつ熱心に行うようになった。
 個々の日本共産党員に対してこそ、自分たちは「人民的議会主義」に立っているのであって、体制側の「議会主義」とは異質なのだという自信と誇り?をもつことは、あるいは釈明?が与えられていることは、少なくない意味をもっただろう。
 新しい言葉・概念を「作り出す」ということには少なくなく大きな政治的・社会的意味を持つことがある。それを意識して、つまりは意図して、新しい用語を使ったり、大々的に宣伝することもある(「新自由主義」という語にはその、つまり政治的・政略的な側面が少なくとも日本にはあったように思われる。より普遍的な概念ならば今日でももっと使われているだろう)。
 予期していなかった長さになった。
 「左翼」・「右翼」、「保守」・「リベラル」、「全体主義」、あるいは江藤道朗が何気なく使う「保守自由主義」、井上達夫が「リベラル」とは違うという「リベラリズム」、あるいは「真正保守」・「自称保守」、「反米」・「反米ポチ」等々、言葉・概念の意味(内包)・射程範囲(外延)は明確にしておく必要がある、ということ、そして言葉・概念の作成や使用もきわめて実践的で政治的であることがある、ということを書きたかったにすぎない。
 なお、冒頭に言葉・概念は何らかの現実や現象を意味するという趣旨のことを書いたが、言葉・概念そしてそれらが紡ぎ出す「論理」の中で、いわば下底の言葉・概念を基礎にして、言葉・観念の世界の中で、新しい概念や観念が生み出されることもある。これもまた、おそらくとくに思想家・哲学者(哲学学者ではない)・思弁的論述者といわれる者たちにはよくあることだ。冒頭に「ふつうは」と記しているように、このような形而上の?<現象>が<存在>することを否定しているのではない。

1797/「前衛」上の日本共産党員⑮-2018年03月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2018年03月号による。
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 本 秀紀/名古屋大学教授-安倍改憲の特質。
 山口智美/モンタナ州立大准教授-政権・「右翼」の「歴史戦」孤立と改憲。
 丹波史紀/立命館大学准教授-福島県双葉避難住民。
 鳥畑与一/鳥取大学教授-成長戦略と地域銀行。
 建部正義/中央大学名誉教授-ビットコインの「実像と虚像」。
 久保田和志/弁護士-埼玉九条俳句訴訟。
 神川喜夫/教育ジャーナリスト-大学入試改革迷走と高校教育改革。
 村田 武/九州大学・愛媛大学名誉教授-日本農業の構造改革。
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 以上。別の号につづく。

1786/「前衛」上の日本共産党員⑭-2018年05月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2018年05月号による。
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 山内敏弘/一橋大学名誉教授-安倍九条改憲。
 西谷 修/立教大学特任教授-安倍改憲。
 丹羽 徹/龍谷大学教授-教育無償化論。
 田中 隆/弁護士-安倍改憲と改正手続法。
 鈴木達治郎/長崎大学核兵器廃絶研究センター長-核。
 桜田照雄 /阪南大学教授-カジノ実施法案。
 斉藤敏之/農民連副会長-卸売市場法。
 大日方純夫/早稲田大学教授-明治150年と自由民権。
 中村晋輔/弁護士-米兵殺人国家賠償。
 佐貫 浩/法政大学名誉教授-教育政策と新自由主義。
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 以上。別の号につづく。

1783/「前衛」上の日本共産党員⑬-2017年10月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2017年10月号による。
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 小林 武 /沖縄大学客員教授-辺野古・法治主義・憲法。
 徳田博人/琉球大学教授-辺野古・法治主義・憲法。
 中野晃一/上智大学教授-安倍政権。
 渡辺 治 /一橋大学名誉教授-安倍政治。*またもや登場。
 岩見良太郎/埼玉大学名誉教授-アベノミクス。
 中山 徹 /奈良女子大学教授-アベノミクス下の大型開発。
 山田博文/群馬大学名誉教授-アベノミクス・シムズ理論。
 牧野富夫/日本大学名誉教授-安倍政権・働き方改革。
 立石雅昭/新潟大学名誉教授-柏崎刈羽原発再稼働。
 長澤成次/千葉大学名誉教授-地方自治体の社会教育行政。
 格地悦子/相模原市民-公民館活動。
 宮永弥四郎/教育研究者-貧困。
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 *以下、別の号につづく。 

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1700/社会主義と独裁②ーL・コワコフスキ著18章6節。

 レーニンは、「人民(民衆)」、「被抑圧階級」等々とよく言う。
 日本共産党がこれに該当とするものとして現在用いているのは、「国民」だ。
 「国家、それは一階級の他の階級に対する支配を維持するための機構である」。p.485。
 「国家とは、一階級が他の階級を抑圧するための機構、一階級に他の隷属させられた諸階級を服従させておくための機構である」。p.487。
 エンゲルスが言うように、「土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主主義的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である」。p.493。
 以上、1919年。日本語版・レーニン全集29巻より。
 「今日に至るまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史だ。/
 封建時代の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立をなくさはしなかった。新たな階級を、新たな抑圧条件を、新たな闘争形態を古いものと置き換えたにすぎない。/ブルジョア階級の時代は、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙し合う二大階級-ブルジョア階級と7プロレタリア階級-に分裂する」。
 以上、1848年。カール・マルクス・共産主義宣言より。平凡社・2015年の柄谷行人訳を参照。
 日本共産党は、「国家」観も、「歴史」観も、最初からまるで違っている。
 <階級闘争>-<敵・支配階級との闘い>-絶えず<敵>を設定しての執拗かつ継続的な<闘い>。まともな人間は意識したり想定したりしないところのものを、彼らはつねに考えている。彼らとは<人間>そのものが同じではない、と理解しておくべきものなのだ。
 ---
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
 ---
 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁②。
 1917年4月-5月の『党綱領改正に関する資料』で、レーニンはこう書いた。
 『公教育は、民主主義的に選出された地方政府機関によって管理されるべきこと。
 学校のカリキュラム編成や教材の選択に中央政府が介入するのを許さないこと。
 教師たちは直接に地方民衆によって選任され、地方民衆は望ましくない教師を解任する権利をもつこと』、等々(全集24巻p.473〔=日本語版全集24巻501頁〕。)(+)//
 最終目標は国家と全ての束縛を完全に廃棄することだ。このことは、自発的な共存と連帯の原理に人民が慣れるときに可能になるだろう。
 犯罪や非行の原因は、搾取と貧困だ。そして、社会主義のもとで徐々に消失するだろう。 -こうしたレーニンの確信は、実際上、社会主義者たちの間で一般的なものだった。//
 ヨーロッパで戦争が闘われている間にこうした言葉で叙述されたレーニンの夢想郷(Utopia)は、ソヴィエト権力50年を経た後で読む者には、度肝が抜かれるほどにナイーヴ(無邪気)だ。
 トマス・モアの空想小説がヘンリ13世のイギリスを扱ったのと同じように、やがてすぐに成立することとなる国家を扱っている。
 しかし、綱領的計画と半世紀後のその『達成物』の間の醜悪な相違(grotesque divergences)を全て指摘するのは、実りないことだ。
 レーニンの夢想郷は、総じてはマルクスの考えと合致している。しかし、のちの著作には触れないで、レーニン自身の初期の著作と比較すると、際立つ違いが明らかだ。すなわち、党に関してはそもそも何も語っていない、ということだ。//
 レーニンがその幻想を真面目に書いたことを疑う理由はない。書いたときに彼は、世界革命がまさに起こりつつあると間違って(wrongly)信じていた、ということが想起されるべきだ。
 しかし、レーニンは明らかに、自分が描く絵は自分自身の革命と党に関する教理に紛れもなく反している、ということを感知していなかった。
 『多数者の独裁』は、歴史に関する科学的な理解で装備された政治組織を通じて行使されると想定されていた。『過渡期のプロレタリア国家』という考えに広く通じるこうした性格づけは、<国家と革命>では、全く述べられていない。
 この書物を書いていた時期に、レーニンは、明確につぎのように思い描いていた。武装し、解放された全人民が、行政、経済管理、警察、軍隊、裁判等々の全ての作用を直接に遂行するだろう、と。
 彼はまた、自由への制約は従前の特権的階級に対してのみ適用され、一方で労働者および労働農民は完璧に自由に、選択に従って彼らの生活を規律するだろう、と考えていた。//
 しかしながら、革命後に出来あがった体制の本質は、たんに内戦やロシアの外部での革命運動の立ち止まりと関係する歴史的偶然の結果ではなかった。
 専制的でかつ全体主義的な(この区別は重要だ)全ての特質を備えた体制は、その主要な道筋については、レーニンが長い年数をかけて作りだしたボルシェヴィキの教理によって、あらかじめ描かれていた。当然に、その結果は完全には実現されなかったし、予見もされなかったけれども。//
 レーニンが1903年以降に多くの場合にかつ多様な形態で設定した根本的な原理は、自由や政治的平等といった範疇は重要な意味をもたず、階級闘争の道具にすぎない、そして、どの階級の利益に役立つのかを考慮しないでこれらを擁護するのは阿呆(foolish)だ、というものだった。
 『実際には、プロレタリア-トは、共和制への要求を含む、全ての民主主義的要求への闘いをブルジョアジーの打倒のための革命的な闘争の劣位に置くことによってのみ、自主性を維持することができる。』(+)
 (『社会主義革命と民族の自己決定権』、1916年4月。全集22巻p.149〔=日本語版全集22巻「社会主義革命と民族自決権」172頁〕。)
 ブルジョア諸制度のもとでの専制政と民主政の違いは、後者が労働者階級の闘争を容易にするかぎりでのみ意味がある。これは二次的な違いであって、形式の一つにすぎない。
 『普通選挙、憲法制定会議、国会は、たんなる形式であり約束手形であるにすぎず、現実の事態を何ら変えることがない。』 (+)
 (『国家について』、1919年7月11日の講義。全集29巻p.485〔=日本語版全集29巻493頁〕。)
 これこそが、革命後の国家に関する、なおさらに(a fortiori)本当のことだ。
 プロレタリア-トに権力があるがゆえに、その権力を維持すること以外に、重要なものは何も考えられない。
 全ての組織上の問題は、プロレタリア-ト独裁を維持することの劣位に置かれる。//
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。
 ------
 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。③へとつづく。

1696/「前衛」上の日本共産党員⑪-2013年7・8月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年7月号による。
 小沢隆一/東京慈恵医科大教授・憲法学者-またも。
 中山 徹/奈良女子大学教授-公共事業予算。
 田中靖宏/ジャパン・プレス・サービス社長-ベネズエラ。
 佐藤次徳/マツダ訴訟原告団事務局長。
 高根孝昭/マツダ共闘会議事務局長。
 --- 
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年8月号による。
 伊佐真次/東村高江ヘリパッドいらない住民の会。
 高橋美枝子/羽村平和委員会-横田基地。
 工藤昌宏/東京工科大学教授-アベノミクス。
 芝田英昭/立教大学コミュニティ福祉学部教授-TPPと医療。
 寺内大介/弁護士・ミナマタ弁護団全国連絡会事務局長-水俣訴訟。
 ---
 *以下、別の号へとつづく。

1694/井上達夫-法哲学者の欧米と日本の「現実」。

 井上達夫、1954~。現役の東京大学教授・法哲学
 一度だけ単直に言及して、お叱りもネット上で受けた。
 あほな人は簡単に批判できるが(櫻井よしこ、平川祐弘、倉山満ら)、この人はそうはいかないだろう。
 じっくりと読んで批判的・分析的コメントをしたい。
 まだその時機ではないが、しかし、この無名の欄だからこそ、備忘の「しおり」的に書いておこう。
 ---
 さしあたりの直感的な疑問は、以下。
 正義論でも、「リベラリズム」論でもよい。
 井上達夫は、いったい何を対象にして、いったい誰に向かって発言しているのか?
 つまり、こういうことだ。
 世界か、欧米(とくに米・英)か、日本か、日本の<論壇>か、日本の<法哲学界>か?
 さらには、こういうことだ。
 教壇・講壇で語るに必要な、またそのために研究してきた多様な<法哲学・法思想>上の知識、精神的・観念的・理論的な素養でもって、例えば日本の憲法や政治を論ずることができるのはいったい何故か?
 井上達夫がかりに日本の憲法や政治を論じているのだとすると、その基軸・分析枠組みは、欧米に関するそれと同じなのか、同じでよいのか?
 上の問いは、逆に言うと、こうなる。
 井上達夫がもつ(とくに法哲学・法思想・政治思想等の)欧米学者の議論で欧米を見ることは、ある程度の妥当性をもっては、きっとできるだろう。むろん、種々の法哲学者、社会・歴史・思想学者等々がいるのは、秋月瑛二でも知っている。
 しかし、それは、「日本」を語る場合、いかほどに有効か。この観点・視点を欠かせたままでは、適切で合理的な日本国家・日本社会に関する発言、あるいは日本に関する「法哲学・法思想」的観点からの発言にはならないものと思われる。
 日本と自分が日本人・日本国民である、ということの自覚・意識化がどの程度に、なされているのだろうか。
 <論じることの(実践的な)意味>を、どう自覚的に意識しているのだろうか。
 ---
 上はほとんどは、仮定の、疑問だ。むろん、一読、一瞥しての疑問だ。逆にいうと、一読、一瞥しただけを基礎にする疑問だ。だから、「仮の」と言っている。
 井上達夫・リベラルのことは嫌いでも-(毎日新聞出版、2015)。
 知的関心?は山ほどある秋月瑛二は、これを2015年には入手して、ほんの少しだけ見た。冒頭の2頁めで、さっそくずっこけた。井上達夫は書く。
 丸山真男、川島武宜、大塚久雄-「彼らは左翼ではない」。p.7。
 もともと「左翼」、「リベラル」等を人々は多様に用いているので、用語法は自由ではある。
 しかし、秋月瑛二からすると、再三に書いているように、<容共>=<左翼>だ。
 上のうち少なくとも丸山真男は、日本共産党に批判されても(なお、この遡っての批判はたしか1990年代初頭で、日本共産党が最も「知識人」の動揺を怖れていた頃だ)、<容共産主義>であって、「左翼」だ。日本の<古層>に関心があっても、「左翼」だ。
 そのつぎの頁に、井上は書く(述べる)。
 「マルクス主義が自壊した後、保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。 p.8。
 これは日本に関する認識であり、その叙述のようだが、本当か?
 「マルクス主義が自壊」とはいったい、何のことだ。大まかに、かつかりに言っても、欧米限りの話ではないか。
 日本で「マルクス主義が自壊」したとは、いったい何のことだ?
 「日本会議」と全く同じことを、井上達夫も述べている。
 これは<学者の頭の中で自壊した(はずだ)」という、多少は願望も込めた、認識の叙述であるならば、何とか、理解できる。
 端的にいって、井上達夫にとって、日本共産党とは何なのだ。日本にはマルクス主義者・共産主義者あるいはこれらの組織・団体は「自壊」して消失しているのか。
 この人もまた、「日本会議」と同じ幻想を振りまいているのではないか。
 ついで、「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。p.8。
 これもどうやら日本に関する話のようなのだが、ここでの「保守」とは何だ。「リベラル」とは何だ?
 これらを何となく理解するとして、「冷戦の終了」後に、前者が後者を<集中的に攻撃した>とは、いったいいかなる事実・現象を捉えて言っているのだろうか?
 井上達夫による<捏造>・<空想>ではないか。
 「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」-日本で生じたいったいどういう現象のことなのか?。
 ---
 非・反日本共産党で非・反「特定保守」ならば、私の<仲間>でもある。
 その憲法論も、私は「理解」できるつもりでいる。私が何とか「理解」できないような議論をしてもらっては困る。
 しかし、えてして、講壇学者さまたちは、上の両派とは異なる意味でだが、<独自の観念世界・観念体系、思想イメージ・理論イメージ>を作り、それを本当は複雑な思想・思潮・論壇等、そして<現実>に適用するという嗜好・志向をもっている
 理論・論理に興味深い点が多々あっても、<現実>から浮いていてはあまり意味がない。
 といった観点から、さらに井上達夫から「勉強」させていただこう。

1687/「前衛」上の日本共産党員⑩-2013年6月号。

 以下、明確に日本共産党の党員だと見られる。
 日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』2013年6月号による。
 ---
 寺尾正之/全国保険医団体連合会事務局-社会保障制度改革。
 林 泰則/民医連常駐理事-社会保障制度改革。
 布施祐仁/ジャーナリスト-原発労働現場。
 脇田 滋/龍谷大学教授(労働法学)-労働規制緩和。
 萬井隆令/龍谷大学名誉教授(労働法学)-解雇規制。
 吉田敏浩/ジャーナリスト-安保・米軍基地。
 **付記-不破哲三・スターリン秘史/大テロル(下)が30頁分ある。
 ---
 別の号へとつづく。

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