Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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第9章・革命の黄金期?
第三節。
(01) NEP に対する都市部の反対は、市場メカニズムがときに機能しなくなって—革命と内戦の数年後では必然的だった—、国営商店での食料不足をもたらしたために、大きくなった。
問題の根源は、農民たちと取引ができる消費用品がなかったことだった。
内戦によって、工業は甚大な被害を受けていた。
農村では1922年と1923年は非常に豊作だったが、工業が回復するのは、農業よりも遅れた。
結果として、下落した農産物価格と消費者用品の急速に上昇している価格の間の隔たりが大きくなった(トロツキーは「鋏状の危機」と名づけた)。
製造物品の価格が上がるにつれて、農民層は、国営倉庫への穀物販売を減らした。
国家による支払いを受ける調達率はきわめて低かったので、農民たちは、必要とする家庭用物品を入手することができなかった。—その一部は、彼らが小屋の仕事場で自分たちで作ることができた(鋤、綱、靴、ろうそく、石鹸、単純な木製家具)。
農民たちは、安い価格で穀物を販売しないで、家畜の飼料にしたり、納屋に貯蔵したりした。あるいは、私的な商人や袋運び屋(bagmen)に売った。//
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(02) 食料供給の途絶を阻止すべく、政府は、内戦時スタイルの徴発の手段をとり、生産性を高めるために工業コストを削減した。そして、「NEPmen」への労働者階級の怒りに応じて、30万の店舗と市場施設を閉鎖した。
1924年4月までに、当面する危機は回避された。
しかし、市場の崩壊は、NEP にとっての潜在的問題のままだった。//
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(03) この問題への対応の仕方について、ボルシェヴィキ内は分かれた。
党の左翼たちは、農業価格を低いままにし続け、工業生産を増加させる必要があれば実力でもって穀物を奪うことを支持した。
他方で党の右翼たちは、工業化のための資本蓄積の進度を遅らせても、国家と農民層の関係の基盤である〈smychka〉(労働者)と市場機構を守るために、調達価格を上げよと主張した。//
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(04) 両派は、NEP の国際的背景に関しても一致しなかった。
ボルシェヴィキが権力を奪取したときには、革命はすみやかに多くの先進工業国に拡大するだろうと想定されていた。
彼らは、社会主義はロシアだけでは維持できない、なぜなら、「帝国主義」国家に対して防衛するに必要な産業をもたないからだ、と見ていた。
1923年の末までに、革命がヨーロッパに拡大しそうにないことは明らかになった。
戦後すぐの不安定期は過ぎていた。
イタリアでは、秩序回復のためにファシストが権力を握っていた。
ドイツでは、共産党が支援したストライキは、より大きな反乱へと発展することができなかった。
スターリンは、即時の目標としての革命の輸出という考えを捨て去って、「一国社会主義」の政策を進めた。
これは、党の革命戦略の劇的な転換だった。
一般に想定されていたように工業国家からの支援が来るの待つのではなく、ソヴィエト同盟は今や、自己充足をし、自分の経済から抽出した資本でもって自らを防衛しなければならないだろう。
西側から輸入する道具や機械の対価を支払うために、穀物や原料を輸出しなければならないだろう。
ブハーリンが構想したこの考え方は、1926年に党の政策として採用された。
しかし、左翼反対派は、マルクス主義イデオロギーからの根本的離脱だと批判した。マルクス主義は、世界から孤立した単一国家での社会主義建設を排除している、と。//
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第四節。
(01) NEP は、国家と社会主義化した部門が私的部門と競い合う混合経済を許容した。
NEP のもとでの社会主義経済は、農民たちが集団農場や農業協同組合に加入するよう促す、国家による規制、財政措置、農学上の援助によって生まれることになる。//
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(02) レーニンは、協同組合の役割を最も重要視した。
彼は、協同組合がロシアのような農民国家での社会主義社会の建設の鍵だと考えた。協同組合は社会主義的配分と農民との交換のための「最も単純で、容易で、最も受容されやすい」様態だ、というのがその理由だった。
国家に支援されて、協同組合は農民たちに、彼らの生産物と消費用品との間の交換比率の保障を提供することができた。
道具を購入する際の信用を提供することができた。あるいは、肥料、灌漑で、または土地保有を合理化して共同体の狭い帯状区画の問題を解決する農学上の援助をして、彼らの土地を改良するのを助けることができた。
協同組合は、こうして、農民たちを私的取引者から引き離し、国家が耕作実務に影響を与え得る社会主義部門へと統合するものと考えられていた。
農場の半分が1927年までに農業協同組合に帰属したのは、NEP がうまく行った尺度となった。
結果として、生産性の着実な上昇が見られた。農業生産の1913年時点での高さは、1926年に再び達成された。
1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント大きかった。いわゆるロシア農業の「黄金時代」だった。//
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(03) レーニンが意図していたようにNEP が継続していれば、第三世界での社会主義的発展の例として役立ったかもしれなかった。
ソヴィエト経済は、活気ある農業部門を基礎にして、1921年と1928年の間に急成長した。
工業も順調で、1930年代よりも高い成長率だった、と主張されている。
NEP が継続していれば、1928年以降のスターリンの経済政策の実際の結果よりも、はるかに強力に1941年のナツィの侵攻に対抗できていただろう。
そうならずに、NEP は、ソヴィエト農業を永遠に損傷させ、数百万の農民の生命を奪った大量集団化によって覆された。//
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(04) NEP はつねに、農業の集団化計画を伴うものだった。
ボルシェヴィキはイデオロギー的に、全ての土地が共同で耕作され、生産が機械化され、国家がこれらの農場との固定契約でもって食料供給を保障することのできる、そのような大規模の集団農場(コルホーズ、kolkhozes)へと共同体を変革させるという長期目標を有していた。
しかし、これは漸次的で自発的な過程であり、その過程で農民たちは国家による財政的、農学的援助を通じて集団農場へと奨励されるものとされていた。
1927年の後で、徴税政策によって大きな圧力が加えられた。
しかし、集団農場に加入するよう全ての農民を強制することに関しては、何の疑問もなかった。
実際に、強制的実力は必要でなかった。
農民たちは何はともあれ、TOZ として知られる小規模農場に執着していた。そこでは、耕作は共同で行われるが、家畜と道具は私有財産のままだった。
TOZ の数は、1927年の6000から1929年には3万5000へと増加した。
もっと長い期間があれば、NEP の範囲内での重要な集団農場部門になっていたことだろう。
協同組合からの農学上の助けを得て、最強の農民たち—「クラクたち」—が担う効率的な近代的農場になっていただろう。
しかし、スターリンはこのいずれも、そうさせなかった。
彼は、全ての土地、用具と家畜が集団化されたもっと大規模の集団農場を望み、それに農民たちが加入するよう強いた。
結果は、national な大厄災だった。//
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第四節まで、終わり。第五節以降へつづく。
第9章の試訳のつづき。邦訳書は、ない。
第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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第9章・革命の黄金期?
第三節。
(01) NEP に対する都市部の反対は、市場メカニズムがときに機能しなくなって—革命と内戦の数年後では必然的だった—、国営商店での食料不足をもたらしたために、大きくなった。
問題の根源は、農民たちと取引ができる消費用品がなかったことだった。
内戦によって、工業は甚大な被害を受けていた。
農村では1922年と1923年は非常に豊作だったが、工業が回復するのは、農業よりも遅れた。
結果として、下落した農産物価格と消費者用品の急速に上昇している価格の間の隔たりが大きくなった(トロツキーは「鋏状の危機」と名づけた)。
製造物品の価格が上がるにつれて、農民層は、国営倉庫への穀物販売を減らした。
国家による支払いを受ける調達率はきわめて低かったので、農民たちは、必要とする家庭用物品を入手することができなかった。—その一部は、彼らが小屋の仕事場で自分たちで作ることができた(鋤、綱、靴、ろうそく、石鹸、単純な木製家具)。
農民たちは、安い価格で穀物を販売しないで、家畜の飼料にしたり、納屋に貯蔵したりした。あるいは、私的な商人や袋運び屋(bagmen)に売った。//
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(02) 食料供給の途絶を阻止すべく、政府は、内戦時スタイルの徴発の手段をとり、生産性を高めるために工業コストを削減した。そして、「NEPmen」への労働者階級の怒りに応じて、30万の店舗と市場施設を閉鎖した。
1924年4月までに、当面する危機は回避された。
しかし、市場の崩壊は、NEP にとっての潜在的問題のままだった。//
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(03) この問題への対応の仕方について、ボルシェヴィキ内は分かれた。
党の左翼たちは、農業価格を低いままにし続け、工業生産を増加させる必要があれば実力でもって穀物を奪うことを支持した。
他方で党の右翼たちは、工業化のための資本蓄積の進度を遅らせても、国家と農民層の関係の基盤である〈smychka〉(労働者)と市場機構を守るために、調達価格を上げよと主張した。//
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(04) 両派は、NEP の国際的背景に関しても一致しなかった。
ボルシェヴィキが権力を奪取したときには、革命はすみやかに多くの先進工業国に拡大するだろうと想定されていた。
彼らは、社会主義はロシアだけでは維持できない、なぜなら、「帝国主義」国家に対して防衛するに必要な産業をもたないからだ、と見ていた。
1923年の末までに、革命がヨーロッパに拡大しそうにないことは明らかになった。
戦後すぐの不安定期は過ぎていた。
イタリアでは、秩序回復のためにファシストが権力を握っていた。
ドイツでは、共産党が支援したストライキは、より大きな反乱へと発展することができなかった。
スターリンは、即時の目標としての革命の輸出という考えを捨て去って、「一国社会主義」の政策を進めた。
これは、党の革命戦略の劇的な転換だった。
一般に想定されていたように工業国家からの支援が来るの待つのではなく、ソヴィエト同盟は今や、自己充足をし、自分の経済から抽出した資本でもって自らを防衛しなければならないだろう。
西側から輸入する道具や機械の対価を支払うために、穀物や原料を輸出しなければならないだろう。
ブハーリンが構想したこの考え方は、1926年に党の政策として採用された。
しかし、左翼反対派は、マルクス主義イデオロギーからの根本的離脱だと批判した。マルクス主義は、世界から孤立した単一国家での社会主義建設を排除している、と。//
——
第四節。
(01) NEP は、国家と社会主義化した部門が私的部門と競い合う混合経済を許容した。
NEP のもとでの社会主義経済は、農民たちが集団農場や農業協同組合に加入するよう促す、国家による規制、財政措置、農学上の援助によって生まれることになる。//
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(02) レーニンは、協同組合の役割を最も重要視した。
彼は、協同組合がロシアのような農民国家での社会主義社会の建設の鍵だと考えた。協同組合は社会主義的配分と農民との交換のための「最も単純で、容易で、最も受容されやすい」様態だ、というのがその理由だった。
国家に支援されて、協同組合は農民たちに、彼らの生産物と消費用品との間の交換比率の保障を提供することができた。
道具を購入する際の信用を提供することができた。あるいは、肥料、灌漑で、または土地保有を合理化して共同体の狭い帯状区画の問題を解決する農学上の援助をして、彼らの土地を改良するのを助けることができた。
協同組合は、こうして、農民たちを私的取引者から引き離し、国家が耕作実務に影響を与え得る社会主義部門へと統合するものと考えられていた。
農場の半分が1927年までに農業協同組合に帰属したのは、NEP がうまく行った尺度となった。
結果として、生産性の着実な上昇が見られた。農業生産の1913年時点での高さは、1926年に再び達成された。
1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント大きかった。いわゆるロシア農業の「黄金時代」だった。//
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(03) レーニンが意図していたようにNEP が継続していれば、第三世界での社会主義的発展の例として役立ったかもしれなかった。
ソヴィエト経済は、活気ある農業部門を基礎にして、1921年と1928年の間に急成長した。
工業も順調で、1930年代よりも高い成長率だった、と主張されている。
NEP が継続していれば、1928年以降のスターリンの経済政策の実際の結果よりも、はるかに強力に1941年のナツィの侵攻に対抗できていただろう。
そうならずに、NEP は、ソヴィエト農業を永遠に損傷させ、数百万の農民の生命を奪った大量集団化によって覆された。//
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(04) NEP はつねに、農業の集団化計画を伴うものだった。
ボルシェヴィキはイデオロギー的に、全ての土地が共同で耕作され、生産が機械化され、国家がこれらの農場との固定契約でもって食料供給を保障することのできる、そのような大規模の集団農場(コルホーズ、kolkhozes)へと共同体を変革させるという長期目標を有していた。
しかし、これは漸次的で自発的な過程であり、その過程で農民たちは国家による財政的、農学的援助を通じて集団農場へと奨励されるものとされていた。
1927年の後で、徴税政策によって大きな圧力が加えられた。
しかし、集団農場に加入するよう全ての農民を強制することに関しては、何の疑問もなかった。
実際に、強制的実力は必要でなかった。
農民たちは何はともあれ、TOZ として知られる小規模農場に執着していた。そこでは、耕作は共同で行われるが、家畜と道具は私有財産のままだった。
TOZ の数は、1927年の6000から1929年には3万5000へと増加した。
もっと長い期間があれば、NEP の範囲内での重要な集団農場部門になっていたことだろう。
協同組合からの農学上の助けを得て、最強の農民たち—「クラクたち」—が担う効率的な近代的農場になっていただろう。
しかし、スターリンはこのいずれも、そうさせなかった。
彼は、全ての土地、用具と家畜が集団化されたもっと大規模の集団農場を望み、それに農民たちが加入するよう強いた。
結果は、national な大厄災だった。//
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第四節まで、終わり。第五節以降へつづく。