櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。
目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。
天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
---
後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。
この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。
目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。
天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。