毎週のように、またはしばしば、取るに足らない、ならよいが、陳腐で、かつ悪いことに、間違いを含む、あるいはかつての自分の主張や事実の叙述と異なる文章を平然と書いて、それぞれの「個人名」で執筆して、将来に、半永久的に残しているからだ。
恥ずかしい文章・書物が、執筆者「個人名」付きで、将来に半永久的に残る。これはとても「恥ずかしい」ことで、そういうことになるのは、本当に気の毒だと思う。
西尾幹二も、多数の著者があり、個人全集まで刊行して(完了した?)、「どうだ、すごいだろ」と得意がっているかもしれないが、櫻井よしこや江崎道朗と比べて覆い隠す文章技巧に長けているためにすぐには暴露されないかもしれないが、本質的にはこれら二人と変わらないだろう。
種々の意味や次元での「間違い」、自己矛盾に、西尾幹二の文章・書物も充ちている。
気の毒だと思う。櫻井よしこと江崎道朗の二人に比べればという限定付きで、この時代に西尾幹二は目立っているので、または「よりましな」著述者だと見られていると思われるので、それだけ将来に「恥ずかしい」文章が「西尾幹二」という個人名付きで残るのは「恥ずかしい」ことに違いなく、本当に気の毒なことだ。
1935年に生まれて、85歳以上まで生きた「真の保守思想家」(新潮社・2020年著のオビ)とも言われた人物の本質は、少し立ち入れば容易に暴露される。ああ、恥ずかしい。気の毒だ。1990年前後以降の実際には書いた文章を、この人は書かなかった方が良かった、幸せだった、と秋月瑛二は思う。