秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

新日和見主義

2788/L・コワコフスキの大著の邦訳書が出版される。

  レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の日本語翻訳署が刊行されるようだ。
 秋月にとって、大ニュースだ。11月11日の池田信夫・ブログによって知った。
 L・コワコフスキ=神山正弘訳・マルクス主義の主要潮流—その生成・発展・崩壊(同時代社、2024)
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  日本での「マルクス主義」への関心が突如として高まったとは思えない。
 訳者の神山正弘を名も知らなかったが、この本を紹介するネット上の訳者紹介によると、訳者(1943〜)の最後の大きな仕事(この翻訳)が完了したがゆえの、この時期での刊行になったようだ。
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 1943年生まれの訳者の経歴は、種々のことを推測または想像させる。
 1962年—東京大学教育学部入学(卒業年の記載はない)、1965-67年—東京都学連副委員長・委員長、1967-72年—日本民主青年同盟(民青)東京都委員会学生対策部長・副委員長、1973-75年—東京大学大学院教育学研究科学生、1982-2007年—高知大学教育学部助教授・教授(たぶん定年退職)。
 39歳で大学教員の職を得ている。この遅さにも注目してしまうが、そんなことよりも、1972-73年に民青東京都委員会→大学院学生という変化があったことが興味深い(なお、川上徹(1940〜)は同じ東京大学教育学部出身で、同時代社の設立者だった)。
 神山正弘はおそらく、日本共産党の<新日和見主義事件>に巻き込まれ、民青や共産党の活動家であることをやめたのだろう。日本共産党(・民青)と具体的にどういう関係に立ち、どう処遇されたのかは、もちろん知らない。
 だが、<新日和見主義事件>=1972年と、見事に符号している。
 かつて若いときに日本共産党という「マルクス主義」政党の党員だったこと(これはまず間違いない)、10年を経ずしてその党とどうやら複雑な関係になったらしいこと(いつまで党員だったかは、もちろん知らない)、そしてもちろん「マルクス主義」または日本共産党のいう「科学的社会主義」の基礎的なところは<学習>していただろうことは、たしかに、レシェク·コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』を読み、翻訳してみようとする人物の像にかなりあてはまっているように見える。
 しかも、このL・コワコフスキの著は大まかに計1500頁と言ってよい長大な書物だ。神山は2007年に高知大学を辞しているようだが、その後のかなり長時間をこの本の読書と翻訳に費やしたのではなかろうか。
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  池田信夫は、「本書は1978年にポーランド語で書かれた古典」等と紹介しているが、細かいことながら、年次は誤っている。
 1976年に、ポーランド語の原書が、フランス・パリで、出版された。
 1977-79年に、三巻のうちの一巻ずつ、ドイツ語翻訳書がドイツで出版された。
 1978年に、一巻ずつ全巻の英語翻訳書が、イギリスで出版された。
 神山邦訳書がいずれの言語から翻訳したのかは、分からない。経歴からすると、ポーランド語からではなさそうだ。
 なお、フランス語版は第一巻、第二巻だけが出版された。L・コワコフスキが書いているのではないが、サルトルについてのL・コワコフスキの叙述(第三巻)がフランスでは嫌われた、とも言われる。
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  日本には、2024年まで、L・コワコフスキの大著の日本語翻訳書がなかった。相当に遅れて、形だけはようやく欧米に追いついたことになる。共産主義者・共産党員または共産主義・共産党のシンパだった欧米の著作者については、サルトルのほか、例えば、イギリスのホブスボーム、フランスのフーコー等、すみやかにきちんと邦訳書が出版されている、にもかかわらず。
 日本はアカデミズムのみならず、あるいはアカデミズムとともにとくに人文・社会系の出版界自体が相当に「左より」だ。
 新潮社、不破哲三・私の戦後60年(2005)
 中央公論新社、不破哲三・時代の証言(2011)
 これらのように、「大手」出版社が日本共産党幹部の書物を発行している(秋月は日本のメディア・出版社を基本的なところで信用していない)。今回の〈同時代社〉程度では、趨勢・雰囲気を変えるほどには至らないだろう。
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0196/有田芳生と日本共産党、そして川端治。

 二回ほど有田芳生について元日本共産党員だと書きつつ、離党の事情についてはきちんと確かめないで、推測混じりで、「可能性がある」というような曖昧な書き方をしてきた。
 有田芳生の現在の政治的・社会的影響力はさほど大きくはないという判断もあったからだが、
前回に言及したこともあり、ご本人のサイトから彼の<離党事情>等を確かめてみた。
 以下、有田芳生公式HP・今夜もほろ酔いの中の「共産党」フォルダの第一頁以下の文および同フォルダ内の「哀しい日本人と日本共産党」「私の査問体験」による。
 有田芳生が所属していた日本共産党から「査問」を受けた一度目は1983年。当時同党の雑誌・文化評論の編集に携わっていたようだが、上田耕一郎副委員長(当時)と小田実のこの雑誌1981年1月号上での対談を担当したことがきっかけになり、この対談後に小田実が既成左翼批判をしたことから<党内に小田実的市民運動を浸透させようとする「陰謀」がある>という疑いがかかったらしい。そして、「本部勤務員にふさわしくない」とのことで「職場を追われた」。私の推測を挿入すると、この後、日本共産党系出版社の新日本出版社に移ったのだろう。
 二度目の、そして離党につながった「査問」は1990年。前回に言及した本がきっかけになったかもしれないと前回に書いたが、違っており、正確には同じ出版社からの松岡英夫=有田芳生編・日本共産党への手紙(教育史料出版会、1990)の刊行が契機だった。
 有田はこう書いている。-「この本は、日本共産党について率直な意見を、原稿枚数の制限をせず自由に述べていただくことを目的とし、その趣旨に賛同してくださった加藤周一さんや住井すゑさん(故人)、新村猛さん(故人)など各界15人の方々に登場していただいた」。
 そして、この本の実物を私は今手元に置いているのだが、HP上に記載のとおり、「あとがき」で有田は次のように書く。-「日本共産党が時代の変化に敏感に対応して、どのような『再出発』をしていくのか。それは、ひとり共産党員や共産党支持者だけの問題ではない。私の尊敬する政治家は『その民族がどのような共産党を育てるかは、その民族の運命に関わる』と常々語っていた。ソ連・東欧の歴史的な政治動向は、そのことを世界の人々に劇的に明らかにした」(p.221)。
 これに続く文章は現物によるとこうだ。-「こういう時期に、この日本という国の共産党は国民の目にどのように映っているのだろうか。そのことを常日頃、共産党に関心を注いでいる人たちに、なにものにもとらわれず発言してもらおう…-こういう問題意識で編集したのが本書である」。
 けっこう長い文章の末尾はこうだ。-日本共産党の動向は「日本そのものの行方と深くかかわっていると思っている」、この本が「一つのきっかけになり、自由で建設的な議論や対話が広がることを切に願ってやまない」。(p.228)
 上で太字にした部分などは日本共産党の一党員の資格で対外的に書けるものではないことは容易に想像がつく。さて、有田のHP内文書に戻る。
 「この単行本を出すことで、規約違反の容疑があると査問を受けた。発売前にゲラ刷り(本になる前に誤植などを点検するための印刷物)を常任幹部会に提出していたことなど、まったく意味のないことだった。こういう単行本を出すことが「党員としてふさわしくない」との判定を下され、共産党から除籍された」。
 18歳で入党してから20年後の「除籍」だったらしい。
 若干元に戻ると、上の本に「手紙」を執筆しているのは、上記の3名の他、飯塚繁太郎、稲葉三千男、加藤哲郎、黒田了一、清水慎三、寿岳章子、田口富久治、田畑忍、中馬清福、日高六郎、藤井一行、星野安三郎の各氏だ。
 全員が「左翼」的だが、日本共産党員でない人もいるし、党員(だった)だろうと推測できる人もいる。
 さて、この<事件>の感想は、日本共産党員は外部の人も含めて「なにものにもとらわれず」に「自由で建設的な議論や対話」をしてはいけないという、日本共産党の組織的体質、つまりは<民主集中制>なるものの腐臭に充ちた気持ち悪さ、に尽きる。
 と書いて、ここで終わってもよいのだが、さらに続けよう。
 有によると、「共産党の主張は納得できるものではなかった。だが、党本部が行なう規約の解釈や決定に個人がかなうわけがない」。しかし、「査問官たちは「最終的な決定が下れば連絡する」と言った」ので待ったが、「何の連絡もないままに半年が過ぎた」ので「私は査問の担当者に電話をかけるにした。返事はあっけなかった。/「あっ、半年前に除籍されていますよ」/何をいまさらという、まるで役所の窓口で聞くような事務的口調だった」。
 こんなものなんですかねぇ。20年間も党員だった者に対する扱いというのは。
 また、有田は統一協会に関する6冊の本を著しているようなのだが、彼は、日本共産党の統一協会関係の本や赤旗記事には、彼の本を明確に参照しているところがあるにもかかわらず、参考文献として「有田芳生・…」という記載は一切ない、という。そしてこんなふうに書いている。
 「共産党にとって、私という人間は存在しないのである。いや、正確にいえば、共産党に批判的なことを書けば敬称も付けずに私のことを「転落者」「反共主義者」と罵倒するくせに、都合の悪いときには存在を無視するのである」。
 有田芳生が日本共産党から
「転落者」「反共主義者」と罵倒されているとは知らなかった。
 有田はまた、次のような日本共産党に対するもっと厳しい言葉も吐いている。 
 「麻原彰晃逮捕翌朝」の『赤旗』が私を「反共を売り物にする有田芳生」と敬称さえ付けずに報じたのを眼にしたときの驚き。そんな人格が中央委員会を構成しているのだとようやく目が覚めた出来事だった。誰が書いたのかもわからぬ匿名の罵倒。せせら笑うかのように背後から切りつけた者たちに私はもはや幻想は持たない」。
 日本共産党を離党したからといって、非日本共産党にはなっても反日本共産党になるとは限らない。なおも親共産主義で親日本共産党である人もいるだろう。
 有田芳生は私はまだ親日本共産党で、4月東京都知事選挙の際の浅野某民主党推薦候補への批判ぶりからして、結局は日本共産党の吉田某候補に投票したのだろうと勝手に推測していたが、-どうでもよいようなことだが-違っていたかもしれない。「私はもはや幻想は持たない」という言葉はなかなか激しいものだ。
 有田はさらに、旧知の日本共産党員が偶然にでも有田氏と出くわすと、悪い人物と出会ったふうに話そこそこに遠ざかっていく、というようなことも書いている。
 除籍された元党員・古在由重の追悼会の世話したことが契機になって自らも除籍されたのは、川上徹だった。日本共産党員たちにとって、除名又は除籍された者とふつうに会話を交わすこと自体が<処世>に響いてくるのだ。党中央から睨まれ、警戒され、除籍とかになると、まさに<生活>そのものが影響を受けるのだろう。
 別に有田芳生に親しみは湧かないし、同情もしないのだが、日本共産党の陰湿さを改めて感じた有田HP読みだった。
 一つ、私には大事なことを忘れていた。前回にも山川暁夫という氏名を出しているが、この山川暁夫という人は、「本名は山田昭、党内では川端治というペンネームで活躍」と書かれている。そして、1972年の<新日和見主義>事件で離党していたこの川端との関係を、有田氏は最初の査問の際にしつこく訊かれたのだという。
 この「川端治」という名前を、私は突然に思い出した。1970年前後、大学生の私は誘われていった集会で、むろん内容は忘れたが、この人の、正確には「川端治」と紹介された人の「講演」をたぶん一度だけ聴いたことがある。「講演」というよりは、「アジ演説」に近いもので、やや高い声での<煽動>の仕方には迫力があった。
 いつだったかの正確な記憶はむろんない。いずれにせよあの頃から、あの時代から、もう40年近く経った…。あの「川端治」という人は(当時に明確に共産党員との認識があったわけではないが)、あの日から数年後には日本共産党から追われていたのか…。そしてその後、この人は<新しい党作り>に関係していたとか…(有田HPによる)。
 いろいろな人生があるものだと思う。そして、多少は、「青春」時代への感傷につながらなくもない。

-0020/日本共産党に睨まれると恐いが、良心と正義はこちら。

 朝日新聞や北朝鮮・中国問題については毎月の月刊誌に論文・ウォッチング記事が出るが、日本共産党(や社民党)については必ずしもそうでないとの印象がある。日本共産党を継続的に批判的にフォローする連載記事・企画をいずれかの雑誌は載せてほしいものだ。
 サイトでは、ずばり「共産党問題、社会主義問題を考える」とのタイトルの詳しいものを初めて見つけた(まだまだネット利用が足らない)。
 このサイト内の分析によると、機関紙赤旗の本紙・日曜版合計の発行部数は、1980年からの「25年間で、最高時の355万部から、187万部減り、減紙率52.7%になっている」。また、1990年からの15年では本紙は「54万部から、24万部減り、…減紙率44%」、日曜版は「232万部から、94万部減り、減紙率40.5%」、併せると、「東欧革命以降の15年間」で本紙と日曜版読者のいずれもの「ほぼ40%以上が、共産党に愛想をつかして、離れていったのである」。
 なるほど、筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006.04)p.190が「共産主義社会などまったく将来への展望がないのだから…」と本音を語っているのも分かる。だが、安心?してはならない。500万票近く、投票者の7%という数字は決して小さくない。
 川上徹・査問で印象的なのは、1972年1月(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月)に彼が見た宮本顕治に関する叙述だ。p.21以降-「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。実質的に宮本独裁だったことを証明しもする。

-0019/「古在由重先生を偲ぶつどい」の世話役をしたら…。

 大学・学界には、顕然たる日本共産党員やその明確なシンパが他業界に比べて多そうだ。概して優秀な人が多いのにこの党の穏便・微笑路線に惑わされて「おそろしさ」を知らず、せっかくの能力とエネルギーが適切な方向に使われていないのはまことに勿体ない。
 この党の衆議院選挙得票数等を顧みると、60年代末からの「大学紛争」時代を巧妙に立ち回ったことが大きいと思うが、76年・79年の600万、580万(得票率各10.7%、議席数19と41)あたりがピークでその後減っていくが、政治改革=衆議院480議席のうち180もが比例代表選挙のおかげで96年には730万、13.1%と盛り返しつつも、その後再び低減傾向で、03年は480万、8%程度、05年は490万、7.3%で議席数は9。
 かつて「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」は現実味が少しはあるように見えたが、今や政権獲得の現実的可能性は全くないと言いうる。だが、先進資本主義国で共産党があり500万票近くを獲っていること自体がじつに不思議なことで、日本人独特の優しさ、急激な変化を望まない気分(これは日本共産党に+に働いている)、曖昧さ(社会主義・共産主義を理解し支持してもいないのに批判票としてのみ、又は「人間」のしがらみで共産党に投票する)等々を示している。アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダに共産党(少なくとも日本ほどの)は存在しないし、イタリアは名称変更した(フランスはどうだったかな?)。日本はこの点で欧米に比して極めて「異常な」国だ、という認識をどの程度の人が持っているだろう。
 川上徹の名も、「新日和見主義」批判なるものも聞いたことがあったが、この批判の対象に川上徹(60年安保後の再建代々木系全学連委員長、70年頃民青幹部)もなっていたことを知ったのは同・査問(筑摩書房、1997)が宣伝された時だった。
 今年になって中古の文庫本で読了したが、査問・党員権停止後も90年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けたことに、<イデオロギー>への囚われの怖さを感じた。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったよう。もう1点印象に残ったことは明日に。
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