一 そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
西尾幹二は、その稀有な人物だ。
<文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。
「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
そして、こう続ける。
「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。」
もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
--------
つづく。
英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
西尾幹二は、その稀有な人物だ。
<文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。
「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
そして、こう続ける。
「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。」
もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
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つづく。