Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
(01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
明らかに、そうでなかった。
この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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(02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)。
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(脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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(03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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(04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
しかし、これらには限界があった。
1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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(05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
(01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
明らかに、そうでなかった。
この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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(02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)。
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(脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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(03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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(04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
しかし、これらには限界があった。
1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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(05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。



























































