=Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
計18の章に分かれている。邦訳書はない。
第11章へと移る。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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第11章・暴力について(On Violence)。
(1)暴力は文化の一部であり、自然の一部ではない。
鳥が昆虫を飲み込むとき、あるいは狼が鹿に咬み付くとき、我々はこれらを暴力の行為だとは言わない。
動物の権利を狂信していなければ、エビを茹でることは暴力だとも言わないだろう。
我々は「暴力」という言葉を人間との関係でのみ用いる。
人間だけが暴力を行使し、その被害をうける。
暴力行為を行うことは有形力(実力、force)を行使することであり、有形力で脅かすことは人々を一定の態様で行動させたり、一定のことを阻止したり、あるいはたんにそれ自体を目的として人々を苦しめることだ。//
(2)我々のほとんどは、有形力の正当な行使と不当な行使とを区別する。例えば、警察、裁判所、および法的制度のような国家の装置は、我々が犯罪だと考える一定の類型の行動を阻止したり制裁を課したりするために、有形力の行使が正当化される。
しかしながら、国家による有形力行使を含む、全ての形態の暴力を非難する人々がいる。法による制裁が何もない世界を想定するのは困難だけれども。
全ての形態の暴力は間違っていると考える人々は、イエスが悪魔に反抗しないでもう一方の頬を向けよと語った山上の垂訓を引き合いに出して、自分たちの信念を正当化しようとする。
しかしながら、イエスは、個人について、かつ個人が他者の暴力にさらされているときの対処方法についてだけ、語っていた。彼自身の殉教と死の例で言うと、怖れることなく確信と精神的強さをもって、暴力に対して暴力で返すのを拒否することができる、そしてなお世界を克服することができる、と我々に示したのだ。
イエスは国家の働きについて語っておらず、政治的な教義を残してもいない。
世界の終わりは切迫していると、彼は確信していた。受容しつつも、いつそれが訪れるかは知らなかったけれども。
しかしながら、彼自身が、神殿から金貸しを追い払うとき、暴力に訴えた。//
(3)暴力は、まさにその最初からずっと、人間の歴史の抹消できない一部だった。
戦争も同様で、これはたんに集団的な暴力を組織化したものだった。
戦争と暴力は良いものと考えられるべきだ、と言いたいのではない。
そうではなく、これらを自然であるばかりか有用な生活の一部だと考えてきた多数の人々がいた、ということだ。この人々は、多くの美徳を注ぎ込むものとこれらを考えてきた。勇気や自分の種族のための犠牲精神のような美徳。
彼らにとって戦争は、若者の中に精神の気高さ、英雄主義、耐久力を育む最良の方法だった。
今では、勇気は疑いなく良いものだが、かつての人々にとって、その際に役立つまさしく美徳を発展させる機会を与えてくれるがゆえに、戦争は良いものだった。
言い換えれば、いつも戦争があったというだけではなく、将来もつねにそういうものだと、彼らは考えていた。//
(4)多様な形態での暴力は我々の運命にある恒常的な部分でありつづけるだろう、と言うのがかなり安全であるために、戦争もまた行われつづけるだろうと言うことが可能だ。
戦争は現実に行われつづけるだろうと考える、十分な根拠がある。
戦争とは、かつての敵の種族の存在のみならず、例えば水や農場の利用に関する純粋な対立の進展をも含んでいる。人々の居住密度が耐え難くなり始めたときの、いろいろな種類の領土や領域の利用に関する対立も、その例だ。
しかし、戦争それ自体を美化することは、第二次大戦とその全ての恐怖を経験した圧倒的大多数の人々には、間違いなく理解し難いことに違いない。
Pierre Proudon は、のちにGeorges Sorel は、なおも戦争を称賛することができた。しかし、Ernst Jünger のような後の世代の人々がそうしたとき、彼らが想定していたのは、第一次大戦だつた。//
(5)今日では、戦争それ自体が称賛されるのをほとんど聞かない。
アフリカでの際限のない種族虐殺やボスニアの恐怖によって、戦争芸術に魅力を与える根拠はほとんどなくなっている。
そして、第一次大戦後には世界のほとんどどの一角でも起きていた大小の無数の戦争があったが、民主主義諸国の間では一つも戦争は発生しなかった、というのは意義深いことだ。
というのは、戦争は専制(tyranny)から生まれるものだからだ。
世界の民主主義諸国には、疑いなく豊富な良心の呵責があつた。そして、主権の政策として有形力の行使に頼ることを熟知してきた。
しかし、諸国は相互の間で戦争を起こすことをしなかった。
民主主義諸国はその代わりに、紛争を交渉と妥協で解決するメカニズムを生み出した。
そして、このメカニズムにはときに恐喝や欺瞞が含まれるが、大規模の殺戮し合いを包含するものではなかった。
アテネとスパルタの間の対立を我々が固定観念とする(stereotype)十分な理由がある。すなわち、我々の文化は本当にアテネに由来しており、それは若者に(むろん市民で、奴隷ではない)詩、哲学、芸術を教えた。軍事技術が主要な教育科目だったスパルタに由来してはいない。—アテネでも、国家の政治を習熟させたけれども。
暴力は我々の生活の不可避の一部かもしれず、我々はつねにそれを予期しなければならない。
しかし、暴力を悪魔扱い(lacedaemonize)する—換言するとスパルタ市民のように考える—、あるいは暴力を不幸な必要物にすぎないと見なす、そのような理由は存在しない。//
(6)理論上は、正当化された暴力とそうでない暴力を区別すること、あるいはこの区別の特定の例を挙げると、防衛的戦争と攻撃的戦争を区別することは、相当に単純なことのように見える。
しかし実際には、明瞭な状況というのは少ない。
もちろん20世紀には、「侵略の犠牲者」だけはあった。
どの国も自らを攻撃者と呼ぶのを好まなかった。侵略の行為には、ナツィ・ドイツの場合(支配する人種のための「生命空間」の必要)やソヴィエト同盟の場合(戦争は社会主義国家が行うならばつねに正当化されるというレーニン主義の原理的考え方。そこでは社会主義国家は「進歩的階級」の具現物で、誰が戦争を開始したかは重要ではない)のように、イデオロギー上の根拠があったとしてすら。
一定の場合には、攻撃者を識別するのは容易だ。すなわち、1939年のドイツ、1941年の日本、そして再び1956年のハンガリー、1950年の北朝鮮。
他の場合には明瞭さはより少ない。
「誰が開始したか」を決定することは、遊び場での子どもたちの取っ組み合いを種別化するがごとく、困難だ。
(「彼が最初にぼくを押した!」—「でも、彼がぼくを最初に蹴った!」—「でも、彼がぼくを最初に押した!」—「それは彼がぼくをブタと呼んだからだ!」—「ウソだ。彼が最初にぼくの名を呼んだんだ」、等々。)
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②へとつづく。