秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法会議

2777/O.ファイジズ・レーニンの革命④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第四節。
 (01) 新しい体制が長く続くとは、ほとんど誰も考えなかった。
 「一時間のCaliphs 〔アラブの指導者〕」というのが、多くのプレスの判断だった。
 エスエル指導者のGots は、ボルシェヴィキに「数日間」だけを認めた。
 Gorky は2週間、Tsereteli は3週間だった。
 多くのボルシェヴィキは、それ以上に楽観的ではなかった。
 教育人民委員〔文部科学大臣〕のLunacharsky は10月29日に、妻にこう書き送った。「事態はまだ不安定なので、手紙から離れるときいつも、私の最後のものになるのか否かすら分かっていない。私はいつでも、牢獄に投げ込まれる可能性がある」(注9)。
 ボルシェヴィキは首都を辛うじて掌握していた。—ペテログラードには主要な官署の全てがあったが、国有銀行、郵便と電信は権力奪取に抗議してストライキに入っていた。一方、地方については何の統制も効かせていなかった。
 ボルシェヴィキは、ペテログラードに食糧を供給する手段を持ち合わせていなかった。鉄道への支配を失っていたので。
 パリ・コミューン—「プロレタリアート独裁」の原型—の運命と同様になるように見えた。それはフランス全土から切り離されていたので、1871年のフランス軍の攻撃に耐えることができなかった。
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 (02) 最も早い軍事的脅威は、ケレンスキーがもたらした。
 彼は10月25日に冬宮から逃げ、ペテログラードのボルシェヴィキと闘うために北部前線から18のコサック団をかき集めた。ペテログラードでは、カデットと将校たちの小さな部隊が、彼らを支援すべく決起することになっていた。
 一方でモスクワでは、ケレンスキーに忠実な連隊が、10日間、ボルシェヴィキと戦闘した。
 最も激烈な戦闘はKremlin の周りで起き、モスクワの貴重な建築上の財産の多くが損なわれた。
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 (03) 最初の内戦は、Vikzhel つまり鉄道労働組合の介入によって複雑になった。
 全社会主義政党の労働者で成っていたVikzhel は、鉄道輸送を停止すると脅かして、戦闘を中止し、社会主義連立政府樹立に向けた政党間交渉の開始をするようボルシェヴィキに強いようとした。
 首都への食糧と燃料の供給が切断されれば、レーニンの政府は存続できなかった。
 モスクワとペテログラードでのケレンスキー部隊との戦闘は、鉄道に大きく依存していた。
 ボルシェヴィキは10月29日に、メンシェヴィキとエスエルとの協議を開始した。
 しかし、レーニンは、いかなる妥協にも反対した。
 ケレンスキー兵団との戦闘の勝利が確実になるや、彼は政党間協議を潰し、それは最終的には11月6日に決裂した。
 ボルシェヴィキによる権力の奪取は、ロシアでの社会主義運動を分裂させた。それは取り返しのつかないものだった。
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 (04) 権力奪取は全ロシア・ソヴェト大会の名において実行された。しかし、レーニンには、ソヴェト大会または常設のその執行部〔ソヴェト中央執行委員会=ソヴェトCEC〕を通じて統治する意図は全くなかった。ソヴェト執行部では、左翼エスエル、アナキストと少数のメンシェヴィキが、レーニンの独裁を実施する機関である人民委員会議(Sovnarkom)を議会のごとく恒常的に制約しようとしていた。
 人民委員会議は11月4日に、ソヴェトによる同意なくして立法(legislation)をする権限が自らにある—これはソヴェト権力の原理を侵犯していた—、そして、その観点からしてソヴェトの意見を聴くことなく立法できる、と布告した。
 ソヴェト執行部は、12月12日に初めて2週間の会合を行なった。
 人民委員会議はそのあいだに、中央諸国との和平交渉を開始し、ウクライナでの戦争を宣言し、モスクワとペテログラードに戒厳令を敷いた。
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 (05) レーニンは、権力を握った最初の日から、それに反対する「反革命」的政党の破壊に着手した。
 10月27日、人民委員会議は反対のプレスを廃刊させた。
 カデット、メンシェヴィキ、エスエルの指導者たちは、軍事革命委員会によって逮捕された。
 11月の末までに監獄はこれらの「政治犯」で満ちたので、空き部屋を増やすためにボルシェヴィキは犯罪者たちを釈放し始めた。
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 (06) ゆっくりと、しかし確実に、新しい警察国家の姿が見え始めていた。
 12月5日に軍事革命委員会は廃止され、2日後にその任務は、Cheka (反革命と破壊活動に対する闘争のための非常委員会)へ移された。これは新しい保安機関で、やがてKGBになることになる。
 Cheka を設置した人民委員会議の会合で、そのボスのDzerzhinsky は、その任務を、内戦の「内部戦線」にいる革命の「敵たち」とそれらを死に至らせるまで闘うことだと説明した。
 「我々は、革命を防衛するためには何でもする用意のある、決然たる、頑強な、ひたむきの心をもつ同志たちを、あの前線—最も危険で厳しい前線—へと送る必要がある。
 私は革命的正義の形態を追求している、と考えるな。我々には、正義は必要ではない。
 今は戦争だ。—直接に向かい合った、決着がつくまでの戦争だ。
 生か死だ。」(注10)
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 (07) 反対諸政党は、憲法会議に彼らの希望をつないだ。
 憲法会議は確かに民主主義の本当の機関だった。成人の普通選挙でもって選出され、階級に関係なく全ての公民を代表した。
 一方で、ソヴェトは、労働者、農民、兵士だけを代表した。そして、ボルシェヴィキはソヴェトにあえて挑戦しているように見えた。ボルシェヴィキは実際には、分けられていた。
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 (08) レーニンはつねに、形式的な民主主義原理を侮蔑していた。
 彼がその四月テーゼで明瞭にしていたのは、ソヴェト権力を憲法会議よりも高次の民主主義の形態と見なす、ということだった。
 ソヴェトには「ブルジョアジー」のための場所はなかった。そして、彼の見方では、プロレタリアート独裁にはソヴェトのための場所はなかった。
 しかし、ボルシェヴィキによる権力掌握は、部分的には憲法会議の召集を確実にする手段として正当化された。—レーニンは七月事件以降、「ケレンスキー商会」は憲法会議を開かせようとしないだろうと論じていた。したがって、面目を失うことなくして、彼の約束にたち戻ることはできなかっった。
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 (09) さらに加えて、ボルシェヴィキの中の穏健派は、憲法会議のための11月の選挙運動に関与していた。
 カーメネフのような者たちは、地方レベルでソヴェト権力を国民的議会としての憲法会議と結びつけるという考え方に賛成すらしていた。
 憲法会議は、当時のロシアの革命的状況に適した、直接民主制の興味深い混成(hybrid)形態になっただろう。そしておそらく、ソヴェト体制の暴力的発展に進む全ての帰結と結びついた、内戦への螺旋状の下降へと国が向かうのを阻止することができただろう。
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 (10) 11月の選挙は、ボルシェヴィキに関する国民投票(referendum)だった。
 その評決は、不明確だった。
 エスエルが最大多数の票を獲得した(38パーセント)。だが、投票用紙は十月の権力奪取を支持する左翼エスエルと支持しない右翼エスエルを区別していなかった。
 エスエル党の分裂は最近だったので、印刷を変更することができなかった。
 ボルシェヴィキは、ちょうど1000万票(24パーセント)を得た。その多くは、北部の工業地帯の労働者と兵士によって投じられた。
 南部の農業地帯では、ボルシェヴィキは振るわなかった。
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 (11) ただちにレーニンは、宣言した。結果は不公正だ、と。理由はエスエルに分裂があったことだけではなく、十月の蜂起は人々の「頭の中に階級闘争意識を吹き込んだ」、よって国民一般の意見は選挙後に左へと動いているがゆえにだ。
 レーニンは強く主張した。「当然のことながら、革命の利益は憲法会議の形式的諸権利よりも高い位置にある」、憲法会議という「ブルジョア議会」は「内戦」の中で廃棄されなければならない(注11)。
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 (12) 1918年1月5日、憲法会議の開会日のペテログラードは、包囲された状態にあった。
 ボルシェヴィキは公共の集会を禁止していた。そして、市街地を兵団で溢れさせた。その兵団は、憲法会議を防衛するために労働組合が組織した5万人の示威行為者の大群に対して発砲した。
 少なくとも10人が殺害され、数十人が負傷した。
 政府の兵団が非武装の群衆に発砲したのは、二月革命の日々以降で初めてのことだった。
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 (13) タウリダ宮のCatherine ホールで午後4時に、憲法会議は召集されていた。緊張した雰囲気だった。
 すでに代議員とほとんど同数の兵士たちが入っていた。
 彼らはホールの背後に立ち、階廊に座り込んでいた。ウォッカを飲み、エスエルの代議員たちに悪罵の声を発しながら。
 レーニンは、帝政期の大臣たちがドゥーマの会期中に座っていた古い政府用特別室から、情景を眺めていた。
 彼には、決定的な戦闘が始まる前の瞬間の将軍のごとき印象があった。
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 (14) Chernov が議長となり、エスエルが討論を開始した。—彼らエスエルは、立法上の遺産として残したく、土地と講和に関する諸布令を憲法会議で採択させたかった。
 しかし、兵士たちのヤジが激しくて、誰も聞き取ることができなかった。
 しばらくして、ボルシェヴィキは、この憲法会議は「反革命者たち」の手中にあると宣言して、退出した。のちに左翼エスエルが、これに従った。
 そして、午前4時、赤衛隊が閉鎖の手続を始めた。
 赤衛隊の一員だった海兵が演壇に上り、Chernov の肩をそっと叩いた。そして、「警護兵が疲れたので」全員がホールから出て行ってほしい、と宣告した。
 Chernov は数分間、会合を続行した。だが、警護兵が威嚇したので、やむなく会議を延期することに同意した。
 代議員たちは出て行き、タウリダ宮は閉鎖された。
 これとともに、ロシアの12年間の民主主義の歴史は終焉した。
 代議員たちが翌日に再びタウリダ宮に戻ったとき、宮殿の建物に入るのを阻止された。そして、憲法会議を解散するとの人民委員会議(Sovnarkom)の布告を提示された。
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 第四章第四節、終わり。

2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。

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