秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

意識

2500/平野丈夫・意識.自我.心の神経科学(2021年)。

 平野丈夫・自己とは何なのか?—意識・自我・心についての神経科学的考察(幻冬舎、2021.12)、より。
 一 意識
 かつて、秋月がこの欄で意識がないこと(深い睡眠や全身麻酔中の状態)は「死んで」いるのと同じ旨を書いたことがあるが、これも「意識」の語法による。また、のちに「深い睡眠や全身麻酔中の状態」で「意識」がなく、神経細胞(ニューロン)がかりに動いていなくともグリア細胞等々が「生存」を支えていることを知った。以下、上の著書に入る。
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 意識には少なくとも三つの意味がある。
 A/一般的イメージより広く、「単純かつ機械的に」「型にはまった脳・神経系のはたらき」を示す。目覚めている・寝ている・昏睡中等々で一括して「覚醒」。
 B/「ある事物に注意が向いてそのことに気づいている」こと。
 「感覚」はあるが「無意識」のこともある。「無意識」の情報にも身体は反射的応答をし、行動選択にも影響を与える。
 C/「自己の状態を観察・内省して思考する」こと。デカルトの「我思う」。最も高次で「心の本体」に近い。
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 二 意識A。
 ある基準では、I/刺激しなくとも覚醒(①意識清明・②場所や他者不明・③氏名・生年月日不明)、II/刺激すると覚醒(開眼が①呼びかけ・②揺さぶる・③痛み刺激)、Ⅲ/刺激しても覚醒しない(だが「生きている」)に大別する。
 別の基準では、1/開眼、II/言語音声反応、Ⅲ/運動反応、に着目する。
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 三 意識B。
 「意識」・「無意識」の対比はほぼこの意味。「外界からの刺激による感覚入力のほとんど」を我々は「知覚」しない。感覚(受容)と知覚はレベルが異なる。
 あること・あるものを「気づく」=「知覚する」と、その対象には「特有の主観的体験」が伴う。「生々しい主観的体験」は「クオリア(質感)」と呼ばれ、「意識に上がってくる」。
 「気づき」=「知覚」が「特定の神経細胞集団の発動」によるのは確かだ。しかし、「主観的クオリア」の発生態様は「ハード・プログラム」だ。
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 四 感覚と知覚
 感覚(感覚刺激)には、視覚、聴覚、平衡感覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚(触覚・温度感覚)などがある。*秋月—「六感」・「第六感」とは?
 これらを「感覚器」で受容するが、「一部」しか気づかない、つまり「知覚」しない。にもかかわらず、私たちは、一部の「感覚入力情報」に「自動的に反射応答」する。体温・血圧・心拍の変化等の「自律神経系の応答」は知覚しないことが多い。
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 五 視覚(感覚から知覚への例)
 ①網膜→②視床→③大脳皮質・一次視覚野→④大脳皮質・側頭葉高次視覚野。
 01・光の受容—光受容細胞(錐体と杆体—「網膜」にある)
 02・双極細胞(「網膜」にある)
 03・神経節細胞(「網膜」にある)
  いずれも「複数」の情報を伝える。各間を媒介するのは「シナプス」。
 04・視床(大脳皮質内側)内の外側膝状体。03が長い「軸索」を伸ばして04の神経細胞(ニューロン)に「シナプス結合」する=「投射」する。
 05・後部大脳皮質(=後頭葉)内の一次視覚野。これの神経細胞(ニューロン)は、視野内の「円状の明暗には全く応答せず」、「特定の視野位置の特定の傾きの線に応答する」。
 06・多数の視覚関連大脳皮質領域の高次視覚野。「形」(顔・複雑な形の図形等)の知覚は側頭葉内の視覚関連皮質部位だが、「場所」の情報はここでは欠落する。
 xx この過程の「どこか」(05-06?)で、知覚対象の「事物・概念」が「選択」されている。「各感覚情報処理系とは異なる脳部位が知覚対象を選別している可能性もある」。
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2273/「わたし」とは何か(9)。

 ダマシオの「自己」理論についての浅野孝雄の叙述のつづき。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。 
 三 C 自伝的自己(歴史的自己)
 「新しい経験」はすでに蓄積された記憶に追加され、「記憶」は「一つのニューラル・パターンとして再活性化」され、必要に応じて「イメージとして意識に、あるいは意識下に」表象される。
 こうして生起した「中核意識」において、「中核自己と結びついた記憶の総体との結びつき」が生まれ、その「結びつきが確立・統合」されて、人は「ある程度の不変性・自律性を有する人格(パーソナリティ)」を獲得する。
 獲得するこれが、「自伝的(歴史的)自己」だ。
 つまり、「過去における個体の経験」と「未来において期待される経験の内容」とが「内示的・外示的記憶として蓄積」されることにより、「自伝的(歴史的)自己」が形成される。
 「自伝的自己」は、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ」、つまり「ある時点について固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系」だ。それは、「自分とは、かくかくの人間である」というような「意識の中に客体化された自己についての観念」だ。
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 このあとに、印象深いとしてすでに紹介した文章がある。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
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 四 さて、<原自己>・<中核自己>・<自伝的自己>の三区別とそれらの発展?に関する叙述から、さしあたり、シロウトでもつぎのように語ることができるだろう。
 ①「胎児」もまた、専門知識がないからその時期に論及できないが、いつの時点からか、<原自己>を(無意識に)有している。「自己」を「わたし」と言い換えれば、「胎児」にもいつかの時点以降、「わたし」がある
 ②人間が生誕して、いわゆる<ものごころ>がつく頃、おそらくは「自分」と他者(生物、いぬ・ネコを含む)の区別を知り、「自分」が呼ばれれば反応することができる頃—それは何らかの欲求・感情を表現する「言葉」を覚えた頃にはすでに生じていると思われるが—、<中核自己>は成立している
 ③<中核自己>が「思い出」をすでに持つようになる頃からいわゆる「思春期」にかけて、<自伝的自己>が形成される。むろん、その後もつねに継続して、<自伝的自己>の内容は、(同じ部分を残すとともに)新しい「経験」・「記憶」・「予測」等々によって、変化していく。
 こう考えることができるとすると、「わたし」=自己というものを単一に把握することは決定的に誤りだと気づく。また、単純に「原自己」が後二者へと移行するのではない。成人になっても、<自伝的自己>の根元には(これまた変化している)<原自己>がある。
 こうしたことは、「発達科学」あるいは<子ども>の成長に関する諸研究分野において当然のことを、別の言葉で表現しているのかもしれない。
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 ところで、「わたし」とはいちおう別のレベルの問題だと思われるが、浅野によると、ダマシオは、「拡張意識」や「アイデンティティ」等の言葉を用いて、その「意識」理論をさらに展開しているようだ。興味深いので、さらに別の回に扱う。

2265/「わたし」とは何か(3)。

 (つづき)
 第二。<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>というドグマ、と前回最後に記したが、「ドグマ」、「同一性」という語自体の意味に問題はある。
 また、「生まれてから死ぬまでの個人・個体の…」ということも、厳密には疑わしい。
 別の回に茂木健一郎も述べていて、また脳科学分野全体で合致があるようなのだが、睡眠(とくにノンレム睡眠)中と全身麻酔中の人間には「意識」はない、とされる。「意識」(conciousness)が欠如していればと「私」という(「私」に関する)自己意識も消滅していることになる。とすると、毎日・毎夜、全身麻酔手術ののたびに「私」は途切れていて、連続していないことになろう。意識の喪失=「死」、ではないが、かりに誤ってこれらを同一視するとすれば、我々は何度も「死んで」いるのだ。つまり「私」は決して連続していないのだ。「意識」が消滅しているときの「私」とは、いったい何だろう。
 上のことはさて措くとしても、重要なのは、「生まれてから死ぬまで」とはいつからいつまでのことか、ということだ。
 脳科学、脳神経科学等の書物をかじっていて、ときに感じるのは、どのような人間を対象にして叙述、議論をしているのだろう、ということだ。おそらくは、<ふつうの(正常な)成人>を念頭に置いている。だが、生誕後に限るとしても、乳幼児期からいつ頃までに、「自己意識」をもつ「私」は発生>するのだろうか。
 いや、茂木健一郎は別の回で「胎児にも私があって、睡眠というものがあって、後で覚醒して、あっ私だ、と感じるのだろうか」というようなことを語っていたが、生誕時から(胎児の時から??)「私」はすでに発生しているのだろうか。
 逆に、「死ぬ」ときまで、「私」は存在しているのだろうか。認知症の患者にはどのような「私」があるのだうか。統合失調症の人々には、<歪んだ私>があるのだろうか。いわゆる精神障害者にとっての「私」とは??
 これはいつからいつまでを自立・自律の「人間」と見るのか、という大問題にかかわっているだろう。脳科学だけで解決できる問題でもないだろうが(つまり常識・伝統・制度等が関係する)、しかし脳科学・生物学こそが最も大きな寄与をすべき問題であるように見える。
 余計ながら、現在の日本の法律(・その解釈)では「人」となる時期は決まっていて「胎児」と区別されるが、旧優生保護法全面改正の現母体保護法(2013年〜)第14条第1項1号によると、「指定医師」は、「本人及び配偶者の同意を得て」、「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」について「妊娠中絶を行うことができる」。ここで「妊娠中絶」とは簡単には<胎児の母体からの排出>をいう(同第2条)。立ち入らないが、人としての生誕・非生誕は決して自然なものではない。なお、いくつかの寺院には真新しい「水子地蔵」がたくさん並んでいる。
 「死」の時期についても、「脳死」問題が議論されたように、自然に、あるいは明確に定まるものではない(むろん一定の基準はある)。
 <生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマに立つとしても(実際には、または世俗生活的にはそのドグマを私も前提にはしているのだが…)、その始期と終期の厳密な確定にはなおも問題がある、ということを、<ふつうの(正常な)成人>だけを視野に入れるのではいけないのではないか、ということを、言っている。
 さらに余計ながら、人工妊娠中絶の是非はアメリカ等では<リベラル・保守>を分ける根本的対立点のようだし、自殺の是非・可否もキリスト教の人々には重要な論点のようだ。
 生と死に関係する重要な問題だが、日本人はどのように考えてきたのだろうか。生きていてこそ「私」があり、「こころ」もある。
 西尾幹二は、条件の物的な整備よりも「こころ」・「精神」の問題がより重要だと、強調する。また、「自然科学」も蔑視する。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 以上、西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 以上、歴史通/月刊WiLL2019年11月号別冊「対談/皇室の神格と民族ま歴史」。
 西尾幹二は、日本での中絶や自殺・脳死の問題について、何か発言したことがあるのだろうか。これらは、もちろん<技術的な>問題ではなく、ヒト・人間にとって<本質的な>問題だ。
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2053/G・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(2015)②。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 p.76~p.91には、「意識の事件ファイル」の「第一」から「第三レベル」の記述がある。ただちには理解不可能だが、「意識」の有無の判別について、三つの段階の問題がある、といった趣旨だろう。
 (1)第一。自発的とみられる「身動き」のあること。但し、「身動き」がなくとも、「意識」があることがある。
 ①脳「梗塞や出血」で「大脳皮質から脊髄へと伸びる、密集した線維が完全に切れて」いるのが、<ロックトイン症候群>の典型例。
 ②「脊髄から筋肉」への全ての「ニューロンと神経において、電気信号の発生がブロックされる」場合が、<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>や<ギラン・バレー症候群>。
 ③「大脳皮質」中の運動関係部位の広い範囲が「外傷または血液循環の不全」で破壊されると、同様のことになる。
 これらの場合、「意識がある可能性がある」。
 (2)第二。外部からの指示に<正しく>反応すること。
 脳出血により前頭大脳皮質に広い損傷をした23歳女性はいったん「植物状態」と診断され、身動きは全くなかったが、「テニスをする」、「自宅内を歩く」を想像してとマイクで指令すると、「前運動野」のニューロンの動きが活発になった=「酸素消費量」が明確に増えた。2006年に公表。
 但し、このような変化がなくとも、「意識」があることがある。
 ①指令で使う「言語」が理解できない場合。失語症のこともある。
 ②「大変な心理的・身体的状態」のため、<実験>に参加する気になれない場合。
 ③ そもそも対応する「気力」が残っていない。
 「意識がある証拠があがらないからといって、意識がない証拠とすることはできない」。
 (3)第三。直接に脳内に入り込んで、信号・波動・微粒子の動きを調べて分析する。
 基本的な技術は、つぎの二つ。
 ①機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)・ポジトロン断想法(PET)-脳の代謝活動を測定する。
 ②脳波図(EEG)・脳磁図(MEG)-ニューロンの電気活動を記録する。
 いずれも、「意識の発生と完全に相関関係にあるニューロンの動き」の有無を特定する。
 しかし、ア/ニューロンの活動量・代謝レベルによっては結論が出ない。
 イ/「ニューロンのインパルスの同期」も、完全な指標を示さない。
 ・「人に意識がある証拠をとらえるのは、いうは易しで、実際はずっと難しい」。
 ・「他人の脳のなかに意識の光が灯っているか、消えているかは知りえない。そんなはずはないと思われるかもしれないが、本当にそうなのである」。-p.91の最後の一文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt)-1948年1月~2010年8月/満62歳で死去。
 この欄でかなり多く言及したこの人物は、上に出てくる<筋萎縮性側索硬化症(ALS)>(ゲーリック症)だったとされる。
 L・コワコフスキが2009年7月に逝去した直後の哀惜感溢れる追悼・回顧の文章(この欄で言及)は、その時点ではいっさい明かされていないが、この病状のもとで「意思表示」され、配偶者や同僚たちの助けで公にされたと見られる。

2050/鈴木光司・ループ(角川書店、1998)。

 鈴木光司・ループ(角川書店、1998/角川ホラー文庫、2000)。
 <リング>・<らせん>の物語世界がコンピータ内の「仮想空間」だったと暴露?されて、気が遠くなる感覚とともに、よくもこんなことを考えつくなという感想も、生じたものだった。
 適当にp.310から引用すると、こうある。
 「新しく生まれた細胞は細胞分裂を繰り返し、やがて親と同じような動きで、ディスプレイの中を這い回るようになっていった」。
 人工知能・人工生命・人工人間(ロボット?)を通り越した「人工世界」・「仮想空間」だということになっていた。プロジェクト名が「ループ」だ。
 現実?世界での「転移性ヒト・ガンウィルス」の発生・拡大を防止するため、「貞子」のいる元の世界へと(死んだはずの)高山竜司=二見馨は戻っていく。
 それを可能にするのがNSCS(Neutrino Scanning Capture System)というもので(と真面目に書くのも少しあほらしいが)、つぎのようなものだとされる。p.319-p.320。
 「ある物質にニュートリノを照射しその位相のズレを計測して再合成することにより、物質の微細な構造の三次元デジタル化が可能にな」る。
 「ニュートリノ振動を応用すれば、脳の活動状態から心の状態、記憶を含めた、生体がもつすべての情報を三次元情報として記述する画期的な技術が可能になる」。
 これによって再び仮想空間に送り込まれて高山竜司となる予定の二見馨は、作業?室・手術?室で、つぎのような「操作」を受ける。p.356-。
 「あらゆる方向からニュートリノは照射され、馨の身体を突き抜けて反対側の壁に達し、分子情報を逐一積み上げていく…。その量は徐々に増え、…、肉体の微細な構造の三次元デジタル化の精度は増していく」。
 「現実界での肉体は消滅し、ループ界での再生が…」。
 「解析がすべて終了すると、さっきまで馨が浮いていたはずの水槽に、人間の姿はなかった。水は…<中略>これまでと違った どろりとした液体に変じてしまった」。
 最終的?形態は、こう叙述される。p.358。
 「肉体の消滅にもかかわらず、馨の意識は存在した。
 ニュートリノは死の直前における馨の脳の状態、シノプスやニューロンの位置や化学反応に至るまで正確にデジタル化し、再現させていた。
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 「ニュートリノ」なるものは今でも理解していないが、上にいう「脳の活動状態から心の状態、記憶を含めた、生体がもつすべての情報」の「三次元デジタル化」というものも、かつては、将来的にはいつかこういうことが可能になるのか、と幼稚に感じてしまった可能性がある。
 だが、人間の脳内での意識(覚醒)を超える「心」・「感情」・全ての「記憶」のデジタル化・記録・記述というものは、かりに一人の人間についてでも、不可能だろうと今では感じられる。
 人工知能の進化によって囲碁・将棋レベルのAIはさらに優秀?になるかもしれず、基礎的な「感情」を表現する動作のできる犬・猫ロボット(Sony-aiboのような)はできるかもしれず、クイズ解答大会で優秀する人工「頭脳」もできるかもしれない(これらはすでに現実になっているのかもしれない)。
 しかし、たとえ一人についてであれ「心」・「感情」・全ての「記憶」をコンピュータに<写し取る>のは不可能だろうと思われる。
 ましてや、生存する人間の全員について、これを行うのは不可能だろう。
 いや、かりに「理論的・技術的」には可能になる(可能である)としても、実際に人類がそれを行うことは、おそらく決してないのではないか。最大の理由は、種々の意味での<コスト(費用)>だ。
 G・トノーニら/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 これの原書は、2013年刊行。
 10年以上前よりも後でこの本に書かれているような関係学問分野の議論状態であるとすると(全体として面白くなかったという意味では全くないが)、上のような感想が生じ、かつ実際的・経済的にというよりも「理論的・技術的」にも不可能ではないか、という気がする。
 もちろん、「理論的・技術的」にも実際的・経済的にも可能で、かつそれが実践される人間社会というのは、一定の障害・病気の治療または防止のために対象はきわめて限られるとかりにしてすら、とてつもなく<恐ろしく、気持ちが悪い>のではないか。障害・病気ーこれらが何を意味するのか自体が曖昧なままであるに違いないが、この点を度外視するとしてもーの治療・防止のために使わない「人間」がきっと発生するに違いない、と想定される。

2037/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)①。

  茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 これを10章(+終章)まで、計p.313までのうち、第3章のp.112 まで読み終えている。他にも同人の著はあるようだが、これが最初に公刊した書物らしいので、読み了えるつもりでいる。この人の、30歳代半ばくらいまでの思考・研究を相当に「理論的」・体系的にまとめたもののようだ。出版担当者は、日本経済新聞社・松尾義之。
 なお、未読の第10章の表題は<私は「自由」なのか?>、第9章の表題は<生と死と私>。
 ついでに余計な記述をすると、西尾幹二・あなたは自由か (ちくま新書、2018)、という人文社会系の書物が、上の茂木の本より20年以上あとに出版されている。佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書、2004)という書物もある。仲正昌樹・「不自由」論(ちくま新書、2003)も。
  上の著の、「認識におけるマッハの原理」の論述のあとのつぎを(叙述に沿って)おそらくはほとんど「理解する」ことができた、または、そのような気分になったので、メモしておく。
 この書には「心」の正確で厳密な定義は、施されていない。
 但し、「意識」については、G・トノーニとおそらくは同じ概念使用法によって、この概念を使っていると見られる。これを第一点としよう。詳細は、第6章<「意識」を定義する>で叙述する、とされる。
 第一。p.96(意識)。
 ・「覚醒」時には「十分な数のニューロンが発火している」から「『心』というシステムが成立する」。
 ・「一方、眠っている時(特に長波睡眠と呼ばれる深い眠りの状態)にも、低い頻度での自発的な発火は見られる。/しかし、…意識を支えるのに十分な数の相互作用連結なニューロンの発火は見られない。したがって、〔深い〕睡眠中には、システムとしての『心』が成立しないと考えられるのである」。
 これ以外に、以下の五点を挙げて、第一回のメモとする。
 第二。p.86〔第1章・2章のまとめ〕。
 ・「私たちの一部」である「認識」は、つまり「私たちの心の中で、どのような表象が生じるか」は、「私たちの脳の中のニューロンの発火の間の相互作用によってのみ説明されなければならない」。
 ・「ここにニューロンの間の相互作用」とは、「アクション・ポテンシャルの伝搬、シナプスにおける神経伝達物質の放出、その神経伝達物質とレセプターの結合、…シナプス後側ニューロンにおけるEPSP(興奮性シナプス後側膜電位)あるいはIPSP(抑制性シナプス後側膜電位)の発生である」。
 第三。p.100〔ニューロン相互作用連結・クラスター〕。
 ・「相互作用連結なニューロンの発火を『クラスター』と呼ぶことにしよう」。
 ・A(薔薇)の「像が網膜上に投影された時、網膜神経節細胞から、…を経てITに至る、一連の相互作用連結なニューロンの発火のクラスターが生じる」。
 ・「このITのニューロンの発火に至る、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター全体」こそが、A(薔薇)という「認識を支えている」。すなわち、「最も高次の」「ニューロンの発火」が単独でA(薔薇)という「認識を支えている」のではない。
 第四。p.90-〔ニューロンの相互作用連結〕。
 ・二つのニューロンの「相互作用」とはニューロン間の「シナプス」の前後が「連結」することで発生し、これには、つぎの二つの態様がある。
 ・「シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分解する場合(興奮性結合)と過分解する場合(抑制的結合)」である。
 ・「シナプスが興奮性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは発火しやすくなるし、シナプスが抑制性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは、発火しにくくなる」。
 ・簡単には、「興奮性結合=正の相互作用連結性、抑制的結合=負の正の相互作用連結性」。
 第五。p.102-〔「抑制性結合」の存在意味〕。
 ・「少し哲学的に言えば、不存在は存在しないことを通して存在に貢献するけれども、存在の一部にはならない」。
 ・「抑制性の投射をしているニューロンは、あまり発火しないという形で、いわば消極的に単純型細胞の発火に貢献」する。
 第六。p.104-〔クラスター全体による「認識」の意味=「末端」ニューロンと「最高次」ニューロンの発火の「時間」と「空間」、「相互作用同時性の原理」)。
 ・「物理的」な「時間」・「空間」は異なっていても、<認識>上の「時間」は「同時」で、「空間」は「局所」的である。
 ・「認識の準拠枠となる時間を『固有時』と呼ぶ」こととすると、「ある二つのニューロンが相互作用連結な時、相互作用の伝搬の間、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、…同時である」。
 ・「末端のニューロンから、ITのニューロンまで時間がかかるからといって」、私たちのA(薔薇)という「認識が、『じわじわ』と時間をかけて成立するわけではない」。
 ・「物理的空間の中で、離れた点に存在するニューロンの発火」が生じて「認識の内容が決まってくる」という意味では、「物理的空間の中では非局所的だ」。
 ・「物理的空間の中では…離れたところにあるニューロンの発火が、相互作用連結性によって一つに結びつきあって、…一つの認識の要素を構成する」。
 ・「つまり、相互作用連結によって結びあったニューロンの発火は、認識の時空の中では、局所的に表現されている」。
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 注記ー秋月。
 ①「ニューロン」とは「神経細胞」のことで、細胞体、軸索、樹状突起の三つに分けられる。軸索,axon, の先端から「シナプス」,synapse, という空間を接して、別のニューロンと「連結する」ことがある。(化学的)電気信号が発生すると、軸索の先端に接するシナプス空間に「伝達化学物質」が生じて、別のニューロンと連結する=信号が伝達される(同時には単一方向)。
 ②ニューロンは「神経」のある人間の身体全身にあるが、脳内には約1000億個があり、それぞれの一つずつが約1000個のシナプス部分と接して、一定の場合に別のニューロンと「連結」するとされる。G・トノーニらの2013年著によると、約1000億個のうち「意識」を生み出す<視床-大脳皮質>部位には約200億個だけがあり、生存にとっては重要だが「意識」とは無関係の<小脳・基底核>等に残りの約800億個がある。なお、人間一人の「脳」は、重さ1.3-1.5kgだという。

2036/外界・「認識」・主観についての雑考。

 ヒト・人間はいつ頃から、自分または「自分たち」が他の生物・物・事象・自然等を「認識」することの意味を考え始めたのだろうか。
 それは宗教の始まりとほとんど同じで、ギリシャの哲学者たちはとっくに「哲学」の対象にしていたのだろう。
 事物の「存在」が先ずあって、人間はそれを「認識」するのか。それとも、人間が「認識」するからこそ、当該事物は「存在」すると言えるのか。
 つまり、「客体」という客観物が先にあって、「主体」の主観的行為が後にくるのか。「主体」の主観的行為によってこそ「客体(客観)」を<知る>のか。
 あるいは、「外部」が先で人間の「内部」作業が論理的に後なのか。人間の知覚という(脳の)「内部」過程を前提として、「外部」の事物の存在が判明するのか。
 これは人文(社会)学・哲学上の大問題だったはずで、これまでの長きにわたる議論は、これに関連しているはずだ。きっと、単純な観念論と単純な唯物論の区別もこれに関連する。
 また、「心(知)」と「身体」の区別に関するデカルトの<心身二元論>もこれに関連する。<思考する実在>と<延長された実在>。
 この二元論は、人間の「身体」は「心(知)」・「精神」とは異なる「外部」・「客体」と把握することになるのだろう。「私」は「考える」ことのうちこそ「存在」しているのだ。そうすると、上の二つをめぐる議論は、<物質と精神>の区別や関係に関するそれとほぼ同じことになる。
 デカルトはこの二つをいちおうは?厳格に区別し、両者を連結するのが脳内の「松果体」だと考えたらしい。また、彼は「心」は心臓にあると考えた、という説明を読んだこともある。
 明確な<二元論>に立たないとすれば、上述のような<堂々めぐり>、<循環的説明>は、言葉・概念の使い方・理解の仕方にもよるが、容易に出てくる。
 しかし、つぎのような場合があるので、「外部」・「客体」・事物ないし事象の存在を不可欠の前提にすることはできないだろう(とも考えられる)。
 ①幻覚。「お化け」もこれに入りそうだ。薬剤・ドラッグの影響による場合も。「幻視」に限らず、「幻聴」等もある。
 ②浅い睡眠中に見る「夢」。
 ③全身麻酔からの覚醒後に残り得る「錯乱」。これは、①の薬による「幻覚」の一種だとも捉え得る。
 これらは「外界」の存在を前提とせず、「主体」・「内部」が勝手に<認識>している(と言えるだろう)。
 そうすると、「主体」・「内部」という主観的側面こそが第一次的なもので、「外部」の存在を前提として主観的側面が発生する、というのではない。
 しかし、上の①~③は「異常」な場合、例外的な場合であり、「主体」・「内部」という主観が正常・通常の場合は、やはり「外部」の存在が先立つ前提条件ではないのか。
 これはなるほどと思わせる。しかし、主観の「異常」性と「正常」性はどうやって区別するのか。「主体」が「外界」を「正常」に<認識>しているか否かを、どうやって判断するのか。
 こうなると、さらに論議がつづいていく。
 すでにこの欄で言及したことに触れると、つぎの問題もある。
 「主体」・「内部」の主観的過程において、<感性と理性>というもの、あるいは<情動と合理的決定>というものは、どういう違いがあり、どういう関係に立っているのか。
 以上は幼稚な叙述で、むろんもう少しは、すでに叙述し、論理展開することはできる。
 かつての「大」哲学者たちも、要するに、その<認識論>あるいは<存在論>で、こうしたことを思考し、論議してきたのだと思われる。
 過去の「大」哲学者たちの言述うんぬんは別として、<自分で>考えている。同じヒト・人間なのだから、私でも、少しは彼らに接近することができるのではないか。
 それに、ダーウィンの進化論等以降の「(自然)科学」または進化学・遺伝学・生物学(脳科学・神経生理学等々を含む)等の進展によって、もちろん「神」の存在の助けを借りることなく、彼ら「大」哲学者たちよりも、上の問題を新しく、より正確に議論することができる状態にある、と言えるかもしれない。
 デカルト、カント、フッサール、それにマルクス等々の生きた時代には、現に生存中の人間の脳内の様相(ニューロンの発火状態等)をリアルタイムで視覚的・電位的に把握することのできるfMRIなどという装置は考案されていなかったのだ。
 もっとも、日本の現在の人文社会学研究者または社会・政治系の評論家類はいかほどにヒト・人間の<本性>に関する生物学・神経生理学の進展の成果をふまえて執筆したり、議論しているかは、相当に怪しいのだけれども。

1877/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第1節。

 マルクス(・エンゲルス)の論述自体をL・コワコフスキはどう紹介し、分析し、論評しているかにも関心をもつに至ったので、第一巻の一部の試訳作業も、並行して行うこととする。青年マルクスとか「ヘーゲル左派」とかにまで戻ると、マルクスとレーニンとの関係・差異に言及されない予感がするので、<歴史的唯物論>(「史的唯物論」とされるものの訳語はこれを用いる)あたりから始めることにする。但し、今回部分には、論評類はほとんどない。
 マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
 今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
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 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
 (1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
 同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
 資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
 このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
 これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
 その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
 以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
 (2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
 これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
 これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
 物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
 人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
 社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
 これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
 そのとき、社会革命の時期が始まる。
 経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
 このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。  
 ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
 いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
 それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
 なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
 大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
 ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
 同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
 現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
 (3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
 我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
 (4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
 (5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
 (6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
 人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
 個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
 この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
 (7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
 歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
 生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
 (マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
 生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
 生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
 肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
 この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
 こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
 「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
 (8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
 この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
 歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
 生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
 上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
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 第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。

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