秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

思想家

2634/西尾幹二批判065-02。

 (つづき)
  思想の(専門的)研究者と「思想家」は同義ではない。
 外国「思想」をあれこれと紹介し、論じている諸著者に、<あなた自身の「思想」はどうなのか、披瀝してほしい>と感じるときもあるのだが、ともあれ、思想研究者と思想家は異なる。
 上のオビで西尾幹二が「真の保守思想家」とされていることを思い出したが、西尾幹二自身が、一定の「思想」の専門家ではなく、自分自身が「思想家」だと明言したことがある。
 大笑いだ。西尾幹二の「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか(外国にはきっといないだろう)。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾はこう語っている。発言内容と言葉は正確なものであるとする。
 2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、西尾はこう発言した。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して”日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 すでにこの欄で言及したことがあるので、驚かされる部分を含む内容には立ち入らない。
 ここで重要なのは、「明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思い」があるから、某と妥協できなかった、と明言していることだ。
 「明治以来の日本史の革新を目ざす」とは、質問者が「つくる会」会長だったことを主たる理由としてインタヴューを申し込んだらしいことによるだろう。
 重要なのは、西尾幹二は(少なくとも上の当時の2019年)、自分を「思想家」だとと自認した、ということだ。
 もう一度書く。大笑いだ。西尾幹二「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか。
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  関心は、さらには、つぎの二つに絞られる。
 第一。西尾幹二という人物の「人格」、「神経」。
 第二。西尾幹二に執筆依頼等をし、まとめた著書を出版までする、日本の一部の出版・雑誌「産業」の頽廃。
 あるいは二つをまとめて、こういう人物、出版「業界」を生み出した、<戦後日本>というものの「影」の姿。
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2633/西尾幹二批判065-01—ドイツ思想の専門家?

  前回No.2631の最後に、西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどの専門書が「一冊でも」あるのだろうか旨を書いたが、さっそくに「専門的論文が一本でも」あるのか、に訂正しなければならないだろう。月刊正論(産経新聞)、月刊WiLL(ワック)等への寄稿文章は「(専門的)論文」ではない。
 書籍・単行本に限っても、西尾幹二は自分自身で「私の主著」は『国民の歴史』(1999、2009、2018)と『江戸のダイナミズム』(2007)のふたつであるを旨を2018年に明記している。つぎの、自己賛美が呆れ返るほどの一文の中でだが。
 「『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナイズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される運命を担っている」(全集第17巻「後記」、p.751)。
 こらら二つに『ニーチェ』(1977)を加えて三著とするとしても、「ドイツ思想」に関する専門書ではないことは明瞭だ。また、いずれも何らかの意味で「歴史」を扱っているとしても、日本の歴史に関する断片的随筆・評論、ニーチェの一部の「文学的」歴史研究であって、「歴史哲学」書ではない。なお、西尾幹二にとっては「歴史」に関する何らかの一般的なあるいは抽象的な思考を表明すれば「歴史哲学」になるのかもしれないが、それならば秋月瑛二もまた「歴史哲学」者と自称し得る。「歴史哲学」と言いつつ西尾のそれはほとんどが「思いつき」、「ひらめき」から成るものだ。
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  西尾幹二が「ドイツ思想」の専門家とされることは、ドイツの思想に関係した仕事をしてきた日本の研究者は、たぶんそんなことは無視しているだろうが、知ったならば、論難、罵倒あるいは冷笑の対象にするに違いない。
 L・コワコフスキは「マルクスはドイツの哲学者だ」と叙述することの意味に大著のある章の冒頭で触れているが、マルクスもまた「ドイツ思想」の系譜上にあると言っても誤りではないだろう。そして、谷沢永一(1929-2011)はレーニン・国家と革命(1917年)を明らかに読んでいる叙述をかつてしていたが、西尾幹二は、「反共」を叫び「マルクス主義」という語も用いながら、マルクス、レーニン等の著作の内容に言及していたことは一度もない。
 仲正昌樹ほか・現代思想入門(PHP、2007)の最初の章の仲正「『現代思想』の変遷」はマルクス主義から論述を始めているのだが、その前のカント・ヘーゲルについて、西尾幹二が何か論及していとのを読んだことは一度もない。
 仲正昌樹・現代ドイツ思想講義(作品社、2012)は、ハイデガーから叙述を始めて、「フランクフルト学派」、その第二世代のハーバーマス、フランス・ポストモダン等のドイツへの影響で終えているのだが、これらのうち西尾幹二が記したことがあるのはハイデガーだけだ。しかもハイデガー研究ではなく、その「退屈」論を要約的に引用・紹介しただけだ(『国民の歴史』の最後の章、現代人は自由があり過ぎて「退屈」して「自由の悲劇」に立ち向かわざるを得なる、という秋月には理解不能の論脈の中でだ)。西尾の諸文章は、ニーチェとハイデガーの関係にもおそらく全く触れたことがない。
 仲正昌樹・上掲書のそのほぼ半分はアドルノ=ホルクマイヤー・啓蒙の弁証法を「読む」で占められているが、西尾幹二はそもそも「フランクフルト学派」に言及したことがないのだから、この著(1947年)に触れているはずもない。日本の<保守>派で、「フランクフルト学派」を戦後「左翼」の重要な源泉と位置づけていた者に、田中英道、八木秀次がいる。
 なお、L・コワコフスキの大著でマルクス主義の戦後の諸潮流の一つと位置づけられた「フランクフルト学派」の叙述を読んで、つぎの二点でこの「学派」は西尾幹二と共通性・類似性がある、と感じたことがある。
 ①反現代文明性(反科学技術性)、②大衆蔑視性。
 「フランクフルト学派」は単純な「左翼」ではなく、西尾幹二は単純な「反左翼」ではない。
 参照→近代啓蒙・西尾幹二/No.2130・池田信夫のブログ016(2021/01/24)、同→西尾幹二批判041/No.2465(2022/01/07)。
 「四人の偉大な思索者」を扱った現代思想の源流/シリーズ・現代思想の冒険者たち(講談社、2003)で「ニーチェ」を執筆していたのは三島憲一で、その内容の一部は西尾幹二とも関連させてこの欄で取り上げたことがある。
 三島憲一・戦後ドイツ(岩波新書、1991)は「思想」よりも広く副題にあるように(政治史と併行させて)戦後ドイツの「知的歴史」を論述対象としたものだ。
 この書では、ハイデガー、「フランクフルト学派」、ハーバーマス、マルクーゼらに関して多くの叙述がなされているようだ。そして最後に1986年からの<歴史家論争>にも論及がある。
 この書を概観しただけでも、西尾幹二がとても「ドイツ思想」の専門家と言えないことは明瞭だ。上のいずれについても、西尾幹二は論述の対象にしたことがないからだ(せいぜいハイデガーの「退屈」論のみの、かつ要約的紹介だ)。
 フランクフルト学派に何ら触れることができていないのでは「ドイツ思想」を知っているとすら言えないだろう。また、「歴史哲学」を含めても、主としてドイツ国内の<歴史家論争>をまるで知らないごとくであるのは、致命的だ。
 では「戦後」ではなく「戦前」ならば詳しく知った「専門家」なのかというと、そうでも全くないのは既述のとおり。
 いくつか上に挙げた「ドイツ思想」関係の書物はあくまで入手しやすい例示で、他に専門的研究書や論文はあり、かつ西尾幹二はその研究書等を読んですらいないだろう。
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  西尾幹二が自ら記した自分の活動史からしても、この人が「ドイツ思想」全体にはまるで関心のなかったこと、「専門」を「ドイツ思想と歴史哲学」にしようとは考えていなかったことが明らかだ。
 西尾幹二・日本の根本問題(新潮社、2003)所収の2000年の論考でこう書いている。
 私は1970年の三島事件のあと、「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。このとき、35歳。
 そして1977年(42歳)に前述の『ニーチェ』出版、1979年に博士号を得る。その頃、「文学者」として(日本文芸家協会の当時のソ連との交流の一つとして)ソ連への「遊覧視察旅行」(足・アゴつき大名旅行)、文芸雑誌で「文芸評論」・「書評」をしたりしたあと、1990年を迎える(1990年は45歳の年)。
 とても「ドイツ思想」の研究者ではない。そして、1996年12月-1997年1月に<新しい歴史教科書をつくる会>の初代会長就任(満61歳)
 その後を見ても「ドイツ思想」の専門的研究を行う隙間はなく、むろん(当時の「皇太子さまにご忠言」する書籍を2006年に刊行しても)その分野の専門的研究論文や研究書はない。
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  それにもかかわらず、「専門はドイツ思想、歴史哲学」と紹介され、それに抵抗する特段の意思を表明していないのは、「ふつうの神経」をもつ常識的人間には考えられないことだろう。また、そのように紹介する出版社、雑誌、雑誌編集者も「異常」なのだ。
 雑誌への執筆者のいわば「品質」表示が読者・消費者に対する雑誌編集部の「執筆者紹介」だ。その紹介を見て雑誌を購入したり、個別論考を閲読する読者もいるはずだ。
 そうだとすれば、刑事告発等をする気はないが、原産国・原産府県、成分表示、JISやJASとの適合等について厳格な「正しい」表示義務のある生活用品や食品の場合と同様に、少なくとも倫理的に、「正しい」表記・成分表示、「不当表示の排除」が求められるべきだ。
 全てではないにせよ、雑誌の一部には、西尾幹二の例に見られるような「不当表示」、間違った「執筆者紹介」がある。
 もっとも、「執筆者紹介」の具体的内容は、執筆者自身が申告して、雑誌編集部が原則としてそのまま掲載するのかもしれない。
 というようなことを思い巡らせると、書籍のオビの惹句は書籍編集担当者がきっと苦労して考えるのだろうと推測していたが、じつは西尾幹二本人が原案を書いたのではないか、と感じてきた。 
 西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)のオビの一部。
(表)「日本はどう生きるのか。/民族の哲学・決定版。
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」
(裏)「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
 今も力を失わない警句。」
 西尾幹二ならば、編集者を助けて?、「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」、「今も力を失わない警句」と自ら書いても不思議ではないような気がする。
 なお、西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)のオビの一部。
 (表)「崖っぷちの日本に必要なものは何かを今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考」。
 —--
 最後の五へとつづく。

2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
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   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
 ——

2494/西尾幹二批判054—思想家?②。

 (つづき)
  西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
 2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 これは、すさまじい言葉だ
 思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」
 どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
 思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
 どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
 まず第一に、結論自体に驚かされる。
 本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
 思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
 第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。 
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
 「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
 もちろん、西尾幹二自身だろう。
 「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
 この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
 そのような人物は「思想家」か?
 上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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 つづく。

2493/西尾幹二批判053—思想家?①。

  そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
 英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
 ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
 西尾幹二は、その稀有な人物だ。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
 「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
 しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。 
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 そして、こう続ける。
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
 この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
 はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
 西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
 「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。
 もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
 --------
 つづく。
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