秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

徳間書店

2646/西尾幹二批判067。

  1965年に三国連太郎主演で映画化された『飢餓海峡』の原作者は、水上勉だ。この原作は、1962年に新聞で連載され、1963年に加筆されて単著化、1969年に文庫化されたようだ。だが水上勉はこの小説への「思い入れ」が深かったようで、のちに<改訂決定版>を書き、没後の2005年に刊行された。
 新聞または週刊誌に連載された当初の発表原稿が単著になったり文庫化されたりするときに加筆修正されることは、珍しくはないのだろう。 
 水上勉『飢餓海峡』の場合、単著になるときに加筆修正されていることは明記されていたはずだし、のちの<改訂決定版>も、このように明記されて出版された(所持している)。
 松本清張全集や司馬遼太郎全集(文藝春秋)に収録された諸小説類は、これらの全集は生前から逐次刊行されていたこともあって、新聞・週刊誌での発表原稿か、すみやかに単行本化された場合はその単著を「底本」としていたと思われる。三島由紀夫全集(新潮社)の場合は、全集刊行の事前に本人の「加筆修正」があったはずもない。
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  当初の発表原稿が単著化される、または単著の一部とされて出版される場合に「加筆修正」があるならば、その旨が明記されることが必要であって、通常の著者や出版社はそうしているだろう。
 さらに厳密に、「加筆修正」の箇所や内容もきちんと記載されることがあるかもしれない。
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 雑誌に発表した文章をその他の文章とともに単著化するに際して、<加筆修正した>旨を明記することなく、実際には「加筆修正」している例が、西尾幹二にはある。
 たまたま気づいたのだが、『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』(徳間書店、2017)と、その一部として採用されている「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)
 上の前者は6部に分けられて「書き下ろし」と既に発表したものの計18の文章で成っているようだ(18なのか、例えば20を18にまとめているのかをきちんと確認はしない)。
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 こういう場合、「初出一覧」を示す一つの頁を設けて、どの雑誌・新聞の何月(何日)号に当初の原稿は発表した旨を一覧的に示すものだが、西尾幹二『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』には、そういう頁はない。
 そうではなく、本文と「あとがき」の間に小さい活字で、「オリジナル」以外の「初出雑誌、並びに収載本は各論考末にあります」とだけ書かれている。すでに別の単行本になっているものの一部も転載されているようだ。
 それはともあれ、「各論考」の末尾をいちいち見ないと、その文章が最初はいつどこに発表されたかが、分からないようになっている。
 少なくとも、親切な「編集」の仕方ではない。
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  「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)は、は「II」の「五」に収録され、その末尾にカッコ書きで「(『WiLL』2016年9月号、ワック)」と記載されている(p.110)。
 但し、A・雑誌発表文章とB・上の単著収録文章には、若干の差異がある
 第一。タイトル・副題自体が同じでない。Aは「安倍首相への直言・なぜ危機を隠すのか—中国の脅威を説かずして何が憲法改正か、首相の気迫欠如が心配だ」。
 Bでは、「安倍首相、なぜ危機を隠すのか—中国軍機の挑発に対して」。
 第二。小見出しの使い方が同じではない。
 Aには「中国の非を訴えるべきだ」と「米中からの独立」が二つめと最後にあるが、Bにはこれら二つがない。
 第三。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、明らかに文章が変わっている。「修正」されている。
 「軍事的知能が落ちた」という小見出しの位置を変更した辺り、Aでは「…いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います」(雑誌p.60)、Bでは「今やいかに現実のものとなっているかは、考えるヒントになろうかと思います」(書籍p.108)。
 第三の二。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、単著化の際に明らかに付け加えられた文章がある。「加筆」だ。
 Aの「安倍首相への直言、…」は、「…。アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です」で終わっている(雑誌、p.61)。
 これに対してBの「安倍首相、なぜ…」は、上のあとで改行して、つぎの二段落を加えている。
 「中国軍機の挑発をいたずらにこと荒立てまいと隠し続ける日本政府の首脳は、国民啓発において立ち遅れてしまいました。…〔一文略—秋月〕。
 意識を変えなければなりません。やるべきことはそれだけで、ある意味で簡単なことなのです。」
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  このような不一致、および「加筆修正」を問題視しなくてよい、そうする必要はない、実質的に同じだ、趣旨を強化しているだけだ、と擁護する向きもあるだろう。
 しかし、決定的に問題なのは、上のようなことが(他にもあるかもしれないが)「ひとことの断わりもなく」、「加筆修正した」と明記することもなく、単著化の段階で行なわれている、ということだ。
 何の「断わり」も「注記」もないのだから、単著『保守の真贋』の読者は、各文章の末尾に付された雑誌類と同じそのままの文章が掲載されていると思って読むだろう。
 これは一種の「ウソ」で、「詐欺」だ。一部であっても全体の一部なのだから、ある文章の全体を単著化の時点で黙ったままで「書き直した」に等しい。
 そして、このような「加筆修正」等が<全集>への収載の時点で行なわれていない、という保証は全くない。
 著者・編集者が、西尾幹二だからだ。
 元の文章を明示的に修正しなくても、西尾自身の「後記」によって後から趣旨の変更を図るくらいのことは、「知的に不誠実な」西尾幹二ならば行ないかねないし、行なっていると見られる。
 当初の(雑誌・新聞等への)発表文章、単著化したときの文章、全集に収録された文章、これらの「異同」等に、読者は、あるいは全く存在しないかもしれないが、西尾幹二文献に「書誌学」的関心をもつ者は、注意しなければならない。
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2297/西尾幹二批判017-同・GHQ焚書図書開封4(2010)。

 言葉・観念の意味の不明瞭、「論理」展開・「推論」過程の不十分。これらをほとんど欠如させても、「情緒」・「雰囲気」でもって何らかの「感動」を与えたいならば、政治・社会・歴史にかかわる「評論家」・「随筆家」ではなく、詩人・小説家・劇作家等の「創作者」・「創造者」になればよかったのだ。
 西尾幹二における、日本の「神話」(それも日本書記・古事記の「全体」)→<女系天皇の否認>という『論理」・「推論」のひどさと誤りについては既述だが、1999年の『国民の歴史』に関係させて今後も指摘するだろう。
 以下は、上の主題に関しての一例。
 No.2150/2020.02.16の一部のそのままの掲載・再掲
 「削除」=「割愛」、その意味での「短縮」を行なっているが、以下の部分はかつてと全く同じ。
 西尾幹二がその個人全集ですらしているような、既発表論考の近年になっての加筆・修正は、いっさい行なっていない
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  神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない。
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
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 以上。
 以上に直接につづく秋月の理由づけの部分を、やはりそのまま以下に再掲する。
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 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
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2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
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 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

2100/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史09。

 現上皇の「おことば」(2016年)を契機とする退位・譲位に関する議論について、本郷和人はこう書いた。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます。
 歴史的な背景や前提に対して無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます。」
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)。
 また、小島毅は、下の書物を執筆し始めた動機を、こう書いた。
 「一部論者によって伝統的な天皇のあり方という、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、『古来そうだったのだから変えてはならない』という自説の根拠に使われた。
 そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である。」
 瞥見のかぎりで、渡部昇一(故人)は明示的に批判されている。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。 
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 1465年~1615年、150年間。応仁の乱勃発二年前~江戸時代初頭・大阪夏の陣。
 1615年~1865年、250年間。大阪夏の陣~明治改元3年前・第二次長州征討。
 1865年~1915年、50年間。明治改元3年前~第一次世界大戦2年め・対中21箇条要求。
 1865年~1945年、80年間。明治改元3年前~敗戦。
 1889年~1945年、56年。明治憲法発布~敗戦。
 1868年~2018年、150年。明治改元~2019年の前年。
 1889年~2019年、130年。明治憲法発布・旧皇室典範~2019年(令和1年)。
 1947年~2017年、70年。日本国憲法施行~2019年の前々年。
 日本の現在の「右翼」や一部「保守」は、①明治改元(1868年)~敗戦(1945年)の77年間、または②旧憲法・旧皇室典範(1889年)~敗戦(1945年)のわずか56年間、あるいは③皇位継承を男系男子だけに限定する旧皇室典範(1889年)~現皇室典範(~2019年)の130年(明治-令和の5元号にわたる)が、<日本の歴史と伝統>だと勘違いしているのではないか?
 古くから続いているのならば変えなくてよいのではないか、というウソに嵌まって<女系容認論>を遠ざけていた、かつての私に対する自戒の想いも、強くある。
 江戸幕府開設(1603年)~明治改元(1868年)は、265年。上の②56年、①77年、③130年よりもはるかに長い。この期間もまた日本(・天皇)の歴史の一部だ。
 応仁の乱勃発(1467年)~本能寺の変・天王山の闘い(1582年)、115年。この期間も長い。そして、天皇・皇室の諸儀礼等はほとんど消失していた(江戸時代になって<復古>する)「空白」の時代だったことも忘れてはならないだろう。
 あるいは、1221年の承久の乱(変)や1333年の後醍醐天皇・建武新政(中興)から数えて、江戸幕府開設までの約380年、約270年を挙げてもよいかもしれない。江戸時代を含めていないが、上の①~③よりもはるかに長い。これまた、日本の歴史の重要な一部だ。
 もちろん、1221年までにでも、おそらくは1000年ほどの<ヤマト>または<日本>の時代がある。
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 日本の現在の「右翼」や一部「保守」論者は、無知・無能者かまたは「詐話師たち」なのだろう。
 明治維新により<神武創業の往古>に戻った? 笑わせてはいけない。
 2017年初めの月刊正論編集部によると、「保守」の4つの「指標」のうちの第一は「伝統・歴史的連続性」だつた。
 月刊正論2017年3月号(産経新聞社、編集代表・菅原慎太郎)、p.59。
 上でも少しは示したが、明治維新と明治憲法体制は、それまでの日本の「伝統・歴史的連続性」を断ち切ったものではないか? 明治期以前にも、歴史の(例えば<神仏習合>の)はるかに長い「伝統・歴史的連続性」があったのではないか? 明治期に戻ることが「伝統・歴史的連続性」の確保なのか?
 2017年9月の西尾幹二著によると、「保守」の「要素」には4つほどあるが、「ひつくるめて」、「歴史」なのだそうだ。そして、「歴史の希薄化」を西尾は嘆いている。
 西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)に意識的に対抗するような書名や、この時点での「歴史」なるものの評価、つまり上から1年半後に2019年になってからの「可視的歴史観」に対する「神話」優越論についてはさておき、「歴史の希薄化」を行って単純化し、ほぼ明治期以降に限定しているのは、西尾がこの著で批判しているはずの、安倍晋三内閣を堅く支持する「右翼」・日本会議派ではないか。
 以上は、西尾幹二に対しても、八幡和郎に対しても向けられている。
 八幡和郎は2019年になってからも、月刊正論(産経)の新編集代表の写真を自らのブログサイト(アゴラ)に掲載したりして、月刊正論等の<いわゆる保守系>雑誌に身をすり寄せている。例えば、下の著もひどいものだ。いずれより具体的に指摘する。
 読者層のウィングを「右」へと広げたつもりなのか。下の著は「保守」派の「理論的根拠」を提供するというのだから、これまた笑ってしまった。
 八幡和郎・皇位継承と万系一世に謎はない-新皇国史観が日本を中国から守る-(扶桑社新書、2011)。

2022/茂木健一郎・生きて死ぬ私(1998年)。

 茂木健一郎・生きて死ぬ私(徳間書店・1998年/ちくま文庫・2006年)
 全て読了した。文庫版で計223頁(文庫版あとがきを除く)。
 著者が33歳のときに、原書は出版されたらしい。原書の編集者は石井健資、文庫の担当編集者は増田健史。
 きわめて失礼ながら、現在70歳を超えていると思われる櫻井よしこの書物・文章や60歳近い江崎道朗の書物や文章よりも、はるかに面白い。むしろ、比較という対象・次元の問題にならない。
 面白い、というだけでは適切ではなく、「論理」があり「筋」がある。
 「論理」、「筋」や「基調」がある、というだけでは適切ではなく、ヒト・人間(そして歴史・社会)の<本質>に迫ろうとする<深さ>があり<洞察>があるだろう。
 櫻井よしこや江崎道朗等々の「作文」・「レポート」類のひどさ(・無惨さ)についてはこれからも触れる。要するにこの人たちは、例えば、「観念」・「言葉」と「現実」(・その総体としての「歴史」)の関係についての基礎的な教養に全く欠けているのだ。江崎道朗については、基礎的な<論理展開力>すらないことが歴然としている。
 ***
 脳科学者に近いところにいなくとも、専門書ではないので、現在の私には、相当に理解できる。しかし、33歳くらいのときであれば、知っても書名に関心を持たないことから、間違いなく、読もうとすらしなかっただろう。
 人文社会科学と脳科学・精神科学・生物学等に重なるところがあることは、すでに知っている。
 だからこそ、例えば、福岡伸一や養老孟司の本も捲ってきたし、池田信夫ブログの<進化・淘汰>・<遺伝>等に関する文章にも関心を持ってきた。
 「人間の心は、脳内現象にすぎない」。
 「脳内現象である人間の心とは、いったい何なのか?」
 「物質である脳に、どうして心という精神現象が宿るのか?」
 上の問いは「人間とは何か?」という「普遍的な問い」に「脳科学者として切り込んでいく」ことを意味する。
 以上はp.23までに出てくる。
 目次のうち章名だけをそのまま書き写すと、つぎのとおり。
 第一章/人生のすべては、脳の中にある
 第二章/存在と時間
 第三章/オルタード・ステイツ
 第四章/もの言わぬものへの思い
 第五章/救済と癒し
 第六章/素晴らしすぎるからといって
 以上
 下記を除いて、要約・引用等を避ける。
 要するに、ヒト・人間、こころ・精神・意識・「質感」、物質・外部、世俗・宗教、生・死等々に関係している。
 L・コワコフスキの哲学・マルクス主義等に関する書にしばしば「観念」・「意識」とか「外部」・「客体」、「主体」・「主観」等が出てくる。唯物論・観念論の対立らしきものも、勿論関係する。
 上の目次の中にある「存在と時間」はM・ハイデガーの主著の表題と同じ。「存在と無」はJ=P・サルトルの代表的書物のタイトルだ。
 「ある」、「現に存在している」とは、あるいはそのことを「感知する」・「認識する」(理解・把握等々…)とはそもそも、いったいいかなる意味のものなのか?
 あるいは「知覚」し、「認識」・「理解」・「把握」等々をするヒト・人間とは、そして究極的にはその一部である「私」・「自己」とは、いったい何なのか?
 ****
 面白いと感じた<論理展開>を一つだけ紹介しておこう。p.197あたり以降。
 ・「神が本当にいる」のなら、なぜ神は、現世の「社会的不正」、「暴力や矛盾」等を放置し、「沈黙しているのか」?
 ・「神」の存在を否認する者にはこの問いはほとんど無意味かもしれない。
 しかし、「信仰者」には「いつか神が沈黙を破るだろうという思いがある」。
 私(茂木)のような「外部」者にも「神が沈黙を破ることを望む気持ちが心の奥底にある」。
 この問題は「神の存在、不存在」に関係するというよりも「人間という存在のもつ精神性」とそれに無頓着な「宇宙の成り立ち」の間のずれに「その本質があるように思う」。
 ・「神」から啓示・メッセージを受け取ったとして、それが「悪魔」ではなくて「神」からのものであることは「どのように保証される」のか?
 「神が沈黙を破った」としても、それを受け取る人間にとつて「それが神の行為だと確実にわかる方法がない限り、意味がない」。
 上を「完全に保証することが不可能である以上、神は沈黙せざるをえない」-「そのように考えることもできるのではないか?」
 以上。
 こうした論述は、ここでもL・コワコフスキに関連させると、彼の<神は幸せか?>という小論を想起させる(この欄で試訳紹介済み。茂木はキリスト教を念頭に置いているようだが、このコワコフスキ論考は「シッダールタ」から始まる)。
 内容の類似性というよりも、<論理>の組み立て方・<思考の深さ>の程度だ(L・コワコフスキは「神の沈黙」の問題を直接には扱っていない(はずだ))。
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 茂木健一郎や福岡伸一といった人々は現実・世俗世界(歴史を含む)を、とくに日本の<政治・社会>をどう見るのだろうか、という関心がある。
 本来は、あまりこうした問題に立ち入らない方が「科学」者である著者にはよいのではないかと思うが、あるいは出版社・編集者には少しは触れてもらって読者の関心を惹きたいという気分が少しはあるのではないか、という気もする(茂木著・福岡著について語っているのではない)。
 したがって、本筋からすると瑣末な問題だが、つぎの叙述があった。
 「原爆、ナチス、環境破壊、このような厄災を経験した20世紀の人々は…」。
 「…後の大江健三郎の作品は、一貫して『癒し』をテーマにしている。…20世紀を象徴するような文学的テーマを追い掛けているのだ」。p.177。
 以上は、「科学」の限界またはその行き着き先と「人間の魂の問題、広くいえば、宗教的な問題」への関心(例えばp.162)を語る中で記されている。
 1960年代後半にWe Shall Overcome で歌われたような理想社会の実現については、「今世紀のさまざまな国家、地域でのコミュニズムの失敗を見る時」、その「可能性に対して皮肉屋にならざるをえない」。だが、「不可能性が証明されていない以上、私たちは革命の可能性について希望を持ち続ける権利を持っていることになるだろう」。p.222-3。
 この辺りは多分に読者への(なくてもよい)「サービス」なのではないか、との印象もあるが…。
 この最後の段落は本当に余計かもしれない。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
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 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
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 さらにつづける。

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
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・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。

1712/西尾幹二・人生について(新潮文庫)より。

 西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015。原書、2005)p.201~3。
 「自分の死を意識したときに不思議でならなかったのは、死をさえ意識しているこの自分の『意識』がとつぜんあとかたもなく消滅してしまうということである。それはことばでは言い表わすことのできない恐怖、宙に向かって大声で叫びたくのをぐっとこらえているような恐ろしさである」。
 「病気が襲来したときの、死に随伴する肉体上の苦痛というようなものは、たとえどんなに大変でも、自分が消滅するという恐怖に比べれば、決して重大事ではない。少なくともこの二つは別のものである」。
 「死後の生命の存続というものがもし信じられるのなら、それほど楽なことはないであろう。しかし私は、私の身体が亡びると共に個体としての私も消滅し、『自分の意識』もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えを持つことがどうしてもできない」。
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 上は50歳代で癌の告知を受けた著者・西尾が60歳代初めに書いた文章のようだ。
 その体験がないと、このような精神の経験もないだろう。また、知識人に特有の自己認識と自己表現の強い希求が背景にあるようにも思える。後者の点に立ち入るのはさて措き、上のような認識・感覚は納得できる。
 つい最近に福岡伸一の本に触れる中で、死後の「意識」・「霊魂」は存在しないだろう、亡き両親等と「交信」したこはもはや全くないのだから、というようなことをこの欄で記した。
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 興味があるのは、このような認識に至った人、あるいは至ったことのある人と、そうではないおそらくはより多くの人との間に、どのような人生観、人間観、そして社会観、世界観の違いが生じるのだろう、ということだ。
 ありていに、急に世俗っぽく言えば、<保守>の人と<左翼>の人で、違いはあるのか。「保守」派とされる高名な(誰とも名は浮かばないが)人と、「左翼」で弁証法的唯物論者?ともされる共産主義者・日本共産党員との間に、「死」に関する認識・感覚に違いはあるのだろうか。あるとすれば、どのように違うのだろうか(たんに<傾向>にすぎなくとも)。
 福岡伸一についても関心をもつのは、この人のように「生命」の本質を理解しようとしている人は、世俗の社会・国家についてはどういう考え方に至るのか、だ。
 この人はフェルメールが好きらしい。やはり人の個体としての<個性>はあるのだ。つまり個々人の嗜好・好みだ。
 私も、エゴン・シーレよりも、アルフォンス・ミュシャ(ムハ)よりも、フェルメールの絵の方が好きだ。ときに、フェルメールの絵の静穏さよりも、クリムトの絵の一部にある激しさに惹かれたりするけれども。
 絵画や音楽は別として、さらに、この福岡という人は、急に世俗っぽくなれば、<保守>派を支持するのだろうか、<左翼>を支持しているのだろうか。それとも、そうした政治的・社会的な対立は、人の意識の錯乱と錯誤の分岐点やその内容・程度の問題であって、ヒト・人間にとっては本質的な問題では全くない、「趣味」の問題だろうか。
 俗人である秋月瑛二は、こんなことも福岡伸一に尋ねたくなるし、さらにこの人の本も読みたくなる。
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 上のような西尾幹二の文章の内容に、ほとんど完璧に共感する。同じように考え、かつ文章化することのできる、立派な人だと感じる。
 しかし、むろんそのことは、西尾幹二の政治・社会に関する主張や叙述に全面的に賛同することを意味しはしない。
 一番最近に同氏のネット上で読んだ雑誌(または新聞)論考ー追記・産経「正論」欄ーのそのままの紹介は、ほとんどすんなりと読めた。
 だが、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)となると、簡単にはコメントできない。おそらくいったん全て読んでいるが、同感するところもあるし、気になるところもある。
 かりにこの本の感想を書き始めれば、とても一回では足りない。

 

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1623/日本の保守-2006-2007年に何が起こったか①。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
 こう書くと西尾の本が後で刊行されているが、その内容のほとんどは前年までに、おそらくは前者よりも早く書かれている。ともあれ、同年の刊行。
 その「あとがき」の副題は、「保守論壇は二つに割れた」だ(2007年6月)。
 その中に収載の「小さな意見の違いは決定的違い」は、2006年夏・秋のことを書いている。
 2007年。この年の初め、第一次安倍晋三内閣だった。まだ2007年の参院選挙はなかった。
 この年の3月下旬、<秋月瑛二の…つぶやき日記>がかつてあった産経・イザ上で始まった(このとき、産経新聞社が運営とは知らなかった)。
 この年の12月、櫻井よしこを理事長とする、(公益財団法人)国家基本問題研究所が発足した。
 2000年頃と、この年のこの時期までの間に(ということはこの年のおそらく前半には)、櫻井よしこは<華麗なる変身>を遂げたもののと見られる。
 つまりは、国家基本問題研究所関係者のむしろ多くが知らないのかもしれないが、椛島有三や伊藤哲夫たちの、つまり「日本会議」派と仲良くなった。あるいは、仲間になった。あるいは、前者が後者に<取り込まれた>。冒頭の著者の椛島は、言わずもがなだが、<日本会議事務総長>。
 この年以降、つまり2008年以降の櫻井よしこの論調と、2000年頃の櫻井よしこの論調は、明らかに異なる。
 西尾幹二は、上の書物全体をその全集には収めてはいないようだ。全集とはいえ、本人編集かつ追記だから、いろいろな想いが重なるのだろう。
 2007年というのは、前年またはさらにその前の年から始まった、新しい歴史教科書を「つくる会」の激変時でもあった。
 「日本教育再生機構」とやらができ、安倍内閣に「教育再生会議」なるものも設置された(今これはどうなっているのか?)。
 これの重要人物が、八木秀次。今年になって私が名づけた天皇譲位問題に関する「アホ」の一人(櫻井よしことともに)。
 この欄で言及した記憶があるが(たぶん雑誌上のものを読んで)、西尾は上の本に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」と題する文章を収載している(諸君!2006年年8月号のもの)。
 こうしたものを含む単行本が7月末日付で刊行されており、上の椛島有三著は4月が刊行月になっている。そして、この年の最後の月、櫻井よしこは「研究」所理事長になった。
 以上のことは、いつでも記せるような内容だった。
 小林よしのりの本を併せて読むと、もっといろいろなことが分かるはずだ(所持しており、読んではいる)。
 10年後の今に残る「分裂」・「対立」について、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>に未来はないのではないか。
 中西輝政は、いったいどうやって<世渡り>をしてきたのか。さらに言えば、西尾幹二ですら、その後どうやって<世渡り>をしてきたのか。なぜ月刊正論や産経新聞に執筆できるのだろう。
 無名の、大洋の底の貝のごとき秋月瑛二が、何かを記しておく意味がほんの少しはあるかもしれない。
 もう一度書いておこうか。
 ①2006年~2007年、櫻井よしこは<変身>した。あるいは<変節>した。あるいは、<狂信>先が明確になった、と思われる。
 ②この頃のことを、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>はダメだ。もっとも、秋月瑛二は<自由と反共産主義>に執着しており、<保守>か否かは全くの副次的な関心主題にすぎないのだが。

1569/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究②。

 「一九七〇年にかけては、ひょっとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。/
 東京の話題といふと大学問題ばかりで、ほかのことは何一つありません。たのしい時代は永遠にすぎさりました。しかし、たのしくない時代も、亦、それなりにたのしいものですね。」
 三島由紀夫全集第38巻443-4頁(新潮社、2004)、1969年2月2日/D・キーンへの書簡より。
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 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この本を手にして捲ってみて、すぐに気づくのは、活字の文字が大きいことだ。
 小学校高学年生の教科書よりも、大きな字ではないか。
 たまたま手近にあった、外形がほとんど同じ(たぶんB5版)のつぎの二つと、一頁あたりの行数、縦の文字数を比べてみた。
 各著の中でとくに大きくも細かくもない、つまり各著では標準の行数・縦文字数だと思われる、(頁数印刷の)100頁めのところで計算してみる。
 ①椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
  横14行、縦36字。14×36=504文字(一頁に印刷可能)。
 ②母利美和・井伊直弼/幕末維新の個性6(吉川弘文館、2006.05)。
  横16行、縦45字。16×45=720文字(一頁に印刷可能)。
 ③西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
  横18行、縦43字。18×43=774文字(一頁に印刷可能)。
 やはり、違いは歴然としている。
 ①椛島著は、②母利著の5/7以下、③西尾著の2/3以下しか、文字数がない(つまり活字が大きい)。
 したがって最終頁は、①p.219、②p.244、③p.315、なのだが、①椛島著は③西尾著と同じ組み方をすると、計140頁くらいにしかならないと思われる。
 ①椛島著は、②母利著と同じ組み方をしても、計153頁くらいだ。
 要するに、一見はふつうの書物のようにも感じるが、実際は、長さだけでいうと、140~150頁の本だ。
 つぎに、体裁的にも異様に感じるのは、<主要参考資料一覧>としてp.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さだ。
 数えてみると、A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34で、うち全て英語の原書が11(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。
 もともとこの一覧を含めて219頁の本で、上記のように、実際には140-150頁の本だと見てよい。
 この長さの本にしては、この「参考資料」の件数は、つまり合計133(冊+件)は、異様に多すぎるのではないだろうか。
 しかも、「主要」なものに限っている、とされる!。   
 「主要」なものだけで、極論すれば、一頁あたり一冊の専門?書または一件の専門?論文が使われている。
 常識的には、こんなことはありえない。これほど多数の「主要」参考文献を用いれば、書物自体の長さ、大きさがもっとはるかに長く大きいものになつているだろう。
 また、本文の内容を読んでも、これだけ多数の文献を駆使した、かつ綿密な、密度の濃いものになっているとも感じられない。
 したがっておそらく、<主要参考資料一覧>というのは、この書物を書くために実際に(基礎的であれ直接にであれ)用いたものではなく、多くは、著者・椛島有三が「気に入っている」または読者に「推薦したい」書物等の<一覧>なのだと思われる。
 繰り返すが、もともとでも219頁の本に、計133冊・件という「参考資料」の数は多すぎる。しかもそのうち、単行本和書85、同翻訳書23、洋書11、という数字なのだ。
 これらをよほどうまく「参考」にして吸収したうえで、かつ要領よくまとめないと、219頁(実際は140-150頁)の書物にはならない。それだけの吸収と概括が本文にあるようには、日本史・戦前史の素人である私には思えない。なお、個別の章等のあとには、「参考文献」の提示はない。まとめて最後に、<一覧>が示されている。
 さて、<保守>論者の諸文献を少しは読んで、かつ所持もしている秋月瑛二の目から見ると、この<主要参考資料>の掲載の仕方・内容は、あくまで主観的にだが、きわめて異様だ。
 つづく。

1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1017/<保守>は「少子化」と闘ったか?-藤原正彦著を契機として。

 一 最近この欄で言及した二つの雑誌よりも先に読み始めていたのは藤原正彦・日本人の誇り(文春新書、2011.04)で、少なくともp.175までは読み終えた形跡がある(全249頁)。
 藤原が第一章の二つ目のゴチ見出し(節名)以降で記しているのは、現在の日本の問題点・危機だと理解できる。
 ①「対中外交はなぜ弱腰か」、②「アメリカの内政干渉を拒めない」、③「劣化する政治家の質」、④「少子化という歪み」、⑤「大人から子供まで低下するモラル」、⑥「しつけも勉強もできない」(p.11-25。番号はこの欄の筆者)。
 上のうち<保守>論壇・評論家が主として議論してきたのは①・②の中国問題・対米問題で、③の「政治家の質」とそれにかかわる国内政治や政局が加えられた程度だろう。
 つまり、上の④・⑤・⑥については、主流の<保守>論壇・評論家の議論は、きわめて少なかったと思われる(全くなかったわけではない)。
 藤原正彦とともに、「政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊と、今、日本は全面的な崩壊に瀕しています」(p.22)という認識をもっと共有しなければならないだろう。
 二 例えばだが、<少子化>が日本崩壊傾向の有力な原因になっていること、そしてその<少子化>をもたらした原因(基本的には歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にある)について、櫻井よしこは、あるいは西部邁は(ついでに中島岳志は)どのように認識し、どのように論じてきたのだろうか。
 p.175よりも後だが、藤原は、「少子化の根本原因」は「家や近隣や仲間などとのつながり」を失ったことにある、出産・子育てへのエネルギー消費よりも<自己の幸福追求>・社会への報恩よりは「自己実現」になっている、「個の尊重」・「個を大切に」と「子供の頃から吹き込まれているからすぐにそうな」る、とまことに的確に指摘している(p.241)。
 このような議論がはたして、<保守派>において十分になされてきたのか。中島岳志をはじめ?、戦後<個人主義>に染まったまま<保守>の顔をしている論者が少なくないのではなかろうか。
 <少子化>の原因の究極は歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にあり、これらを称揚した<進歩的>憲法学者等々の責任は大きいと思うが、中間的にはむろん、それらによるところの晩婚化・非婚化があり、さらに<性道徳>の変化もあると考えられる。

 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊―(徳間書店、1997)によると、マルクスらの共産党宣言(1848)は「共産主義者は…公然たる婦人の共有をとり入れようとする」と書いているらしく、婚姻制度・女性の貞操を是とする道徳を破壊し、「売春婦と一般婦女子の垣根」を曖昧にするのがマルクス主義の目指したものだ、という。そして、中川は、女子中高生の「援助交際」(売春)擁護論(宮台真司ら)には「過激なマルクス主義の臭気」がある、とする(p.22-)。
 また、今手元にはないが別の最近の本で中川八洋は、堕胎=人工中絶という将来の生命(日本人)の剥奪の恐るべき多さも、(当然ながら)少子化の一因だとしていた(なお、堕胎=人工中絶の多さは、<過激な性教育>をも一因とする、妊娠しても出産・子育てする気持ちのない乱れた?性行動の多さにもよるだろう)。
 私の言葉でさらに追記すれば、戦後の公教育は、「男女平等」教育という美名のもとで、
女性は(そして男ではなく女だけが)妊娠し出産することができる、という重要でかつ崇高な責務を持っている、ということを、いっさい教えてこなかったのだ。そのような教育のもとで、妊娠や出産を男に比べての<不平等・不利・ハンディ>と感じる女性が増えないはずがない。そして、<少子化>が進まないわけがない。妊娠・出産に関する男女の差異は本来的・本質的・自然的なもので、<平等>思想などによって崩されてはならないし、崩れるはずもないものだ。しかし、意識・観念の上では、戦後<個人主義>・<男女対等主義>は女性の妊娠・出産を、女性たちが<男にはない(不平等な)負担>と感じるように仕向けている。上野千鶴子や田嶋陽子は、間違いなくそう感じていただろう。

 上のような少子化、人工中絶等々について、<保守>派は正面からきちんと論じてきたのだろうか?
 これらは、マルクス主義→「個人主義」・平等思想の策略的現象と見るべきものと思われるにもかかわらず、<保守派>はきちんとこれと闘ってきたのだろうか?
 現実の少子化、そして人口減少の徴候・現象は、この戦いにすでに敗北してしまっていることを示しているように思われる。
 このことを深刻に受けとめない者は、<保守>派、<保守>主義者ではない、と考える。 

0997/中川八洋・国が滅びる(徳間書店、1997)の「教育」篇。

 一 たしか西尾幹二が書いていたところによると、日本の「社会学」は圧倒的にマルクス主義の影響下にあるらしい。歴史学(とくに日本近現代史)も同様と見られるが、「教育学」もまた<左翼>・マルクス主義によって強く支配されていることは、月刊諸君!、月刊正論に<革新幻想の…>を連載している竹内洋によっても指摘されている。戦後当初の東京大学教育学部の「赤い」3Mとかにも論及があったが振りかえらない。狭義の「文学畑」ではない<文学部>分野および<教育学部>分野には(にも?)、広くマルクス主義(とその亜流)は浸透しているわけだ。
 二 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)p.48-によると、日本の「狂った学校教育」は、①「反日」教育、②「人権」教育(「人間の高貴性や道徳」の否定)、③「平等」教育(「勤勉や努力」の否定・「卑しい嫉妬心」の正当化)、を意味する。

 生存・労働権を中核とする「人権」のドグマは人間を「動物視」・「奴隷視」する考えを基底にもち、ロシア革命後にも人間の「ロボット」改造化が処刑の恐怖(テロル)のもとで進められた。さらに、「人権」のドグマは、①地球上の人間を平等に扱うがゆえに「民族固有の歴史・伝統・祖先」をもつことを否定し、②「善悪(正邪)の峻別を原点とする道徳律や自生的な社会規範」を否定する(p.50-52)。

 ①の魔毒は「反日キャンペーン」となり、日本国民ではなく「地球人」・「地球市民」に子供たちを改造しようとする。②の魔毒は「生存」の絶対視を前提として「どんな悪逆な殺人者に対する死刑の制度」も許さず、殺された被害者は「すでに生存していない」ので「人権」の対象から除外される。「人権」派弁護士とは生存する犯罪者に動物的「生存」を享受させようとする「人格破綻者」だ(p.52-53)。

 かかる「教育」論に影響を与えている第一はルソーの、とくに『エミール』だ。日本の教育学部で50年以上もこれを必読文献としている狂気は「日本共産化革命」を目的としている。ルソーは、『社会契約論』により目指した全体主義体制を支える人間を改造人間=ロボットにせんとするマニュアルを示すためにこれを執筆した。ルソーは『人間不平等起源論』に見られるように「動物や未開人」を人間の理想とするので、『エミール』を学んだ教師は生徒を精神の「高貴性」・高い「道徳観」をもたない「動物並み」に降下させる(p.55-59)。

 第二はスペンサーで、その著『教育論』は「人間と動物に共通する」普遍の教育原理を追求し、人間を野生化させる「自然主義・放任主義」を是とし、「道徳律の鍛錬」や「倫理的人間のへ陶冶」を徹底的に排除した(p.59-60)。

 第三は戦後日本教育を攪乱したデューイで、スペンサーの熱烈な継承者、実際の実験者だった。

 これら三大「悪の教育論」を排斥しないと、日本の教育は健全化しない(p.60)。

 以上は、中川八洋の上掲書の「Ⅰ・教育」のごく一部。
 三 八木秀次「骨抜きにされる教育基本法改正」(月刊正論3月号(産経)p.40-41)は安倍内閣時の教育基本法改正にもかかわらず、教育実態は変わらないか却って悪くなっていると嘆いているが、教育「再生」のためには、多数の教師が学んできた戦後日本の「教育学」・「教育」理論そのもの、そしてそれを支えた(中川八洋の指摘が正しいとすれば)ルソー、デューイらの教育「理論」にさかのぼって、批判的に検討する必要もあると強く感じられる。教育基本法という法律の改正程度で「左翼」・「反日」(<「国際」化)教育が死に絶えることはありえない。 

0914/ルソーの民主主義・「人民主権」と佐伯啓思・表現者32号。

 一 佐伯啓思「『民主党革命』はあったのか」隔月刊・表現者32号(2010.09、ジョルダン)はかなり前にすでに読んだ。

 民主主義・国民主権そしてルソーにつき、関心を惹いた叙述がある。佐伯啓思は、以下のように述べる(p.62-63)。

 ・戦後日本には「民主主義」の誤解、「民主主義」=「国民主権」=「国民の意思が政治に直接反映するもの」という「思い込み」がある。
 ・かかる「おそらくはルソーの人民主権論に由来すると思われる民主主義理解は、実はルソー自身さえも決して支持するものではなく」、ルソーは「主権者」=人民と、政治的意思決定を下す「統治者」を区別しており、後者は「人民そのもの」ではない。
 ・「主権者」と「統治者」を一致させようとすれば「民主制は全体主義へと転化する」。「国民の意思」=「すべての国民に共有された意思」=ルソーにいう「一般意思」なので、「国民主権」のもとで決定されて明示された「国民の意思」に「誰も逆らうことはできない」し、「逆らう者がいるはずがない」からだ。いるとすれば、それは「国民」ではない。

 ・「民主主義」が「政治的たりうる」には「国民主権」との「一定の距離」が必要で、「政治」と「世論」の間の「適切な距離感こそが政治感覚」だ。民主党はこの「距離感を見失った」。いやむしろ、「距離感」を放棄して「政治」を「国民主権」に「寄り添う」ようにさせた。「主権者」と「統治者」をできるだけ一致させようとした。

 このあとの民主党分析・批判も興味深いが、さて措く。

 二 ルソーの真意だったか否かはともかく、ルソーの「プープル(人民)主権」論は社会主義あるいは「全体主義」と親和的だとの批判または分析はこれまでもあった。

 一例がかつてこの欄で言及したことのある、中川八洋・正統の哲学・異端の思想―「人権」・「平等」・「民主」の禍毒(1996、徳間書店)だ。

 中川の叙述を大幅に簡潔化すると、中川によれば、ルソー→<フランス革命>(ロベスピエール)→ヘーゲル→マルクス→レーニン→<ロシア革命>という系譜が語られうる。また、ロベスピエールらのジャコバン党の教義が「マルクス・レーニン主義」の「原型」、ルソーらの思想こそが「フランス革命の暴力/破壊/独裁の源泉」で、「マルクス・レーニン主義」とは「ルソー・ロベスピエール主義」の「二番煎じの模倣」とされる。

 ルソー・社会契約論で示されたらしきいわゆる「プープル(人民)主権」論は、どこかに「全体主義」と通底させる<トリック>を潜ませている、と想定している。上の佐伯啓思論稿は吟味が必要であることを示唆してはいるが。

 抜粋になるが、中川のルソーの文章の一部を使った叙述によると、①「人民主権の政治」とは「人民すべての意思」=「一般意思」と「合致した政治」、②「人民」がすべての権利・自由を「共同体に譲渡する」「社会契約」により個々の「人民の意思」は一致して「一般意思」となる。③「人民の一般意思」を体得した「立法者」はそれを個々の「人民」に「強制する」、④自らの意思=「一般意思」に強制され服従することによってこそ個々の「人民」は<自由>になる(例、中川p.233-237)。
 理解しやすいものではないが、「人民の意思」=「一般意思」にもとづいていると僭称する<独裁者>が出現すれば、ここにいう「人民主権」論は容易に<全体主義(・社会主義)>容認論になるだろう。

 三 日本の憲法学者の中には間接または半代表制の「国民(ナシオン)主権」よりも直接民主制的な「人民(プープル)主権」論を支持する者がいて(例、東北大学現役教授・辻村みよ子)、なぜか「間接民主主義」よりも「直接民主主義」の方が<より進んでいる・より進歩的>と考えているようだ。むろん、ルソーやフランス革命期のジャコバン憲法・ロベスピエールを高く評価する立場でもある。

 こうした議論からすると、民主党あるいは菅直人・鳩山由紀夫等の「民主主義」理解は従来の自民党的なそれよりも肯定的に評価されるのだろう。

 だが、佐伯も指摘するように、彼らの「民主主義」あるいは「国民主権」の理解は皮相すぎる。また、立法・行政の<権力分立>も正しくは理解していない、と考えられる。別の機会で、また触れる。

0706/ルソー・人間不平等起源論(中公クラシックス他)は「亡国の書」・「狂気の哲学」。

 谷沢永一=中川八洋・「名著」の解読-興国の著・亡国の著-(徳間書店、1998)という本がある。
 和洋5冊ずつ計10冊の著書が採り上げられている。もともとは「名著」だけのつもりだったようだが、結果としては副題のように「興国の著」のほかに「亡国の著」が和洋1冊ずつ計2冊、対象とされている。
 「亡国の著」(悪書)は、丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社)と、ルソー・人間不平等起源論(中公クラシックスほか)。
 ついでに「興国の著」(良書)とされているあと8冊(和洋四冊ずつ)を紹介しておくと、日本-①林達夫・共産主義的人間、②福田恆存・平和論に対する疑問、③新渡戸稲造・武士道、④三島由紀夫・文化防衛論。外国-①マンドヴィル・蜂の寓話、②ハイエク・隷従への道、③B・フランクリン・自伝、④バーク・フランス革命の省察
 それぞれについて面白い対談がなされているが、丸山真男とルソーの著は、それこそ<ボロクソ>に非難・揶揄されている。ルソーは文字通り<狂人>扱い。
 思想家・哲学者なるものの全てがそれぞれそれなりに<偉く>もなんでもないことは、年を重ねるにつれ、確信にまでなっている。
 異常で<狂気>をもつ<変人>だからこそ、奇矯な(あるいは良くいえばユニークな)、そして読者に「解釈」を求める、つまりは理解し難い著書を数多く執筆し、刊行できた、ということは十分にありうる。
 長い、何やらむつかしそうな文章で詰まった本の著者というだけで<偉い>わけではない。そうした本の中には、明らかに、人間・人類に対して<悪い影響>を与えたものがある。
 人間というのはたまたま言葉と論理を知ったがゆえに、過度に、<新奇(珍奇)な>言説・論理に惑わされ、誘導されてきたのではないだろうか。
 人の本性・自然と自生的「秩序」から離れた<知的空間>には、危険な「思想」がいつの時代でも蔓延してきたし、国家・社会の<主流>になっていることすらある。ルソー「的」・マルクス「的」な「思想」は、日本が戦後、もともとは西欧「思想」の影響下にあったアメリカの影響を受けたために、そして(欧米的)「民主主義」=善、(日本的)「軍国主義」=悪という<刷り込み>をされてしまったために、<主流派>西欧思想がなおも日本人の意識の中では、正確には大学を含む学校教育やマスコミ等の<公的>空間に表れている意識の中では、<主流派>のままだと考えられる(土着的な又は深層レベルでの意識においてはなお「日本」的なそれは残存している筈だが)。
 <主流派>西欧思想としてホッブズ、ロック、ルソーらが挙げられようが、決してこれらは(佐伯啓思の言葉を借用すれば)西欧においてすら<普遍的>ではなかった。
 日本の社会系・人文系学問・学者の世界はおそらく<主流派>西欧思想(戦後はアメリカのそれを含む)が支配している。
 日本国憲法自体が<主流派>西欧思想の系譜に属すると見られるのだから、この拘束・制約は相当に重く、解け難いものと見ておかねばなるまい。
 憲法学者のほとんどが「左翼」(←<主流派>西欧思想)であるのも不思議では全くない。そして、辻村みよ子もまた、その憲法教科書で、当然のごとく、ルソーの「思想」に、善あるいは<進歩的>なものとして少なからず言及している。
 上の本での中川らの評価と辻村みよ子の本によるルソーの参照の仕方を、対比させてみたいものだ。

0693/フランス1793年憲法・ロベスピエール独裁と辻村みよ子-3。

 一 辻村みよ子・憲法/第3版(日本評論社、2008)がフランス1793年憲法に触れる箇所のつづき。
 ④ 日本国憲法14条にかかわり、平等「原則」と平等「権」との関係等の冒頭で以下のように述べる。
 ・アメリカ独立宣言以来、平等原則は自由と一体のものとして「確立」されてき、フランスでも1789年人権宣言が保障し、「『自由の第4年、平等元年』として民衆による実質的平等の要求が強まった1793年には、平等自体が権利であると主張されるようになり、1793年憲法冒頭の人権宣言では、平等は自然権の筆頭に掲げられた」(p.183)。
 このように、平等「権」保障の重要な画期として1793年憲法を位置づけている。
 ⑤ 統治機構に関する叙述の初めに、統治機構・権力分立と「主権」論の関係についてこう述べる。
 ・フランス1791年憲法では狭義の「国民(ナシオン)主権」のもとで権力分立原則が採用されたが、1793年憲法は「人民(プープル)主権」を標榜し、権力分立よりも「立法権を中心とする権力集中が原則」とされ、そのうえで「権限の分散と人民拒否等の『半直接制』の手続が採用された」。このように、「主権原理」と「権力分立」は「理論的な関係」があり、「立法権を重視する『人民(プープル)主権』原理では三権を均等に捉える権力分立原則とは背反する構造をもつといえる」(p.355)。
 「人民(プープル)主権」原理が所謂<三権分立>と背反する「立法権」への「権力集中」原則と親近的であることを肯定している(そして問題視はしていない)ことに留意しておいてよい。
 ⑥ 「人民主権」→「市民主権」論を再論する中で、再び外国人参政権問題に次のように触れている。
 ・欧州の最近の議論でも「フランス革命期の1793年憲法が『人民(プープル)主権』の立場を前提に外国人を主権者としての市民(選挙権者)として認めていたのと同様の論法を用いて外国人参政権を承認しようとする立論が強まっている」。「近代国民国家を前提とする国民主権原理を採用した憲法下でも外国人の主権行使を認める理論的枠組みが示され、国民国家とデモクラシーのジレンマを克服する道が開かれたことは、…日本の議論にきわめて有効な糧を与えるものといえよう」。
 このあと、まずは「永住資格をもつ外国人」についての「地方参政権」を認める法律の整備が必要だ旨を明言している(p.369)。「欧州連合」のある欧州諸国での議論がそのようなものを構想すらし難い日本にどのように「糧」となるのかは大きな疑問だが、立ち入らないでおこう。
 以上が、「事項索引」を手がかりにした6カ所。
 さしあたり、すべて好意的・肯定的に言及していること、この憲法制定後の「独裁」や数十万を殺戮したとされる「テルール(テロ)」・<恐怖政治>には一切言及がないことを確認しておきたい。
 以上の6カ所以外にも、重要な「国民主権」の箇所でフランス1793年憲法に(つまりは「プープル主権」に)言及している。また、ルソーやロベスピエールに触れる箇所もある。なおも、辻村みよ子・憲法(日本評論社)を一瞥してみよう。
 二 ところで、中川八洋によれば、マルクス主義もルソーの思想も「悪魔の思想」。フランス革命(当然に1793年「憲法」を含む)も(アメリカ独立・建国と異なり)消極的に評価される。憲法に関連させて、中川八洋・悠仁天皇と皇室典範(清流出版、2007)はこう書く。
 ・フランス「革命勃発から1791年9月までの二年間は、人権宣言はあるが、憲法はなかった。”憲法の空位”がフランス革命の出発であった。/1792年8月に(1791年9月生まれの)最初の憲法を暴力で『殺害』した後、1795年のフランス第二憲法までの、丸三年間も、憲法はふたたび不在であった。フランス革命こそは、憲法破壊と憲法不在の九十年間をつくりあげた、その元凶であった」(p.166)。
 上の文章では、未施行の1793年憲法などは、「憲法」の一種とすらされていない。
 上の中川の本にはこんな文章もある。
 ・「ルソー原理主義(もしくはフランス革命原理主義)の共産主義」は「表面的には」、「マルクス・レーニン主義の共産主義」ではない。このことから「過激な暴力革命」ではないとして「危険視されることが少ない」。「ルソー原理主義系の憲法学が、日本の戦後に絶大な影響を与えることになった理由の一つである」。
 なるほど。
 辻村みよ子が「ルソー原理主義」者もしくは「フランス革命原理主義」者であることは疑いえないと思われる。そしておそらく、「マルクス・レーニン主義の共産主義」者としても、資本主義→社会主義という<歴史的発展法則>を信じた(ことがある)のだろうと推察される。次回以降に、この点には触れることがある。
 なお、先だって中川八洋・悠仁天皇と皇室典範に言及したあとで、この本は全読了。確認してみると、皇室問題三部作の二冊目の、中川・女性天皇は皇室断絶(徳間書店、2006)も「ほぼ」読了していた。

0590/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を読む-つづき。

 一 西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)は「つくる会」問題でのみ八木秀次を批判しているわけではなく、安倍内閣の「教育再生会議」に対応した民間版応援団体?「教育再生機構」の理事長に八木秀次が就いたことについても、政治(家)と民間人(ブレイン)の関係等に注意を促し、「八木氏は知識人や言論人であるには余りに矜持がなさすぎ、独自性がなさすぎ、羞恥心がなさすぎる」(p.150)などと批判したりしている。
 そういえば、福田内閣になり<教育>が大きな政治的争点でなくなった後、この「日本教育再生機構」はいったい何をしているのだろう。
 月刊正論9月号(産経新聞社)によると、「日本教育再生機構」は某シンポの主催団体「教科書改善の会」の「事務局」を担当しているらしい(p.272の八木発言)。「教科書改善の会」という団体の「事務局」が「日本教育再生機構」という団体だというのは、わかりにくい。組織関係はどのように<透明>になっているのだろうか(ついでに、このシンポは、あの竹田恒泰とあの中西輝政・八木秀次が同席して「日本文明のこころとかたち」を仲よく?語っているのでそれだけでも興味深い)。
 二 西尾幹二対八木秀次等という問題よりも本質的で重要なのは、西尾が「あとがき」の副題としている「保守論壇は二つに割れた」ということだろう。
 何を争点・対立軸にして「割れた」かというと、小泉内閣が進めて安倍内閣も継承した<構造改革>の評価にあるようだ。これはむろん、アメリカの世界(経済)戦略をどう評価し、日本の経済政策をどう舵とるべきか、という問題と同じだ。この点で、小泉内閣等に対して厳しく、アメリカに批判的だったのが西尾幹二で、小泉内閣・安倍内閣、とくに後者にくっつき?、そのかぎりで<より親米的>でもあったのが八木秀次等だ、ということになる。
 西尾幹二と八木秀次はどうやら、西尾が小泉純一郎についての『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を出版した頃から折り合いが悪くなったようだ(上掲書p.82-83)。
 西尾によると八木秀次は「権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人」で、八木は、安倍晋三が後継者として有力になっていた時期での小泉批判を気に食わなかった(戦略的に拙いと思った?)らしく思われる。
 個人的な対立はともあれ、上記の問題に関する議論は重要だ。「保守論壇は二つに割れ」て、<保守>派支持の一般国民が迷い、方向性を失いかけるのも当然だろう。
 八木秀次は<より親米>の筈なのだが、中西輝政との対談本では中西輝政の<反米>論に適当に相槌を打っている。もともと、佐伯啓思が論じてきたような<アメリカニズム>あるいは<グローバリズム>についての問題意識自体が、おそらくはきわめて乏しかった、と思われる(法学者とはそんなものだ)。
 今日の混迷、見通しの悪さも上記の問題について「保守論壇」に一致がないことを一因としている。はたして「保守」とは何か。あるいは<より適切な保守>とは、現実の政策判断(とくに経済・社会政策)について、<アメリカ>とどう向き合うべきなのか? 日本の<自主性・国益(ナショナリズム)>と対米同盟(友好)関係の維持(反中国・反北朝鮮というナショナリズムのためにも必要)はどのように調整されるべきなのか。

0582/板倉由明は田中正明を全否定したわけではない。西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間)を半分読了。

 前回のつづき又は補足-田中正明の『松井石根大将の陣中日記』を批判した板倉由明は1999年に逝去し、遺作として、そして研究の集大成として同年12月に『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会)を出版した。
 だが、その著の中には田中正明を批判した『歴史と人物』誌上の論文を収録せず、かつその名を巻末の「主な著作・評論」のリストにすら記載していない。
 小林よしのりもある程度のことは書いているが(パール真論)、推察するに、自分の学問的研究(田中正明の著の批判)が朝日新聞と本多勝一に「政治的に」利用されてしまったことへの後悔又は本多勝一等に対する憤懣があったからではないだろうか。
 小林によると「改竄の事実を指摘した板倉由明でさえ、田中正明の全ての言説を信用できないと言っていたわけではない」(p.212)。
 大部数を誇る全国紙を使って自分たちの考えと異なる史実を指摘し主張している本を<抹殺>しようとしたのだから、朝日新聞とは怖ろしい新聞(社)だ。
 だが、小林よしのりによると、「学界・マスコミ」では今だに「軍国日本を糾弾する論文を書けば、論壇の寵児になれる」体制が続いている(p.213)。そして、中島岳志の「パール判決書をねじ曲げたペテン本」が出る事態に至る。そしてこの本は、朝日新聞と毎日新聞から「賞」まで与えられた。怖ろしい、怖ろしい。
 有名な江藤淳・閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本(文藝春秋、1989)と櫻井よしこ・「眞相箱」の呪縛を解く(小学館文庫、2002)は所持しながらも意識的に未読で、<最後に>残しておこうというくらいの気持ちだった。
 だが、被占領期のGHQの言論統制について、西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間書店、2008.06)を半分くらい読んでしまった。購入して目を通していたらいつのまにか…、という感じ。
 この西尾幹二の本を読んでも思うが、先の大戦、日本の対中戦争や対米(・対英)戦争に関する正確な事実の把握(とそれにもとづく評価)は、数十年先には、遅くとも50年先にはきっと、現在のそれとは異なっているだろう(と信じたい)。
 松井石根とは-知っている人に書く必要もないが-東京裁判多数意見によりA級戦犯として死刑となった者のうち、ただ一人、<侵略戦争の共同謀議>によってではなく南京「大虐殺」の責任者として処刑された人物だ。南京「大虐殺」が幻又は虚妄であったなら、紛れもなく、この松井石根は、無実の罪で、冤罪によって、死んだ(=殺された)ことになる。もともと「裁判」などではなく<戦争の続きの>一つの<政治ショー>だった、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 アメリカの公文書を使っている西尾幹二とは別に、中西輝政らもソ連共産党・コミンテルン関係の文書を使って、かつての共産主義者の<謀略>ぶりを明らかにしている。
 毛沢東・中国共産党の戦前の文書はどの程度残っているだろうか。残っていれば、いずれ公表され、分析・解明されるだろう。
 いずれにせよ、中国や(GHQや)日本の戦後「左翼」の日本<軍国主義>批判という<歴史認識>を決定的なもの又は大勢は揺るがないものと理解する必要は全くない。まだ、早すぎる。それが事実的基礎を大きく損なったものであることが判明し、現在とは大きく異なる<歴史観>でもって日本の過去をみつめることができる日(私の死後でもよい)の来ることを期待し、信じたいものだ。

0336/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を一部読む。

 西尾幹二の上掲書の「学者とイデオロギー」以下、最後の30頁余のみを読了。
 ・2004年の執筆文だが、西洋史学者の「八割はマルクス主義史学者」だ(p.298)。日本史学者も今でも似たようなものだろう。高校での日本史必修論もあるようだが、誰が書く教科書を誰がどのように教えるかが問題だ。「マルクス主義史学者」の執筆する教科書を使うなら、必修化は却って危険。
 ・「薄められたマルクス主義」という言葉は面白い。
 ・「左翼」又は「マルクス主義者」を「怖がる学者たち」というのも合点がゆく。論理展開を厳密には(私がここでは)しないが、加藤陽子とは何者なのだろう。
 「歴史学会」だけでなく、「インテリの世界が大体」、「左翼」又は「マルクス主義者」を怖がっている(p.294)。きっとそうだろう。
 ・「左翼」又は「マルクス主義」イメージを薄めるための、石井進(故人)らは、「オトリ」だった(p.292)。なるほど。学界もマスコミ(出版社)も、いろいろ考えるものだ。
 ・林健太郎の晩年(と死)の様子が興味深い。このような人を師または知人に持ちたかったものだ。
 とりあえず。

0209/烏賀陽弘道・「朝日」ともあろうものが(徳間、2005)の「まえがき」。

 烏賀陽(ウガヤ)弘道・「朝日」ともあろうものが。(徳間書店、2005.10)という本がある。その中身というよりも<まえがき>の中にいい文があった。
 「故郷も、親も、完全に愛することも、完全に憎むこともできない。それは、切り捨てることのできない「自分の一部」になってしまうのだ」。
 そのとおりと感じる内容で、声に出して呟くと涙も滲みかける。故郷といえば、某市・某地方であり、そして日本だ。また、両親の「血」を引く私にとって、両親や祖父母は「自分の一部」なのだ。
 朝日新聞の昨年10/06付社説の一部はこうだった―「時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできる」。
 <植民地支配や侵略>の存否自体について議論はありうるのだがそれは別としても、この社説はそれらの「おぞましい側面」を「ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で冷静・冷徹に見つめよと主張している。
 <良心的>又は<正義>面を装っているのだろうが、その<おぞましさ>とは過去の日本のものであり、先輩である同胞日本人の行為のことだ。
 上の烏賀陽の文と違いここには、「故郷も、親も…完全に憎むこともできない」という感情はない。過去の日本と先輩同胞への「愛惜の念」は全くない。それが朝日新聞だ。国籍不明と評されて当然の新聞、朝日新聞。

0066/細川護煕談話を生み、村山社会党首相も生んだ小沢一郎・現民主党代表。

 前野徹という人のことを知らなかった。知ったのは昨年以降、いく冊かの本を買ったからだ。1926年生まれで今年2007年02月08日に亡くなった。享年81歳。
 同・戦後六十年の大ウソ(徳間書店)は2005年07月刊なので、79歳のときの、彼の最後の著書だった可能性がある(その年齢で著書を刊行できること自体に感心するし、羨望しもする)。
 この本のはしがきで彼は、「本気で国の将来を憂えはじめた」のは竹下登内閣(1987.11発足)以降で、「決定的となった」のは、細川護煕、村山富市両首相の日本=「侵略国家」発言だった、と書く。そして、「抑え難い憂国の情」がこの本を書かせた重要な理由だとする(p.5、p.9)。
 主としてこの本から引用するが、細川首相発言はこうだった。1993.08.10(現在問題になっている河野談話の直後。細川首相就任記者会見)-先の戦争は「侵略戦争で、間違った戦争だった…。過去の歴史への反省とけじめを明確にする」。
 同年08.23(所信表明演説)-「わが国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人に耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」、「深い反省とお詫び」を表明。
 同年11.06(韓国訪問中)-「日本の植民地支配で…姓名を日本式に改名させられ、従軍慰安婦徴用などで耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、心から反省し陳謝する」。
 羽田孜短命内閣を経ての村山首相が、その出身政党からして、細川首相と同旨の見方をしていたことは言うまでもないだろう。1995.06の国会決議では「侵略」や「謝罪」の言葉は盛り込まれなかったようだが、同年08.15の首相談話では、「植民地支配と侵略…痛切な反省の意…、心からのお詫び…」との言葉が入る。
 前野をして憂国の情を「決定的」にならしめた、これらの首相という公職者の発言内容には、「植民地支配」とか「侵略」とかの概念の意味は厳密にはどういうものだろう、という疑問だけ記して、ここでは立ち入らない。
 改めて記憶を新たにしてよいと思われるのは、細川内閣の成立過程だ。すなわち、この内閣は反自民・非共産の従来の野党連立内閣で、自民党(又はその前身政党)が加わらない戦後初めての内閣だった。そして、なぜかかる内閣ができたかというと、小沢一郎、羽田孜、渡部恒三らの旧自民党グループが同党を離党し、新生党を結成して(その直前に武村正義らも離党して新党さきがけを結成した)宮沢内閣不信任案を可決させ、解散後の総選挙で細川らの日本新党と新生党が「躍進」したからだった。
 この十数年前の一種の「政変」において、この人物がいなければかかる変化もなかった、と言き切れる政治家を一人だけ挙げるとすれば、それは、小沢一郎だろう。自民党からの相当数の議員の離党と選挙後の多数政党間の「連立」工作は、小沢こそが実質的には先頭を切り、小沢こそが最も練達に行ったのだ、と思われる。
 細川談話(・発言)は彼が1938年01月生まれで、じつは殆ど戦後教育しか受けていない(しかも彼は7年弱の「占領」下の、日本(軍)=悪という教育をまるまる受けている)ことによることも大きい、と思われる。過去の日本を批判し反省することが「進歩的」で「良心的」だとの想いを無意識にでも植えつけられた世代ではなかったか、と思う。
 だが、そうした人物が首相になれたのは、彼自身の力というよりも(彼は国会議員としての経歴は短いものだった)他の力、すなわち、小沢一郎という政治家の力だったのではなかろうか。
 以上のような意味では、細川の日本国首相としての「侵略行為や植民地支配」謝罪発言は、小沢一郎がいなかったら、生まれなかったのではないか、とおそらく確実に言える。
 細川連立内閣と羽田内閣が終焉したのは、日本社会党が小沢一郎に従っていけなくなったからだった。言い換えると、小沢が日本社会党軽視又はいじめをしたからこそ両内閣は潰れ、ギリギリの接戦を経て、今度はいわば「小沢抜き」の自社さ連立政権(村山内閣)ができたのだった。
 当時の自民党総裁は河野洋平で、彼自身にマルクス主義・共産主義はともかくも社会民主主義程度には抵抗感が殆どなかったように思われることも、この新連立内閣成立の背景の一つだろう。だが、やはり、村山内閣成立に対しても、消極的な意味で、重要な影響を与えたのは小沢だったと思われる。小沢一郎こそが、社会党を自民党の側へと追いやったのだ。
 とすると、村山首相談話(およびその後の橋本龍太郎首相談話)を生んだ不可欠の人物は、小沢一郎だった、と言えるだろう。
 1993年以降の政界の「混乱」の原因と責任は小沢一郎に帰する所が大きいと考えるが、日本の首相又は内閣が「贖罪」的見解を明瞭に表明し始めたのも、じつはかつての小沢一郎の行動と無関係ではない、と言ってよいのだ。
 むろん諸談話に小沢が直接に関与したことはないのだろう(あったかもしれないが、そのような情報は記憶にはない)。だが、彼が全く無関係とはいえないことは、上に述べた通りだ。
 さて、小沢の1993年以降の政治的行動はいったい何だったのだろう。結果的には、日本を一つも良い方向に前進させはしなかったのではなかろうか。
 今、彼は民主党の代表だ。そして、選挙戦術的思考のみをして、ともかくも民主党の議員数増大のみを目標としているようだ。そこには彼が本来もっていたかもしれない、国家観も政策論も何もないのではないか。国益という観念は「民主党益」のために消失しているのではないか。
 かつて小沢が果たした役割を考えると、彼が当面目標とする方向に一緒に向かうのは、つまり、民主党を現在よりも大きくさせるのは(とりわけ自民党よりも多数の議席を民主党に与えるのは)きわめて「危険」だ、と私の直感は囁いている。

0035/中川八洋:正統の哲学・異端の思想-「人権」・「平等」・「民主」の禍毒(徳間、1996)を全読了。

 2月12日又は13日に読み始めたとみられる中川八洋・正統の哲学・異端の思想-「人権」「平等」「民主」の禍毒(徳間書店、1996)全358頁を4/01の午後9時頃に、45日ほど要して漸く全読了した。むろん毎日少しずつ読んでいたわけではなく、他の本や雑誌等に集中したりしたこともあって遅れた。
 刺激的だが重たい本で、各章が一冊の大きい本になりそうな程の内容を凝縮して箇条書きになっているような所もあり、又ややごつごつした文章で読み易いとはいえない。だが、まさしく、この本p.351に引用されているショーペンハウエルの言葉どおり、「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間とかには限りがあるからである」。中川も「近代政治哲学(政治思想史)」の「ガイドライン」のつもりでも書いた旨記しているが、全部を鵜呑みにするつもりはないにせよ、短い人生のための今後の読書の有益な指針を提供してくれているように感じる。
 内容を仔細に紹介しないが、究極的にはマルクス主義という「異端の思想」の批判書ではあるが、マルクス主義そのものよりも、「正統の哲学」の言辞も引用しながら、それを生んだ哲学的・思想的系譜を示して批判すること、同時に、「進歩」主義、「平等主義」、「人権」思想、「民主主義」又は「人民主権」論等々を批判することに重点がある。私には「狂人」ルソー思想批判とフランス革命批判が強く印象に残った。
 デカルト→ルソー・ヴォルテールら→フランス革命→サン=シモンら空想的社会主義→マルクス・エンゲルス→レーニン→ロシア革命という大きな流れに、デカルトとフランス革命→ヘーゲル・フォイエルバッハ→マルクス・エンゲルスという流れを追加して、ほぼマルクス(及びロシア革命)の思想的淵源が解る。中川によれば、「理性主義」信仰のデカルト、平等・「人民主権」論等のルソー、サン=シモン、ヘーゲル、フォイエルバッハの五人はマルクス・レーニン主義という「悪魔の思想」の「五大共犯者」とされる。
 一方で「正統の哲学」の思想家等を27人挙げているが、著名な人物は「悪魔の思想」関係者よりも少なく、かつ日本で邦訳本が出版されている割合が少なく、かつ岩波書店からは一冊も出版されていない。戦後日本の「知識人」たちの好みに影響を受けたこともあっただろうが、岩波は公平・中立に万遍なく世界の思想家等の本を出版しているわけでは全くないのだ。この点は注意しておいてよい。
 その「正統の哲学」の27人は、-のちの中川・保守の哲学(2004)の表で修正されているが-マンデヴィル、ヒューム、アダム・スミス、エドマンド・バーク、ハミルトン、コンスタン、トクヴィル、ショーペンハウアー、バジョット、ブルクハルト、アクトン、ル・ボン、チェスタトン、ホイジンガ、ベルジャーエフ、ウィトゲンシュタイン、オルテガ、エリオット、ミーゼス、チャーチル、ドーソン、ハンナ・アレント、アロン、オークショット、ハイエク、カール・ポパー、サッチャーだ。
 「進歩」、「平等」、「人権」、「民主主義」等々について、この本も参照しながら考え、このブログでも「つぶやく」ことにしたい。

0013/「科学的社会主義」とは「宗教のようなもの」でなく「宗教」そのものだ。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)全358頁もあと30頁程で全読了となる。早く同・保守主義の哲学(PHP、2004)も読み終えて、自称ハイエキアン憲法学者・阪本昌成の二著、すなわち同・リベラリズム/デモクラシー(有信堂、1998)、同・法の支配(勁草書房、2006)に向かいたいが、読書のみの生活というわけにはいかない。自由な元気に過ごせる時間だけは緩慢に進んでほしいものだ。
 共産党について又は共産主義について、「宗教のようなもの」という批判的な立場からの言葉を聴いたことが複数回ある。だが、日本共産党の奉じる共産主義とは、あるいは「科学的社会主義」とは、「宗教のようなもの」ではなく「宗教」そのもの、ではないか。ケインズとハイエクといえば、二人とも社会主義者ではないが、個人(のとりわけ経済活動)に対する国家の介入の容認の程度につき正反対と言ってもよい主張をしている学者又は思想家だった筈だ。但し、中川・上掲書p.237-8によれば、二人とも、共産主義又はマルクス主義を「宗教」と見ていた。中川が「レーニンによる共産ロシアを宗教国家と断じている」とする二人の文は次のとおりだ。ケインズ-「レーニン主義は、偽善者に率いられて迫害と宣伝を行なっている少数の狂信者の宗教」だ、「レーニン主義は宗教であって、単なる政党ではない」(「ロシア管見」全集9巻)。ハイエク-過去の何万もの宗教は「私有財産と契約」を認めず、「認めなかったものはすべて滅び、長続きしなかった。共産主義と呼んでいるものもこの迷信ないし宗教」に含められる(「文明社会の精神的病」エコノミスト1981年12月)。
 (少なくとも真面目な?)日本共産党員の中には共産党への批判・攻撃に対して「反共!」とだけ言い、又は思って、相手にしないで罵倒して、それだけで「勝った」と思う者(バカ)も多いだろう。だが、反共産主義とは、一部の偏狭な「右翼」と称される者のみの考え方ではない。「反共!」で済ませず、きちんと反共産主義に反駁するためには、ハイエク、ポパー、アレント等々も読んでからにすべきだ。と書きつつも、これらの人々の本を読むのを私も今後の楽しみにしているのだが(すでにかなり収集した)、私がマルクス、エンゲルスや共産党の文献を読んでいる程度にも反共産主義(自由主義、資本主義、保守主義と種々に表現できる)の文献を知らないままでは、彼らは、思考を停止して「信じる」だけの、「科学的社会主義教」という宗教(簡単に「共産教」でもよい)の宗徒にすきないだろう。資本主義から社会主義(さらに共産主義)へと不可避的に「発展」するという「予測」は、「科学的」でもなんでもない。ただの「信仰」であり、かつ「狂信」だ。

-0049/故郷も親も完全に憎むことはできない、自分の一部だ。九条の会賛同関西歴史研究者。

 西尾幹二が何かの本で(多すぎてそのときに何かにメモしないと憶えられないが、いちいちメモしていると読めない)西洋史学者(研究者)の八割はまだマルキストだ旨を書いていた。
 世間相場と大きく違うが、日本史中心の「『9条の会』に賛同する関西歴史研究者の会」についても西洋史と同様のことがたぶん言える。
 その呼びかけ人は、以下のとおり。
 赤澤史朗(立命館大)、猪飼隆明(大阪大)、井上浩一(大阪市大)、上野輝将(神戸女学院大)、梅村喬(大阪大)、大山喬平(立命館大)、奥村弘(神戸大)、長志珠絵(神戸市外国語大)、小西瑞恵(大阪樟蔭女子大)、小林啓治(大阪府立大)、小山靖憲(元和歌山大、2005年没)、末川清(愛知学院大・元立命館大)、鈴木良(元立命館大)、曽根ひろみ(神戸大)、高久嶺之介(同志社大)、武田佐知子(大阪外国語大)、塚田孝(大阪市大)、広川禎秀(大阪市大)、薮田貫(関西大)、山尾幸久(元立命館大)、横田冬彦(京都橘大)、渡辺信一郎だ。
 京都大を除く主だった大学は全て含んでいる。これらの人々の仲間や「弟子」はきっと多いだろう。
 烏賀陽弘道・「朝日」ともあろうものが。(徳間書店、2005.10)のまえがきの中にいい文があった―「故郷も、親も、完全に愛することも、完全に憎むこともできない。それは、切り捨てることのできない「自分の一部」になってしまうのだ」。
 思い出す10/06付朝日新聞社説の一部はこうだ。
 ―「時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできる」。

-0044/日本共産党・「嘘ばっかりで70年」は80年又は45年ではないか。

 東京地裁の判決は懲戒処分取消訴訟でなく、(懲戒処分を事前防止するための)通達服従義務(起立斉唱等義務)不存在確認訴訟だったようだ。
 日本共産党はネット上でさっそく支持等を表明。この判決をめぐっても、秩序―破壊、規律―混乱の基本的対立がある。日本社会が混乱すればするほど、あるいは(少し飛躍するが)日本が悪く言われれば言われるほど快感を覚える人たちが確実に存在する。後者を「自虐」派という。
 社民党は共産党と違い運営体制未整備のようで、ネット上では東京地裁判決に対する反応は不明。
 但し、2003年01月22日の「拉致事件被害者と、そのご家族の声を、もっと真正面から受け止める努力を重ねるべきでした。その取り組みは誠に不十分だったことを悔いるとともに、被害者・ご家族に対し、お詫び申し上げます」との謝罪文を初めて見た。
 まことに、土井たか子のように有本恵子さんのご両親からの相談に不誠実にしか対応しないで、よくも「人権」を語っていたものだ(この問題についての日本共産党の過去の言動に関する同党の正確な総括は知らない)。
 但し、社民党の同一文内の「日朝の国交正常化へ向けた交渉が進むことによって初めて拉致問題の真相究明と解決があると考えています」との国交正常化・拉致問題解決並行論は、北朝鮮を利するだろう。
 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)を2/3ほど読んだ。平易な語と文章で解りやすい。この本は同・『嘘ばっかり』で七十年(講談社、1994)の文庫化で、題名どおり日本共産党批判の書だ。
 今でいうと「…八十年」になるだろう。もっとも終戦前10数年は壊滅状態だったので、1945年か、実質的に現綱領・体制になった1961年を起点にするのが適切で、そうすると「嘘ばっかり」の年数は少なくなる。
 それにしても谷沢は日本近代文学専攻なのに社会主義や共産党問題をよく知っている。戦前か50年頃に党員かシンパだったと読んだ記憶があるが、「実体験」こそがかかる書物執筆の動機・エネルギ-ではなかろうか。
 西岡力・闇に挑む(徳間文庫、1998)を入手した。
 北朝鮮による拉致等を扱うが、金正日が拉致を認める前に告発していたことに意味がある。「身の危険」もあったに違いない。
 西岡力はかつて拉致被害者家族連絡会の事務局長だったかと思うが(今は北朝鮮拉致日本人救出全国協議会常任副会長)、大学教員でかつさほど目立たっていないことに好感を覚える。

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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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