秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

強制労働

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
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 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
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 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
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 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
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 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.511-2。
 <>はイタリック体=斜体字で、書名のほか著者=L・コワコフスキによる強調の旨の記載がとくにある場合があるが、その旨の訳出は割愛する。
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 第7節・独裁に関するトロツキー②。
 国家は、もちろん、労働大衆の利益のために組織されている。
 『このことは、しかし、最も優しいものから極端に苛烈なものまで、全てのその形態での強制(compulsion)の要素を排除する、というものではない。』
 (同上〔トロツキー・<テロリズムの擁護>〕、122頁)
 新しい社会では、強制は消失しないだけではなく、本質的な役割を果たすだろう。
 『まさに強制的な労働奉仕の原理は、共産主義者にとって、全く疑問の余地がない。<中略>
 <原理と実践の両方の見地からして>適正な(correct)経済的苦難の唯一の解決策は、全国の民衆を必要な労働力の供給源(reservoir)として取り扱うことだ。<中略>
 この強制労働役務の原理自体が、生産手段の社会化が資本主義の財産権に取って代わるにつれて、自由な雇用という原理と<過激にかつ永遠に>入れ替わったばかりのものだ。』
 (同上、124-7頁)
 労働は、軍事化されなければならない。
 『我々は<中略>、経済計画にもとづく社会的に規制された労働によって、資本主義的奴隷制に対抗する。その労働は、全民衆にとって義務的で、その結果としてこの国のいずれの労働者にも強制的なものだ。<中略>
 労働の軍事化の基礎になるのは、それなくしては社会主義者による資本主義経済の置き換えが永久に空響きのままにとどまるだろう、そういう形態での国家による強制だ。<中略>
 軍隊を除くいかなる社会組織も、プロレタリア-ト独裁の国家がしていることやすることを正当視されるような、そういう方法で市民を服従させることで、そしてそのような程度にまで、全ての側面についてその意思によって自ら自分たちを統制させることで、自らの正当性が証明されるとは考えてこなかった。』
 (同上、129-130頁)
 『我々は、経済的な諸力や国の資源を権威的に(authoritative)規制すること、および総括的な国家計画と整合して労働力を中央によって配分すること以外によっては、社会主義への途を見出すことができない。
 労働者国家は、全ての労働者をその労働を必要とする場所へと送り込む力をもつことを、正当なことと考える。』
 (同上、131頁)
 『若き社会主義国家は、より良き労働条件を目ざす闘争のためにではなく-これは全体としての社会組織や国家組織の任務だ-、生産の目標へと労働者を組織するために、そして研修し、訓練し、割り当て、グループ化し、一定の範疇と一定の労働者を固定された時期にその職にとどめておくために、労働組合を必要とする。』
 (同上、132頁)
 締め括れば、『社会主義への途は、最高限度に可能な国家の原理の強化の時期を通じて存在すしている。<中略>
 国家は、それが消滅する前には、プロレタリア-ト独裁の形態を、言い換えると、全市民の生活を権威的にあらゆる方向で抱きとめる(embrace)、最も容赦なき形態の国家の形態をとる。』
 (同上、157頁)//
 これ以上に平易に物事を述べるのは、本当に困難だろう。
 プロレタリア-ト独裁の国家は、市民の生活全ての側面に対する絶対的権力を政府が行使し、どの程度働くべきか、どのような性質の仕事をすべきか、何という場所で働くべきか、といったことを政府が詳細に決定する、そのような巨大で永続する集中〔強制〕収容所(concentration camp)のようなものとして、トロツキーによって叙述されている。
 個人は、労働の単位でしかない。
 強制は普遍的なものだ。そして、国家の一部ではないいかなる組織も国家の敵、したがってプロレタリア-トの敵であるはずだ。
 これら全ては、もちろん、理想的な自由の王国の名目のもとでのことだ。それの到来は、歴史的な時間の不確定の経過のあとに予期されている。
 我々は、こう言ってよい。トロツキーは、ボルシェヴィキたちによって理解されている社会主義の諸原理を完璧に表現している、と。
 しかしながら、我々は、マルクス主義の観点からすると、労働者の自由な雇用に何が取って代わるとされるのかに関しては、まだ明瞭には語られていない。-マルクスによると、労働者の自由な雇用とは、一人の人間が市場で労働力を売らなければならないので、換言すると自分を商品と見なし、かつそのようなものとして社会によって取り扱われるので、奴隷制の一つの目印だ。
 かりに自由な雇用が廃止されれば、人々を仕事へと導いて富を生み出す唯一の方法は、物理的な強制であるか、または道徳的な動機づけ(仕事への熱狂)だ。
 後者はもちろん、レーニンとトロツキーの両者によって褒め讃えられた。しかし、彼らはすぐに、それに依存するのは作動力の永遠の根源のごとく荒唐無稽なことだ、と知った。
 ただ強制だけが、残された。-生活費を稼ぐ必要にもとづく資本主義的な強制ではなく、苛酷な物理的力(force)にもとづく、投獄、肉体的な損傷、そして死への恐怖にもとづく強制だった。//
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 以上で、第7節は終わり。次の節の表題は、「全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン」。
 下は、分冊版・第二巻の表紙/Reprint, 1988年/Oxford。
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