前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィキの出現 〔p.358-p.361〕 ②
 レーニンは〔党組織に関する〕その考えを、1902年3月刊行の<何をなすべきか ?>で周知させた。 
 この本はその当時まで練り上げられたもので、社会民主主義的語彙でもって人民の意思の考えを粉飾したものだった。
 彼はこの本で、帝制打倒に身を捧げる全日活動の職業的革命家から成る、規律厳しい、中央に集中した党の創立を呼びかけた。
 レーニンは政党『民主主義』の観念を、労働者運動は自然の推移をたどって大衆の革命を実行するだろうとの信念とともに、却下した。自身たちのための労働者運動には、労働組合主義を実践する能力しかない。
 社会主義と革命的熱情は、外から労働者に注入されなければならない。『意識性』が『任意性』に圧倒的に優先しなければならない。
 労働者階級はロシアで少数派なので、ロシア社会民主主義者は、闘争の中に暫定的同盟者として他の階級を巻き込まなければならなかった。
 <何をなすべきか ?>は、名前こそ正統派マルクス主義のものだが、マルクス主義の原理の基礎的教義を転倒させ、社会民主主義の民主主義的要素を拒否するものだった。
 にもかかわらず、人民の意思の古い伝統がまだ残って生きていて、プレハーノフ、アクセルロッドやマルトフの遅延戦術に我慢ができなくなっているロシアの社会主義知識人に対して、きわめて大きな印象を与えた。
 この当時、のちの1917年のように、レーニンの魅力の多くは、つぎのことに由来していた。すなわち、平易な言葉を使って文章を書いたこと、そして、ライバルの社会主義者たちの考えを行動綱領に転化したことだ。彼らは、信念を維持する勇気を欠いて、多くの条件にむしろ束縛されていた。//
 レーニンの非正統的なテーゼは、1902-3年に激しい論争の対象になった。そのとき、社会民主主義者は、きたる党の第二回大会の準備をしていた-その名にかかわらず、政党の設立総会となる予定の大会だ。
 イデオロギー上の違いが混じり、しばしば指導権をめぐる個人的闘争の外観も呈した争論が勃発した。
 プレハーノフに支持されたレーニンは、幹部や一般の党員が中央に服従する、より中央に集中した組織を作ることを要求した。一方で、のちにメンシェヴィキの指導者になるマルトフは、『党組織の一つの一定の方向のもとで、党に対して定期的に個人的な協力をする』者は誰でも受け入れる、より緩やかな構造を求めた。(60) //
 第二回大会は1903年7月にブリュッセルで開催された。51の投票権をもつ、43人の代議員が出席した。(*)
 労働者だったと言われる4名以外の全員は、知識人だった。 
 レーニンへの対抗派を率いるプレハーノフが、いつも多数を獲得した。だが、彼〔プレハーノフ〕がその対抗者と協力してユダヤ人同盟に党内で自治的な地位を与えるのを拒否し、5名の同盟員たちが〔会場外へ〕歩き去り、2名の経済学者の代議員がそれに続いたとき、プレハーノフは、多数派の支持を喪失した。
 レーニンはすぐさま、中央委員会の支配権を掌握する機会を利用し、その機関である<イスクラ>の大勢を確保した。
 この場合のレーニンの呵責のない方法と策略は、彼と他の党リーダーとの間に、きわめてひどい悪感情を惹起することになった。
 そのとき、そしてその後でも、一体性の表装(ファサード)を維持するための多くの努力がなされたけれども、分裂は、実際上、修復不能になった。解消されえたイデオロギー上の差違はさほど大きな理由ではなく、個人的な嫌悪感から生じていた。 
 レーニンは、自分の党派のためにボルシェヴィキの名を、『多数派』を意味する名を要求する瞬間を掴んだ。
 この名前は、第二回大会のあとですぐに生じたことだが、少数派になったことが分かった後でも、維持された。
 これはレーニンに、党の最も人気のある分派の指導者として立ち現れる利益をもたらした。
 『正統な』マルクス主義者だというポーズを、彼はずっととり続けた。これは、正統派を最高の美徳だと、そして異派を変節だと見なす宗教的感情のある国では、重要な魅力だった。
 党の歴史のつぎの2年間(1903-5年)は、悪質な計略で満ちていた。それらは、関係者の人間性を明らかにする点を除けば、大した関心の対象ではない。
 レーニンは、断固として、党を彼の意思に従属させようとした。かりにできないとなれば彼は、党のカバーのもとに彼の個人的支配が及ぶ平行組織を設立することを準備していた。
 1904年末までに実際、レーニンは、『党多数派の委員会事務局』と呼ばれる『中央委員会』をもつ彼自身の党派を持った。
この行為を理由として、彼は正当な中央委員会から追放された。(61)
 レーニンが少数派である場合には、正当化されていない平行機関を、信奉者が集まる同じ名前の平行機関を設立することによって、正当な諸機構を弱体化させる戦術をとった。このような戦術を彼は、1917-18年には権力の別の中心、とりわけソヴェト、に対して適用することになる。//
 1905年の革命が勃発するときまでに、ボルシェヴィキの組織は定まった。//  
 『指導者、つまりレーニンに対する個人的な忠誠と結合した、かつまたその指導が十分に過激で極端であるかぎりいかなることがあってもレーニンに服従する意思をもつ、そういう陰謀家たち一団が集結した、職業的な委員たちの厳しい規律ある秩序』。(62)
 対抗者たちは、レーニンはジャコバン主義者だとして責め立てた。トロツキーは、つぎのように記した。ジャコバン派のようにレーニン主義者たちは、大衆の『任意性(随意性)』を恐れた、と。(63)
 この攻撃に動揺することなく、レーニンは誇らしげに、ジャコバンという称号は、自分自身のためにある、と言った。(64)
 アクセルロッドは、レーニン主義はジャコバン主義ですらなく、『内務省の官僚専政制度の模写か戯画であるにすぎない』と考えた。//(65)
  (60) Leonard Schapiro, ソヴェト同盟の共産党 (1960), p.49。
  (*) この月の末には、ロシアとベルギーの警察による監視を避けて、大会はロンドンへと移った。
  (65) 1904年6月のカール・カウツキーへの手紙。A. Ascher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism (1972) p.211.から引用。
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 第6節につづく。