秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

平等主義

1207/最高裁の婚外子相続「差別」違憲判決をめぐって。

 〇最高裁大法廷平成25年9月4日判決の特徴は、婚外子(非嫡出子)に対する民法上の相続「差別」を憲法違反とした理由が明確ではないことだ。
 全文を大まかに読んで見ても、そこに書かれているのは、一文だけをとり出すと、「前記イ及びウのような世界的な状況の推移の中で,我が国における嫡出子と嫡出でない子の区別に関わる法制等も変化してきた」、ということにすぎない。この問題をめぐる環境の変化に言及しているだけで、直接になぜ「平等原則」違反になるのかは述べていないのではないか。述べているらしき部分はのちに言及する。
 上の前者の世界的状況とは、国連の自由権規約委員会が「包括的に嫡出でない子に関する差別的規定の削除を勧告」したこと、加えて児童の権利委員会も日本の民法改正を促す勧告や当該規定の存在を「懸念する旨の見解」を改めて出したことをいう。

 上の後者のわが国の法制等の変化とは、「住民基本台帳事務処理要領の一部改正」、「戸籍法施行規則の一部改正」等をいう。

 この判決は一方で、日本ではまだ「法律婚を尊重する意識が幅広く浸透している」こと、婚外子の割合は増えても2%台にすぎないことを指摘しつつも、これらは合憲・違憲という「法的問題の結論に直ちに結び付くものとはいえない」とわざわざ述べていることも、興味深い

 〇この判決の結論自体については、産経新聞社説も含めて反対の論評はないようだ。
 ここでも反対意見は書かないが、最高裁裁判官中に一つの反対意見もなく、14名全員一致だというのは、ある程度は気味が悪い。最高裁判決は「正しい」または「最も合理的」なのではなく、権威をもって世俗的に通用する、というにすぎないことは確認されておくべきだ。

 最高裁判決が触れていない論点を指摘しておこう。

 第一。同じ父親から生まれた子が母親または両親の婚姻形態の違いによってその父親の資産相続につき同等に扱われないのは、たしかに、子どもの立場からすると「不平等」・「不公平」ではある。
 しかし、母親のレベルから見ると、法律上の妻と事実上の妻とが同等に扱われる結果になることは、法律上の妻との婚姻関係が基本的には正常・円滑に継続しており、事実上の妻あるいは「愛人」・「二号さん」とは同居もしておらず、事実上の夫婦関係が一時的または断続的である場合には、法律上のまともな配偶者(とその子ども)を不当に差別することになりはしないだろうか。
 むろん男女関係はさまざまで、法律婚の方がまったく形骸化し、事実婚の方が愛情に溢れたものになっている場合もあるだろうので、上のように一概にはいえない。しかし、上のような場合もあるはずなので、今回の最高裁判決および近い将来の民法改正によって、不当な取り扱いを受けることとなる法律上の妻や婚内子(嫡出子)もあるのではないかと思われる。しかるに、最高裁が裁判官全員一致で今回のような一般的な判断をしてしまってよかったのだろうか。

 むろん民法の相続関係規定は強行法規ではないので、被相続人の遺言による意思の方が優先する。もともと国連の関係委員会等の「権威」を信頼していないことにもよるのだが、個々のケースに応じた弾力的運用がまずは関係者私人の間で必要かと思われる。

 第二。本最高裁判決は、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」と格調高く?述べて、実質的な理由らしきものにしている。

 しかしかかる理由でもって子どもすべてを同一・同等に扱うべきだという結論を導くことはできない、と考えられる。この点は、産経9/12「正論」欄で長谷川三千子もつぎのように、簡単に触れている。

 「自ら選択の余地のない事情によって不利益をこうむっているのは嫡出子も同様なのです。その一方だけの不利益を解消したら他方はどうなるか、そのことが全く忘れ去られています。またそれ以前に、そもそも人間を『個人』としてとらえたとき、(自らの労働によるのではない)親の財産を相続するのが、はたして当然の権利と言えるのでしょうか? その原理的矛盾にも気付いていない。」

 前半の趣旨は必ずしもよく分からない。だが、親が誰であるかによって実際にはとても「平等」ではないのが人間というものの本質だ。例えば、資産が大きく相続税を払ってもかなりの相続財産を得られる子どもと、親には資産らしきものはなく相続できるプラス財産は何もない子どももいる。これは平等原則には違反しないのか。あるいは例えば、頭が賢く、運動能力も優れた子どもがいる一方で、いずれもそうではない子どもも実際には存在する。この現象に「親」の違いは全く無関係なのだろうか。

 「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許され」ないなどと言うのは、偽善的な美辞麗句にすぎない、と断じることができる。「親」が異なれば「子」も異なるのだ。嫡出・非嫡出などよりも、こちらの方がより本質的な問題だろう。

 さらに、長谷川が上に後半で指摘していることは正しい。
 今回の最高裁判決を「個人」主義・「平等」主義大賛成の「左翼」法学者・評論家等は大いに支持するに違いない。しかし、上に少し触れたように、例えば親の資産の有無・多寡が相続を通じて子どもの経済生活に「格差」を生じさせるのは、「個人」主義・「平等」主義に反するのではないか。
 つまり、「左翼」論者が本当に「個人」主義・
「平等」主義を貫きたいのならば、<相続制度>自体に反対し、死者の財産はすべて国庫に算入する、つまり国家が没収すべし、と主張すべきだと考えられる。

 「子ども」は親とは全く別の「個人」であり、親の財産を相続することを認めるのは、子ども「個人」の努力や才覚とはまったく関係のない、たまたまの(非合理的な)「血」縁を肯定することに他ならない。「個人主義」者は、これに反対すべきではないのか。また、そのような相続を認めることが親の違いを理由とする相続財産の有無・多寡という「格差」=「平等原則」違反につながるのだとすれば、「平等」主義者はますますもって反対すべきではないのか。
 本最高裁判決を肯定的に評価しているらしき棚村政行(早稲田大学」、二宮周平(立命館大学)らは、上の論点についてもぜひ回答していただきたいものだ。

0623/1961~1963年生れによる奇怪な犯罪と大谷昭宏。

 週刊新潮12/04号(新潮社)p.35によると、厚生事務次官夫妻等を殺傷した小泉某は1962年生れ。東京都多摩地域(だったと記憶する)の連続幼女誘拐殺害事件犯の宮崎某、新潟女子監禁事件犯の佐藤某も1962年生れ。
 大阪教育大附属小に乱入して児童らを殺傷した宅間某は1963年生れ。
 和歌山毒入りカレー事件被告の林某、最近の大阪・個室ビデオ店放火殺人事件の小川某は、1961年生れ。
 これだけのデータから<世代>論を語るのは無理があるだろうが、1961~1963年生れに上の6件が揃うと、少しは気になる。
 大谷昭宏は上の週刊新潮で、彼らは「高度成長期の初め」に生まれ、「厳しい風」にさらされず、「大きな苦労」もしない戦後の「最も楽な世代」で、「不幸でも貧乏でも」なかったが「自ら転落」した、という。
 また、大谷は次のようにも(正確には週刊新潮記者による要約・修正が入っているだろうが)語る-「この世代は、自分の人生の挫折や失敗を、自分のせいとは認めようとせず、他人や社会の責任に無理やり転嫁する」。
 これを読んで些か妙な気分になる。
 「自分の人生の挫折や失敗を、自分のせいとは認めようとせず、他人や社会の責任に無理やり転嫁する」ような意識を育てたのは、さらには厚生事務次官等殺傷犯が言ったという、「高級官僚は悪だ」と思い込むような意識・心理を育てたのは、<戦後民主主義>のもとでの、国家=悪を前提とする、個人主義・平等主義等の風潮・「空気」ではなかったのか。
 そして、大谷昭宏は、そうした風潮・「空気」を支持し醸成してきた、<弱者>の立場に立つらしき、れっきとした「左翼」コメンテイターではないか(週刊新潮は「ジャーナリスト」と書くが、この人の文章はたぶん読んだことがない)。
 大谷は、上のようなことだけではなく、彼自身や「団塊」世代より下の世代の意識・心理を形成してきた、<戦後民主主義>(個人主義・自由主義・平等主義等々)なるものにさらに立ち入るべきだ。戦後の学校教育や家庭・家族の変容にも掘り下げて言及すべきだ。
 上のような犯罪を生んだ要因の一つは、大谷もその中にいる(支持しかつ擁護しようとしている)「戦後民主主義」という「風潮・空気」だろうと思われる。自分とは全く無関係のごとくヌケヌケとコメントするな、表面的な世代分析を語るな、と言いたい。
 なお、神戸で起こった幼児殺害事件犯・酒鬼薔薇聖斗(自称)と今年6月に起こった秋葉原連続殺傷事件犯の加藤某は、いずれも1982年生れ。

0292/坂本多加雄の一文-例えば「平等」。

 故坂本多加雄氏(1950-2002)の文章は、安心して読めて、風格や論理性も高い。
 中公クラシックス・福沢諭吉(中央公論新社、2002)の緒言「「文明」と「瘠我慢」のあいだ」にも印象的な文章がある。
 1.「私たちは…平等を「結果の平等」と捉えがち」だが、「小学校の競走競技で、参加者全員に一等賞を与える」といった「結果の平等」めざす傾向は、「個人の努力の意味を希薄させたり、各人のさまざまな能力上の差異という厳然たる事実に正面から向き合わないといった弊害も生むであろう」(p.4)。
 とくに後半はいい文章だし、内容も的確かつ重要だ。あえてさらに要約すれば、「結果の平等」目的→1.「個人の努力の意味」の「希薄」化、2.「各人のさまざまな能力上の差異という厳然たる事実」の無視、ということになる。
 2.関連して、平等主義というよりも<人間の見方>又は世界-国家(日本)-国民(個人)の関係に関連して語られているが、上と類似性もあるこんな文章もある。
 「人間は、それぞれ具体的な地域の社会的な諸条件・諸環境のなかに生まれ落ち、それが課すさまざまな負荷を帯びて成長する」。かかる負荷を全て捨象して「人間をひとしなみに「人類」の一員と同定することはどこまで妥当かという問題がある」(p.28)。
 「人が自分が置かれてきた環境や自らが担っている具体的な属性や条件を無視して、ひとえに「人類の一員」や「純粋な個人」として振る舞うことは果たして、どこまで正しいのか」(p.29)。
 こうした文章は、日本を<地球貢献国家に>とか主張しているらしい朝日新聞の記者や自分を日本国民よりも前に<地球市民>だなどと考えている者たちに読ませてやりたい。
 若いときはさほど感じなかったが、私も含めて人は両親(および両親につながる祖先たち)を選んで生まれてきたわけではなく、「生まれ落ち」る時代を自分で決定したわけでもない。
 そしてまた、「生まれ落ち」る郷土・<国家>も自分で判断して選択したわけでもない。たしかにわれわれはヒトの一種で人類の一員だろうが、現在の時代環境からすると、地球(世界)市民として生まれた、というよりも、やはり日本国民として生まれたのだ。そして、日本の社会であるいはその教育制度の下で大人になってきたのだ。このことに無自覚のようにみえる日本人が多すぎはしないか?
 あるいはまた、生まれつき(男女の区別はもちろん)身体的・精神的(知的)条件・能力においてある程度は<制約されている>こと、そしてその<制約>の内容・程度がどの他の個人とも同一ではではないことは、自明のことであり、厳然たる事実だ。
 生まれつきの<制約>の違いから生じる<不合理かもしれない>点、<不平等>性について、国家や社会の<責任>を追及できるのか? 殆どは、<運命>・<宿命>として受容しなければならないのではないか。むろん、出生後の環境や本人の<努力>(および偶然又は「運」)の影響を否定するものではないが。
 やや余計なことに私が筆を進めれば、朝日新聞や<左翼>の方々が好きかもしれない、個人を日本国民としてではなくまずは「人類の一員」や「純粋な個人」として捉えようとするのは、ルソー的な<平等なアトム的個人>という人間観だろう。財産等々の不公平(・格差)を否定しようとする平等主義は、資本主義(経済)に対する<怨嗟>・<憎悪>の念にもとづく社会主義・共産主義ーの第一歩となるだろう。
 3.戦後日本の歴史観への批判の文章もある。
 「戦後かなり長い間、明治国家の体制を「明治絶対主義」と規定するソヴィエトのコミンテルンの歴史観が圧倒的な影響力を保ち、マルクス主義が想定するような歴史の歩みに逆行するとされた明治政府にいかに対立したか、いかに抵抗したかで、明治期の政治家や言論人の思想や人物を評価したり批判したりするタイプの研究が幅をきかせてきた(…その粗雑な例としては、とくに中学校の歴史教科書の多くに見受けられる)」(p.11)。
 明治国家を「絶対主義」国家と規定したのは、言うまでもなくコミンテルンの影響(というより支配)を受けた、戦前の日本共産党系の「講座派」マルクス主義で、その考え方は現在の日本共産党(および「講座派」的マルクス主義者)にも継承されている。
 4.内容には立ち入らないが、坂本多加雄は世界(「文明」)-国家(日本)-国民(個人)の関係について福沢諭吉の議論を絡めながら説明し又は議論している。国民国家がまだまだ思考の基礎におかれるべきと考えられるところ(当然のことを書くが、日本国憲法や日本の法律は日本という国家にのみ・原則としては日本国民にのみ適用があるのであり、「国家」を単位としてこそ世界・地球は成り立っているのだ)、同旨を再述するが、日本を<地球貢献国家に>とか主張しているらしい朝日新聞の記者や自分を日本国民よりも前に<地球市民>だなどと考えている者たちは、福沢諭吉の「瘠我慢の説」等々による<精神的苦闘>を先ずは学習していただく必要があるように思う。

0141/中川八洋は一切の「福祉」施策を非難するのだろうか。

 中川八洋・保守主義の哲学を読んでいて、そのままでは従(つ)いて行けないと感じたのは本の最後の残り1/5の中にある。すでにその一つを書いたが、もう一つは「社会的正義」の扱いだ。
 中川は、ケインズ経済学を「自由否定/道徳否定のベンサムの狂気から生まれた」、「ベンサム功利主義を継承するものの一派」で、マルクス経済学と「祖先が同じ血のつながった親類」だとし、日本では「マルクスだけでなく、ケインズからも自らを解放することが急務」だとする(p.338-345)。
 このあたりで既に私には理解が殆ど不能になるのだが、その後中川は、法や法律と「自由」の関係を論じたりしつつ、ハイエクの著・社会正義の亡霊(1976年)に依って、こう書いている。
 <ハイエクの「社会的正義という概念が空虚であり無意味である」との説は正しい。>(p.361)
 <社会正義との概念はJ・S・ミルの本(功利主義、1863)が初出で、「英国のマルクス」で「レーニンと寸分も変わらぬ冷酷で残忍な性格」のミルは「すべての制度も、すべての道徳的な市民の努力も、できるかぎりこのものさし」、すなわち「社会的正義と分配の正義の最高の抽象的ものさし」を「目標にしたものであるべきである」と書いたのだが、ミル・自由論をよく読むと「道徳の放棄と、伝統・慣習を破壊するよう呼びかける」以上の何物でもなく、さらにはミルは「個人の幸福追求を社会全体のために犠牲にすることを目論んでいた」。>(p.362-4)
 <ハイエクの言うとおり、「「社会的正義」の大義名分の下での「所得の再分配」」は「異なった人びとにたいするある種の差別と不平等なあつかいとを必要とするもので、自由社会とは両立しない。…福祉国家の目的の一部は、自由を害する方法によってのみ達成しうる」。>(p.365)
 これはすでに殆ど一種の経済政策論だと思うが、次のようにも書く。
 <「「社会正義」という”亡霊”が迷信の信仰のごとく狂信されている状況のひどさは、そもそも所得の格差が正義に適うとか正義に悖るとかいえないのに、また正義に適うとか正義に悖るとかは人間の道徳的な個人行動に関する用語であるのに、国家(社会)の行政上の権力行使(命令)にそれを期待し要求することでもわかる」。>(p.366)
 「正義」とは「道徳的な個人行動」関係概念で、「所得の格差」とは無関係だ、というわけだ。
 このあと「社会的正義」という語への(中川ではなく)ハイエクによる侮蔑の表現が並んでいる。
 「デマゴギーであり、三文ジャーナリズムであり、責任ある思想家が使用するに恥ずかしい用語」。
 社会的正義に「訴えているのは、その要求が実際には何らの道徳的正当性をもたないのに、道徳的なものだと承認してもらおうとの一種の誘惑行為」。
 社会的正義という「福音は、はるかに野卑な劣情に基づいている場合が多い。…自分より豊かな暮しをしている人々への嫌悪であり、あるいは単なる嫉妬である」。
 これらの主張が全く理解できないのではない。たしかに「「社会的正義」は「平等主義」の母胎から誕生した子どもの一人」だろう。今日の最も重たい問題にかかわる叙述だとも思う。問題又は疑問は「所得の格差」を多少とも是正するための立法者そして行政府による「所得の再分配」政策を一切否定しているのだろうか、ということだ。
 だとすれば、「福祉国家」も現憲法25条の理念も一切が排斥されることになってしまう。
 「社会的正義」という名分によってそれがなされるのを厳しく批判しているのだろうか。このあたりはハイエクそのものを読まないと解らないかもしれない。
 ところで、上のような考え方を知ると、中川も指摘のとおり、規制緩和・民間活用とか言われて「自由」=自己責任の領域が拡大しているかにもみえるが、日本の現状とはまだまだ相当な懸隔がある。「格差」が大きな話題になり、自民党系の候補者までが「格差是正のために~をします」とか演説していることがあるのを先月聞いたところだ。
 中川からすれば恐らく、自民党もまた「福祉」を重視した、半分は「社会民主主義」政党であるような気がする。同党は田中角栄等々によって「ばらまき」もしてきた。決してハイエク的「自由主義」の政党でないことは間違いないだろう。まして、社民党、共産党をや。
 予定どおり、次の読書のベースは、自称ハイエキアンの憲法学者・阪本昌成のリベラリズム/デモクラシー(勁草書房)になる。

0115/中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)はあと70頁。

 勝谷誠彦は<さるさる日記>の2006年12/12にこう書いていた。
 「私はこの国は小泉政権からタライの中を水がザブンザブンと行ったり来たりするようなメディアが囃すと馬鹿踊りが始まる衆愚政治時代に入ったと思っている。
 これを読んで一瞬に感じたのは、では小泉政権以前の時代は「衆愚政治時代」ではなかったのか、とっくに「衆愚政治」だったのではないか、ということだった。森首相、小渕首相、橋本首相…、どの時代であれ、民主主義とは極論すればつまりは衆愚政治のことではないのか。
 民主主義は衆愚政治に陥る危険があるという言い方もされるが、民主主義(デモクラシー)、すなわち直訳すれば大衆(民衆)支配政治(体制)とは、「大衆(民衆)」が全体として賢くなく愚かであれば、もともとの意味が「衆愚政治」のことなのだ。
 こんなことを書くのも、中川八洋・保守主義の哲学(PHP)の影響だろう。民主主義と平等主義とが結合するとき、「多数者の専制」(バークの語)となる。「多数者」の判断が誤っていれば、少数者にとっては我慢できない圧政となる。
 トクヴィルはこう言ったという。「デモクラシー政治の本質は、多数者の支配の絶対に存する」。また、中川によれば、デモクラシーを「専制」又は「暴政」と捉えるのは、「英米とくに米国では普通」のことだという。
 民主主義を最高の価値の如く理解している日本人も多いのかもしれないが、多数の(過半数の)者が支持した決定は相対的には合理的なことが多いだろうという程度のことにすぎず、少数者の判断の方がより合理的でより正しい可能性は客観的にはつねに残されている(何がより合理的でより正しいかを決定するのがそもそも困難なのだが)。
 民主主義という「多数者の専制」を排するために存在するのが、国民により「民主的」に選出された代表が構成する議会の「民主的」な決定(法律の制定等)も憲法には違反できないという意味で、憲法だ。
 憲法は民主主義と対立する、それを制約する価値を秘めてもいることを理解しておいてよいだろう。
 民主主義なるものを最高の価値の如く理解していけないのは、民主主義の名のもとに、「人民の名」による圧政が現実にあったし、今でもあることでも判る。社会主義・東ドイツの国名はドイツ「民主」共和国だったし、北朝鮮の国名は朝鮮「民主主義」人民共和国だ。
 民主主義と平等原理が結合するとき、容易に社会主義への途を開くことにもなる。日本共産党系の大衆団体が「民主」の名を冠していることが多いのも理由がある。民主主義文学者同盟(機関誌は「民主文学」?)、民主青年同盟(民青)、全国民主医療機関連合会(民医連)、民主商工会…。日本共産党が民主主義の徹底を通じて社会主義へという途を展望しているのは、周知のことだろう(日本共産党を支持する多数派の形成は容易に同党の「多数」の名による=「民主主義」の名による一党独裁を容認することになろう)。
 フォン・ハイエクの有名な著は隷従への道(東京創元社)だが、中川によると、このタイトルは「デモクラシーの全体主義への転換」を論じるトクヴィルの次の文章に由来するのだという(p.277)。
 「平等は、二つの傾向をうみ出す。第一の傾向は、…突然に無政府状態になることがある。第二の傾向は、…もっと人知れず、しかし確実な道を通って人々を隷従に導く」。
 なお、ここでの「隷従」状態とは、トクヴィルやハイエクにおいて、「全体主義」の支配を意味する。そして、「全体主義」とは共産主義又はファシズムのことだ。
 安倍首相が、「人権、自由、民主主義、法の支配」の<価値観外交>を進めてよいし、中国との関係では進めるべきなのだが、上の4つの全てについて、~とは何かという厳密な議論が必要であり、現に議論されてもきている。
 中川八洋の具体的な主張には賛成し難い点もあるのだが、読了まであと70頁ほどになった彼の本が、知的刺激に満ちていることは間違いない。

0017/民主主義は本質的に、民衆とメディアを俗悪化させ、政治を腐敗させる。

 「民主主義」に特段の大きな疑問を持たなかった頃は、選挙の際の投票率は民主主義の成熟度、日本人の政治的成熟度を示すもので、例えばドイツと比べてのその低さは日本人の「未熟さ」を示していると思えて、嘆きたい気分があった。だが、昨日も言及した中川八洋の本を読んで、少しは変わった。長谷川三千子の新書・民主主義とは何なのか(文春新書、2001)でも知ったのだったが、民主主義はもともとは悪いイメージの言葉だった。すなわち、デモ・クラツィアとは<正しい判断のできない愚弄な大衆の支配>が元来の語義で、排斥されるべきものだった(中川は「民主主義」との訳は誤りで、イズム=主義ではなく「民主制」又は「民衆参加政治」が正しい旨を書いているが恐らくその通りだ)。だが、良きものとして民主主義が採用された以上、「衆愚政治」になる可能性があるのはその本質上明らかなことだ(単なる危険・逸脱ではなく、民主主義の理念そのものが内包している)。
 可能性どころか、現実にすでにそうなっているともいえる。私は小泉純一郎に好悪いずれの感情も持たないのだが(むろん宮本顕治・不破哲三よりは好感をもつが)、一昨年の小泉自民党圧勝は「正しい判断のできない愚弄な大衆」の感情をたまたま?巧く掴んだ者たちの勝利だった、というのは完全な間違いだろうか。
 中川八洋の本p.312-3は平等主義と結合している民主主義は本質的に、大衆を、そして大衆を相手とする「ジャーナリズム界」を「俗悪化」させる、と説く。全面的に誤った指摘では少なくともないだろう。
 もう少し詳しく正確に引用するとこうだ。-「デモクラシーは平等な教育と門地による差別の完全撤廃を伴うから(大学などの)高等教育機関や(新聞・テレビの)ジャーナリズム界につねに「大衆」そのものの疑似知識層を大量に輩出させる」。「これにより…国民全体の精神を野卑の方向に大幅に低下させる教育と煽動がさらに行われるので、俗悪化はますますひどくなる」。「これらの疑似知識層は「大衆」の精神を昂めず逆に卑しくさもしい欲望のみを刺激し、煽動する」。「これらの疑似知識層こそ…あたかも向上の道を説くかの演技(スタイル)をしつつ、心底ではみずから個人の利己一点張りで…、政治の品格をより下降せしめる。また、彼らには公共心は欠如して存在しておらず、現に彼らの「主張」は、…政治を、必ず腐敗に導く働きしかしていない」。
 確認しておけば、ここでの「大衆」から生まれた「疑似知識層」とは、大学等や新聞・テレビ等に「巣くっている」教員やジャーナリストだ。
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