一政治学者・大学教授の理解としても興味深いが、現在の防衛大学校長のそれでもあるとなると、重要度は増すだろう。
五百旗頭真(1943-、元神戸大学教授)・日米戦争と戦後日本(講談社学術文庫、2005)は、日本国憲法の制定経過・内容的評価等について、以下のように叙述している(要約・抜粋する)。
・ポツダム宣言第10項(「民主主義的傾向」への「障碍」の「除去」)は日本政府に「憲法改正の責務を負わせた」と「考えられた」(p.218)。
さっそく挿むが、「考え」た主体は誰なのか? またそもそもポ宣言による新憲法制定(明治憲法改正)の「責務」化という認識・解釈は正しいのだろうか。少なくとも日本側から積極的に憲法改正を言い出したのではない。1945年秋に有力な日本の憲法学者は<憲法改正不要>論だったことはすでに書いた。
・マッカーサーも上の考えに沿って「日本政府に改正作業を命じた」。日本政府による<自主的>対応という外見が日本国民の将来の支持のために必要との考えもあった。しかし、マッカーサーはソ連等を含む極東委員会の介入を嫌い、また幣原内閣下での松本烝治委員会案も意に添わなかったため、1946.02.03に「マッカーサー三原則」を示して民政局に憲法草案の作成を命じ、同局は「合宿状態の突貫作業」で02.13に草案を「完成」した。この草案をマッカーサーは日本政府に示し、「戦争放棄」を含む草案受諾は「天皇制」存続に効果的だ旨を述べた(p.219-220)。
・幣原首相・吉田茂外相等は「抵抗を試みた」が02.22に「結局受け入れ」、03.06に「憲法改正草案要綱」を発表、04.17に「口語体・ひらがな書き」の「憲法改正草案正文」を発表した。
ここで以下を挿む。これ以降、議会での審議が始まったわけだが、衆議院を構成するこの当時の衆議院議員の選挙は1946.04.10に行われている(五百旗頭p.213)。従って、この総選挙(戦後第一回)の時点で有権者や立候補者が知っていた(又は知り得た)のは条文の形をとっていない「改正草案要綱」にすぎなかった。また、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)は、憲法改正案の是否はこの総選挙の主要な争点ではなかった旨を叙述している(すでにこの欄に記したことがある)。
・「この日本国憲法案が発表されると、国民は熱く歓迎した」(p.221)。「事実関係から言えば押しつけ」だが、「日本政府は〔明治憲法が定める〕正規の手続によってこの案を検討・修正のうえ、決定した」。「さらに、この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」(p.222)。
上に挿んだように、日本国民は「日本国憲法案」なるものは「草案要綱」しか知り得ていないし、岡崎久彦によれば04.10総選挙での主要な争点にもならなかった。にもかかわらず、五百旗頭真は、いかなる実証的根拠をもって、「日本国憲法案」の発表を「国民は熱く歓迎した」とか、「この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである」とかと、自信をもって?書けるのだろうか。
五百旗頭真の頭の中での<物語>の創出にすぎないのではないか、との疑問が湧く。
・「壮大なフィクションとしての『大東亜共栄圏』や『八紘一宇』などに狂奔した」のは「どんなに空しかったか」。「貧しくても、平和で公平な社会を再建したい-という気持ちが、戦後の日本国民には非常に強かった。少なくとも、もう一度武器をとることだけはごめんだ、というのが国民の広範な願いだった。それだけに…日本国憲法に対しては、これこそわれわれが望んでいたものだった、という反応が強かった」(p.222)。
この文章は、<歴史>の叙述なのだろうか。<歴史>が究極的には<物語>たらざるをえないとしても、あまりにも五百旗頭の<主観>に合わせて作られた<物語>にすぎるのではないか。日本国憲法施行時に3~4歳にすぎなかった五百旗頭は、何をもって、「戦後の日本国民」の気持ち・「国民の広範な願い」・「望んでいたもの」を、上のように自信をもって?書けるのだろうか。不思議でしようがない。現憲法を「正当」視するために、後から考えた(<後づけ>的な)一種の<こじつけ>に近いのではなかろうか。
・「国民は日本国憲法を歓迎した。その意味で『押しつけ憲法論』は一面的であり、経緯はともかく、内容的には国民の意に反するものでなかったことを忘れてはならない」(p.223)。
国民による「歓迎」(<受容)を理由として「押しつけ」論は「一面的」だと批判し、「経緯はともかく、内容的には」国民の意思に反していなかった、と述べる。かかる論理づけは、日本国憲法の制定過程とその(とくに内容の)評価について、<左翼>憲法学者たちが述べていることと全く同じだ。この五百旗頭という人物は、紛れもなく、現憲法=「戦後民主主義」まるごと擁護の立場に立つ、その意味で<進歩的な=左翼的な>、現在までの<体制派>のど真ん中にいる人だ。この人が現在の防衛大学校長?! 悪い冗談を聞くか、悪夢を見ている気がする。
・「日本国憲法は成立のいきさつが押しつけであるから我慢できぬ、民族の誇りが許さぬという『押しつけ憲法』論に対して、その…憲法下で自然に育った世代は、どこがいけないのかと考える」。参議院の弊害等の「具体的弊害」を言うならよいが、「そもそも憲法をご破算にしなければならないなどという議論は、いいかげんに大人になって卒業したらどうか、と諫〔いまし〕めたくなる性質のものである」(p.223-4)。
この文章はかなりひどい。冷静な「大人」の文章ではない。
「憲法をご破算にしなければならないなどという議論」とは何を意味させているのだろう。改憲論(現憲法改正論)一般を意味させているとすれば、五百旗頭の主張が成り立つ筈がない。100年後も200年後も、現憲法を「護持」していなければならない筈がない。
現憲法「無効」論を意味させているとすれば、現在の改憲論(現憲法改正論)の大勢は、現憲法を「無効」と考えてはいないのだから、間違った、的外れの批判をしていることになる。
肝心の「ご破算(にする)」の意味が不明なのだから、困った文章だ。参議院制度等の「具体的」 問題を論じるのはよいようだが、五百旗頭において、「具体的弊害」の問題と<基礎的・一般的>弊害の問題とはどのように区別されているのだろう。例えば、現憲法九条(とくにその第二項)の削除の可否は、いったいどちらの問題なのか??
今では60歳代の半ばになる五百旗頭真は、単純素朴な日本国憲法観から、少しは「大人になって卒業したらどうか、と諫めたくなる」。こうした五百旗頭真の叙述・議論に比べて、佐伯啓思の日本国憲法論の方がはるかに奥深いし、自主的で冷静な思索の存在を感じさせる。五百旗頭は、つまるところ、アメリカ(GHQを含む)が行ったこと、関与したことを非難できない、批判しない、そういう心性が堅く形成されてしまっている人物なのではないか、というのが一つの仮説だ。
幣原喜重郎
私の憲法に関する「立ち位置」は、今のところという留保を慎重に付けてはおくが、安倍晋三首相と同じだ。
自民党案に全面的に賛成するわけではなく、「9条の2」というような<枝番号>付きの条項を挿入しないで、新たに条数は振り直すべきだと思うし、その他にも気になる改正条文案はある。
しかし、今の日本国憲法を有効な憲法と見つつ、その改正(とくに九条)を希望し、主張する点では、安倍首相と何ら異ならない。
改憲に賛成するのは、現在の国際状況も理由の一つだが、また現憲法の「成り立ち」にはかなり胡散臭いところがあるからでもある。安倍首相はしばしば、現憲法は「占領下」に作られた、憲法を「自分たちの手で書きあげる」といったフレーズを用いているが、推測するに、主権が大きく制限されていた時期に作られた憲法には(無効とまでは言わないにしても)そのこと自体に大きな問題があることを示唆しているように思う。
このような基本的考え方は、おそらく、(勝手に名を出して恐縮だが)八木秀次、百地章らの(少数の?)憲法学者とも共通しているだろう。本を読んだことがないのだが、西修も挙げてよいかもしれない。それに、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の多数の方とも同様だろう。
というわけで、私はとりあえずは自分の「立ち位置」を全く疑っていない(かかる「立ち位置」を「日本国憲法」無効論の立場から批判したい者は、私などよりも、八木秀次、百地章、櫻井よしこ、中西輝政、岡崎久彦等々の各氏、さらには現憲法の有効性を前提として改正案をとりまとめた自民党、憲法改正国民投票法案に賛成している自民党等の国会議員全員、そして安倍晋三首相・安倍内閣閣僚全員を「攻撃」していただきたい)。
かかる「立ち位置」に反対で、九条を護持しようとするのが日本共産党が重視している「九条の会」等だが、立花隆も九条護持論者だ。
立花隆は、日経BPのサイト内に4/14付の「改憲狙う国民投票法案の愚/憲法9条のリアルな価値問え」と題するやや長い論稿を掲載している。
もっとも7分されているうちの6までは、九条発案者は幣原喜重郎かマッカーサーかという問題にあてられ、幣原発案説に傾斜したかの如き感想を述べつつ、自ら長々と書いたくせに「私はそのような議論にそれほど価値があるとは思わない」、「いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく…」と肩すかしを食わせている。
そして最後の7/7になってようやく「憲法9条のリアルな価値問え」という本論が出てくるのだが、その全文はこうだ。
「9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである。/そして、9条をもちつづけたほうが日本という国家の未来にとって有利なのか、それともそれをいま捨ててしまうほうが有利なのかを冷静に判断することである。/私は9条があったればこそ、日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だったと思っている。/9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。あるいは、かつてのソ連ないし、かつての中国ないし、北朝鮮といった日本を敵視してきた国家の侵略を受けていただろう。/9条を捨てることは、国家の繁栄を捨てることである。国家の誇りを捨てることである。9条を堅持するかぎり、日本は国際社会の中で、独自のリスペクトを集め、独自の歩みをつづけることができる。/9条を捨てて「普通の国」になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである。」
この文章は一体何だろう。最後の最後になって、結論だけを羅列し、その根拠、論拠は一切述べていないではないか。これでよく「評論家」などと自称できるものだ(「知の巨人」なんてとんでもない。末尾の、異見者への「ただのオロカモノ」との蔑言も下品だ)。
過日、九条のおかげで平和と繁栄を享受した旨の呉智英の産経上のコラムを、中西輝政の議論を参照・紹介して批判したことがあるが、かつて「知の巨人」だったらしい立花隆も、平然と(かつ根拠・論拠を何ら示すことなく)「9条があったればこそ」、「苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた…」と書いている。かかる九条崇拝?はどこから出てくるのだろう。
かつて書いたことを繰り返さないが、カッコつきの「平和」と「繁栄」は憲法九条ではなく、日米安保条約、それも米軍が持つ核兵器によって生じ得た、というのが「リアルな」認識だと思われる。
立花氏はまた奇妙な文も挿入している。-「9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。」
この文の意味と根拠を、どこかで詳論して欲しいものだ。私にはさっぱり理解できない。
ともあれ、九条二項の削除を含む憲法改正を実現するためには、立花隆氏のこのような議論?を克服していく必要がある。また、影響力のある論者が書いていることには注意を向けていなければならない。
毎日新聞の4/26付社説は、集団自衛権行使不可との憲法九条解釈によってこそ「戦後、日本は戦争に巻き込まれず平和を守ることができたという主張は根強い」と書いている。これは憲法九条自体ではなくその「解釈」にかかわることだから、立花隆の論よりはまだマシだ。
それに同社説は、「一方でこの制約は日米安保体制や国際貢献活動の上で、阻害要因になっているという指摘がある」と続けていて、立花隆の論調よりもはるかに冷静で公平だ。
「首脳会談で集団的自衛権の解釈変更や憲法改正が対米公約になるような踏み込んだ発言は慎んでもらいたい」とも書いているが、かかる指摘自体に大きな問題があるとは思われず、某朝日新聞の社説に漂う「やや狂気じみた」、又は「奇矯で、感情的な」雰囲気と比べれば、少なくともこの社説は、遙かに良い。
朝日新聞がこの程度まで「冷静に」又は「大人に」なってくれればいいのだが(…だが、無理だろう)。
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