すでに多少は触れたが、佐伯啓思・大転換(NTT出版)における、日本の「構造改革」とハイエクとの関係等についての叙述。
 ・「ハイエクの基本的考え方と、シカゴ学派のアメリカ経済学の間には、実は大きな開きがある」。
 ・たしかに「ハイエクは市場競争の重要性を説いた」。その理由は「市場は資源配分上効率的」、「消費者の満足を高める」、ではない。
 ・理由の第一は、「市場制度は…自然発生的に生成し、自生的に成長していく…。だからそれを政府が無理にコントロールしたり、造り替えたりすることはできない」ということ。市場は「自生的に成長する」ために「耐久力をもち、安全性を備えている」。この点で「市場は優れている」というのがハイエクの一つの論点だった。
 ・市場はただ人々の自己利益追求の交換場所ではなく「法や慣習といったルールに守られた制度」で、「人々が信頼できるだけの安定性」をもつ。「公正価格」・「適正価格」という「社会的・慣行的」なものも「制度」に含まれる。従って政府が市場を「意のままにコントロール」したり「急激に改変」しようとすれば背後の「制度や慣行」にまで手をつけざるをえない。それは「市場経済を不安定化」する。政府は市場への「無理な介入」をすべきではない。
 ・要するにハイエクの「市場経済擁護論」は「市場経済は長持ちのする信頼に足る制度」だとの主張で、それを「自生的秩序」と呼んだ。ハイエクのいう「市場」とは「市場競争システム」ではなく「市場秩序」だった。
 ・第二の理由は、「市場秩序」は「社会全体についての情報を必要としない」ことだ。人々は本質的に限られた情報しか持てず「社会全体や経済全体」の情報を持たないし関心もない。従っていかに「合理的」に行動しても「合理性」の程度には限界がある。
 ・市場は「自分にしか」関心がない者が集まっても「何とかうまくゆくようにできている」。「ルールや制度も含めて」「慣性的な安定性」をもち、特定の人間・グループが「市場を大きく動かす」ことはない。
 ・人々は「自分にかかわる」知識・情報をもち「非合理的に行動」してよい。「システム全体についての合理的な知識」は不要で、「多少誤ってもよい」「局所的知識」で十分だ。
 ・要するに、市場は「いささか非合理的で誤りうる人間」が活動しても「決してゆらぎはしない」。それは、「人々の情報や知識が限定」され「間違うかもしれない」との前提に立つ。これも「市場秩序」が優れている理由だ。
 ・以上がハイエクの「市場擁護論」で、フリードマンらの論と「かなり違っている」。
 ・経済学者は通常、「資源配分上、効率的」、「消費者の効用を最大限」化する、その場合人々は「合理的に行動し」「システム全体についての合理的な知識」すら持つに至る、と「市場を擁護する」。ハイエクはそうは言わない。彼にとって「市場秩序が優れている」のは信頼できる「自生的秩序」として「安定している」からだ。「自生的秩序」としての市場は、人々の誤りや非合理性からの「ゆらぎ」を「うまく吸収」してしまう「安定性」を持つ、とするのだ。
 ・だからハイエクは、「自然に歴史的に生成してきた秩序」を破壊し「新たにシステムを設計」できるとの「設計主義」(constructivism)を「痛烈に批判する」。その際にハイエクは「社会主義のような計画経済」を想定したが、「構造改革」も、ハイエクからすれば「一種の設計主義」だろう。
 ・「経済的利益追求」の背後には「広い意味でのルールの体系、…制度や法や慣行」があり、人々はじつはそれを「頼りに行動」している。これこそがハイエクにとっての「重要な点」だ。従って、既成の「制度や慣行をいきなり変更する」ことは「自生的秩序」を破壊することで、システムの合理的設計という「設計主義」と同じだ。それは「市場秩序への人々の信頼感を損なう」と、かかる「理性万能主義」をハイエクは攻撃した。
 ・とすると、「ある国の経済制度や慣行を一気に破壊して、合理的な経済システムに変更」すべきとの「構造改革」は「ハイエクの精神」と対立している。かかる「合理的な設計的態度こそ」ハイエクが嫌悪したものだ。
 ・シカゴ学派経済学とハイエクは「基本的なところでまったく違っている」。「フリードマンとハイエクを同列に置くことはできない」。
 以上、p.185-8。
 「意のままにコントロール」、「急激に改変」、「いきなり変更」、「一気に破壊」という場合の「意のままに」、「急激に」、「いきなり」又は「一気に」か否かは容易に判別できるのか、という疑問も生じるが、とりあえず、趣旨は理解できる。