Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
————
第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力②。
(08) そうしているうちに、私的部門は急成長した。
考え得る全ての物品を、とりわけ食料品を、売買した。
戦時共産主義のもとで非農業国民が消費した大量の食糧は、国家の販路ではなく、自由市場から来ていた。
1918年9月、ボルシェヴィキ体制は、1.5 pud(25キログラム)までの穀物を市場に持ち込み、市場価格で販売することを農民に認めるのを余儀なくされた(注112)。
この<polutorapudniki>あるいは「1.5 puder」は、都市部で消費されるパンと農産物の大部分の取引を占めた。
1919-20年の冬に実施されたソヴィエトの統計調査によると、都市住民は彼らのパンの36パーセントだけを国家の販路から入手していた。
その調査が責任逃れ的に述べるように、残りは「別の出所から」取得していた(注113)。
1919-20年の冬にロシアの都市部で消費された全ての食料品(穀物、野菜、果物)のうち、カロリー価で測って、自由市場は66〜80パーセントを提供した、ということが確認されている。
田園地域では、「消費者共同体」によって提供された食品の割合は、たった11パーセントにすぎなかった(注114)。
--------
(09) 1920年の春にロシアを訪れた外国人は、ほとんど全ての店舗が閉店している、あるいは板囲いで閉鎖されていることに気づいた。
あちらこちらで小さな店が、衣類、石鹸その他の消費用品を売るために開いたままだった。
Narkomprod(供給人民委員部)の店舗はほとんどなく、あっても遠く離れていた。
一方で、違法な路上取引がにわかに流行していた。
「モスクワは生きている。
だが、一部は配給品で、一部は稼いだ金で生きている。
大部分は、モスクワは、闇市場で生計を立てている。行動的に、そして受動的に。
闇市場で売り、闇市場で買っている。むさぼり儲ける、むさぼり儲ける、…。
----
モスクワでは、貨幣はあらゆる物でできている。あらゆる物が闇市場で取引される。ピンから乳牛まで。
家具、ダイアモンド、白いケーキ、パン、肉、あらゆる物が闇市場で売られている。
モスクワのSukharevka 地域は闇市場の商店街で、闇市場の大店舗だ。
ときどき警察が急襲を実行する。しかし、警察は闇市場を抑圧しない。
闇市場は増殖するヒドラで、1000本の手を持って再出現する。
----
モスクワには自由市場がある。多くは役所から黙認された市場で、補完のための市場で、高級品用の市場だ。
例えば、劇場広場の近くには補充用市場があり、きゅうり、魚、ビスケット、卵、あらゆる種類の野菜を扱っている。
これは長い歩道上の大騒ぎだ。
歩道の角には小部屋がある。商売人がうずくまり、商売人の囁きが買い手の耳に入る。
----
一本のきゅうりは200-250ルーブル、一個の卵は125-150ルーブルする。
他の品物はそれぞれに対応する値段だ。
西ヨーロッパの通貨、とくにドルに変えられることは多くない。
モスクワに滞在していたあいだ、通貨相場師は1ドルに対して1000ボルシェヴィキ・ルーブルを支払った。
あるアメリカ人は3000ドルを900万ボルシェヴィキ・ルーブルと交換した、と聞いた。
思惑買いは禁止されている。…
だが、流通貨幣での投機がある。
利潤はあらゆる物にあり、当然に貨幣についてもある。…
----
利潤稼ぎ、闇商売。退蔵は作業の邪魔になる。
利潤稼ぎは働き手の精神だ。
働いている間に儲け、働くべき間に儲ける。」(注115)
----
売り手の多くは、軍服を処分している兵士だった。このことが、この時期に多くのモスクワ市民が軍服を着て現れていた理由だった(注116)。
高貴な淑女たちを、見ることができた。彼女たちは、かつての幸福な時代の個人的な品物を、歩道に自意識が強そうに立って、販売していた。
--------
(10) 「小生産者の不屈の頑固さによる商品経済の方法についての強い主張」は、あるソヴィエトの経済学者が自由市場の活力について叙述したように(注117)、分配を独占しようとする政府の全ての努力を打ちのめした。
私的取引の禁止を厳格に実施すれば全都市住民を餓死させることになる、そういう馬鹿げた状況の中にいることを政府は知った。
1920年初めのソヴィエトの経済関係出版物は、私的(「投機的」)市場が国家の供給システムを犠牲にして、かつその助けを借りて繁茂していることを、痛ましくも認めた。
その書物はこう書いた。
「我々が直面する現在の経済の現実のうち最も衝撃的な矛盾の一つは、「モスクワ・ソヴェトの雑貨店」、「書店」等々の看板を掲げたソヴィエトの店舗のガラ空きさと、Sukharevka、Smolensk 市場、Okhotonyi Riad、その他の投機的市場の中心地の間の著しい差異だ。
[後者にある物品の]出所はもっぱらソヴィエト共和国の倉庫で、犯罪的経路を通ってSukharevka まで届いている」(注118)。
私的部門がこうも力強くなったので、政府が1921年についに現実に直面して、(一時的に)新経済政策(NEP)のもとで取引の独占を諦めたとき、それは既成の現状(status quo)を追認しただけだった。
E. H. Carr は、こう書く。
「一定の事項については、NEP は、戦時共産主義のもとで、政府の抑圧を前にして、政府の諸布令に抵抗して自発的に成長した取引に対して行なった、制裁の手段に他ならなかった」(注119)。
————
第八節(「反労働者立法」)へとつづく。
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
————
第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力②。
(08) そうしているうちに、私的部門は急成長した。
考え得る全ての物品を、とりわけ食料品を、売買した。
戦時共産主義のもとで非農業国民が消費した大量の食糧は、国家の販路ではなく、自由市場から来ていた。
1918年9月、ボルシェヴィキ体制は、1.5 pud(25キログラム)までの穀物を市場に持ち込み、市場価格で販売することを農民に認めるのを余儀なくされた(注112)。
この<polutorapudniki>あるいは「1.5 puder」は、都市部で消費されるパンと農産物の大部分の取引を占めた。
1919-20年の冬に実施されたソヴィエトの統計調査によると、都市住民は彼らのパンの36パーセントだけを国家の販路から入手していた。
その調査が責任逃れ的に述べるように、残りは「別の出所から」取得していた(注113)。
1919-20年の冬にロシアの都市部で消費された全ての食料品(穀物、野菜、果物)のうち、カロリー価で測って、自由市場は66〜80パーセントを提供した、ということが確認されている。
田園地域では、「消費者共同体」によって提供された食品の割合は、たった11パーセントにすぎなかった(注114)。
--------
(09) 1920年の春にロシアを訪れた外国人は、ほとんど全ての店舗が閉店している、あるいは板囲いで閉鎖されていることに気づいた。
あちらこちらで小さな店が、衣類、石鹸その他の消費用品を売るために開いたままだった。
Narkomprod(供給人民委員部)の店舗はほとんどなく、あっても遠く離れていた。
一方で、違法な路上取引がにわかに流行していた。
「モスクワは生きている。
だが、一部は配給品で、一部は稼いだ金で生きている。
大部分は、モスクワは、闇市場で生計を立てている。行動的に、そして受動的に。
闇市場で売り、闇市場で買っている。むさぼり儲ける、むさぼり儲ける、…。
----
モスクワでは、貨幣はあらゆる物でできている。あらゆる物が闇市場で取引される。ピンから乳牛まで。
家具、ダイアモンド、白いケーキ、パン、肉、あらゆる物が闇市場で売られている。
モスクワのSukharevka 地域は闇市場の商店街で、闇市場の大店舗だ。
ときどき警察が急襲を実行する。しかし、警察は闇市場を抑圧しない。
闇市場は増殖するヒドラで、1000本の手を持って再出現する。
----
モスクワには自由市場がある。多くは役所から黙認された市場で、補完のための市場で、高級品用の市場だ。
例えば、劇場広場の近くには補充用市場があり、きゅうり、魚、ビスケット、卵、あらゆる種類の野菜を扱っている。
これは長い歩道上の大騒ぎだ。
歩道の角には小部屋がある。商売人がうずくまり、商売人の囁きが買い手の耳に入る。
----
一本のきゅうりは200-250ルーブル、一個の卵は125-150ルーブルする。
他の品物はそれぞれに対応する値段だ。
西ヨーロッパの通貨、とくにドルに変えられることは多くない。
モスクワに滞在していたあいだ、通貨相場師は1ドルに対して1000ボルシェヴィキ・ルーブルを支払った。
あるアメリカ人は3000ドルを900万ボルシェヴィキ・ルーブルと交換した、と聞いた。
思惑買いは禁止されている。…
だが、流通貨幣での投機がある。
利潤はあらゆる物にあり、当然に貨幣についてもある。…
----
利潤稼ぎ、闇商売。退蔵は作業の邪魔になる。
利潤稼ぎは働き手の精神だ。
働いている間に儲け、働くべき間に儲ける。」(注115)
----
売り手の多くは、軍服を処分している兵士だった。このことが、この時期に多くのモスクワ市民が軍服を着て現れていた理由だった(注116)。
高貴な淑女たちを、見ることができた。彼女たちは、かつての幸福な時代の個人的な品物を、歩道に自意識が強そうに立って、販売していた。
--------
(10) 「小生産者の不屈の頑固さによる商品経済の方法についての強い主張」は、あるソヴィエトの経済学者が自由市場の活力について叙述したように(注117)、分配を独占しようとする政府の全ての努力を打ちのめした。
私的取引の禁止を厳格に実施すれば全都市住民を餓死させることになる、そういう馬鹿げた状況の中にいることを政府は知った。
1920年初めのソヴィエトの経済関係出版物は、私的(「投機的」)市場が国家の供給システムを犠牲にして、かつその助けを借りて繁茂していることを、痛ましくも認めた。
その書物はこう書いた。
「我々が直面する現在の経済の現実のうち最も衝撃的な矛盾の一つは、「モスクワ・ソヴェトの雑貨店」、「書店」等々の看板を掲げたソヴィエトの店舗のガラ空きさと、Sukharevka、Smolensk 市場、Okhotonyi Riad、その他の投機的市場の中心地の間の著しい差異だ。
[後者にある物品の]出所はもっぱらソヴィエト共和国の倉庫で、犯罪的経路を通ってSukharevka まで届いている」(注118)。
私的部門がこうも力強くなったので、政府が1921年についに現実に直面して、(一時的に)新経済政策(NEP)のもとで取引の独占を諦めたとき、それは既成の現状(status quo)を追認しただけだった。
E. H. Carr は、こう書く。
「一定の事項については、NEP は、戦時共産主義のもとで、政府の抑圧を前にして、政府の諸布令に抵抗して自発的に成長した取引に対して行なった、制裁の手段に他ならなかった」(注119)。
————
第八節(「反労働者立法」)へとつづく。



























































