Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第二節/”左翼共産主義”構想の実行。
(01) ブハーリンは左翼共産主義派の指導者だった。ブレスト条約をめぐって敗北した後では、レーニンの国家資本主義に対する反対の立場を採った。
左翼共産主義の主要な理論家はValerian Obolenskii で、その筆名から、N. Osinskii の方がよく知られていた(脚注)。
1987年に急進的信条をもつ獣医の子として生まれ、20歳の年にボルシェヴィキに加入した。
ドイツで1年間、政治経済学を研究した。このことで、彼の胸のうちでは、経済問題、とくにロシアの農業に関して執筆する資格を得たつもりになった。
十月のクーの後ですぐに、ボルシェヴィキによって、国立銀行の理事長に任命された。この役職を彼は1918年3月まで務め、ブレスト条約の締結に抗議して辞任した。
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(脚注) N. Osinskii につき、Granat, XLI, Pt. 2, p. 89-98.
1938年に(ブハーリンとともに)疑似裁判を受け、レーニン暗殺を図ったとしてその後直ぐに射殺された。Robert Conquest, The Great Terror (New York, 1968), p.398-400.
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(02) Osinskii は、1918年の夏に<社会主義の建設>を執筆し、秋に出版した。この書物こそが、戦時共産主義の青写真を提供した(注25)。
彼が明確にしたように、ボルシェヴィキ体制の経済に関する課題には、つぎの三つがある。すなわち、資本主義経済の「戦略的地点」の統制権の掌握、その内部にある非生産的要素の排除、国家全体の総合経済計画の策定。
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(03) 彼はHilferding に従って、「資本主義の脳」である諸銀行の掌握を優先すべき課題の第一と考えた。
銀行は、社会主義経済の交換代理機関へと転換されなければならない。
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(04) 第二は、大小を問わず、工業および農業生産の手段である私有財産の国有化だった。
これは、財産の権原の法的な移行だけではなく、労働者がその地位を受け継ぐべき、従前の所有者や経営者という人間の排除をも意味した。
この措置は資本主義の心臓部を攻撃するものであり、同時に、適切な資源の配分を通じて生産を合理化するのを可能にする。
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(05) 第三の段階である商業の国有化は、最も困難だった。
政府は、全ての商業シンジケートと大規模の会社を掌握するだろう。
卸売り取引を独占することによって、商品の価格を設定するだろう。やがては、全ての商品が、できれば無料で、国家機関によって分配される。
自由な市場の廃絶は、不可欠の措置だ。
「市場は、資本主義から継続的に滲み出る、細菌感染症の病巣だ。
社会的交換の機構を支配することで、投機、新しい資本の蓄積、新しい所有者の出現が排除されるだろう。…
全ての農業生産物を適切に独占すれば、一ポンドの穀物でも、一バッグの馬鈴薯でもこっそりと<販売する>ことが禁止される。そして、別々の村落農業を継続するのを完全に無意味にするだろう。」(注26)
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(06) 第四は、小売り取引の廃絶だ。
義務的な消費者共同組織は、まず第一に必要な物品についての独占を行なう。
この仕組みは投機と「怠業」をなくし、資本主義者から利益の淵源を奪うことになる。
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(07) 最後に、強制労働の導入が必要だ。
これの指導原理は、単純だ。すなわち、「労働官署によって割り当てられた労働を拒む権利を、いかなる者も有しない」。
強制労働は、当面は、 手に余剰がある田園地域では必要ない。だが、都市部では、不可欠だ。
この制度のもとでは、「労働義務は人々を労働を強いる手段になる。そしてこれは、易しく言えば、飢餓による死の恐怖を意味した、かつての「経済的」刺激にとって代わる。
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(08) 政治的および経済的理由で、経済は、一部は資本主義を基盤とし、一部は社会主義のそれ、ということはあり得ない、というのは、Osinski の構想の根本的な前提だった。明確な選択がなされなければならない。
そうであっても、彼はレーニンに従って、自分のこの経済綱領を、「社会主義」や「戦時共産主義」ではなく、「国家資本主義」と呼んだ。
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(09) 左翼共産主義者の経済綱領は、党員、労働者、やがて新しい利益集団を形成する労働者支配の受益者から、強い支持を得た。彼らは、いったん掴んだ土地を手離した農民とは違って、1917年に奪取した工場をもう放棄したくはなかった。
左翼エスエルも、この考え方に共感した。
レーニンは懐疑的に見ていたが、屈服せざるを得なかった。ブレストで失った人気を回復させるための代償だった。
1918年6月、のちに詳述する条件で、レーニンは、ロシアの工業の国有化を布令した。
この措置は、レーニンが理解した意味での「国家資本主義」の可能性を終わらせるものだった。
これは、見知らぬ世界への跳躍だった。
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(10) 戦時共産主義の設計者、理論家、実行者たち—Osinskii、ブハーリン、Larin、Rykov、等々—は、経済学という分野についてきわめて表面的な知識しかもっておらず、企業経営の経験もなかった。
彼らの経済に関する知識は、多くは社会主義者の文献から来ていた。
誰も企業を運営したことがなく、製造業や取引でルーブルを稼いだことがなかった。
この実験に関与しなかったKrasin を除いて、ボルシェヴィキの指導者たちは職業的革命家で、ロシアまたは外国の大学での短い期間(ほとんどは政治活動に使われたのだが)以外は、成人以降の全生涯を、監獄の内外または外国逃亡者として過ごした。
彼らを導いたのは、Marx、Engelsおよびドイツの弟子たちの書物から、およびヨーロッパ革命に関する急進的な歴史書から拾い集めた、抽象的な公式だった。
Sukhanov がレーニンについて語ったことは、彼ら全員に当てはまる。
「空想の跳躍への障害を知らない可哀想な騎兵、残酷な実験者、国家行政の全部門についての専門家、その専門の全てに関する素人的好事家」(注27)。
このような類の素人たちが、世界で第五番めに大きい経済を転覆させ、小規模ですらかつて試みられたことのない変革を行なうことを企てることになる。いくぶんかは、1917年10月にロシアの権力を奪取した者たちの判断ではあるが。
このような人々の動きを観察すると、フランスのジャコバンに関するTaine の叙述を想起することができる。
「その原理は、政治幾何学の公理だ。つねに、自らを証明するものを伴っている。というのは、共通幾何学の公理に似て、少数の単純な観念を結合したもので成っており、それをただちに証明するものを自ら自身のうちに含むからだ。…
現実にある人間は、それには関係しない。
それは人間を観察しない。人間を観察する必要がない。
それは閉じた眼で、操作して作った人間の実体に、自分自身の像を押しつける。
この複雑で、多種多様な、揺れ動く実体に関する従前の把握の仕方についての観念は、その頭の中には入ってこない。—この実体は、現在の農民であり、技術職人であり、都市民であり、聖職者や貴族であるが、鋤鍬の背後に、家屋に、店舗に、牧師館に、大邸宅に、凝り固まった信念をもって、執拗な性向をもって、力強い意思をもって、存在している。
こうしたものは一切その心の中に入らず、とどまることもしない。
その思考通路は、抽象的な原理によって遮断される。抽象的原理がそこでは繁茂しており、そこを完全に充たしている。
かりに現実的経験が眼や耳を通じてその心の中に歓迎されざる真実を力ずくで植え込むとすれば、それは生存していくことができない。
どんなに騒々しくしてもまたどれほど強く主張したとしても、抽象的原理によって、追い払われてしまう。…」
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第二節、終わり。
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第二節/”左翼共産主義”構想の実行。
(01) ブハーリンは左翼共産主義派の指導者だった。ブレスト条約をめぐって敗北した後では、レーニンの国家資本主義に対する反対の立場を採った。
左翼共産主義の主要な理論家はValerian Obolenskii で、その筆名から、N. Osinskii の方がよく知られていた(脚注)。
1987年に急進的信条をもつ獣医の子として生まれ、20歳の年にボルシェヴィキに加入した。
ドイツで1年間、政治経済学を研究した。このことで、彼の胸のうちでは、経済問題、とくにロシアの農業に関して執筆する資格を得たつもりになった。
十月のクーの後ですぐに、ボルシェヴィキによって、国立銀行の理事長に任命された。この役職を彼は1918年3月まで務め、ブレスト条約の締結に抗議して辞任した。
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(脚注) N. Osinskii につき、Granat, XLI, Pt. 2, p. 89-98.
1938年に(ブハーリンとともに)疑似裁判を受け、レーニン暗殺を図ったとしてその後直ぐに射殺された。Robert Conquest, The Great Terror (New York, 1968), p.398-400.
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(02) Osinskii は、1918年の夏に<社会主義の建設>を執筆し、秋に出版した。この書物こそが、戦時共産主義の青写真を提供した(注25)。
彼が明確にしたように、ボルシェヴィキ体制の経済に関する課題には、つぎの三つがある。すなわち、資本主義経済の「戦略的地点」の統制権の掌握、その内部にある非生産的要素の排除、国家全体の総合経済計画の策定。
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(03) 彼はHilferding に従って、「資本主義の脳」である諸銀行の掌握を優先すべき課題の第一と考えた。
銀行は、社会主義経済の交換代理機関へと転換されなければならない。
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(04) 第二は、大小を問わず、工業および農業生産の手段である私有財産の国有化だった。
これは、財産の権原の法的な移行だけではなく、労働者がその地位を受け継ぐべき、従前の所有者や経営者という人間の排除をも意味した。
この措置は資本主義の心臓部を攻撃するものであり、同時に、適切な資源の配分を通じて生産を合理化するのを可能にする。
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(05) 第三の段階である商業の国有化は、最も困難だった。
政府は、全ての商業シンジケートと大規模の会社を掌握するだろう。
卸売り取引を独占することによって、商品の価格を設定するだろう。やがては、全ての商品が、できれば無料で、国家機関によって分配される。
自由な市場の廃絶は、不可欠の措置だ。
「市場は、資本主義から継続的に滲み出る、細菌感染症の病巣だ。
社会的交換の機構を支配することで、投機、新しい資本の蓄積、新しい所有者の出現が排除されるだろう。…
全ての農業生産物を適切に独占すれば、一ポンドの穀物でも、一バッグの馬鈴薯でもこっそりと<販売する>ことが禁止される。そして、別々の村落農業を継続するのを完全に無意味にするだろう。」(注26)
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(06) 第四は、小売り取引の廃絶だ。
義務的な消費者共同組織は、まず第一に必要な物品についての独占を行なう。
この仕組みは投機と「怠業」をなくし、資本主義者から利益の淵源を奪うことになる。
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(07) 最後に、強制労働の導入が必要だ。
これの指導原理は、単純だ。すなわち、「労働官署によって割り当てられた労働を拒む権利を、いかなる者も有しない」。
強制労働は、当面は、 手に余剰がある田園地域では必要ない。だが、都市部では、不可欠だ。
この制度のもとでは、「労働義務は人々を労働を強いる手段になる。そしてこれは、易しく言えば、飢餓による死の恐怖を意味した、かつての「経済的」刺激にとって代わる。
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(08) 政治的および経済的理由で、経済は、一部は資本主義を基盤とし、一部は社会主義のそれ、ということはあり得ない、というのは、Osinski の構想の根本的な前提だった。明確な選択がなされなければならない。
そうであっても、彼はレーニンに従って、自分のこの経済綱領を、「社会主義」や「戦時共産主義」ではなく、「国家資本主義」と呼んだ。
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(09) 左翼共産主義者の経済綱領は、党員、労働者、やがて新しい利益集団を形成する労働者支配の受益者から、強い支持を得た。彼らは、いったん掴んだ土地を手離した農民とは違って、1917年に奪取した工場をもう放棄したくはなかった。
左翼エスエルも、この考え方に共感した。
レーニンは懐疑的に見ていたが、屈服せざるを得なかった。ブレストで失った人気を回復させるための代償だった。
1918年6月、のちに詳述する条件で、レーニンは、ロシアの工業の国有化を布令した。
この措置は、レーニンが理解した意味での「国家資本主義」の可能性を終わらせるものだった。
これは、見知らぬ世界への跳躍だった。
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(10) 戦時共産主義の設計者、理論家、実行者たち—Osinskii、ブハーリン、Larin、Rykov、等々—は、経済学という分野についてきわめて表面的な知識しかもっておらず、企業経営の経験もなかった。
彼らの経済に関する知識は、多くは社会主義者の文献から来ていた。
誰も企業を運営したことがなく、製造業や取引でルーブルを稼いだことがなかった。
この実験に関与しなかったKrasin を除いて、ボルシェヴィキの指導者たちは職業的革命家で、ロシアまたは外国の大学での短い期間(ほとんどは政治活動に使われたのだが)以外は、成人以降の全生涯を、監獄の内外または外国逃亡者として過ごした。
彼らを導いたのは、Marx、Engelsおよびドイツの弟子たちの書物から、およびヨーロッパ革命に関する急進的な歴史書から拾い集めた、抽象的な公式だった。
Sukhanov がレーニンについて語ったことは、彼ら全員に当てはまる。
「空想の跳躍への障害を知らない可哀想な騎兵、残酷な実験者、国家行政の全部門についての専門家、その専門の全てに関する素人的好事家」(注27)。
このような類の素人たちが、世界で第五番めに大きい経済を転覆させ、小規模ですらかつて試みられたことのない変革を行なうことを企てることになる。いくぶんかは、1917年10月にロシアの権力を奪取した者たちの判断ではあるが。
このような人々の動きを観察すると、フランスのジャコバンに関するTaine の叙述を想起することができる。
「その原理は、政治幾何学の公理だ。つねに、自らを証明するものを伴っている。というのは、共通幾何学の公理に似て、少数の単純な観念を結合したもので成っており、それをただちに証明するものを自ら自身のうちに含むからだ。…
現実にある人間は、それには関係しない。
それは人間を観察しない。人間を観察する必要がない。
それは閉じた眼で、操作して作った人間の実体に、自分自身の像を押しつける。
この複雑で、多種多様な、揺れ動く実体に関する従前の把握の仕方についての観念は、その頭の中には入ってこない。—この実体は、現在の農民であり、技術職人であり、都市民であり、聖職者や貴族であるが、鋤鍬の背後に、家屋に、店舗に、牧師館に、大邸宅に、凝り固まった信念をもって、執拗な性向をもって、力強い意思をもって、存在している。
こうしたものは一切その心の中に入らず、とどまることもしない。
その思考通路は、抽象的な原理によって遮断される。抽象的原理がそこでは繁茂しており、そこを完全に充たしている。
かりに現実的経験が眼や耳を通じてその心の中に歓迎されざる真実を力ずくで植え込むとすれば、それは生存していくことができない。
どんなに騒々しくしてもまたどれほど強く主張したとしても、抽象的原理によって、追い払われてしまう。…」
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第二節、終わり。



























































