秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

川上徹

1049/「教育」界の「左翼」支配。

 〇石原慎太郎だったか、岡崎久彦だったか、見知らぬ人からこのままで日本は大丈夫なのでしょうかと話しかけられることが多くなったというような旨を昨年あたりに書いていた。
 あえて主観的願望を抜きにした客観的な(と私には見える)状況判断をすると、すでに日本はダメになった、日本はダメになってしまっている、と思える。少なくとも、もはや元に戻れない限界点を超えている、と感じている。つまり、<保守>に勝利の見込みはもはやない。ゆるやかに(緩慢に)わが愛する日本は「日本」でなくなっていっており、その基本的な流れはもはや変えようがない。すでに41年前、三島由紀夫が予見したとおりになっている。
 但し、国内状況はそうだが、中国共産党による中華人民共和国の支配の終焉=社会主義中国の崩壊が辛うじてでも時間的に先にくることがあれば、少しは希望がある。これは、日本国民、日本の政治だけではもうダメだ、ということをも意味する。こんな思いをもって晩年を生きるのは、つらい。
 〇中西輝政のいう、教育・マスコミ・論壇という「三角地帯」のうちの「教育」が「左翼」に支配されていることは明らかで、むしろそれは自然のことかもしれない。
 高校以下の学校教育で教えられているのは、「個人」主義・「平等」(男女対等を含む)、「民主主義」・「平和(反軍事)」等々の基本理念だ。
 これらは日本国憲法の基本理念でもあり、大学教員以外の学校教育の担当者になるために必要な「教員」免許を取得するためには、「日本国憲法」は必修科目であり、実際にどの程度、どのような問題が出題されているのかは知らないが、当該免許を取得しようとする者の全員が「日本国憲法」を学習していることは間違いないだろう。
 しかして、「日本国憲法」の基本理念は何か。一口で言えば、上記の如き「左翼」的理念だ。

 かつまた、彼らが学習する日本国憲法に関する教科書・参考書類はいったいどのような者たちが執筆しているのか。日本共産党員を含む「左翼」的憲法学者に他ならない。日本の憲法学界は今日に至るまでずっと、圧倒的に「左翼」に支配されている、と言ってよいだろう。
 そのような「憲法教育」を受けた教師が、確信的「左翼」か、少なくとも「何となく左翼」になってしまうのは、自然の成り行きだ。そして、彼らは、自分たちが年少の頃に受けたような「左翼」的教育を、次の世代の子どもたちへと引き継いでいく。
 日教組・全教の組織率は低いなどと言って安心するのは愚かなことだ。あるいはまた<保守的>教科書の採択率が何倍増かしたといって喜ぶのもまだ愚かなことだ。その<保守的>教科書ですら、私には「自虐的」・「進歩的」と感じられる部分があるが、それは別としても、たかが5%程度の採択率になって喜んでいるようではダメで、まだ5%程度にすぎないと嘆く必要があるものと思われる。

 「日本国憲法」から離れて、教育学に目を向けても、この学問分野が「左翼」に支配されてきていることは、竹内洋が月刊諸君!(文藝春秋)や月刊正論(産経)の連載で示してきた。手元に置いて再確認はしないが、戦後当初の東京大学教育学部は「三M」とやらが支配し、日教組を指導した(研修集会等の講師陣を担当した等を含む)といったことも書かれてあった。
 かつて日本共産党系全学連委員長で民青同盟の幹部だった(かつ「新日和見主義」事件で査問を受けて党員権停止。その後かなり遅れて共産党を離脱した)川上徹は、東京大学教育学部出身だった。
 川上徹の自伝ふうの本は読んでいないが、彼が共産党の活動家になっていくことについて、彼が所属していた大学と学部の雰囲気は、容認的・促進的であったに違いない。
 大学を除く高校までの教員は圧倒的に教育学部系の学部出身で、「左翼」的教育学を学んでいる。彼らのほとんどが「左翼」あるいは少なくとも「何となく左翼」にならないわけがない。
 (高校・中学の)日本史の教師については、大学で学んだ「日本史」(国史)、とくに近現代史がどのようなものだったかが問われなければならず、そして、日本近現代史学は「左翼」、そして講座派マルクス主義の影響がきわめて強い。日本史の教師は、そのような「左翼」またはマルクス主義歴史学者のもとで勉強して教師になり、生徒たちに教えているのだ。
 <保守>派の教科書採択に現場教員たちの根強い抵抗があるらしいのもまったく不思議ではない。
 日本史を高校等での「必修」科目とすべきとする主張がある、あるいはすでにそれは一部では実現されているらしいが、いかなる内容の「日本史」教育、とくに明治以降の歴史教育、であるのかを問題にしないと、現状では、逆効果になる可能性もあると考えられる。「左翼」的、マルクス主義的教師担当の科目が「必修」になったのでは目も当てられない。
 政経・公民等の科目の教師については、主としては大学の法学部での教育内容および担当大学教員たちの性向が問題になる。憲法学については上記のとおりだが、全体としても、社会あるいは世間一般と較べれば、「左翼」、そしてマルクス主義の影響力が強いことは明らかだろう(「人権派」弁護士はなぜ生じてくるのかを思い浮かべれば、容易に理解できる)。
 
〇以上は、思いついた一端にすぎない。こうした「教育」現場の実態、「左翼」支配、を認識することなく、「保守」論壇・「保守的」団体という閉ざされた世界の中で、「そこそこに」有名になり、「そこそこに」収入を得て、いったいいかほどの価値があるのか、と問い糾したいものだ。<大河の一滴から>とか<塵も積もれば…>という意味・価値をむろん全否定するつもりはないが。
 例えば40万部売れたなどと自慢しているあるいは宣伝している「売文」家や出版社があるが、かりに倍の80万人に読まれたとしてもその全員が内容を支持したことにはならず、また、全員が支持したとしても、日本の選挙権者のわずか1%程度でしかない。
 雑誌や単行本の影響力は執筆者たち等がおそらく考えているよりはきわめて小さく、圧倒的多数の国民・有権者は日々の大手マスメディア、とくに大手テレビ局のニュースと一般新聞の「見出し」によって、現在の日本(・日本の政治)のイメージ・印象を形成している、と思われる。狭い世界の中で「自己満足」しているのは愚かしいことだ。

0196/有田芳生と日本共産党、そして川端治。

 二回ほど有田芳生について元日本共産党員だと書きつつ、離党の事情についてはきちんと確かめないで、推測混じりで、「可能性がある」というような曖昧な書き方をしてきた。
 有田芳生の現在の政治的・社会的影響力はさほど大きくはないという判断もあったからだが、
前回に言及したこともあり、ご本人のサイトから彼の<離党事情>等を確かめてみた。
 以下、有田芳生公式HP・今夜もほろ酔いの中の「共産党」フォルダの第一頁以下の文および同フォルダ内の「哀しい日本人と日本共産党」「私の査問体験」による。
 有田芳生が所属していた日本共産党から「査問」を受けた一度目は1983年。当時同党の雑誌・文化評論の編集に携わっていたようだが、上田耕一郎副委員長(当時)と小田実のこの雑誌1981年1月号上での対談を担当したことがきっかけになり、この対談後に小田実が既成左翼批判をしたことから<党内に小田実的市民運動を浸透させようとする「陰謀」がある>という疑いがかかったらしい。そして、「本部勤務員にふさわしくない」とのことで「職場を追われた」。私の推測を挿入すると、この後、日本共産党系出版社の新日本出版社に移ったのだろう。
 二度目の、そして離党につながった「査問」は1990年。前回に言及した本がきっかけになったかもしれないと前回に書いたが、違っており、正確には同じ出版社からの松岡英夫=有田芳生編・日本共産党への手紙(教育史料出版会、1990)の刊行が契機だった。
 有田はこう書いている。-「この本は、日本共産党について率直な意見を、原稿枚数の制限をせず自由に述べていただくことを目的とし、その趣旨に賛同してくださった加藤周一さんや住井すゑさん(故人)、新村猛さん(故人)など各界15人の方々に登場していただいた」。
 そして、この本の実物を私は今手元に置いているのだが、HP上に記載のとおり、「あとがき」で有田は次のように書く。-「日本共産党が時代の変化に敏感に対応して、どのような『再出発』をしていくのか。それは、ひとり共産党員や共産党支持者だけの問題ではない。私の尊敬する政治家は『その民族がどのような共産党を育てるかは、その民族の運命に関わる』と常々語っていた。ソ連・東欧の歴史的な政治動向は、そのことを世界の人々に劇的に明らかにした」(p.221)。
 これに続く文章は現物によるとこうだ。-「こういう時期に、この日本という国の共産党は国民の目にどのように映っているのだろうか。そのことを常日頃、共産党に関心を注いでいる人たちに、なにものにもとらわれず発言してもらおう…-こういう問題意識で編集したのが本書である」。
 けっこう長い文章の末尾はこうだ。-日本共産党の動向は「日本そのものの行方と深くかかわっていると思っている」、この本が「一つのきっかけになり、自由で建設的な議論や対話が広がることを切に願ってやまない」。(p.228)
 上で太字にした部分などは日本共産党の一党員の資格で対外的に書けるものではないことは容易に想像がつく。さて、有田のHP内文書に戻る。
 「この単行本を出すことで、規約違反の容疑があると査問を受けた。発売前にゲラ刷り(本になる前に誤植などを点検するための印刷物)を常任幹部会に提出していたことなど、まったく意味のないことだった。こういう単行本を出すことが「党員としてふさわしくない」との判定を下され、共産党から除籍された」。
 18歳で入党してから20年後の「除籍」だったらしい。
 若干元に戻ると、上の本に「手紙」を執筆しているのは、上記の3名の他、飯塚繁太郎、稲葉三千男、加藤哲郎、黒田了一、清水慎三、寿岳章子、田口富久治、田畑忍、中馬清福、日高六郎、藤井一行、星野安三郎の各氏だ。
 全員が「左翼」的だが、日本共産党員でない人もいるし、党員(だった)だろうと推測できる人もいる。
 さて、この<事件>の感想は、日本共産党員は外部の人も含めて「なにものにもとらわれず」に「自由で建設的な議論や対話」をしてはいけないという、日本共産党の組織的体質、つまりは<民主集中制>なるものの腐臭に充ちた気持ち悪さ、に尽きる。
 と書いて、ここで終わってもよいのだが、さらに続けよう。
 有によると、「共産党の主張は納得できるものではなかった。だが、党本部が行なう規約の解釈や決定に個人がかなうわけがない」。しかし、「査問官たちは「最終的な決定が下れば連絡する」と言った」ので待ったが、「何の連絡もないままに半年が過ぎた」ので「私は査問の担当者に電話をかけるにした。返事はあっけなかった。/「あっ、半年前に除籍されていますよ」/何をいまさらという、まるで役所の窓口で聞くような事務的口調だった」。
 こんなものなんですかねぇ。20年間も党員だった者に対する扱いというのは。
 また、有田は統一協会に関する6冊の本を著しているようなのだが、彼は、日本共産党の統一協会関係の本や赤旗記事には、彼の本を明確に参照しているところがあるにもかかわらず、参考文献として「有田芳生・…」という記載は一切ない、という。そしてこんなふうに書いている。
 「共産党にとって、私という人間は存在しないのである。いや、正確にいえば、共産党に批判的なことを書けば敬称も付けずに私のことを「転落者」「反共主義者」と罵倒するくせに、都合の悪いときには存在を無視するのである」。
 有田芳生が日本共産党から
「転落者」「反共主義者」と罵倒されているとは知らなかった。
 有田はまた、次のような日本共産党に対するもっと厳しい言葉も吐いている。 
 「麻原彰晃逮捕翌朝」の『赤旗』が私を「反共を売り物にする有田芳生」と敬称さえ付けずに報じたのを眼にしたときの驚き。そんな人格が中央委員会を構成しているのだとようやく目が覚めた出来事だった。誰が書いたのかもわからぬ匿名の罵倒。せせら笑うかのように背後から切りつけた者たちに私はもはや幻想は持たない」。
 日本共産党を離党したからといって、非日本共産党にはなっても反日本共産党になるとは限らない。なおも親共産主義で親日本共産党である人もいるだろう。
 有田芳生は私はまだ親日本共産党で、4月東京都知事選挙の際の浅野某民主党推薦候補への批判ぶりからして、結局は日本共産党の吉田某候補に投票したのだろうと勝手に推測していたが、-どうでもよいようなことだが-違っていたかもしれない。「私はもはや幻想は持たない」という言葉はなかなか激しいものだ。
 有田はさらに、旧知の日本共産党員が偶然にでも有田氏と出くわすと、悪い人物と出会ったふうに話そこそこに遠ざかっていく、というようなことも書いている。
 除籍された元党員・古在由重の追悼会の世話したことが契機になって自らも除籍されたのは、川上徹だった。日本共産党員たちにとって、除名又は除籍された者とふつうに会話を交わすこと自体が<処世>に響いてくるのだ。党中央から睨まれ、警戒され、除籍とかになると、まさに<生活>そのものが影響を受けるのだろう。
 別に有田芳生に親しみは湧かないし、同情もしないのだが、日本共産党の陰湿さを改めて感じた有田HP読みだった。
 一つ、私には大事なことを忘れていた。前回にも山川暁夫という氏名を出しているが、この山川暁夫という人は、「本名は山田昭、党内では川端治というペンネームで活躍」と書かれている。そして、1972年の<新日和見主義>事件で離党していたこの川端との関係を、有田氏は最初の査問の際にしつこく訊かれたのだという。
 この「川端治」という名前を、私は突然に思い出した。1970年前後、大学生の私は誘われていった集会で、むろん内容は忘れたが、この人の、正確には「川端治」と紹介された人の「講演」をたぶん一度だけ聴いたことがある。「講演」というよりは、「アジ演説」に近いもので、やや高い声での<煽動>の仕方には迫力があった。
 いつだったかの正確な記憶はむろんない。いずれにせよあの頃から、あの時代から、もう40年近く経った…。あの「川端治」という人は(当時に明確に共産党員との認識があったわけではないが)、あの日から数年後には日本共産党から追われていたのか…。そしてその後、この人は<新しい党作り>に関係していたとか…(有田HPによる)。
 いろいろな人生があるものだと思う。そして、多少は、「青春」時代への感傷につながらなくもない。

0102/日本共産党は「反党分子」がいる団体とは共闘しない(らしい)。

 宮地健一のHP(「共産党問題、社会主義問題を考える」)で知ったのだが、日本共産党は7月の参院選の比例区には、今まで25人立候補させていたのに、5人しか候補を立てないらしい。25人でも5人でも、日本共産党票をどれだけ集められるかだが、前回程度の430万票だと前回と同じ4人は困難になり、下回ると3人になる可能性がある、東京選挙区の候補が当選しないと、当選者は計3で、非改選者を含めて9名から7名になる、という。宮地氏の言葉だが、「ますます泡沫政党化する」わけだ。
 上の最悪予想のとおりだと、3年ごとの各回の当選者数は、15→5→4→3。どう見ても<減少>、<衰退>傾向にあるとしか判断できないことになる。この最悪予想がアタることを、期待しておきたい。
 同じ最新のファイルに、日本共産党が「平和共同候補実現運動」又は「共同候補・共同リスト市民運動」に敵対し、共闘しない理由が4点に整理・分析されている。私の関心を最も惹いたのは第四点の、「批判・異論分子が参加する市民運動・団体の社会的排除の必要性」だ。
 その部分には、「共同候補・共同リスト市民運動」参加者の中に元日本共産党員等の「批判・異論分子」がいることが、具体的な固有名詞でもって紹介されている。
 私は知らない名前もあるが、全て列挙して記録しておこう。
 針生一郎中里喜昭(この2人は民主主義文学同盟員で1982年の「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の「お願い人」)、吉田嘉清草野信男(1984年、原水協で「反党活動」)、丸木位里丸木俊夫妻(中核派滝田をかくまった容疑で査問・除名)、古在由重(1984年、原水禁運動にかかる「分派活動規律違反行為」で除籍)、霜多正次(1983年の民主主義文学同盟問題で「反党活動」・除籍)。
 改行して、川上徹(既述の元「全学連」委員長、元民青同盟幹部、「新日和見主義」者として査問を受けつつも離党はしなかったが、1990.09の「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画し事務局側の一人となった。日本共産党は家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らとともに呼びかけ人になっていた党員に「手を引け」と「個々に指令した。ほぼ全党員がやめたのに、川上徹だけが、指令を拒否」。「規律違反で除籍した反党分子を偲んだ規律違反」として「査問し、除籍」)。
 さらに、「市民の風」と「平和共同候補実現運動」代表呼びかけ人の加藤哲郎(一橋大学教員)、呼びかけ人の田口富久治(名古屋大学名誉教授)、柴山健太郎(労働運動研究所)(川上徹も呼びかけ人の1人)。
 全く知らなかったが、加藤哲郎と田口富久治は、『日本共産党の七十年』が名指しで批判しているらしい。
 田口富久治といえば、私が大学生の頃はマルクス主義政治学者で、しかも日本共産党員と見えた(当時はそのとおりだったようだ)現役の大学教授だった(名古屋大学)。
 読んでいないが、田口は『マルクスと丸山真男の間で』とかいうような本を近年刊行していたかと思われる。かつて所属し、熱心に活動した政党(共産党)から「敵視」されるとは、いかなる気分だろうか。
 日本共産党の内部問題だとはいえ、<冷酷>な政党だという印象は拭えるはずがない。除籍した「反党分子」の死に際して積極的に「偲んで」はいけないのだ(「反党分子」の死は喜ぶべきことで、唾でも吐きかけよ、というのが同党の-正規ではないにしろ事実上の-方針・指令だろうか)。その組織原則・「民主集中制」によるのだろう。
 なお、有田芳生も新日本出版社に勤務中に何か「問題」を起こして日本共産党員を辞めた筈だ。上記の「平和共同候補実現運動」等にはもはや関与はせず、テレビ・コメンテイターをし、テレサ・テン等に関する本を書いたりしているようだが、強制的な離党だったかどうかも含めて、ヒマなときにネットで調べてみよう(彼のHPにある程度は書かれていた記憶がある)。

0074/日本共産党・2007県議選等分析、民青同盟員数72年比で1/10、等。

 直接に宮地健一氏のHPに入っていただければ済むことだが、同HPに「2007年県議選・政令市議選の結果と評価」が掲載された。日本共産党に関心はもつが前衛も赤旗も読まない者にとっては貴重な情報源で、分析も成る程と思わせる。
 政令市議選を先に片付ければ、2007年は新潟市・浜松市・堺市の3つ増えたため単純比較できないが、この3市を除いて比較すると、「124-19=105議席」で2003年は104だったので「1議席増えた」。「議席占有率は、2003年12.5%→2007年12.6%と、0.1%増えた」。宮地氏によれば、「共産党は、県議選における立候補削減への方針転換にたいして、政令市議選で、全選挙区に立候補させるという従来からの方針を採った」。この議席結果は、県議選と比較すると、「微増と言える」。
 私には不本意だが、政令市議選については、日本共産党はしぶとく頑張ったわけだ。
 だが、44府県議選の結果と分析は、楽しい。
 「1999年と2003年との比較で、議席・得票数・得票率の選挙結果3指標とも減った」。
 1999年・2003年・2007年の変化はこうだ。議席数、152→107→100。得票数、4,263,692→3,207,067→2,857,027、得票率、10.50%→8.63%→7.49%
 2003年から「県議選で全選挙区に立候補させるという従来からの方針を取り止め、重点選挙区だけの立候補作戦に転換した」ようだが、それでも、低落・退潮の傾向は明瞭だろう。
 宮地氏は書く。-「44道府県県議選データは、全国規模選挙として、参院選との関連性が強い。その結果は、参院選の行方を直接占うデータともなる」。ところが、共産党は2003年と比べて「議席-7・得票数-350040票・得票率-1.18%と、3指標とも全面敗北・連続後退した。となると、参院選においても、3指標とも全面敗北になる確率が高まったと推定できる」。
 なかなか好ましい推定ではないか。国会(両院)レベルでの劇的な議席数減少(各院・2~0へ)があれば、解体・崩壊、そして解党への途を「夢想」するくらいはできるようになるだろう。
 このような結果にもかかわらず、宮地氏によれば、「4月9日共産党常任幹部会声明は、3指標の増減に関する全体評価を一言も言わず、避けている」、「基本評価は敗北である。敗北を認めず、それを取り繕うような声明は見苦しいだけでなく、参院選に向けた選挙活動にもマイナス影響をもたらす」。
 以上のほか、興味深い日本共産党関係情報も知ることができる。以下、宮地氏の同じファイルによる。
 1.「共産党」という名の政党があるのは、「ヨーロッパでは、ポルトガル共産党、フランス共産党のみ」。このうち「ポルトガル共産党はプロレタリア独裁理論の放棄を宣言している。フランス共産党も、党大会で正式に、(1)プロレタリア独裁理論と、(2)民主主義的中央集権制という2原則を放棄した。よって、2党とも、その内実は、もはやレーニン型共産党ではなくなっている」。
 イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン等にはとっくに「共産党」自体が存在しない。しかるに、極東の日本には、言葉こそ変えても上の(1)(2)を維持した「レーニン型共産党」があるのだ。私には、不思議で、奇妙で、仕様がないのだが。
 2.民青同盟は1972年には「20万人の巨大組織に達していた」。だが、「2007年現在、民青同盟員は、約2万人」だ(同盟費納入率は約40%なので、実働は約8000人程度)。「青年学生の党組織・民青班の崩壊」を示している。
 私の記憶する1970年代前半と比べて、隔世の感がある。今の20歳代の若い世代の共産党支持率が低いようであるのも、民青同盟員数と無関係ではあるまい。
 かかる減少の原因は、「新日和見主義分派」事件、「宮本顕治の対民青クーデター=党中央忠誠派に民青中央を総入れ替えしようとした日本共産党史上最大規模の冤罪・粛清事件」に遡る。この「600人査問・100人処分という党内犯罪の共同正犯は3人」で、「クーデターの主犯宮本顕治、600人査問統括検事役下司順吉、思想検事役上田耕一郎」。
 過日言及した、川上徹氏もこの「クーデター」の犠牲者だったと思われる。
 3.私も見たことがあるが「さざ波通信」という珍しいHPがあって、日本共産党の党員らしき者が種々の意見・主張を述べていた。今訪問したらまだ存在していて、アクセス数は1620974だった。「党員用討論欄」もあるが、最終投稿の日付は2006.12.15だ。このHPを日本共産党中央は問題にしたらしい。
 「第22回大会〔2000.09-秋月〕前後、HPさざ波通信掲示板への批判キャンペーンを大々的に展開した。そこへの投稿者にたいして、摘発・査問・除籍活動を全党的に展開した。インターネット社会において、HP内容によって、批判者を摘発・排除している政党は、世界の政党の中で、中国共産党と日本共産党の2党だけ」。「日本共産党は、査問(=調査)内容が具体的に判明している者3人、査問事実判明10数人を、インターネット掲示板を捜査して、摘発した。未判明摘発者は数十人いると思われる。批判者にたいする粛清体質をそのまま堅持している」。
 
「批判者にたいする粛清体質をそのまま堅持」という部分には、やはり日本共産党は共産党だ、という奇妙な表現を使いたくなる。
 それにしても、宮地氏の経験・蓄積をふまえたデータ収集・提供と分析を、このように宮地氏の目的とは異なる目的で使用し、紹介するのは、多少は気が引けるところがある。だが、インターネット上に公開された情報であるかぎりは、どのような目的で利用・伝達されようとも、それを(技術的には勿論、法的・行政的にも)遮る・阻止することはできない、と理解しているのだが。

0059/「『平和への結集』をめざす市民の風」の「平和共同候補・共同リスト実現運動」とは?

 宮地健一氏のHPの中の彼の叙述等から、憲法改悪阻止の運動の現状の一端を紹介しておこう。
 宮地は「憲法改悪阻止」の勢力を参院・衆院にどうやって当選させるかが重要な「運動段階」の一つだとし、次のように書く。
 「9条の会」と「平和共同候補・共同リスト実現運動」という「2つの市民団体が活動し始めて」おり、「両者は、共同して活動できる路線・政策レベルにある」。しかし、今年になっても「共産党は、(1)「9条の会」の側のみを支持し、それを草の根運動と高く評価した。下部の全国自治体で結成され、活動している「9条の会」に共産党支部・党員が大量に参加するよう指令を出している。しかも、…共産党批判者・除名者を、呼びかけ人から排除しようと策動している。一方、(2)「平和共同候補・共同リスト実現運動」にたいし、詭弁を使って、敵対してきた」。
 そして、「このような憲法改悪阻止運動における分裂路線は正しいのか」、と批判的・懐疑的だ。
 「憲法改悪阻止運動」を私は応援したくないので、宮地とは異なり、「平和共同候補・共同リスト実現運動」なるものは何かにむしろ関心が向く。
 同HPによると、次のようだ。
 この運動の主体は「「平和への結集」をめざす市民の風」という名称の会らしい。そして、「平和憲法が極めて深刻な危機に瀕している今、憲法の平和主義を守り活かす“活憲”のために、国や地方の政治における「平和への結集」が必要だと私たちは考えます。「①平和・環境、②社会的公正、③選挙制度の抜本的改革」の実現を基本的な目的として共有し、市民の手により「平和共同候補や平和共同リスト」などを実現する大運動を提案」している。
 「共同代表」三名は、「岡本三夫(広島修道大学名誉教授)、きくちゆみ(グローバル・ピース・キャンペ-ン)、小林正弥(千葉大学、地球平和公共ネットワーク)」。
 「代表呼びかけ人」は以下。「愛敬浩二(名古屋大学大学院法学研究科教授、憲法学専攻)、五十嵐仁(法政大学教授)、池住義憲、池邊幸惠、稲垣久和(東京基督教大学教授)、色平哲郎、浮田久子、内山田康)、岡村孝子(戦争非協力・無防備地域条例をめざす藤沢の会)、岡本厚「世界」編集長)、岡本三夫(広島修道大学名誉教授)、嘉指信雄、加藤哲郎(一橋大学教員)、神谷扶左子、河内謙策(弁護士)、きくちゆみ、北村実(早稲田大学名誉教授)、君島東彦(立命館大学教授、非暴力平和隊国際理事)、金城睦(弁護士、沖縄平和市民連絡会共同代表)、小林正弥(千葉大学、地球平和公共ネットワーク)、佐々木寛(新潟国際情報大学助教授)、瑞慶山茂(弁護士、軍縮市民の会・軍縮研究室事務局長)、竹村英明、中山武敏(弁護士)、長谷川きよし(歌手)、平山基生、星川淳(作家・翻訳家、グリーンピース・ジャパン事務局長)、武者小路公秀(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長)、毛利子来(小児科医)、山下けいき (2006年3月17日現在)」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 さらに、「呼びかけ人」は以下。「相澤恭行、青英権、青柳行信、浅野禎信、朝日健太郎、天木直人(元外交官)、荒川純太郎、有馬克子、飯田哲也、井奥まさき、石田吉夫(弁護士)、市川守弘(弁護士)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、今泉光司、上原公子(国立市長)、上村雄彦、内田雅敏(弁護士)、内山隆、江尻美穂子、太田隆徳(弁護士)、大築準、大野拓夫、大橋巨泉(著述業)、岡田政和(弁護士)、小川真吾、奥平康弘(東京大学名誉教授、憲法学)、尾花清(大東文化大学文学部教授、日韓教育フォーラム編集長、日韓平和教育研究会事務局長)、おんちはじめ、笠松健一(弁護士)、樫聡、桂敬一(立正大学講師)、桂睦子、加藤節(成蹊大学教授)、鎌田東二、鎌田信子、川口創(弁護士、イラク派兵差止訴訟弁護団事務局長)、川崎けい子、川崎直美、川田悦子(元薬害エイズ原告団副代表)、川田龍平、川本隆史(東京大学大学院教育学研究科・教員)、北川隆吉(名古屋大学名誉教授、東京自治問題研究所)、北野弘久(日本大学名誉教授)、木村朗(鹿児島大学教員、平和学)、木村公一、久保田弘信、熊谷伸一郎、倉澤七生、小出昭一郎(元山梨大学学長)、こうちあきお、後藤道夫(都留文科大学教員)、小西誠(社会批評社代表、軍事批評家)、紺野茂樹、金野奉晴、阪本公一、笹田参三(自由法曹団)、佐高信(評論家)、佐藤昭夫(早稲田大学名誉教授)、佐藤修、佐藤和夫(千葉大学教育学部教授)、佐藤真紀、佐藤研(立教大学教員)、さとうももよ、椎名誠(作家)、重松壮一郎、柴山健太郎、嶋﨑英治、島田広(弁護士)、志水紀代子(追手門学院大学教員)、秀海、新海寛(信州大学名誉教授)、杉浦英世、鈴木敦士(弁護士)、高木吉朗(弁護士)、高橋道郎、高村耕一郎、高柳美知子、田口富久治(名古屋大学名誉教授)、田口房雄、田島隆、辰巳玲子、田場暁生(弁護士)、千葉眞(国際基督教大学教員)、千早、堤江実、堤未果、鶴田満彦(中央大学名誉教授)、デジャーデンゆかり、土井香苗(弁護士)、督永忠子、豊島耕一(佐賀大学教授)、戸田清(長崎大学助教授)、富崎正人(弁護士)、冨田哲秀、豊田義信、豊永恵三郎、仲佐秀雄、中野たかし(彫刻家)、中村和雄(弁護士)、中村俊一、中村政則(現代史研究者)、永山利和(日本大学教授)、なだいなだ、ななおさかき、西岡由香、西尾漠、西田清志、新田穂高、萩尾健太(弁護士)、林真由美(弁護士)、樋口健二、久松重光、平野慶次(日本ホリスティック教育協会常任運営委員)、平本憲孝、平山知子(弁護士)、廣瀬方人、廣瀬理夫(弁護士)、福澤定岳、福島理可、藤田秀雄(立正大学名誉教授)、藤田英典(国際基督教大学教授)、布施哲也、舟越耿一(長崎大学教授)、外間喜明、星野ゆか、細井明美、堀内良樹、堀越由美子、本多誠朗、前田哲男、松井英介、松元保昭、南研子、南定四郎(日本同性愛学会会長)、宮尾耕二(弁護士)、宗藤尚三、森川明(弁護士)、森口貢、森田茂(弁護士)、矢澤修次郎(一橋大学教員)、柳瀬宏秀、山口長志、山口孝(明治大学名誉教授)、山口直哉、山口幸夫、山崎久隆、山田秀樹(弁護士)、山本俊正、山脇直司(東京大学教員)、湯浅一郎、吉田収(東洋大学教授)、吉村誠司、若井和子、渡辺一枝」。」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 さらになお、「賛同人」なるものも列挙されている。以下のとおり。「相澤一行、青木護(弁護士)、青崎百合雄、青山治城(神田外語大学教員)、阿久津孝志、浅田眞理子、浅野誠、安倍徹郎(放送作家)、阿部愛奈美、鮎川ゆりか(WWFジャパン)、荒井潤・リン、生田あい、池側恵美子、池田恵美子、池宮城紀夫(弁護士)、石岡イツ(いせ九条の会事務局員、自衛隊イラク差止訴訟原告)、石垣敏夫、石坂俊雄(弁護士)、石橋行受、泉澤章(弁護士)、市川達人(獨協大学講師)、市川利美、いちじゅ(ひきこもり九条の会)、一ノ瀬佳也、伊東幸子、伊藤純子(葉山町議員)、伊藤洋典(熊本大学)、伊藤幹郎(弁護士)、岩佐しのぶ、伊和佐晴香(作家)、岩田信介、岩田泰大、岩間一雄(岡山大学名誉教授)、上野恵子、碓井敏正(京都橘大学教授)、内海愛子(恵泉女学園大学教授)、内畠いおり、内村博信(千葉大学教員)、生方卓(明治大学教員)、榎本信行(弁護士)、遠藤富美夫、及川信夫(弁護士)、大窪一志、大久保雅充、大坂健(國學院大学教授)、大島正裕、太田啓子(弁護士)、太田光征、大塚要治、大富亮、大野まさき(武蔵野市議)、大畑豊(非暴力平和隊・日本(NPJ))、大山美智子(弁護士)、荻野晶子、奥地圭子、奥村知亜子、奥本京子(大阪女学院大学、トランセンド研究会)、小倉英敬(八王子憲法9条の会会員、国際基督教大学講師)、小関眞(弁護士)、OTO、小野洋、小野弘忠、海渡雄一(弁護士)、鹿島さゆり、片岡平和、加藤協子、加藤千代、鹿沼博史、金子なおか、金子由美子、上遠岳彦(国際基督教大学教員)、榊山惇、河合良房(弁護士)、川上徹(同時代社)、川口雅子、川崎哲、川嶋京子、川西玲子、神田香織、北西允(広島大学名誉教授、政治学)、木下達雄、木村英亮(横浜国立大学名誉教授)、金鳳珍(北九州市立大学外国語学部国際関係学科)、久保田穣(大学教員)、鞍田東、黒澤計男(弁護士)、黒澤利時、小池拓也(弁護士)、神野志隆光(東京大学大学院教授)、郡山総一郎、古今亭菊千代、児島一裕、古長谷稔、小中陽太郎(作家、日本ペンクラブ)、小貫大輔(東海大学教養学部国際学科助教授(2006年4月より))、小林善樹、小林保毅、近藤ゆり子(「9条の会・おおがき」世話人の一人)、齋田求(弁護士)、齋藤純一(早稲田大学教授)、斉藤日出治(大阪産業大学)、佐伯昭夫、坂井興一(弁護士)、坂元洋太郎(弁護士)、崎山比早子、笹本潤(弁護士)、貞兼綾子、さとうしゅういち(広島瀬戸内新聞経済部長)、座波次信、塩田直司(弁護士)、シキタ純、篠原常一郎、篠原敏武、柴垣和夫(東京大学・武蔵大学名誉教授)、島村輝(大学教員)、しみずさつき、清水正博、下山房雄(九州大学名誉教授)、末次圭介、杉田明宏(大東文化大学教員)、杉山百合子、菅野昭夫(弁護士)、鈴木かずえ、鈴木和子、鈴木規夫(愛知大学教授)、鈴木秀幸(弁護士)、鈴木怜子、瀬川文子、攝津正、芹沢寿良(高知短期大学名誉教授)、平志朗、タカシ/agian blue、高橋君江、高橋秀典、高橋祐吉(専修大学教員)、高細玄一、瀧口道生、瀧波雅彦、竹内久顕(東京女子大学教員)、竹林伸幸、田崎透、伊達純、田中優、田中良明(大学教員)、田辺伸、塚本奈緒、辻信一、対馬労(東京平和委員会理事)、寺尾光身(元理系教員)、寺山秀行、田悟恒雄)、田一、土井桂子(「第九条の会ヒロシマ」世話人、ヌチドゥタカラ、藤堂正基、東本高志、徳田均、戸塚秀夫、栃本和雄、渡植貞一郎、富山洋子、友田良子、友光健七(弁護士)、戸谷茂樹(弁護士)、豊川慎(東京基督教大学教員)、中川一郎、中里英章、中嶌哲演、永瀬友貴、仲宗根香子、中野芳彦、中原照代、仲松正人(弁護士)、中村俊、中森俊久(弁護士)、南雲和夫(法政大学社会学部兼任講師)、奈良勝行、成澤宗男(「週刊金曜日」編集員)、成見暁子(弁護士)、新倉修(青山学院大学教授)、西川房之介、西口徹、西嶋佳弘、西田照見(立正大学名誉教授、社会思想史)、西脇尚人、沼尻明子、根本博愛(四国学院大学教授)、野上恭道(弁護士)、野崎敬子、野田隆三郎(岡山大学名誉教授)、野間美喜子(弁護士)、野村修身、萩倉良、長谷川順一(新宿平和委員会会長)、ハベレイコ、早川弥生、林博史(関東学院大学教授)、原和美、原義弘、春田紀子、伴英幸、日隅一雄(弁護士)、秀村冠一(京都女子大学教員)、平子友長(一橋大学教授)、平山正和(弁護士)、ビル・トッテン((株)アシスト代表取締役)、福島理可、福山和人(弁護士)、藤井治夫(軍事評論家)、藤井未佳、二瓶敏(専修大学名誉教授)、二見孝一、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、前田朗(東京造形大学教授)、前田惠子、正木高志、益岡賢、桝田伸次、松浦望、松枝佳宏、松岡康毅(弁護士)、松澤敏彦、松田健、松田敏、松田直美、松田博(立命館大学教員)、松宮光興、松宮玲子、松本篤周(弁護士)、松本英揮、間彦博之、三浦聡雄、三上昭彦(明治大学教授)、水谷敏彦(弁護士)、水鳥方義、宮内康浩(弁護士)、宮崎さゆり、宮本修一、milky@金沢、向井雪子、宗邦洋、毛利亮子、森史朗、森瀧春子、森田ゆり、森貘郎、諸橋泰樹(フェリス女学院大学文学部)、門永三枝子、八重樫好、安田節子、保田行雄(弁護士)、柳田真、山川亜希子、山口定(大阪市立大学名誉教授・立命館大学名誉教授、政治学)、山崎耕一郎、やまだちえ、山田安太郎(弁護士)、山本茂、山本武明、山本満登香(大学教員)、湯川れい子(音楽評論家・作詞家)、吉田敦彦(大阪府立大学)、吉田淳一、吉水公一、米倉勉(弁護士)、若松英成(弁護士)、渡辺葉子」。」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 大学所属者と弁護士はすべて()を残したが、これらの職種の他、反戦・反核・環境問題等のNPO関係者も僧侶・牧師等の宗教関係者も目につく(天木直人という不思議な人もいる。知っている名は太字にしたが他にも著名人はいるかもしれない)。そして、佐高信、「なだいなだ」、小中陽太郎のように非共産党系「左翼」人ではないかと見られるが人がいるのは確かだ。だが、確証はないものの共産党系学者・知識人と思われる人もおり、「九条の会」関係者でこちらの呼びかけ人・賛同者になっている者もいる。例えば、奥平康弘は九条を考える会呼びかけ人9人の1人だ。
 従って、少なくともこのリスト作成時点では日本共産党員又は同党支持者も含まれていると推察される(そして、最初に紹介されるような同党の方針が明らかになると、こちらを「脱退」した人もいるだろう)。田口富久治は著名な政治学者でかつて一時期は党員だったと推察されるが、現在は、親共産党、非共産党、反共産党、いずれの立場なのかはよく判らない(最近の彼の文章を読むと解るかもしれない)。
 いずれにせよ、頭書の情報ソースによるかぎりは、こうした非共産党系の人々を含む「憲法改悪阻止」団体との<共闘>を日本共産党は拒んだわけだ。川上徹とは、1970年代に「新日和見主義者」とされ「査問」を受け現在は離党している人だと思うが、そのような元党員たちをこの団体はかなり含むのかもしれない。そして、政治的に真っ白で「無垢」な、将来に日本共産党に接近して党員になる可能性がある者たちよりも、マルクス主義や共産党のことをある程度詳細に知っているが共産党を離れた者をはるかに「敬遠し」、「毛嫌い」するのが、日本共産党という組織だ。そのような者が過半数を占めておらず、かりに数%であっても、日本共産党は「共闘」を拒むと思われる。そのような例はこれまでも、事情は同一ではないが、反核運動等々の「大衆」運動についてよく見られた。
 いったん日本共産党に接近しながら(とりわけ入党しながら)離れた者を同党は絶対に許さない(と想像している)。かかる体質・神経はいったいどこから来るのだろう。よくわからないが、組織の「純粋性」を維持したいのか、それとも(同じことだが)同党の「内部」をある程度知って「秘密」を覗いてしまったがのちに離れた者とは、「汚らわしく」感じて、もう関係をもちたくないのか。いくつかの氏名を見ながら、不思議で、傲慢な政党だと、つくづく考える。

0036/元共産党系全学連委員長・川上徹・査問(筑摩書房、1997)の文庫版を昨年に読んだ。

 2000年くらい以降、読みたいと思いつつ書店で見かけなかったこともあって忘れているうちに、品切れになっていた本が二つあった。
 一つは川上徹・査問(筑摩書房、1997)で、もう一つは藤井淑禎・純愛の精神史-昭和30年代の青春を読む-(新潮選書、1994)だった。
 前者は文庫化されたものの古書を、後者は選書そのものの古書を昨年中に入手した。
 川上徹とは、60年安保後の再建日本共産党系(代々木系)全学連委員長で、私の大学生時代にも名は聞いたことがあった。70年頃は、民青同盟の幹部だったようだ。また、「新日和見主義」とその批判なるものも聞いたことがあったが、その批判の対象に川上徹もなっていたことを知ったのは、上の本の宣伝文を読んだ時だった(従って、1997年のことだ)。
 読了したあとのまず第一に驚いたのは、この人は査問された後、党員権停止処分を受けた後も1990年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けた、ということだった。<イデオロギー>への囚われの怖さ、というのが、従って第一の感想ということにもなる。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったようだ。にもかかわらず、彼は党員ではありつづけた。
 離党したくなった直接のきっかけは日本共産党員哲学者で没前に離党した(除名された?)古在由重の死後に同氏の追悼会の世話をして日本共産党の主流?から「厭味」を言われたことにあるように推察されるが、1990年11月ということは、ソ連解体の過程でもあり、そもそもがマルクス主義幻想又は革命幻想から(冷たい言い方になるが)漸く醒めたことも重要な原因だったのではなかろうか(この辺りは明確には叙述されていない)。
 第二に印象的なのは、宮本顕治に関する叙述だ。1972年1月に(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月に)彼が見た宮本顕治を次のように描写している(p.21以下)。
 「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本氏の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。
 第三に、やや付随的だが、1969年の初めのことだろう、宮本が川上に東大構内からの脱出所要時間を尋ね、その後、「東大時計台」に機動隊が突入した際には党中央指令に従って日本共産党・民青同盟系の学生は構内に一人もいなかった、ということが書かれている。
 現在もそうだろうが、日本共産党は「敵の出方」による暴力(実力)行使の余地を語りつつも実質的にはほとんど「人民的議会主義」とやらの穏健路線をとった。そして、1970年前後の「大学紛争」の時期にも、全共闘系又は所謂反日共系とは異なり、暴力は行使しないという穏健路線をとって、過激な路線についていけない、あるいは「正常化」して講義を受けたい学生たちの支持をある程度は獲得した(1970年代の末に同党の衆議院議席数が最大になったのも、こうして青年・学生層を取り込んだことと無関係とは思えない)。客観的に見れば、全共闘系又は反日共系学生たちの「暴力」のおかげで、それに反対した日本共産党・民青への学生・青年層の支持が現在より以上に増えた、という面があるだろう。
 上の東大構内からの撤収指令も日本共産党・民青同盟系は全共闘系・反日共系とは違って「暴力学生」ではない、と印象を与えるための(共産党・民青系も全共闘系と同様という印象を与えないための)戦術だったに違いない、と当時の全国的な雰囲気を思い出した。共産党・民青系の強い大学・自治会では、彼らこそが暴力=実力を用いて「秩序」を維持したところもあったようだが…。

-0020/日本共産党に睨まれると恐いが、良心と正義はこちら。

 朝日新聞や北朝鮮・中国問題については毎月の月刊誌に論文・ウォッチング記事が出るが、日本共産党(や社民党)については必ずしもそうでないとの印象がある。日本共産党を継続的に批判的にフォローする連載記事・企画をいずれかの雑誌は載せてほしいものだ。
 サイトでは、ずばり「共産党問題、社会主義問題を考える」とのタイトルの詳しいものを初めて見つけた(まだまだネット利用が足らない)。
 このサイト内の分析によると、機関紙赤旗の本紙・日曜版合計の発行部数は、1980年からの「25年間で、最高時の355万部から、187万部減り、減紙率52.7%になっている」。また、1990年からの15年では本紙は「54万部から、24万部減り、…減紙率44%」、日曜版は「232万部から、94万部減り、減紙率40.5%」、併せると、「東欧革命以降の15年間」で本紙と日曜版読者のいずれもの「ほぼ40%以上が、共産党に愛想をつかして、離れていったのである」。
 なるほど、筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006.04)p.190が「共産主義社会などまったく将来への展望がないのだから…」と本音を語っているのも分かる。だが、安心?してはならない。500万票近く、投票者の7%という数字は決して小さくない。
 川上徹・査問で印象的なのは、1972年1月(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月)に彼が見た宮本顕治に関する叙述だ。p.21以降-「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。実質的に宮本独裁だったことを証明しもする。

-0019/「古在由重先生を偲ぶつどい」の世話役をしたら…。

 大学・学界には、顕然たる日本共産党員やその明確なシンパが他業界に比べて多そうだ。概して優秀な人が多いのにこの党の穏便・微笑路線に惑わされて「おそろしさ」を知らず、せっかくの能力とエネルギーが適切な方向に使われていないのはまことに勿体ない。
 この党の衆議院選挙得票数等を顧みると、60年代末からの「大学紛争」時代を巧妙に立ち回ったことが大きいと思うが、76年・79年の600万、580万(得票率各10.7%、議席数19と41)あたりがピークでその後減っていくが、政治改革=衆議院480議席のうち180もが比例代表選挙のおかげで96年には730万、13.1%と盛り返しつつも、その後再び低減傾向で、03年は480万、8%程度、05年は490万、7.3%で議席数は9。
 かつて「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」は現実味が少しはあるように見えたが、今や政権獲得の現実的可能性は全くないと言いうる。だが、先進資本主義国で共産党があり500万票近くを獲っていること自体がじつに不思議なことで、日本人独特の優しさ、急激な変化を望まない気分(これは日本共産党に+に働いている)、曖昧さ(社会主義・共産主義を理解し支持してもいないのに批判票としてのみ、又は「人間」のしがらみで共産党に投票する)等々を示している。アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダに共産党(少なくとも日本ほどの)は存在しないし、イタリアは名称変更した(フランスはどうだったかな?)。日本はこの点で欧米に比して極めて「異常な」国だ、という認識をどの程度の人が持っているだろう。
 川上徹の名も、「新日和見主義」批判なるものも聞いたことがあったが、この批判の対象に川上徹(60年安保後の再建代々木系全学連委員長、70年頃民青幹部)もなっていたことを知ったのは同・査問(筑摩書房、1997)が宣伝された時だった。
 今年になって中古の文庫本で読了したが、査問・党員権停止後も90年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けたことに、<イデオロギー>への囚われの怖さを感じた。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったよう。もう1点印象に残ったことは明日に。
ギャラリー
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