樋口陽一・ほんとうの自由社会とは―憲法にてらして―(岩波ブックレット、1990)という計60頁余の冊子は、1990年7月という微妙な時期に出版されている。
 1989年11月-ベルリンの壁崩壊(8月に東独国民がオーストリアへ集団脱出)、同12月-ルーマニア・チャウシェスク政権崩壊(12/25同大統領夫妻処刑)、その他この年-ハンガリ-やポーランドで「民主化」が進む。
 1990年2月-ソ連・ゴルバチョフ大統領に、同月~3月-バルト三国がソ連から離反・独立、1991年1月-湾岸戦争開始、6月-イェルツィンがロシア大統領に、7月-ワルシャワ機構解体、8月-ソ連のクーデター失敗・ゴルバチョフ辞任、12月-ソ連解体・CIS(独立国家共同体)会議発足。
 このような渦中?で書かれていることに留意しつつ、樋口の上の本に目を通してみよう。
 1 樋口は1989-90年の東欧について<「東」の「憲法革命」>という言葉を使う(p.2)。そしてベルリンの壁除去の「祝祭的な気分」だけで東欧を見てはいけないとし(p.2)、東独を含む東欧に「反コミュニズムと反ユダヤ主義が…また出てきた」という指摘もある、この二つは「ナチス登場の土壌だった」のだから、と書く。
 これはいったい何を言いたいのだろうか。曖昧、趣旨不明とだけ記して次に進む。
 2 樋口は、東欧の変動は「ヨーロッパで、理性と議論と骨格にした社会」という「共通の理念が、あらためて再確認されようとしている」という(p.4)。
 そして、「東欧の大変動」から日本人が「引き出すべき教訓」はつぎの二つだという。一つは、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということ。「ノメンクラトゥーラ」という特権層の支配体制の崩壊から、<企業ぐるみ選挙>とかの政治・企業の癒着、利益配分集票構造といった日本の「体制」はこれでよいのかという「教訓」を引き出す必要がある(p.6)。二つは、「体制選択」を(1990年2月の)総選挙で主張した人々〔=自民党〕は「自由」のよさを強調するが、日本は本当に「自由社会」なのか、その人々は本当の「自由社会」を理解していないのではないか(p.6-8)。
 以上の1、2を併せてみても、趣旨は解りにくい。この冊子を書いた翌年にはソ連が明確に解体し、東欧諸国も<社会主義>を捨てて<自由主義(資本主義)>に向かう(いや、この時点ですでに向かっている)のだが、そうした観点からみると、樋口陽一は<いったい何を寝ぼけたことをいっているのか>、というのが端的な感想になる。
 「東欧の大変動」から得るべき教訓は、上のようなことではなく社会主義(・共産主義)の失敗であり、たんなる「権力の腐敗」や「ノメンクラトゥーラ」による支配崩壊ではなく、共産党一党独裁権力の腐敗と崩壊だろう。
 樋口陽一は何と、「社会主義」(共産主義)・「共産党」という言葉を一度も使っていない。これらの語を使わずして「東欧の大変動」から教訓を引き出しているつもりなのだから、何とも能天気だ。ひょっとして、ソ連という社会主義(・共産主義)・共産党の「総本山」までが崩壊・解体するとは予想していなかったのかもしれない。だとするとやはり<甘い>のではないか。
 それに、「体制選択」という言葉を使いながら、、「社会主義」(共産主義)・「自由主義」(資本主義)という骨格的概念を使うことなく、日本は本当に「自由社会」なのか、日の丸・君が代の掲揚・斉唱の学校行事での強制化は「自由社会」にふさわしいのか(p.7)、というレベルでの議論をしているのだから、まさしく<寝ぼけている>としか言い様がない、と思われる。
 3 「八月一五日」の昭和天皇の「御聖断」に言及しつつ、「八月五日」だったなら…、と書いている(p.12)。他の言葉も併せて読んでも、明言はないが、「八月五日」に「御聖断」があれば広島・長崎への原爆投下はなかった、もっと多くの人が助かっていた、という趣旨であることは間違いない。そのような条件関係(因果関係)にあるかもしれないが、かかる議論は原爆投下を行いたかったアメリカをほとんど免責してしまうものだ。非戦闘住民の大量殺戮というアメリカの罪を覆い隠してしまう議論だ。吉永小百合さまも同旨のことを言っていたが、樋口陽一もそういう発言者であることを忘れないでおきたい。
 4 樋口陽一によると、1989年7/23の参議院選挙は高く評価されるものらしい。この「消費税」が争点となった選挙で日本社会党は前回当選(非改選)22→52と躍進し、自民党は前回当選(非改選)73→38と「敗北」した(ちなみに日本共産党は9→5)。
 樋口は、どの党・候補者が勝った負けたというよりも「自分の考えで投票所へ行って、自分の考えで投票してくるという本来あたりまえのことを、…少なからざる人が経験した」のではないか、「これはたいへんなことだと思います」、と<感動したかの気分で、喜ばしげに>書いている。
 だが、奇妙に思わざるをえないのは、この人は、日本社会党が躍進した場合にのみ国民が「自分の考え」で投票所へ行き投票した、と理解しているのではないか、ということだ。翌年(1990年)2月には(樋口が期待した?)与野党逆転は起こらなかったのだが、この衆議院選挙については「少なからざる人」が「自分の考え」で投票所へ行き投票した、とは樋口は書いていない。
 樋口の論評というのは、この辺りになると憲法学者とか憲法「理論」とかとは無関係の、単純な日本社会党支持者のそれに<落ちてしまっている>。佐高信や辻元清美と同じレベルだ。そして「自分の考え」で投票…というのが樋口のいう正しい「個人主義」の現れの一つだとするならば、樋口のいう「個人主義」とはいいかげんなものだ、とも思う。単純に言って、樋口においては、日本社会党投票者=自立的・自律的「個人」、自民党投票者=「空前の企業選挙」に影響を受けた自立的・自律的ではない「個人」ではないのか。樋口の語る「個人」(主義)というのは、随分と底の浅いもののような気がする。
 なお89年参院選挙で土井たかこ・社会党が<躍進>したのは、<(消費税)増税はイヤだ>との国民大衆の直感的・卑近な皮膚感覚によるところが大きく、まさしく<大衆民主主義>の結果なのであり、樋口が言うほどに「自分の考えで」投票した人々が増えたからだ、とはとても思えない。
 5 樋口は、日本は本当の「自由社会」ではないと縷々述べたあと、日本は「西側の一員」、「軍事費の増強」と「アメリカとの軍事同盟」の強化、を強調する人々は「西側諸国の基本的な価値観、個人の良心の自由、信教の自由、思想表現の自由にたいしてまったく関心がなければいいほうであって、それらに対して系統的に敵意をもっている人びとだ」というパラドックスがあると指摘している(p.36)。全く同旨の文章が、樋口・自由と国家(岩波新書、1989)p.212にもある。
 上で樋口は日本国憲法に規範化されている西欧近代的「価値観」を正しく理解し継承しているのは自分たち(=「左翼」)であり、日本は「西側の一員」と強調したり日米安保を支持・強化している人びとではない、後者の人びとはむしろ諸自由に<敵対している>と言いたいのだろう。
 この点は、西欧近代又は「西側」(とくにアメリカ)の思想・理念は<左翼>だとする佐伯啓思の指摘もあって興味深い論点を含んではいる。
 だが第一に、自分たちこそ<自由と民主主義>の真の担い手であり、自民党・「反動」勢力はつねに<自由と民主主義>を形骸化しようとしている、という<戦後左翼>の教条的な言い分と全く同じことを大?憲法学者・樋口陽一が言っていることを、確認しておく必要があろう。
 第二に<日本は「西側の一員」と強調したり日米安保を支持・強化している人びと>は「西側諸国の基本的な価値観」・諸「自由」に無関心か<系統的な敵意>をもつ、という非難は誤っているか、行き過ぎだろう。具体的な問題に即して議論するしかないのかもしれないが、上のような言い方はあまりに一般化されすぎており、「西側」陣営の一員であることを強調し日米安保条約を支持している者に対する、いわれなき侮辱だ、と感じられる。
 第三に、では西欧的「価値」と「自由」を尊重するらしい樋口は、本当に「自由主義」者なのか(あるいは「人権」尊重主義者、「民主主義」者なのか)、と反問することが可能だ。
 1990年頃にはすでに、北朝鮮による日本人の拉致は明らかになりつつあった((1977.11横田めぐみ拉致、)1980年-産経新聞が記事化、1985年-辛光洙逮捕、1988年1月-金賢姫記者会見、同年3月-国家公安委員長梶山静六は某氏失踪につき「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と国会で答弁)。
 樋口陽一は北朝鮮という国家の日本人に対する<仕打ち>についてこの頃、および金正日が拉致を認めた2002年9月以降、どのような批判的発言を北朝鮮に対して向けて行ったのか? また、中国共産党が支配する中国は国民の「自由」を尊重しているのか。この当時において、樋口は、中国の「人権」状況に関してどのような批判的認識を有していたのだろうか。そして今日、チベット(人)への侵略と弾圧について、樋口はいかなる発言・行動を実際にしているのか
 一般に社会主義(・共産主義)者が<自由・民主主義>を主張し擁護するとき、それは往々にして社会主義(・共産主義)を守るため、少なくともそれに矛盾しない場合になされることが多い
 樋口陽一は真に「西側諸国の基本的な価値観、個人の良心の自由、信教の自由、思想表現の自由」を守り、実現しようとしているのだろうか。「ほんとうの自由社会とは」などと語る資格があるのだろうか。北朝鮮や中国に対する批判的言葉・発言の一つもないとすれば(なお読んで確認したいが)、その「自由」主義・「人権」論は歪んでおり、二重基準(ご都合主義)の「自由」主義・「人権」論なのではなかうか。
 この樋口陽一の冊子の検討(読書メモ)もここでいったん区切る。回をあらためて、もう一度くらい続けよう。