数年前に社会主義・共産主義や日本共産党関係の文献を集中的に収集していたとき、つぎの本も手に入った。1990年-1994頃の共産党中央委員会報告集が1994年党大会直前のものも古書で意外に安価で入手できて、そちらの方をむしろ興味深く見ていたのだったが。
山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
以上は、上の本の「年譜」による。
さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
1988年、大阪経済法科大学客員教授。
1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
2000年、逝去。
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以上、知らないことばかりだった。
1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
他にも、より強く感じることがある。
第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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山川暁夫=川端治論文集・国権と民権(緑風出版、2001年)。
「川端治」という名に、おぼろげな記憶があった。
1927年生まれ、本名・山田昭。2000年2月12日死亡。満73歳になる直前。
以上は、上の本の「年譜」による。
さらに続けて、「年譜」から注意を惹いた箇所をほぼ書き写す。
1948年4月、東京大学経済学部入学、同時に同大学日本共産党「細胞E班」に所属。
6年間在学したが、この時期の「友人」に、不破哲三、上田耕一郎、高沢寅男、安東甚兵衛、堤清二、等々。
1963年、発表文書が増え、共産党関係では「川端治」、それ以外では「山田昭」と使い分けるようになる。
1970年、日本共産党「中央夏季講座」で「日本の政治と政党」を担当。
1971年、東京大学入学式で(!)、90分間講演する。
1972年、日本共産党が突然に「拉致」して、「査問」。同様だった(らしい)高野孟の母親の尽力で「解放」された。この後に「離党を通告」。2年近く、「次の仕事の目処も生き方」も判然としない日々。
1973年、月刊雑誌『現代の眼』に「山川暁夫」名で初めて執筆。
1984年、<共産主義者の建党協議会>準備会発足に参加。<新困民党>委員長。
1986年、<共産主義者の建党協議会>代表。
1988年、大阪経済法科大学客員教授。
1992年、有田芳生構成・短い20世紀の総括(教育史料出版会)で、田口富久治・加藤哲郎・稲子恒夫とともに座談会。
1993年、山川暁夫=いいだもも=星野安三郎=山内敏弘編・憲法読本-改憲論批判と新護憲運動の展望(社会評論社)刊行。
1995年、<共産主義者の建党同盟>代表。
1996年、「共産主義者の団結のための『党』づくりへ」党機関誌。
1998年、<日本労働者党>と合同、<労働者社会主義同盟>議長。
1999年、「朝鮮有事を語る前に/歴史の真の精算と安保廃棄へ」党機関誌。
2000年、逝去。
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以上、知らないことばかりだった。
1972年の「査問」とは、ひょっとすれば、川上徹の名も出てくる<新日和見主義>事件(?)に関係しているのではないか。むろん知らないし、詳細を知るつもりもないが。
1971年の項。さすがに1971年、さすがに東京大学。あるいは、さすがに当時の日本共産党。
東京大学の入学式運営関係者の中には、日本共産党の党員そのののか、熱烈な同党シンパがいたのではないか。そして、<日本共産党系>の者が講演するのであってもよいと周囲もたぶん問題視しなかった、という異様さ。
他にも、より強く感じることがある。
第一に、日本共産党を離党した者(または除名・除籍された者)であっても、「左翼」でなくなるわけでは決してない、ということは、この人物に限らず、名にいずれもっと言及してもよいが、よくあることだ。
上に出てくる党は違うのだろうが、いわば<トロツキスト系>の反・日本共産党かつ「共産主義者」、少なくとも「左翼」者は、まだ少なくなく、日本に棲息している。
死んでも絶対に*右翼*とか*保守反動*とか言われなくない者たち、あるいは、どんなに現世を世俗と体裁を気にして生きていても、絶対に自民党等には投票しないことを隠れた誇りのように思っている者たちがいる。
第二に、ほぼ同世代のこの人物と不破哲三。いったい何が二人の人生を分けたのか。
不破哲三が「正しかった」、「理論的にすぐれていた」、というわけでは、決して、全く、なかっただろう。この程度にする。
不破哲三、1930年生まれ、1970年書記局長、1982年幹部会委員長、2000年中央委員会議長、のち今でも常任幹部会委員、存命。
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