秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

山口真由

2657/日本の教育②—学歴信仰の悲劇の例。

 伊東乾のブログ上の記事の一部や、伊東乾・バカと東大は使いよう(朝日新書、2008)の一部を読んだ。後者は、第二章・76頁まで。いずれ言及するだろう。
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 2021/04/06に、→「2334/『知識』・『学歴』信仰の悲劇—山口真由」と題する投稿を行なっている。
 当時の山口真由に関する知識からすれば、修正の必要を感じない、
 但し、2年以上経過した現時点でのこの人に関する論評として的確であるかは、別の問題だろう。
 こう断ったうえで、2021年4月の文章を、(当時もそうだったが)山口ではなく<日本の教育>に関するものとして、以下に再掲する。
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 (以下、再掲)
 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)。
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
 ーー
 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。
 ——
 (以上で再掲終わり。以下、2023年夏での秋月瑛二の言葉。)
  学校での成績は、そもそもその人間の全体や「人格」とは関係がない。
 「いい高校」入学・出身、「いい大学」入学・出身。これらでもってその個人の「えらさ」が判断されるのではない。
 正答のある、限られた範囲の、第三者が作った「試験」にうまく対応しただけのことだ。
 正解・正答のない、または複数の「解」があり得る現実の社会に役立つことのできる、何の保障にもならない。
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 特定の大学に入学しただけでは、何の意味もまだない。
 特定の大学・学部を「首席」で卒業したとしても、それだけではまだ何の意味もない。
 むつかしいとされる中央省庁にトップの成績で採用されたとしても、まだ何の意味もない。
 この人は、何かの社会的「痕跡」を何ら残すことなく、その中央省庁を辞めてしまった。
 むつかしいとされる司法試験に(外国も含めて)合格しただけでは、まだ何の意味もない。
 この人は、「法曹」資格をどのように社会・世界のために生かしているのだろう。
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  ときにテレビ番組でこの人を観る機会が2021年以降もあったが、「知識人・専門家」枠か、「弁護士」枠か、それとも「女性」枠か。いずれにしても、大したことを語っていない。
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  上に再掲したようなこの人の「読書歴」を読んだときの衝撃は、今でも覚えている。
 女子・男子にはこだわらない方がよいだろうが、私の同世代の女性たちは、全員ではないにせよ、<アンの青春>シリーズとか、M・ミッチェル「風とともに去りぬ」あたりを熱心に読んでいた。後者は高一のときに私も読んだ。
 <人生論>、<青春論>の類を、この人はその「思春期」に読んだのだろうか。
 <学校の勉強や試験に必要な>読書と、それらには役立たない<その他の(無駄な?)>読書に分けることができる、という発想自体が、私にはとても理解できない。
 この人は、大学生時代もそうだったのだろうか。教科書と講義ノートだけ見ていると、他の読書はできなくなるし、サザンの音楽に関心を持つこともできなくなるだろう。
 やや書きすぎの感があると思うので、一般論にしておくが、「合格」すれば」目標を失い、資格・試験に関するつぎの「目標」をさらに求める、という人生は、いったい何だろうか。<合格するという目標>がなくなれば、「生きがい」もなくなってしまうに違いない。
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  山口の生年からして1950年代生まれなのだろうか、この人の両親も<学校に毎日まじめに通い、かつ学校での成績が(とても)よい>といことで満足し、子どもに助言したり注文をつけることをしなかったのだろう。この人の<読書傾向>が問題視されなかったのは、おそらくはその両親を含む大多数の「戦後の親」、広くは「教育環境」に背景があるのだろうと思われる。
 伊東乾とは相当に異なる山口の成育ぶりに、種々の感慨を覚える。
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2334/「知識」·「学歴」信仰の悲劇①ー山口真由。

 ネット上に、山口真由の興味深い述懐が掲載されている。週刊ポスト(集英社)2021年4月9日号の記事の一部のようだ。おそらく、ほぼこのまま語ったのだろう。
 「東大を卒業したことで“自分はダントツでできる人間だ”との優越感を持ってしまったのだと思います。その分、失敗をしてはいけないと思い込み、会議などで質問をせず、変な質問をした同期を冷笑するようになった。東大卒という過剰なプライドが生まれたうえに、失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させることができませんでした」。 
 山口真由、2002年東京大学文科一類入学とこのネット上の記事にはある。
 別のソースで年次や経歴の詳細を確かめないまま書くと、2006年東京大学法学部を首席で卒業、同年4月財務省にトップの成績で入省、のち辞職して、司法試験に合格。
 上のネット記事によると、同は「財務省を退職して日本の弁護士事務所に勤務した後、ハーバード大大学院に留学。そこで『失敗が許される』ことを学び、『東大の呪縛」を解くことができたという」。
 山口真由、1983年年生まれ。ということは、2021年に上の述懐を公にするまで、ほとんど38年かかっている。
 2016年にハーバード大・ロースクールを修了したのだとすると、ほとんど33年かかっている。
 33-38年もかかって、「失敗を恐れてチャレンジせず自分を成長させること」ができなかったことに気づいた、というのだから、気の毒だ。
 東京大学入学・卒業までの年月は除外すべきとの反応もあるかもしれない。しかし、一冊だけ読み了えているこの人の書物によると、この人は大学入学まで(たぶん乳児期を除いて)<東京大学信仰>または<学歴信仰>を持ったまま成長してきている。つまり、少年少女期・青春期を、<よい成績>を取るために過ごしてきていて、「東大卒という過剰なプライド」を生んだ背景には間違いなく、おそらく遅くとも、中学生時代以降の蓄積がある。
 読んだ本は(手元にないが、たぶん)同・前に進むための読書論—東大首席弁護士の本棚(光文社新書、2016)
 「知識」・「学歴」信仰の虚しさ、人間はクイズに早くかつ多数答えたり、難しいとされる「試験」に合格したりすること<だけ>で評価されてはならない、ということを書くときに必ず山口真由に論及しようと思っていたので、やや早めに書いた。
 正解・正答またはこれらに近いものが第三者によってすでに用意されて作られている問題に正確かつ迅速に解答するのが、本当に「生きている」ヒト・人間にとって必要なのではない。「知識」や「教養」は(そして「学歴」も)、それら自体に目的があるのではなく、無解明の、不分明の現在や未来の課題・問題に取り組むのに役立ってこそ、意味がある。勘違いしてはいけない。
 ーー
 付加すると、第一。テレビのコメンテイターとして出てくる山口の発言は、全くかほとんど面白くないし、鋭くもない。
 <キャリアとノン・キャリアの違いがあることを知ってほしい>との自分の経歴にもとづくコメントとか、サザン・オールスターズの曲でどれが好きかと問われて、<そういうのではなくて、論理・概念の方が好きだったので…>と答えていたことなど、かなり奇矯な人だと感じている。これらの発言は、2016-2020年の間だろう。
 第二。一冊だけ読んだ本での最大の驚きは、「試験に役立つ・試験に必要な知識」を得るための読書と、その他一般の読書をたぶん中学生・高校生のときから明確に区別していたこと。
 大学入学後も、受講科目についての「良い成績」取得と国家公務員試験の「良い成績での合格」に必要な知識とそれらと無関係な(余計な?)知識とを峻別してきたのではないか。
 これでは、<自分の頭で考える>、茂木健一郎が最近言っているようなcreative な頭脳・考え方は生まれない。
 山口真由だけに原因があるというのではなく、その両親や友人、出身高校等、そして「戦後教育」の全部ではないにせよ、重要な一定の側面に原因があるに違いない。
 よってもちろん、こうした<信仰>にはまった人々は、程度や現れ方は違うとしても、多数存在している。

1751/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書②。

 片山さつきが某テレビ番組でふいに「よけつれい」という語を出していた。
「よけつれい」とは、間違いなく<予算決算及び会計令>(勅令→政令、1947年。2017年最終改正)のことだ。
 何の説明もなくこんな言葉を発するとは、時間不足のためもあろうが、視聴者・庶民には分からないかもしれないが、知らないだろうが、という感覚も感じさせられて、愉快にはならない。
 山口真由は別の某テレビ番組で率直に?、「キャリア」・「ノンキャリア」という語を使って、両者の行政・公務員感覚の違いを述べていた。
 これはこれで、そのような観点からのコメントを聞かないので、よいだろう。
 しかし、言葉不足があって、むろん山口真由が知らないはずはないが、財務省(・理財局)と同省近畿財務局の違いが「キャリア」と「ノンキャリア」の違いに該当するかのごとき誤解を生じさせかねなかった。
 本省にも「ノンキャリア」はいるし、近畿財務局にも「キャリア」はいる。
 「キャリア」組が<地方支分部局>の長を経て(渡り歩いて?)地方の実情と現場も知って(?)いずれ本省に戻ってくる、というのは、よく知られる。
 森友問題時代の近畿財務局長の迫田?という人物はいま、財務省の別の局長らしい。
 その他、八幡和郎も含めて、森友問題あるいは決裁文書改竄にかかる元「キャリア」のコメントを知るのは、なかなか面白い。
 さすがに行政経験からもよく知っている(ある範囲の問題については)と思うが、「上級行政官僚だった」ことについての<矜持>(・誇り)らしきものも、人によって同一ではないが、垣間見えて、この点も興味深い。
 ついでに書くと、第一に、文書処理に関して<公文書管理法>という法律に焦点があてられている印象もある。しかし、国会との関係以外に直接に対国民でも重要な関係法律に、<(行政機関)情報公開法>がある。
 これによると、「決裁」済み文書のみならず、<組織として行政のために用いた、用いている>文書(電子情報もこの場合は含む)も開示請求の対象になり、かつ、原則としては(この法律が定める「支障」等に該当する等の例外事由のないかぎり)請求者(国民)に開示しなければならない。
 第二に、<書き換え前>文書は「起案文書」あるいは「ドラフト(案)」ではなかったのか、という問題も提起されていたようだが、これは否定されたはずだ。
 なお、(最終)決裁文書に問題があるとすれば、もう一度決裁をやり直して、新しい、最々終の決裁文書を作成すればよいことになるはずだ(技術的な些細な修正ならやり直す必要もないかもしれない)。このことは否定できないだろう。
 しかし、<最々終の決裁文書>を作成しても、その前の<最終の決裁文書>の存在を否定・消去できるわけではない。
 本当に最後の「決裁」文書でなくとも、存在していれば、上記のとおり、情報公開請求の対象にはなる。
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 「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。/
 繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。」
 池田信夫が適切に指摘しているように(3/14)、この安倍晋三首相国会答弁をどう<理解>するかは、同首相又は同夫人が「かかわっていた」とか「関係していた」という言葉の意味にかかわる。
 曲解しなくとも、言葉をふつうに理解するかぎりは、「かかわっていた」・「関係していた」ことにはなるだろう。
 「(直接の)働きかけ」とか、「直接の関与」という言葉を安倍晋三は用いなかったのだから。
 この答弁の当日(昨年2月)の報道によってだろう、随分と思い切ったことを言っているな、という感想を自分が抱いたことは明確に記憶している。
 したがって、この答弁の<正確な意味・意図>が問われなければならないし、また、少なくとも安倍首相の不用意・迂闊さ(あるいは傲慢・慢心?)は指摘されなければならないだろう。
 八幡和郎は、池田信夫と同じブログ・サイトで、つぎのように書く(3/13)。
 「森友問題の本質は、文書改竄ではない。籠池さんという厄介な人にいろんな人が振り回されて、苦し紛れに、少し安すぎるかもしれない価格で国有財産を売り渡したというだけのことである。」
 これは少し違う。第一に、決裁文書の扱い方、という<行政>上の基本問題がある。
 第二に、森友某氏の娘と結婚した籠池某氏という「厄介な人」が少なくともかつて「日本会議」に属していて(日本会議もこれを否定してはいない。日本会議大阪の役員だったようだ)、この籠池某氏が「日本会議」の名(知名度?、権威?)を少なくとも<利用>したことは間違いないだろう。
 そうでなければ、竹田恒泰や安倍総理夫人は関係する小学校での講演などしなかっただろう。ましてや、経緯はあっても、強く固辞しても、最終的に「名誉校長」にはならないだろう、と普通人の私は感じる。
 <政治>的には、森友問題は「日本会議」問題だ。「日本会議」問題としての森友問題なのだ。むろん、安倍首相と「日本会議」には「関係がある」ことが前提。
 だからこそ、日本共産党も朝日新聞も躍起になって突き、叩こうとしている。
 小川榮太郞が昨年以来の各種報道は<朝日新聞の謀略>だつたと言いたい気持ちは分かるし、実際に間違いなく、日本共産党や朝日新聞の<謀略>的な政治姿勢・報道姿勢はある(なお、朝日新聞社内には日本共産党の党員もいる)。
 しかしまた、<安倍晋三あるいは安倍政権は絶対に誤らない>はずだというのも、一つの<謀略>観に似た<思い込み・観念>なのであり、<反・朝日新聞>史観?・政治観?にだけ頼るのも、危険だ。
 小川榮太郞の書物を、森友問題の「勉強」のためにいま読んでいるのだが、この本の主張内容もまた、(興味深いという意味で)面白い。
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 なお、日本共産党と「日本会議」が(まして朝日新聞と「日本会議」が)真正面から対立しているとは、秋月瑛二は考えていない。そう理解してはいない。
 180度反対では全くなく、せいぜい45度以下の、30-35度程度の角度の開きしかないだろう。
 しかし、もちろん、「日本会議」-安倍晋三と朝日新聞・日本共産党が正面から対立している「ように見えている」現実はある、ということは承知している。
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