秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

小田村寅二郎

2219/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨ー25・26の再掲。

 再掲するが(よって27ではない)、一部は割愛。
 26ーNo.2125/2020年01月18日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、1.上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだ(但し、1943年に解散)。少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだ。しかし、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 なお、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 2. 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
 ----
 25ーNo.2060/2019年10月12日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。<2020年5月に引用割愛>
 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著に依拠している。以下の書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする。
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
 <一部、割愛>…、、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>
 ----
 以上。

2125/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨26。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。一昨年秋の指摘を、再度紹介しておこう。
 「わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、思い出すと、上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだが(但し、1943年に解散)、少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだが、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 追記すれば、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
 (なお、秋月は、竹内洋の書物を清水幾太郎関連も含めて多数所持し、多数読了すらしている)。
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 上の著で江崎が高く評価する(五箇条の御誓文-明治憲法-昭和天皇につながるとする)聖徳太子・<十七条憲法>関係部分について、前回の一昨年秋(2019年10/12)でこう記した。
 ・「江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方」だ。
 ・とすると、「江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする」。(!!)
 ・「①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていない」。「聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。/それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?」
 ・「さっぱり分からない。異常であり、異様だ」。
 小田村寅二郎、1914~1999。
 竹内洋はきっと、この人物の詳細を知らないだろう。また、江崎書(らしきもの)が戦後の小田村寅二郎がどう生きたのかをいっさい書かないのは、なぜだろうか。
 「生長の家」という言葉を出さざるをえないと見られる。江崎も書名を明記しているが、江崎が依拠しているのは、小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)だ。
 次回へと続ける。

2060/江崎道朗2017年8月著の無惨と悲惨25。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
 ----
 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
 ----
 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、前回に記したように、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著にに依拠している。つぎの書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。
 小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
 ----
 秋月は聖徳太子や十七条憲法に関する専門的研究者では全くないのだが、上の諸点とともにあるのは、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。
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