秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

小泉首相

2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
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 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
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 第三点へとつづける。

1299/日本共産党「海外で戦争できる国…」は2005年に。

 一 日本共産党の「海外で戦争できる国づくり」反対のポスターは、昨年末の総選挙時に初めて見かけたように思う。では「日本国領域内での戦争」ならばよいのか、と皮肉りたくなったものだったが。
 もっとも、このような決めつけ、レッテル貼りを、日本共産党は遅くとも2005年には行なっている。
 志位和夫・日本共産党はどんな党か(新日本出版社、2007)は、小泉純一郎首相時代の2005年に自民党第一次憲法改正草案が現九条2項の削除と「自衛軍」保持の明記を掲げたことに論及して、「憲法九条をかえる」、「とくに九条二項」の「戦力」不保持条項を変えて「自衛軍がもてる」ようにする「憲法改定の…ねらい」は、「海外での武力の行使」を可能にすること、「海外で戦争する国」にすることだ、という旨を明記している(p.57)。志位によれば、小泉首相はこの狙いを「ひた隠しに隠」しており、それは「一番知られたくないこと」なのだそうだ(同上)。
 また、上の書p.62は、志位和夫が2005年05月の時点で、<九条2項削除・自衛軍保持>の憲法改正は日本を「海外で戦争をする国」に「つくりかえることに道を開くもの」だと述べたことも記している。この「からくり」を「しっかり見破る」ことが大切なのだ、という(同上)。
 憲法改正(九条2項削除等)ではなく集団的自衛権行使容認等の憲法解釈をふまえた安保法制の整備に反対してであるが、日本共産党は遅くとも10年前には、現在と同じことを言っている。
 「戦争反対」について言えば、厳密には、自衛目的の正当な戦争もあると考えるので、「戦争」一般をすべて<悪>として否認する考え方は採らない。おそらくは日本共産党も、社会主義国の核は善、資本主義国の核は悪と見なしてきた時代もあったくらいだから、厳密には「戦争」一般を<悪>だとは考えていないはずだ。
 にもかかわらず「戦争」一般が<悪>であるかのごとく主張しているのは、第一に、日本国民に根強い<反戦・平和>の感情に媚び、それを取り込んで自分たちの勢力を少しでも拡大したいからだろう。
 あるいは第二に、自分たちとは異なる勢力が起こす「戦争」はつねに<悪>だ、と見なしているからだろう。自分たちとは異なる勢力とは、より正確には、日本共産党が綱領上「敵」と見なすアメリカ(帝国主義)とそれに従属した日本の「反動」勢力(>日本独占資本)だ。
 このような<堅い>考え方をしている政党の党首等と議論・討議しても、本当は時間が無駄なだけだ。建設的・生産的な議論になるはずがない。安倍首相らには、適当に(あるいは適切に?)<お相手をしてあげて>、とだけ申し上げたい。
 二 2015年05月28日の衆院平和安全法制特別委員会で、民主党の辻元清美は「日本が戦争に踏み切る基準の変更について議論しているのか」と質問の冒頭で述べたらしい。また、同党の後藤祐一は、「この法案は石油を求めて戦争を可能にする法案なのか」と述べたらしい。
 「戦争」という語を平気で用いて、国民の不安を煽っているのだろうこの二人のメンタリティもまた、日本共産党のそれとほとんど異ならないようだ。まともに議論しても、回答しても、おそらく意味がない。
 三 質疑の内容については、古森義久産経新聞5/30の「緯度経度」欄で「安保法制、日本の敵は日本か」と題して語っていることに、ほとんど異論はない。
 もっとも、古森の上のような適切な分析と批判を行なっても、日本共産党には何ら意味がないようだ。
 日本共産党は1998年に中国共産党と関係を修復して<社会主義をめざす>友好党になっている。中国共産党が率いる中国を正面から批判するはずがない。「日本を軍事的に威嚇し、侵略しようとする勢力」への「歯止め」(古森)をこの政党が問題にするはずがない。この政党にとってのリスク、いや「敵」は、上記のとおりアメリカと日本の安倍晋三たちなのだ。民主党の中にも、同党に移ってもよいような議員がいるのだろう。 

0781/資料・史料-2006.08.04「首相靖国参拝」朝日新聞社説。

 資料・史料-2006.08.04「首相靖国参拝」朝日新聞社説

 平成18年8月4日//朝日新聞社説
 
靖国参拝 嘆かわしい首相の論法
 靖国神社参拝にこだわり続けた5年間の、小泉首相なりの最終答案ということなのか。それにしては、なんともお粗末と言うほかない。
 3日付で配信された小泉内閣メールマガジンで、首相は年に1度の参拝に改めて意欲を示した。
 そのなかで「私の靖国参拝を批判しているマスコミや有識者、一部の国」に、こう反論している。「戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表すことはよいことなのか、悪いことなのか」
 悪いなどとは言っていない。私たちを含め、首相の靖国参拝に反対、あるいは慎重な考えを持つ人々を、あたかも戦没者の追悼そのものに反対するかのようにすり替えるのはやめてもらいたい。
 首相はこうも述べている。「私を批判するマスコミや識者の意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになる」
 これもはなはだしい曲解である。
 日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ。
 ただ、それは私たちが参拝に反対する理由のひとつに過ぎない。首相の論法はそれを無理やり中国に限定し、「中国なにするものぞ」という人々の気分と結びつけようとする。偏狭なナショナリズムをあおるかのような言動は、一国の首相として何よりも避けるべきことだ。
 その半面、首相が語ろうとしないことがある。あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀(まつ)る神社に、首相が参拝することの意味である。
 戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。国を代表する首相の靖国参拝は、その原点を揺るがせてしまう。だから、私たちは反対しているのである。
 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった。国民統合の象徴として、自らの行動の重みを考えてのことだったのだろう。もとより中国などが反発する前の決断だった。
 国政の最高責任者である首相には、さらに慎重な判断が求められる。
 憲法に関する首相の強引な解釈もいただけない。憲法20条の政教分離原則は素通りして、19条の思想・良心の自由を引き合いに、こう主張した。「どのようなかたちで哀悼の誠を捧(ささ)げるのか、これは個人の自由だと思う」
 19条の規定は、国家権力からの個人の自由を保障するためのものだ。国家権力をもつ首相が何をやろうと自由、ということを定めた規定ではない。
 こんなずさんな論法で、6度目の参拝に踏み切ろうというのだろうか。15日の終戦記念日に行くとも取りざたされるが、私たちはもちろん反対である。//

 *ひとことコメント-「憲法20条の政教分離原則」を持ち出すならば、歴代首相の正月の<伊勢神宮参拝>をも批判しないと論旨一貫しないのでは。

0738/2005年8-9月、朝日新聞は何と書いたか-吉川元忠=関岡英之・国富消尽(PHP)による。

 吉川元忠=関岡英之・国富消尽(PHP、2006)p.121-によると、朝日新聞は、2005年総選挙前の8/12社説でこう書いた。- 「党のリーダーが最優先の公約にしている政策なら、反対派を排除してでも実現しようとするのは当然だろう」。
 8/23社説でも、こう書いた。-「一つの法案に反対した前議員を容赦なく追いつめる」のは「非情と映るやり方ではあっても、自民党を政策本位の政党に造り替える豪腕だとも評価できる」。
 9/06社説は、小泉首相の任期延長待望論すら書いた。
 9/11の投票日当日の朝日新聞社説はこうだった-「小泉首相はこれまで見たことのない型の指導者だ。…単純だが響きのいいフレーズの繰り返しは音楽のように、聴く人の気分を高揚させる」。
 選挙結果は自民党296、民主党113、公明31、共産9、社民7等で、自公合わせて2/3以上の議席(327)を占めた。
 この結果は、小泉首相を「指導者」=Fuehrer=ヒトラーのように?褒め称えた朝日新聞の論調に多分によっていると思われる。与党が2/3以上の議席を獲得したからこそ憲法改正も現実的になり、続く安倍晋三政権の強い意向で教育基本法改正、防衛省設置法、憲法改正手続法も成立したのだから、こう指摘されるのは嫌だろうが、そもそもは「狂気の首相」を冷静に問題視できなかった朝日新聞社の論調自体に、教育基本法改正、防衛省設置法、憲法改正手続法を生んだ原因があった、とも言える。
 数年経って、小泉=竹中「構造改革」路線による、世界経済不況ものちに加わっての<格差拡大・失業率増加・非正規労働者の増加と不安定等>が語られる。
 朝日新聞はこうした現象を今日の問題だと、政治が生み出した「影」の部分、<弱者>を顧みない冷たい政治の結果等だと、主張している。
 だが、バカは休み休み言い給え、と言いたい。「小泉首相はこれまで見たことのない型の指導者だ。…単純だが響きのいいフレーズの繰り返しは音楽のように、聴く人の気分を高揚させる」と小泉首相を称揚しておいて、いかなる意味でも小泉政権の政策実施の結果と考えられるものを批判できるはずがない。
 批判するならば、2005.09.11等々の社説は誤りだったと取消して謝罪してから行うべきだ。経済理論・経済政策についてまともな知見を有していない朝日新聞は、適当に、ときどきの主流派の経済「思潮」に乗っかかって紙面を作り、社説を書いているだけだ。毎日700万の発行部数をもつ新聞がこうなのだから、情けないし、日本の進路も危ない。
 世襲(二世・三世)議員批判は、いま朝日新聞が手がけている<戦略>だろう。自民党に不利だからだ。単純にかかる議員がいけないとの結論にはならない、というのが私の意見。無視した方がよい。
 鳩山弟総務大臣と日本郵政社長の問題は、来る選挙も意識して報道されていると考えておいた方がよい。引きづり落としたい政党には小さなことでも悪い事は大きくかつ執拗に、伸ばしたい政党については重要で悪いことでもごく簡単に触れるのみ。
 こうした朝日新聞らのマスコミが醸し出す<雰囲気><空気>を読んで、<勝ち馬買い>意識をも持って、いわゆる<無党派>層は投票する。それが有権者の10%にすぎなくとも、大きな力をもち、選挙結果を左右する。<新聞民主主義>・<ワイドショー民主主義>(いずれも「大衆民主主義」で、<ポピュリズム>の別表現だが)は日本において極まっていそうだ。

0680/中西輝政「歴史は誰のものか」(月刊WiLL別冊・歴史通№1、2009)から・その1。

 一 月刊WiLL別冊・歴史通№1(ワック、2009春)を3月初めに買って、その翌日までにとりあえず、中西輝政「歴史は誰のものか」、櫻井よしこ「民族の物語としての歴史」、宮脇淳子「韓国人の歴史観は『絵空事史観』」、井沢元彦「歴史を『所有』しようとするのは誰か」、井尻千男・佐伯啓思の書評を読んだ。
 中西輝政「歴史は誰のものか」(p.48-)は平易に歴史は戦勝国、日本政府、マスコミ・出版界、歴史研究者・歴史家、同時代人のものではないことを書いている。部分的には<すさまじい>指摘もある。途中から要約的に紹介する。
 二 ・1982年の中曽根内閣誕生後、「おしんブーム」の1983年は戦後を含む近現代が「過去」になった年だったが、「本当の歴史がやっと見え始めた時」、それはもうすでに「昭和史」として「確立されてしまっていた」(p.56-57)。
 ・松田武・戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー(岩波)はアメリカの「左の方」の立場かもしれないが、アメリカが占領後も「いかに日本人の価値観や歴史観に細心の注意を払っていたか」、日本の再独立への時期からすでに「日本の知的エリートを系統的・組織的に”アメリカナイズ”し」、「いかにしてあの戦争の意味を忘れさせるか、または日本人の歴史観をアメリカの視点から見て許容範囲に納まるよう、日本の保守系の知識人や歴史家にいろんな働きかけをし、必死で『東京裁判史観』的な見方や価値観を日本社会に根付かせようという工作を行っていた」かが明らかにされている(p.57-58)。
 ・アメリカは種々の日米交流目的の財団を作り、諸学会に財政的支援もし、「フルブライト」等の奨学金制度も設け、「1950~60年代を通じ保守ないし中間的立場の親米派知識人をいかに養成するかという大戦略」を、占領終結から数十年「一貫して」行ってきた(p.58)。
 ここで自然と想起したのが、五百旗頭眞(1943-)だ。「フルブライト」奨学金によるのかどうかは分からないが、この人は1977~、と2002~の二度、ハーバード大学の客員研究員で、前者は30代半ばの数年間。別の機会に言及してもよいが、五百旗頭眞・日米戦争と戦後日本(講談社学術文庫、2005)の最初の方には、<アメリカに占領されてよかった>(だからこそ日本の経済的な成功もありえた)、日米戦争「ルーズベルト陰謀説」は荒唐無稽(論証抜き)、という旨が書かれてある。
 また、小泉首相の靖国参拝を批判したこと、昨秋は防衛大学校長としての立場で田母神俊雄論文を素っ気なく批判したことはよく知られている。島田洋一のブログによると、「拉致なんて取り上げるのは日本外交として恥ずかしいよ。あんな小さな問題をね。こっちは、はるかに多くの人間を強制連行しているのに」と(5、6年前に)五百旗頭は彼に語ったらしい。
 五百旗頭はコミュニスト又は親コミュニストではなく<保守ないし中間的立場>だとかりにしても、「左翼」に近い<親米リベラル派>ではなかろうか。そして、彼のような学者の誕生は、アメリカの大きな戦略の産物なのではないか、とも見られる。
 三 ・日本の「マスコミ・出版界」、「大手の出版社」は歴史については「一定の歴史観に沿った」ものしか出さない。「一定の歴史観」とは「東京裁判史観」、岩波新書・昭和史にはじまる「告発史観」で、吉川弘文館、山川出版、筑摩、平凡社、小学館、中央公論新社等々のものも「まだまだ圧倒的に」「東京裁判史観」だ。こうした状況はドイツと比べても異様で、「余りに一方に偏しすぎていて、公正でないだけでなく、はなはだ危険」だ(p.59-60)。
 四 ・「歴史家利権」というものがある。特定の解釈に立つ研究書等を出すと、新史料の発見等があっても無視して可能な限り変更を避けたいと考える人がいる。田母神俊雄論文が問題になったとき、「自らの権威を失いたくない」という姿勢が「はっきり見え」た「一部の昭和史研究家」もいた。
 ここで想起されたのは、秦郁彦。秦郁彦は月刊諸君4月号(文藝春秋)で田母神論文をめぐって西尾幹二と対談している。
 秦は最初の方で田母神論文の「全体的趣旨や提言については、私もさしたる違和感はありません」と語り、細部の理由付け・論拠のみを批判しているのかとも感じたが、全体を読み終えると「さしたる違和感はありません」とは一種のリップサービスの如きだ。そして、西尾幹二と異なり自分は「昭和史」の「専門家」だという自尊心をもっていることを感じさせる。
 秦郁彦は「職業的レーゾン・デートル」との言葉を用い、「現在、定説になっているのは専門家による第一次的な論証がなされたものであって、いまさら素人による議論では動かしがたい史実ばかりなのですから」とも発言する(上掲誌p.89)。
 秦郁彦がいかなる「専門家」教育・訓練を受けたのか調べてみたいところだが、それはともかく、秦は、「東京裁判」は「ほどほどのところに落ち着いた、比較的、寛大な裁判だった」との「感想」を語り(p.84)、再独立(主権回復)後の日本には憲法改正(九条破棄)の機会もあったのに、それをしなかったのは「東京裁判のせいでも、GHQのせいでもない。日本人自身に責任があるというべき」と語ってもいる(p.85)。
 上の後者は「左翼」がよく使う改憲論批判だ。「受容」したからこそ、形式・手続又は「正当性」に疑問があっても(機会はあったのに)改正しなかったのだ、という言い分になる。これは疑問で、また、憲法改正を主権回復後に「日本人」がしなかった背景には「東京裁判」史観というGHQが批判を許さず宣伝し、学校等で教育させた史観によって日本人に形成された「意識」もあるのであり、「東京裁判のせいでも、GHQのせいでもない」と断じることはできない(「日本人」に全く責任がないというつもりはない。例えば、GHQに迎合し「東京裁判史観」を広めた<進歩的知識人>が多数いたのだから)。
 やや離れたが、もう一人は「左翼」・保阪正康
 あらためて確かめはしないが、2006年夏に、保阪正康は、小泉首相の靖国参拝を、その「歴史観」・「歴史認識」の不十分さ・欠陥を理由として批判していた。自分は正確で詳細な戦前に関する「知識」や「歴史認識」をもっているのに、小泉首相にはない、というような、傲慢さが読み取れる批判の仕方だった。
 五 今回の最初の方で、中西輝政論考には部分的には<すさまじい>指摘もある、と書いたが、その<すさまじい>指摘にはまだ言及していない。別の回に譲る。
 それにしても、「歴史通」とは何と工夫のないタイトルだろう。「歴史通り(どおり)」と理解する人は少ないのかもしれないが、「歴史通」という言葉はやや分かりにくく、表紙の左上にやや大きく乗っていてもインパクトが足らない。他のタイトルを考えられなくはないが、創刊した以上、簡単には変えられないのが惜しまれる、とあえて記しておく。

-0047/田中真紀子の大醜態。小泉前首相による解任は大正解。

 前回のついでに書いておけば、現存「社会主義」国以外で「共産党」と称する政党が存在するのは日本の他、フランス、ポルトガルのみだ。かつ、実質的になおプロレタリアート独裁を標榜し組織論として民主集中制を残しているのは、某情報ソースによれば、日本共産党のみだという。まことに日本はユニークな国なのだ。
 国会論戦をニュースや録画も含めて見ていると、北朝鮮の核実験実施声明に言及したのは自民党・中川昭一のみで、民主党は何ら触れていないのでないか。この認識が正しければ、民主党は主として歴史認識を用いた「安倍いじめ」に関心があり、日本(国民を当然に含む)と東アジアの平和と安全に目を向けていないという致命的な失態を演じている。
 北朝鮮に関して拉致問題にのみ触れ核問題に具体的に言及しなかった田中真紀子の質問・発言は大醜態だった。安倍はなぜ一人ででも平壌に残って膝詰め談判の交渉を続けなかったのかとの質問には唖然とした。
 この人を菅直人の次に配した民主党のセンスを疑う。岡田克也の講和条約・「戦争犯罪人」に関する質問のあたりでは安倍の方が知識・思考が深いと感じた。岡田克也は一面的な知識・見解しか知らないために、安倍の答えに対して質問とほぼ同じことを反復するのみで有効に反撃できていない。もっとも、国会論戦の詳細と適切な評価が昨夜のテレビニュースや今日の新聞で紹介されているかは疑問だが。
 田中真紀子は自らが2003年10月に「拉致家族の子供は北朝鮮で生まれたから本来なら北朝鮮に返すべきじゃないですか」、「(拉致被害者の)家族の国籍は国際法上は北朝鮮籍。外務省も知っているはずで、日本帰国は難しいとはっきり言うべき」と発言し、家族会等から「田中氏はすぐに発言を取り消し、謝罪して政治家として完全に引退すべき」と抗議されたことを忘れてはいないだろう。安倍に対して何故もっと頑張らなかったのか旨をよく言えたものだ。
 それにこの人の発言には身内の講演会等であってはじめて許容されるような無意味な比喩的話が多すぎるし、「媚中」的言辞も気になる(民主党に接近しているのも解る)。
 小泉純一郎がこの人を外相にしていたとは今思えば信じ難い。明確な「論功行賞」的かつ失敗の人事だったが、大失態の発現の前に首を切っておいてよかった。

-0040/若宮啓文、有田芳生はいい名前だ。

 これまた古いが朝日の「いっそ…夢想する」で有名な若宮啓文が同紙8月28日のコラムで加藤紘一自宅放火という「テロ」に対する小泉首相等の反応の遅さを詰っている。拉致という明確な国家「テロ」の問題をとりあげるのは日朝国交正常化の「障害」と明記して横田滋氏等から総スカンを食った朝日が、再述すれば、国家「テロ」問題よりも国交正常化優先すべきとの見解だった朝日が、「テロとの戦いはどうした」という見出しのコラムを掲載する資格は全くない。
 何げなく有田芳生のサイトを見ていたら0912付の最後に「安倍の改憲を含む戦後の枠組み解体路線には断固として与しない」とあった。改憲問題は別として、「戦後の枠組み」とは一体何を意味しているのかが問題だ。常識的にみて、「戦後」の全てが良かったか悪かったかという問いは、従って「解体」に一括賛成か反対かの選択は無意味だろう。むろん、「進歩」があったことを否定しないが、しかし、有田の詳しいオウム事件・サリン事件や悪質少年犯罪事件はまさに「戦後」が生み出した現象でないか。「解体」との結論にならないとしても憲法・教育も含めた「枠組み」の妥当性を疑ってみること自体は大切だろう。
 渡部昇一=林道義=八木秀次・国を売る人びと(PHP、2000)を読了し、西尾幹二=八木秀次・新国民の油断(PHP、2005)を通読した。
 フェミニズム・ジェンダーフリー論の帰結のヒドさに愕然とした。有田は後者で紹介されている「自由な」教育も「解体」しないで維持したいのか。また、後者によると、エンゲルスは『…起源』で家庭内で夫は支配者でブルジョアジ-、近代家族は「プロレタリア-ト」たる妻の「家内奴隷制」で成立とまで書いていた。なるほど、マルクス主義とフェミニズムは「個人」のために「家族」を崩壊させる理論なのだ。そして、男女平等といった表向き反対しにくいテ-ゼが利用されて、「家族」の解体がある程度進行してしまっていることも感じる。その結果が、親の権威の欠如(=親子対等論)等々であり、「家族」の崩壊はオウム事件、悪質少年犯罪等と、さらに晩婚化・少子化とも決して無関係でないと考えられる。結局はマルクス主義の影響によってこそ、日本社会は大切なものを喪失してきたのだ。まさに「悪魔の理論」といえる。

-0031/親王ご誕生と大江健三郎・日本共産党・朝日新聞。

 皇太子・秋篠宮各殿下の次の世代に親王誕生。慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていて、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、と余計ながら思った。
 過日に言及した谷沢栄一の大江健三郎「告発」書を数日前に読了したが、この本の引用によれば大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。
 岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が今回彼のコメントを求めたら面白かったと思う。
 大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 ほぼ同じことは日本共産党についても言える。昼休みに読んだ朝日新聞の中で共産党書記長が祝意を示していたが、「民主主義革命」達成までの「当面のこと」と付言すべきだ。
 その朝日の1面左側のたしか解説委員記事中で、記憶に頼れば、皇室の「心」・見解も反映させて皇室典範改正すべきと主張していたが、昨秋以降、小泉の私的諮問機関の最終報告書(皇室典範の基本的改正案)に皇室の一部から疑義が出されたときに朝日新聞は<皇室はダマっていろ>旨を「慎む」という語を使ってかなり失礼に、恫喝的に、述べたのではなかったのか。
 日本共産党が「安定的」な皇位継承を確保するために…などと言い出したら奇妙なように、朝日がそのような目的の意見を言うのも本当は片腹痛い。「夏の甲子園」開催と同じく、存立のための「大衆」迎合のつもりなのだろう。
 朝日はかつての戦後50年村山首相談話を継承するか等と質問して「安倍いじめ」を相変わらず続けている。日本共産党の志位某は国内で横田夫妻に逢うこともなく韓国の政党関係者と逢い、彼らが喜ぶ「歴史認識」を述べている。この2団体の動きを知ると精神衛生に悪いが、未来は彼らにはないと達観し、楽観して生きていこう。


-0025/沖縄集団自決冤罪訴訟・大江健三郎など。

 2005年10月28日に大阪地裁法廷で朗読された沖縄集団自決冤罪訴訟の訴状要旨の最後は次のとおり(徳永信一・正論2006年09月号による)。
 「以上のとおり、被告大江健三郎が著した『沖縄ノート』を含む被告岩波書店発行の書籍は、沖縄戦のさなか、慶良間列島において行われた住民の集団自決が、原告梅澤裕元少佐あるいは原告赤松秀一の兄である亡き赤松嘉次元大尉の命令によるものだという虚偽の事実を摘示することにより原告らの名誉を含む人格権を侵害したものである。よつて、原告らは、被害の回復と拡大を防止するため、それらの出版停止、謝罪広告及び慰藉料の支払いを求めるものである」。
 原告側に有利な発言をする人物も近日登場したようである。
 すでに各所で言及されているが、小泉靖国参拝にかかる世論調査報道は各紙とも賛成・よかったが反対・よくなかったを上回っていたところ、なぜか最も遅かった朝日でも前者優勢と出た。49%対37%だ。0815前には昭和天皇発言にかかる富田メモ報道もあってか反対の方が多かった、「それなのに」と朝日中枢部はガックリしているだろう。が、朝日はメゲない。「小泉首相の<8・15参拝>は<よかった>49%、<するべきではなかった>37%で肯定的な見方が多いが、次の首相の靖国参拝となると一転、反対が増える。…7月調査の60%より少ないものの引き続き多数で…」(23日)。なんと、現首相については副文・従属節の中で触れ、主文・主節で次期首相については<反対が多いんだよ>と書いて、重点を自社に不利な前者にではなく後者に置いているのだ。さすがに「築地をどり」名取りは長年の経験によって多少のことでは悲観と失望を白状しないシタタカさを会得している。
 これまた旧聞だが、8月3日に韓国民族派極左政権の韓明淑首相は、<アジアには今でも日本により強制動員された「めぐみさん」が多数いる>と日本の記者に発言。事実かどうか極めて怪しい「強制連行」と北朝鮮の拉致を同一視することに唖然とするし、こんな人が首相とは韓国政府の性格とレベルを示している。だが、日本のマスコミはこの発言を「妄言」として何故抗議し、取消すまで紙面で頑張らなかったのか。朝日新聞は自国の過去・現在の非をあげつらうなら、なぜこの韓発言にも食いつかないのか。近隣諸国条項は日本の大半のマスコミにもあるようで、情けないこと著しい。

-0011/ロシアとどうなる?、買った本は全部読めるのか?

 ターミナルに出て10冊以上古書を買う。他に計10冊以上、配達された。
 読売社説。「ところが、…対中外交をどのように構築していくべきかについて首相は説明」せず-尖閣・油田・潜水艦等々外交上の問題は彼国が生み出しているのであり、社説子は小泉にいったい何をせよというのか。A級戦犯につき首相は「戦争犯罪人であるという認識…と国会で答弁」-この答弁は不用意で、取消し又は撤回されるべき、あるいは<東京裁判上の>との限定を施すべきで、この答弁は将来の議論の前提とされてはならない。
 同紙13面の保阪正康の文章-ここでも松平永芳宮司につきA級戦犯合祀の根拠を「特異な歴史認識」と批判している。が、東京裁判も「戦闘状態」の中でのものという理解は、講和条約発効まで米国等は日本を「敵国」視していることになるので十分に成り立ちうる。東京裁判の検察側証人は利敵行為をしていたことにとか、吉田内閣は占領軍の傀儡だったことにとかの批判は、批判の仕方として適切ではない。
 a物理的な戦闘終了=降伏文書交付まで、b「占領」期、c独立(といっても日米安保条約付きだったが)以降、の三期があるわけで、bを前後のどちらに近いものと見るかの問題である。そして、bはcよりはaに近いとの見方は十分に成立しうると思われ、「特異な」とかの批判はややエキセントリックに感じる。保阪はA級戦犯合祀に反対で、その「理論的」根拠を否定したいのだろうが、A級戦犯等を国内法的には「犯罪者」扱いしなくなったこととの関係はどう説明するのか。
 喫茶店で朝日を読んだ。靖国参拝問題のスペース多し。ついでに、加藤紘一自宅火災記事は1面中下。朝日に問うてみたいのは、戦争指導者としてのA級戦犯の合祀さえなくなれば問題はないのか?だ。B、C級戦犯には、映画「私は貝になりたい」にも見られるように一般人・庶民出身も多数含まれる。しかし、(B、C級戦犯も対象とした)東京裁判の全尊重という社是からすると、B、C級戦犯の合祀と彼らの靖国での慰霊・追悼も怪しからんということになるはずだ(中国の言い分も同じ。なお、B、C級戦犯の中には南京100人斬り競争したとの虚報による2軍人も含まれる)。どこか奇妙だとは思わないのだろうか。
 まあ、いい。朝日新聞には、重要な問題については朝日の主張と反対の主張を採択すべきとの歴史的教訓を生かせるべく、今後も健闘してもらわなければ困る。

-0010/61年めの記念日に二度めの日記でつぶやく。

 睡眠を経て、午後4時すぎ。終戦記念日の読売社説を読んで、朝日の13日の社説は読売の一部のパクリのごとくだと感じた。読売のように1年以上の検証を社内ですることなく、朝日は社説で唐突に、「責任」の有無や程度を一部の個人についてのみ言及したのだ。といって、読売社説に全部納得しているわけではない。朝日の世論調査報道のごとく、100%「侵略」戦争だったと100%の現国民が考えているわけではない。プラス面又は「自衛」面がかりにあったとすれば、論理的には「責任」者でなく「功労」者を検証すべきことになる。読売は「侵略」戦争一色史観なのか。
 小泉首相、午前早くに靖国参拝。昨年に比して方式がより本格的なのは、今年、靖国参拝違憲損害賠償請求訴訟につき最高裁が(合憲としたわけではないが)不法行為法(国賠法)上保護されるべき損害なしとして棄却したことが大きいと推測される。
 新聞社、半藤・秦・保阪等々が戦中史・戦後史について積極的に発言しているが、肝心のわが日本史学界(近現代史学界)=アカデミズムの人たちはいったい何をしているのか。かつて亀井勝一郎氏が批判して論争が生じた岩波新書・昭和史(1959、1995.05-56版)は1995年の増刷だが、依然として朝鮮戦争は南が北侵の旨記述する(p.276)。
 ソ連の同意と中国の了知のもとでの北の南侵が明瞭になっているのに、岩波と遠山茂樹・藤原彰等には「学問」的良心がなく、「知的退廃」がある。名誉毀損損害賠償訴訟を起こされなければ「嘘」の記述でも垂れ流して売るのだろう。このような人たちを指導教授とする親マルクス主義的研究者が多く育っていると思われ、「正常」化にはあと何世代か要するようで未来はただちには明るくない。
 松本健一は経済学部出身、故坂本多加雄氏は法学部出身。もっとも、非マルクス主義の通史シリーズもいくつかあるようで状況は少しは変わった。かつてヒットした中公の日本の歴史シリーズは直木孝次郎・黒田俊雄・井上清など「左翼」の多さが歴然としていたように思う。
 鈴木正四・戦後日本の史的分析(青木書店、1969)は「労働者階級の立場、マルクス主義の方法と観点」で書くと「まえがき」で宣言しつつ朝鮮戦争につき「少なくともいわば一万中の九九九九まで、アメリカが戦争をおこした疑いがきわめてこいという結論にたっした」と述べていた(p.114)。日本共産党員らしき研究者の体たらくを、今や嗤い、憐れむのみだ。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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