筆坂英世・悩める日本共産党員のための人生相談(新潮社、2008.11)。
目次等でわかる共産党員の悩み事・相談事は「赤旗」拡大の悩みとか党中央文書を読む必要性とかで、すでに共産党員ではなくなっている筆坂に尋ねても、また筆坂が回答しても無意味のようなものばかりだ。
ただ、―筆坂・日本共産党(新潮新書)は発刊後すみやかに全読了しているが―彼が除籍される直前(
2004年頃)までの日本共産党内部の実態は改めてよく分かるところもあり、興味深い部分もある(今回は省略)。
そもそも日本共産党員が悩むべきなのは、日本共産党という政党の存在意義、換言すれば、「社会主義」(→共産主義)を目指すという目標を設定することが<正しい>のか、だろう。コミュニズム、マルクス主義または日本共産党のいう「科学的社会主義」は<正しい>のか、でもよい。
とりわけ、冷戦終結(と私は考えていないが)をもたらしたとされるソ連共産党・ソ連の解体・崩壊は「社会主義」理論に、および「社会主義」運動に、いかなる影響または意味をもつかを、誠実な日本共産党員であれば、深刻に<悩み>、思考するのが自然だろう。
そのような「悩み」事は筆坂には寄せられなかったようだが、<「共産党」という名前に拘泥する必要はないのでは?>という趣旨の「相談」に対して、筆坂は相当に興味深い、思い切ったことを書いている。以下のごとし(p.184-187)。
①党指導部に「党名を変えろ」と主張するより、「もっと本質的な問いかけをすべき」だ。つまり、「マルクスから離れることは決定的な間違いなのか」、だ。
②日本共産党は「レーニンの時代は社会主義の道を歩んでいたが、スターリンになって大きく道を踏み外した」と言う。
だが、「一党独裁体制も秘密警察も、レーニンの時代に作られました」。「大きく道を踏み外す」、その「淵源は、マルクス、エンゲルスにもあった」。
「すべてをスターリンの責に帰す議論は、まったく公正ではありません」。
③「しかも」、日本共産党自身が「スターリン時代のソ連」を「社会主義だと規定」してきた。「計画経済や国有化、集団化に社会主義の姿を見てきたからこそ」のはずだ。
そういう「規定」を「そうではなかった」と「覆したのは、ソ連とソ連共産党が崩壊してから」だ。
「スターリン以降のソ連がマルクス主義、科学的社会主義と無縁の体制であったなら、なぜ長い間、日本共産党は見誤ったのか。人権抑圧も大量弾圧も、大国主義・覇権主義も、官僚主義も、ソ連崩壊以前から周知のことでした」。
④そういう理由で(「真の社会主義」ではなかったとして)「旧ソ連を切って捨てたのであれば、なぜいまの中国を日本共産党は批判しないのでしょうか。一党独裁、チベットなどへの侵略、人権弾圧、政治的民主主義の抑圧、大国主義など、その体制は旧ソ連と何ら変わりません」。
それなのに日本共産党は、「何一つ批判しないどころか」、「中国共産党はマルクス主義の立場を真面目に追求している」と「評価さえ」している。
⑤「科学的社会主義」と言ったところで「実態は単なるご都合主義」だ。資本主義→社会主義は「歴史的必然」という論も「現実を見れば仮説でしかなかったことは明瞭でしょう」。マルクス主義から「離れる」ことで「良い社会」ができればいいのではないか。それを日本共産党ができれば、「政党名云々などは瑣末な問題にすぎません」。
筆坂がどの程度正確に日本共産党の主張・見解を紹介しているかは、厳密には疑っておいてよい。例えば、日本共産党は、ソ連の「大国主義・覇権主義」に対する批判はソ連共産党・ソ連の解体・崩壊前から行っていた、と反論するかもしれない。
しかし、気になる点はないことはないが、上の②と③は私がこの欄に書いてきたことと基本的趣旨に変わりはなく、まことに堂々と筆坂は日本共産党を批判している、と感じる。
日本共産党は「レーニンの時代は社会主義の道を歩んでいたが、スターリンになって大きく道を踏み外した」と言うが、「一党独裁体制も秘密警察も、レーニンの時代に作られ」たのではないのか?、「スターリン以降のソ連がマルクス主義、科学的社会主義と無縁の体制であったなら、なぜ長い間、日本共産党は見誤ったのか」?と、心ある、まともな神経のある日本共産党員ならば<悩む>べきだ。そして、党中央の主張・見解を疑い、可能ならばすみやかに離党すべきだ。一度しかない人生、大ボラの体系の、一種の<宗教>の信者として過ごすのは一刻も早く、止めた方がよい。
上の④は、強くは意識していなかったが、なるほどと思わせる。
日本共産党は中国共産党との関係の再修復を歓迎し、それを党中央の「成果」だと評価している。そして、現在の世界情勢を語る場合、大人口をもつ中国も含めて(その他、ベトナムやキューバ等を加えて)、社会主義または親社会主義の国々は世界の1/3か1/4を占めている(日本共産党の文献で確認することを省く)と「豪語」して、<社会主義>勢力が衰退していないことの証拠としている。
日本共産党は<自主・独立>の党のはずだが、今や、中国共産党とその支配する中華人民共和国は、その存在・存続自身が、日本共産党の存在にとっても不可欠になっているようだ。
ソ連が崩壊し、中国まで共産党支配国でなくなってしまったら、いくら再び<毛沢東(あるいは鄧小平?)以来ずっと、中国は「真」の社会主義を目指す国ではなくなっていた。日本共産党だけは「正しい」社会主義を追求する>などと後から言ったところで、党員も含めて誰も(一部の幹部を除いて?)信じないだろう。
こうした状況では、筆坂が指摘するように、日本共産党は中国(共産党)の悪い側面を指摘・批判することができないようだ。そういう面を知ってはいても、とりわけ中国の<社会主義的市場経済>の進展・発展ぶりに期待する文章を志位和夫か不破哲三が書いていたのを読んだことがある。
<屈中・媚中・親中>は、日本共産党にも(日本共産党こそが?)あてはまる。
その意味では、上のように書く筆坂は、小沢一郎や鳩山由紀夫、民主党よりも、まっとうな感覚を持っている。チベット問題は「内政」問題だとしてコメントを避ける岡田外相よりも優れている。
筆坂が離党したのは2005年7月で(57才になる年で)、それまでは、日本共産党と「科学的社会主義」の諸文献を読んで生きてきたに違いない。したがってそれまでは、<日本>という国家の特性、<日本>の歴史・文化・伝統等に関心をもったことはほとんどなかっただろう。
したがって、筆坂が天皇・皇室に関して、どういう考えを持っているかも知ることはできない。離党してから、小泉信三「共産主義批判の常識」(p.181~で言及)以外にどんな本を読んだだろうか。
だが、私とほとんど同い年で、長くはないがまだ<人生>はあるだろう。たくさんの本に目を通しつつ、日本共産党員であり続けていれば不可能だったように、彩りと潤いと、美しさと静穏さと、様々なものを感受しながら、残りの人生を全うしてしていただきたいものだ。
小泉信三
林健太郎氏、清水幾太郎氏の本の一部を読んで感じるのは、人の「思想」の変化・遍歴だ。
林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。
林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。
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