秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

宮崎哲弥

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1241/宮崎哲弥が「リベラル保守」という偽装保守「左翼」を批判する。

 宮崎哲弥が週刊文春1/16号(文藝春秋)で「リベラル保守」を批判している。正確には、以下のとおり。
 「最近、実態は紛う方なき左翼のくせに『保守派』を偽装する卑怯者が言論界を徘徊している」。「左派であることが直ちに悪いわけではな」く、「許し難い」のは、「『リベラル保守』などと騙って保守派を装う性根」だ(p.117)。
 宮崎は固有名詞を明記していないが、この批判の対象になっていることがほぼ明らかなのは、中島岳志(北海道大学)だろうと思われる。
 中島岳志は自ら「保守リベラル」と称して朝日新聞の書評欄を担当したりしつつ、「保守」の立場から憲法改正に反対すると明言し、特定秘密保護法についてはテレビ朝日の報道ステ-ションに登場して反対論を述べた。明らかに「左派」だと思われるのだが、西部邁・佐伯啓思の<表現者>グル-プの一員として遇されているようでもあり、また西部邁との共著もあったりして、立場・思想の位置づけを不明瞭にもしてきた。だが、「左翼」だと判断できるので、西部邁らに対して、中島岳志を「飼う」のをやめよという旨をこの欄に記したこともあった。
 「リベラル保守」または「保守リベラル」と自称している者は中島岳志しかいないので、宮崎の批判は、少なくとも中島岳志に対しては向けられているだろう。
 適菜収も、維新の会の協力による憲法改正に反対すると明言し、安倍晋三を批判しているので、月刊正論(産経)の執筆者であるにもかかわらず、「実態は紛う方なき左翼」である可能性がある。但し、宮崎哲弥の上の文章が適菜収をも念頭においているかは明らかではない。なお、産経新聞「正論」欄執筆者でありながら、その「保守」性に疑問符がつく政治学者に、桜田淳がいる。「保守」的という点では、さらに若い岩田温の方にむしろ期待がもてる。
 ところで、宮崎哲弥は「自らのポリティカルな立ち位置」を明確にするために、「リベラル保守」を批判しており、自らは「保守主義者」を自任したことはなく、「あえていえばリベラル右派」だと述べている。そして、安倍政権を全面的に支持するわけでは全くないが、特定秘密保護法に対する(一定の原理的な)「反対論には到底賛同できない」とする。単純素朴または教条的な?「保守」派論者よりは自分の頭で適確によく考えているという印象を持ってきたところでもあり、自称「保守主義者」でなくとも好感はもてる。また、「仏教」・宗教に詳しいのも宮崎の悪くない特徴だ。もっとも、彼のいう「リベラル」の意味を必ずしも明確には理解してはいないのだが。
 同じ「リベラル」派としてだろう、宮崎は護憲派でありながら特定秘密保護法に賛成した(反対しなかった)長谷部恭男(東京大学法学部現役教授)に言及している。この欄で長谷部は「志の低い」護憲論者(改憲反対論者)としてとり上げたことがある。長谷部が特定秘密保護法反対派に組みしなかったのは、この人が日本共産党員または共産党シンパではない、非共産党「左翼」だと感じてきたことと大きく矛盾はしない。長谷部恭男が特定秘密保護法に反対しなかったことは、憲法学界で主流的と思われる日本共産党系学者からは(内心では)毛嫌いされることとなっている可能性がある。その意味では勇気ある判断・意見表明だったと評価しておいてよい。
 宮崎哲弥が長谷部恭男の諸議論をすべてまたは基本的に若しくは大部分支持しているかどうかは明らかではない。
 ヌエ的な中島岳志を気味悪く感じていたことが、この一文のきっかけになった。

1186/2013参院選挙前のいくつかの新聞社説等。

 1.朝日新聞7/17社説は「参院の意義―『ねじれ』は問題か」をタイトルにしている。内容を読むと参議院の存在意義に触れてはいるのだが、<ねじれは問題か>と問い、「衆院とは違う角度から政権の行き過ぎに歯止めをかけたり、再考を促したりするのが、そもそも参院の大きな役割のはずだ。その意味では、ねじれ自体が悪いわけではない」と答えているのは、いかにも陳腐で、<ねじれ解消>を訴える自民党や公明党に反対したい気分からだけのもののようにも見える。

 一般論として「ねじれ」の是非を論じるのが困難であることはほとんど論を俟たないと思われる。問題は、「ねじれ」によって何が実現しないのか、にあるのであり、その「何」かを実現したいものにとっては「ねじれ」は消極的に評価されるが、その「何」かを阻止したい者にとっては「ねじれ」のあることは歓迎されるだろう。朝日社説はこの当たり前のことを言っているだけのことで、かつ現在において「ねじれ」は「悪いわけではない」と指摘しているのは、実践的には、衆参両院における自公両党の多数派化に反対したいという政治的主張を、朝日新聞だから当たり前のことだが、含むことになっている。

 2.毎日新聞7/20社説、論説委員・小泉敬太の「参院選/憲法と人権」はかなりヒドい。現憲法と自民党改憲案の人権条項(諸人権の内在的制約の根拠の表現)における「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を比較して、前者は「一般に、他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際に考慮すべき概念」とされるが、後者は「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と明記している。

 「公共の福祉」とは「他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際」の考慮要素だとは、いったい誰が、どの文献が書いていることなのだろう。「公共」という語が使われていることからも明らかであるだろうように-<多数の他人>の利益が排除されないとしても-「社会公共」一般の利益または「国家」的利益との間の調整を考慮すへきとする概念であることは明らかではあるまいか。

 自民党改憲草案にいう「公益及び公の秩序」を批判したいがために毎日新聞社説は上のように書いているのだが、この欄でかつて自民党案の表現は「公共の福祉」を多少言い換えたものにすぎないだろうと書いたことがある。
 この点には私の知識および勉強不足があり、最初は 
宮崎哲弥のテレビ発言で気づいたことだったが、産経新聞7/09の「正論」欄で八木秀次がきちんと次のように書いていた。
 改憲反対派は「基本的人権の制約原理として現行憲法が『公共の福祉』と呼んでいるものを、自民党の憲法改正草案が『公益及び公の秩序』と言い換えたことについても、戦時下の国家統制を持ち出して、言論の自由を含む基本的人権が大幅に制約されると危険性を強調する。自民党案は、わが国も批准している国連の国際人権規約(A規約・B規約)の人権制約原理(「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」)を踏まえ、一部を採ったささやかなものに過ぎないのに、である」。 
 「公益及び公の秩序」とは国際人権規約が明示する人権制約原理の一部にすぎないのだ。
 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、現憲法以上に「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と自民党改憲案を批判している毎日新聞は、ほとんどデマ・捏造報道をしているに等しいだろう。問題・論点によっては「左翼」が必要以上にその内容を好意的・肯定的に援用することのある「国際人権規約」の基本的な内容くらい知ったうえで社説が書かれないようでは、ますます毎日新聞の<二流・左翼>新聞ぶりが明らかになる。

 毎日新聞の上の社説の部分は、最近に、<憲法は国民が国家(権力)をしばるもの、法律は国家(権力)が国民をしばるもの>と書いた朝日新聞社説とともに、見事に幼稚な<迷言>・<妄論>として、両社にとっての恥ずかしい歴史の一部になるに違いない。
 3.ついでに(?)、産経新聞7/19の「正論」欄の百地章「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」にも触れておこう。

 樋口陽一が代表になった(9条の会ならぬ)「96条の会」というのが設立され、96条の改正要件の緩和に反対する樋口陽一らの講演活動等がなされている、という。いくつかの大学等でのその講演集会をかなり詳しく報道し続けているのが朝日新聞で、さすがに朝日新聞は自らの社論に添った運動・集会等には注目して記事にするという政治的な性癖をもつ政治団体だと思わせる。かつての、松井やよりや西野瑠美子らの、いわゆる「天皇断罪戦犯法廷」(NHKへの安倍晋三らの圧力うんぬんという<事件>のきっかけになった)について事前にも朝日新聞記者の本田雅和らが熱心に記事で紹介していたことを想起させる。
 上の一段落は百地論考と無関係だが、百地によると、憲法96条改正反対論に対する反対論・疑問論を提起する者として、大石眞(京都大学教授-憲法学)、北岡伸一(東京大学名誉教授)がある。また、96条先行改正には反対の小林節(慶応大学教授-憲法学)も、「9条などの改憲がなされた後なら、96条の改正をしてもいい」と発言している、という。
 大石眞の読売新聞上のコメントは読んでいるが、上の程度に紹介しておくだけで、ここではこれ以上立ち入らない。立憲主義なるものと憲法改正要件とは論理的な関係がないのは自明のこと。現役の京都大学教授の読売上での発言は、失礼ながら百地章の産経上の文章よりも影響力は大きいのではないか。
 百地章は以下の重要なことを指摘しており、まったく同感だ。 
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか

 この欄で、自民党改憲案も現9条1項はそのまま維持している、「9条の会」という名称は9条全体の改正を改憲派は意図しているという誤解を与えるもので(意識的なのかもしれない)、正確に「9条2項の(改正に反対する)会」と名乗るべきだ等、と書いたことがある。
 百地章も少なくとも最近は漠然と「9条」ではなく「9条2項(または論旨によって1項)」と明記するようになっているようで、まことに適切でけっこうなことだ。また、上のような「新聞やテレビ」の世論調査の質問の仕方は今の日本の「新聞やテレビ」の低能ぶりまたは「左翼」性を明らかにしている証左の一つだろう。  

1170/読売新聞の憲法9条解釈の説明と宮崎哲弥の憲法論と…。

 〇読売新聞4/17朝刊の「憲法考1」はさすがに?適切に現憲法9条の解釈問題を説明している。
 まず、9条1項でいう「国際紛争を解決する手段として」の戦争は「政府・学説(多数説)は侵略戦争と解釈する。自衛戦争は放棄していないことになる」、と的確に説明している。この点をかなり多くの国民は誤解している可能性があり、産経新聞の社説ですらこの点を知らないかのごとき文章を書いていた。
 「自衛権の行使」ではなく「自衛戦争」も現憲法上許されないのは9条2項による。この点にも読売は触れている。自民党の改憲草案も9条1項は残し、同2項を削除し、「国防軍」の設置を明記するために9条の2を新設(挿入)することとしている。
 改正されるべきなのは現9条全体なのではなく、9条2項であることを、あらためて記しておく。

 つぎに、読売の上記記事は、現9条2項の冒頭の「前項の目的を達成するため」(いわゆる芦田修正)につき、これを「根拠に自衛のための戦力保持を認めれば簡単だったが、政府はそうしなかった」、と説明している。これも適切な説明であり、学説(多数説)もそうではないか、と思われる。
 いわゆる芦田修正の文言を利用すれば、9条1項で禁止される侵略戦争のための「戦力」等のみの保持が禁止されることとなり、自衛戦争目的に限定された軍隊の保持は許容される(禁止されていない)こととなるのだが、そのようには芦田修正(追加)文言は利用されなかった。
 芦田修正文言を知って、将来の軍備保持の日本側の意欲を感じたGHQは「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という現66条2項を挿入させたと言われているが、自衛目的ですら「軍」の保持が禁止されれば「軍人」・「武官」は存在しないはずなのであるから、「文民」を語るこの66条2項は奇妙な条文として残ったままになった(どの憲法教科書も奇妙な、または苦しい説明をしているはずだ。「文民統制」うんぬんは後付けの議論)。
 結果として、芦田修正(追加)文言は、政府や多数学説において実際には意味がないものとして扱われることになった。常識的な日本語文の読み方としては、じつはこちらの方が奇妙なのだが。
 ともあれ、上の二点くらいは広く国民の常識となったうえで現憲法9条の改正問題は議論される必要があるだろう。

 〇宮崎哲弥が週刊文春4/25号(文藝春秋)の連載コラムで朝日新聞4/11天声人語を使って橋下徹の憲法観を紹介し、賛同するかたちで「憲法とは、国家が国民を縛るためのものではなく、国民の名において『国家権力を縛る』ためにあるのだ。私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」と書いている(p.123)。

 宮崎が批判している例を読んでいて、かつて社共(といっても分からない者が増えているかもしれない。日本社会党と日本共産党)両党に支えられた京都府知事・蜷川虎三が唱えて府庁舎にも垂れ幕が懸かっていたらしい「憲法をくらしの中に生かそう」も、間違った憲法観にもとづくものだったような気がしてきた。
 それはともかく、宮崎哲弥(や橋下徹)の理解に反対する気はとりあえずないが、「私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」とはご苦労なことで、またそれほどに自慢・強調するほどのことなのか、という気もする。
 
 また、朝日新聞・天声人語の<法律は国家が国民を縛るもの>という理解は誤りであることを過日この欄で書いた、この点に宮崎は触れていない。

 さて、親愛なる宮崎哲弥にあえてタテつくつもりはないが、<憲法は国民が国家を縛るもの>という理解の仕方も、何とかの一つ覚えのように朝日新聞の記者等がしばしば述べてはいるが、多少は吟味の必要がある。

 第一に、あえて反対するつもりはとりあえずはないが、上のような理解は「近代憲法」観とでもいうべき、欧米産の憲法理解を継承しているのであり、日本には日本の独自の「憲法」理解があっても差し支えはない、と考えている。欧米の憲法観が国家や時代を超えて普遍的なものだとは私は思わない。
 第二に、<憲法は国民が国家を縛るもの>というだけの-最近にテレビ朝日系報道ステ-ションに出ている朝日新聞の者が(何とかの一つ覚えのように?)述べて憲法現96条の改正に反対する根拠にしていたようでもあるが-単純な理解では済まないような気がする。
 これだけの言辞からは、(上の朝日新聞の解説委員?のように?)それほど大切なものだから簡単に変えてはいけないとか、現憲法99条により公務員には(大臣・国会議員を含む)憲法尊重擁護義務があるから大臣等は憲法改正を語ってはいけないととかの、誤りであることが明白な言説が出てこないともかぎらない。

 当然にもっと書く必要があるが、長くなったので、次の機会に回す。

1116/憲法・「勤労の義務」と自民党憲法改正草案。

 〇憲法や諸法律の<性格>について、必ずしも多くの人が、適確な素養・知識をもっているわけではない。
 憲法についての、「最高法規」あるいは<最も重要な法>・<成文法のうち国家にとって重要な事項を定めたもの>といった理解は、例えばだが、必ずしも適切なものではない。
 また、憲法に違反する法律や国家行為はただちに無効とは必ずしもいえない(そのように表向きは書いてある現憲法の規定もあるが)。そして、国民間(民間内部)の紛争・問題について、憲法が直接に適用されるわけでも必ずしもない。これらのことは、おそらく国民の一般教養にはなっていないだろう。
 塩野七生・日本人へ/リーダー篇(文春新書、2010)は「法律と律法」について語り(p.42-)、憲法はこれらのうちいずれと位置づけるのかといった議論をしているが、ボイントを衝いてはいないように思われる。失礼ながら、素人の悲しさ、というものがある。
 保守系の論者の中に、現憲法は国民の権利や自由に関する条項が多すぎ、それに比べて「義務」(・責務)に関する規定が少なすぎる、との感想・意見を述べる者もいる。櫻井よしこもたしか、そのような旨をどこかに書いていた。
 宮崎哲弥週刊文春5/17号の連載コラムの中で、「憲法の眼目は政府や地方自治体など統治権力の制限にあり、従って一般国民に憲法に守る義務はない」と一〇年近く主張してきたと書いている。この主張は基本的な部分では適切だ。
 もっとも、憲法の拘束をうける「統治権力」の範囲は、少なくとも一部は、実質的には「民間」部門へも拡大されていて、その境界が問題になっている(直接適用か間接適用かが相対的になっている)。
 上の点はともあれ、国家(統治権力)を拘束することが憲法の「眼目」であるかぎり、<国民の義務>が憲法の主要な関心にはならないことは自明のことで、「義務」条項が少なすぎるとの現憲法に対する疑問・批判は、当たっているようでいて、じつは憲法の基本的な性格の理解が不十分な部分があると言えるだろう。
 〇その宮崎哲弥の文章の中に、面白い指摘がある。この欄ですでに言及した可能性がひょっとしてなくはないが、宮崎は、現憲法27条の国民の「勤労の権利」と「勤労の義務」の規定はいかがわしく、「近代憲法から逸脱した、むしろ社会主義的憲法に近い」と指摘している。宮崎によると、八木秀次は27条を「スターリン憲法に倣ったもの」と断じているらしい(p.135)。
 現憲法24条あたりには、「個人」と「両性の平等」はあるが「家族」という語はない。上の27条とともに、現憲法の規定の中には、自由主義(資本主義)諸国の憲法としては<行きすぎた>部分があることに十分に留意すべきだろう。
 自民党の憲法改正草案の現憲法27条対応条項を見てみると(同じく27条)、何と「義務を負ふ」が「義務を負う」に改められているだけで、ちゃんと「勤労の義務」を残している(同条1項)。
 もともとこの憲法上の「勤労の権利・義務」規定がいかなる具体的な法的意味をもちうるかは問題だが、<社会主義>的だったり、<スターリン憲法>的だとすれば、このような条項は削除するのが望ましいのではないか。
 旧ソ連や北朝鮮のように<労働の義務>が国家によって課され、国家インフラ等の建設等のための労働力の無償提供が、こんな憲法条項によって正当化されては困る(具体化する法律が制定されるだろうが、そのような法律の基本理念などとして持ち出されては困る)。また、女性の子育て放棄を伴う<外で働け(働きたい)症候群>がさらに蔓延するのも―この点は議論があるだろうが―困る。
 自民党の憲法改正意欲は、九条関係部分や前文等を別とすれば、なお相当に微温的だ。<親社会主義>な部分、<非・日本>的部分は、憲法改正に際して、すっぱりと削除しておいた方がよい。

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

0863/月刊正論5月号と週刊新潮4/15号(新潮社)から。

 〇潮匡人のコラムの後半(月刊正論5月号、p.51)をあらためて読んでいて、この人が言いたいのは、次のようなことなのだろうか、とふと思った。

 <兼子仁著は、新地方自治法によって国と自治体が「対等」になったとする、つまり地方自治体も国と同様に、かつ国と対等の「権力」団体になった。とすれば、外国人に「国政」参政権が認められないならば、国と「対等」の地方自治体についても、国の場合と同様に外国人参政権は認められないのではないか。>
 これは分かり易い議論・主張のようでもある。だが、かりに潮匡人の主張の趣旨がこのようなものであるとすれば、基本的なところで、やはり無理がある。

 第一に、地方公共団体が国と同様の「統治団体」(または「権力」行使ができる)団体・法人であること、広い意味では地方公共団体もまたわが国の<統治機構>・<国家機構>の一つであること、は戦後(正確には日本国憲法施行後または独立回復後)一貫して認められてきたことであり、2000年施行の改正地方自治法によってはじめてそうなったのではない。
 第二に、地方公共団体と国の「対等」性とは、基本的にそれぞれの行政機関は上下関係には立たないということを意味し、立法権能レベルでは国の法令は地方公共団体の条例に対して優位に立つので(憲法94条参照)、そのかぎりでは決して「対等」ではない。法律自体が「地方自治の本旨」に沿うように旨の注意書き規定が2000年施行の改正地方自治法で新設されたが、合憲であるかぎりは法律の方が条例よりも「上」位にあることは、改正地方自治法の前後を通じて変わりはしない。

 第三に、国と地方自治体(地方公共団体)の「対等」性が、それぞれの議会の議員等の選挙権者の範囲を同一にすべし、という結論につながるわけでは必ずしもない。法律のもとでの「対等」性、とりわけ法的にはそれぞれの行政機関間に上下の指揮監督関係はないということ、と議会議員(や地方自治体の長)の選挙権者の範囲の問題は直結していない。

 かりに潮匡人が上の第一、第二のことを知らないとすれば、幼稚すぎる。かりに日本の地方自治制度を岩波新書(兼子仁著)あたりだけで理解しているとすれば、あまりに勉強不足だろう。
 かりに潮匡人が上の第三のように考えているとすれば、単純素朴すぎる。結論はそれでよいかもしれないが、(いつか何人かの憲法学者の議論を紹介するが)外国人地方参政権付与に賛成している論者に反駁するには弱すぎる。議論はもう少しは複雑だと思われる。

 〇期待もした、長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」(月刊正論5月号)はかなり不満だ。しばしば言及されてきた当人の文章なので読む前には興味を惹くところがあった。しかし、最初の方だけが憲法学者らしい文章で、あとは、政治評論家の如き文章になっている。つまり、憲法研究者としての分析・検討・叙述がほとんどない。最高裁平成7年2月28日判決への言及すらない。

 憲法学者ならばそれらしく、憲法学界での「外国人選挙権」問題についての学説分布などを紹介してほしかったものだ。民主党の政策を批判するくらいは、長尾でなくともできるだろう。1942年生まれで今年に68才。もはや<現役>ではないということだろうか(だが、現在なお中央大学教授のようだ)。

 〇週刊新潮(新潮社)はもっとも頻繁に購入する週刊誌。4/15号もそうだが、また、他の週刊誌についても同様だが、まず初めにすることは、広告および渡辺淳一の連載コラム等々で表裏ともに不要と考える部分を<ちぎって破り捨てる>こと。半分程度に薄くなり軽くなったものを(主要部分を読んだあとで)保存するようにしている。

 渡辺淳一のコラムをいっさい読まず<破り捨てる>対象にし始めたのは、渡辺の田母神俊雄問題に関するコメントがヒドかった号以来。したがって、一昨年秋以降ずっと、になる。この週刊誌を買っても、それ以降は渡辺の文章はまったく読んでいない。

 田母神俊雄論文を渡辺は、<日本は侵略戦争という悪いことをした>という<教条的左翼>の立場で罵倒していた。その際に<戦争を私は知っているが…>ということを書いていた。

 なるほど私と違って、戦時中の苦しさを実感として知っているのかもしれない。だが、1933年10月生まれで敗戦時にまだ11才の少年だった渡辺に、あの戦争の<本質>の何が分かる、というのだ。この人も、占領下の<日本は悪かった>史観の教育によって左巻に染められた、かつての「小国民」だったのだろう。

 〇渡辺淳一の2頁分のコラムに比べて、昨年あたりから始まった1頁に充たない、藤原正彦の文章(巻頭の写真付き連載の「管見妄語」)の、内容も含めての美しさ、見事さ、そして(とくに皮肉の)切れ味は、ほとんどの号において素晴らしい。
 渡辺淳一と、別の週刊誌にコラムを連載している宮崎哲弥と、週刊新潮・新潮社は交代させてほしい。

 〇4/15号の櫻井よしこ連載コラムは「朝鮮高校の授業料無償化は不当だ」。

 こんなまともな意見もあるのに、朝日新聞は仕方がないとしても、読売や毎日新聞の社説は問題視していない(朝鮮高校も対象とすることに賛成している)らしいのはいったい何故なのだろう。

 これまた、<ナショナルなもの>の忌避・否定、<日本(人)だけ>という排他的?考え方をもちたくない、という現代日本の<空気>的な心情・情緒に依っているのではないだろうか。

 社民党・福島瑞穂的な<反ナショナリズム>・<平等主義>には、じつは<ナショナルな>部分をしっかりと維持している点もある、という矛盾がある、ということをいつか書く(こんな予告が最近は多い)。

 〇週刊新潮の、並みの?用紙部分の最後にある高山正之の連載コラム「変見自在」は、ときに又はしばしば、こちらの前提的な知識の不足のために、深遠な?内容が理解不十分で終わってしまうときがある。いつかも書いた気がするが、関係参照文献の掲記(頁数等を含む)がないことと、字数の制約によることも大きいと思われる。

 4/15号の「不買の勧め」は朝日新聞批判で、これはかなり(又はほとんど)よく理解できた。

0573/祝・朝日新聞社『論座』休刊-週刊文春7/10号・宮崎哲弥による。

 週刊文春7/10号p.117、宮崎哲弥のコラム「仏頂面日記93」によると、こうある。
 「朝日新聞社のオピニオン雑誌『論座』の「休刊」が決まったらしい。十月号がファイナル・イシューになるらしい」。
 宮崎は残念そうな言葉も漏らしているが、<左翼政治謀略団体>朝日新聞社の出版物が減ることは、日本の国民と国家にとってよいことだ。「休刊」とは実際は「廃刊」を意味するはずで、<左翼政治謀略団体>発行の月刊論壇誌が消えるとは喜ばしい(別の名前で再登場の可能性はある)。とても気持ちの良いニューースだ。宮崎哲弥の情報の信憑性が高いことを強く期待する。

0474/宮崎哲弥によるマスメディア批判。

 珍しく入手した週刊文春の4/24号宮崎哲弥のコラム(仏頂面日記)は、今年2月の日教組とプリンスホテル(高輪)の間の紛争と今月になっての映画「靖国」制作者と映画館の間の上映するしないの揉め事を比較している。そして、「同型」だとしつつ、マスメディアが前者の場合は「口を極めてホテル側を難じ立てた」のに対して、後者の場合は上映しないこととした「映画館に妙に同情的な論調に終始」しているとして、マスメディアの<矛盾>・<二重基準>を批判して(又は皮肉って)いる(p.118)。宮崎哲弥はやはり鋭い。週刊新潮の渡辺淳一のコラム週刊文春の彼のコラム記事がそっくり入れ替わってくれたら、週刊新潮はますます面白くかつ有益な週刊誌になるのに。
 <映画「靖国」上映中止の責任を「映画館側」に求めてはいけない>旨の某映画監督のコメントをとくに掲載した新聞もあったらしい(宮崎・同上)。断定できないが、これは朝日新聞ではないか。表現又は集会の場所(・会場)提供者について、一方ではホテルを批判し、一方では映画館に甘い、という<二重基準>くらい、朝日新聞ならば堂々と(無意識にでも)採用すると思われるからだ。
 宮崎哲弥=藤井誠二・少年をいかに罰するか(講談社+α文庫、2007.09)の「文庫版あとがき」で宮崎は、「この国〔日本〕のマスメディアに巣食う『愚民』どもの夜明けは遠い」とあっさり言い切る(その理由・契機の紹介は省略)。
 「愚民」どもが巣食っているマスメディアのうちでも最悪なのは、論じるまでもなく、朝日新聞

0456/八木秀次-天皇制度廃止への道筋をつける原武史・昭和天皇(岩波新書)。

 原武史・滝山コミューン1974(講談社、2007)には、二回触れたことがある。
 この本は日教組の影響下にあったと見られる「全国生活指導研究協議会」に属する教員による「学級集団づくり」に対して批判的なので、著者はどちらかというと<保守的>又は<反左翼>的だと思っていた。
 サピオ4/23号(小学館)の八木秀次「天皇『9時-5時勤務制』まで飛び出した宮中祭祀廃止論の大いなる誤り」(p.83-85)によると、この宮中祭祀廃止論の中心的主張者は明治学院大学教授・原武史らしい。なお、<宮中祭祀>自体が広く知られていないが、八木によると、宮中三殿といわれる「賢所」・「皇霊殿」・「神殿」で行われる祭儀のことで、「大きなものだけで年間30近くある」とのこと。
 「天皇は先祖を祀る『祭祀王』としての性格を持ち、それこそが天皇の本質的要素と言っても過言ではない」(p.83)。
 「祭祀王」という概念がどの程度一般化しているのか、適切なのか(=「王」という語を用いてよいのか)は疑問だが、八木の指摘する趣旨は、そのとおりだろうと私も考える(また、その祭祀とは<神道>によるものでないかと思うが立ち入らない)。そして「宮中祭祀廃止」論は<天皇制度>の否認論と殆ど同じことだろう、と思われる。
 八木によると、「原氏が抱く昭和天皇、いや、天皇制への嫌悪感」は原武史・昭和天皇(岩波新書、2008.01)の「全編からたちのぼってくる」という。その具体的例示も紹介されているが、ここでは侵略する。
 興味をそそられたのは、冒頭に示した本を書いたのと同じ著者が昭和天皇を批判し、天皇制度を「崩壊させる道筋をつける」(八木、p.85)議論を展開している(らしい)ということだ。と同時に、さすがに岩波書店の岩波新書だ、と思いも強い。究極的には<天皇制度を「崩壊させる」>ことは(それは日本が「日本」でなくなることを意味するのではないか)、この出版社の社是、出版活動の(政治的)大目的の一つだと理解しておいて誤りではないだろう。
 岩波新書といえば、中央公論3月号(中央公論新社)の<特集・新書大賞ベスト30>の中の座談会で、宮崎哲弥は、<岩波新書らしいもの>を出せと注文をつけ、西山太吉・沖縄密約につき「単行本でいい…。新書で出す必要性が感じられない」と述べつつ、「これぞ岩波新書」をあえて探せばとして藤田正勝・西田幾太郎丸山勇・カラー版ブッダの旅の二つを挙げ、「岩波らしい」ものとして豊下楢彦・集団的自衛権とは何か二宮周平・家族と法二つを挙げている(p.129-130。出版年月の調査は省略。いずれも未読)。
 宮崎哲弥のいう「これぞ岩波新書」とか「岩波らしい」ということの意味は必ずしも明瞭でないが、何となく雰囲気は理解できる。そして、「これぞ岩波新書」と「岩波らしい」は必ずしも同じ意味ではなく、原武史・昭和天皇は上の二つとともに「岩波らしい」の方に位置づけられる書物のような気がする。
 追記-4/09夜に佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)を全読了>

0335/愛敬浩二・改憲問題(ちくま新書)。

 愛敬浩二・改憲問題(ちくま新書)につき、宮崎哲弥は言う。
 同・1冊で1000冊(新潮社、2006.11)p.282-3→「現行憲法の制定時の日本に言論の自由があったって? 改憲はいままでタブー視されたことがなかったって? 九条改定で日本が「普通でない国家」になるだって? もう、突っ込みどころ満載」。
 同・新書365冊(朝日新書(古書)、2006.10)p.344-5→「左翼リベラル派の「癒し」路線を狙って失敗」、「頭が悪く見える『護憲』本の代表。現行憲法の制定時の日本に言論の自由があっただの、改憲がいままでタブー視されたことがなかっただの、九条を改定すると日本が「普通でない国家」になるだの、とても真っ当な学者の書とは思えない世迷い言のオンパレード」。
 宮崎がこうまで書いていると、所持していても愛敬のこの本を読む気はなくなる。
 日本共産党員又はそのシンパが日本共産党とその支持者にわかる論理と概念を使った<仲間うち>のための本を書いても、全社会的には通用しないことの見本なのではないか。
 愛敬は「とても真っ当な学者の書とは思えない世迷い言のオンパレード」と自書を批判されて、今度は朝日新書あたりで再挑戦する勇気と能力がある人物なのかどうか。

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0156/宮崎哲弥の適確な「核論議」論と朝日新聞批判。

 些か古い話題だが、宮崎哲弥の主張は適確と考えられるので、記録として残しておく。彼は、週刊プレイボーイ2006年12/04号の時評でこう書いた。
 「近頃中川自民党政調会長や麻生外務大臣が核兵器の保有の是非を議論すること自体は別に悪くないんじゃないかという趣旨の発言を繰り返し野党やマスメディアからはその責任を追及されている。…批判する勢力は一体何を守ろうとしているのか。
 しつこいようだが、核保有是非論争を再論する。何度もいうが、私には議論もいけないという立場がさっぱり理解できない。もし閣僚や与党幹部が議論を禁じるべしと主張すれば憲法上の大問題となるが、議論を容認するならば全く差し支えない。むしろ、議論の封殺を企図するがごとき野党幹部の態度の方がよほど不審である。いやしくも国会議員やマスメディアがこんなバカげた論争で政治資源を濫費している国が日本以外のどこに存在するだろうか。
 「世界の目」とは次のようなものだ。<核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたからで、米ソ冷戦期には使われなかった。…中東が不安定なのはイスラエルだけに核があるからで、東アジアも中国だけでは安定しない。日本も持てばいい>。
 これは、ゴリゴリのタカ派の発言ではない。朝日新聞10月30日付朝刊に掲載されたフランスの左翼リベラル派を代表する著名な知識人、エマニャエル・トッド氏のインタビュー記事の一節だ。さすがに朝日新聞の社論とは全く異なる見解なので、そのままではマズイと判断したのか、記事には「刺激的な議論になった」だの「頭の体操だと思ってお読みいただきたい」だのと、トッド氏には随分失礼な断り書きが入れられている。
 こういう蛇足を見ると、朝日新聞って本当に読者を信頼していないのだな、と痛感する。いや、もっと言えば、<世界の常識>が日本の各層に知れ渡り、市民が目覚めてしまうことを恐れているのだろう。
 朝日新聞の11月11日社説に本音がにじみ出ている。<世界の先頭に立って核不拡散条約(NPT)の重要性を訴えてきた日本が核保有へと急変すれば、国際社会での信用は地に落ちる。…米国には日米安保条約への不信の表明と受け止められる>。まず、核兵器保有論議是非論が核保有容認論にすり替わっていることに注意。ここの争点のすり替えも実に姑息だが今は措くとしよう。核保有なんぞしようするものなら<国際的に孤立するぞ><アメリカが懸念するぞ>といった他律的姿勢が露わになっている。
 
たしかに、日本が核を保有すれば北東アジアの軍事バランスは一変する。覇権国や周辺国がこれを警戒するのは当然だ。が、核保有とはそういう状況の醸成を目的として行なうものではないのだろうか。つまり、朝日新聞社説などに指摘されずとも、日本が核武装に踏み切る場合とは、そういう利害得失を勘案してもなお国益に資するという結論に至った時に決まっている。そうした議論をもう一度詰めてみようというのが中川氏や麻生氏の見解だが、それを批判する社説の中に議論の<結論>めいたものが混入しているのはいかなるわけか。典型的な<論点先取りの虚偽>ではないか。
 ちなみに日本テレビの最新の世論調査によれば、核について具体的な議論があってもよいという人の割合は実に72%に上っている。もはや市民の覚醒は止められなさそうだ
」。

 

0075/樋口陽一、宮崎哲弥らとともに「正しい戦争」を考える-憲法改正のためにも。

 かつては、とくに九条を念頭に置いての憲法改正反対論者=護憲論者は、<規範を変えて現実に合わせるのではなく、規範に適合するように現実を変えるべきだ>、という考え方に立っている、と思ってきた。「護憲」、とりわけ九条維持の考え方をこのように理解するのは全面的に誤ってはいないだろう。
 とすると、護憲論者は、憲法違反の自衛隊の廃止か、憲法9条2項が許容する「戦力」の範囲内にとどめるための自衛隊の(装備等を含めて)編成換え又は縮小を主張して当然だと考えられる。しかし、そういう主張は、必ずしも頻繁には又は大きくは聞こえてこない。この点は不思議に感じていたところだ。
 だが、憲法再生フォーラム編・改憲は必要か(岩波新書、2004)の中の樋口陽一氏の論稿を読んで、吃驚するとともに、上の点についての疑問もかなり解けた。つまり、護憲論者の中には-樋口陽一氏もその代表者と見て差し支えないと思うが-自衛隊の廃止・縮小を主張しないで現状を維持することを基本的に支持しつつ、現在よりも<悪くなる>改憲だけは阻止したい、と考えている論者もいるようなのだ。
 樋口氏は、上の新書の中で最後に、「正しい戦争」をするための九条改憲論と「正しい戦争」自体を否認する護憲論の対立と論争を整理すべき旨を述べたのち、そのような選択肢がきちんと用意される「それまでは」として、次のように述べている。「それまでは、九条のもとで現にある「現実」を維持してゆくのが、それこそ「現実的」な知慧というべきです」、改憲反対論は「そうした「現実的」な責任意識からくるメッセージとして受けとめるべき」だ(p.23-24)。
 これは私には吃驚すべき内容だった。護憲論者が、「九条のもとで現にある「現実」を維持してゆく」ことを「現実的な知慧」として支持しているのだ。おそらく、改憲(条文改正)してしまうよりは、現行条文を維持しつづける方がまだマシだ、と言っていると理解する他はない。
 ここではもはや、<規範と現実の間にある緊張関係>の認識は希薄だ。そして、「九条のもとで現にある「現実」」を擁護するということは、「現実」は九条に違反していないと「現実的」に述べているに等しく、政府の所謂「解釈改憲」を容認していることにもなる筈なのだ。
 以上を一区切りとして、次に「正しい戦争」の問題にさらに立ち入ると、樋口氏は、現九条は「正しい戦争はない、という立場に立って」一切の戦争を(二項で)否定しており、九条改正を主張する改憲論は「正しい戦争がありうるという立場を、前提としている」、とする(p.13)。的確な整理だろう。また、前者の考え方は「普通の立憲主義をぬけ出る理念」の採用、「立憲主義展開史のなかでの断絶」を画するものだと捉えている。現憲法九条はやはり世界的にも「特殊な」条項なのだ。その上で同氏は、かつての「昭和戦争」や「イラク戦争」を例として、「正しい」戦争か否かを識別する議論の困難さも指摘している。たしかに、かつて日本共産党・野坂参三の質問に吉田茂が答えたように「侵略」を呼号して開始される戦争はないだろう。
 結論はともかくとして、「正しい戦争」を可能にするための「九条改憲」論と「正しい戦争」という考え方自体を否定する「護憲論」との対立として整理し、議論すべき旨の指摘は(p.23)、的確かつ適切なものと思われる。
 そこで次に、「正しい戦争」はあるか、という問題になるのだが、宮崎哲弥・1冊で1000冊(新潮社、2006)p.106は、戦争観には3種あるとして加藤尚武・戦争倫理学(ちくま新書)を紹介しつつ、正しい戦争と不正な戦争が可分との前提に立ち、「倫理的に正しい戦争は断固あり得る、といわねばならない」と明確に断じている。そして、かかる「正戦」の要件は、1.「急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じ」たもの、2.「非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること」だ、とする。
 このような議論は極めて重要だ。何故ならば、戦後の日本には戦争は全て悪いものとして、「戦争」という言葉すら毛嫌う風潮が有力にあり(昨夜論及した「2.0開発部」もこの風潮の中にある)、そのような戦争絶対悪主義=絶対平和主義は、安倍内閣に関する「戦争準備」内閣とか、改憲して「戦争のできる国」にするな、とかいった表現で、今日でも何気なく有力に説かれているからだ。また、現憲法九条の解釈や改憲の基礎的考え方にも関係するからだ。
 1946年の新憲法制定の国会審議で日本共産党は「正しい戦争」もあるという立場から現九条の政府解釈を問うていた。所謂芦田修正の文理解釈をして採用すれば、現憲法下でも<自衛>目的の「正しい」戦争を行うことを想定した「戦力」=軍隊も保持し得る。
 この芦田修正問題はさておき、そして憲法解釈論又は憲法改正論との関係はさておき、やはり「防衛(自衛)戦争」はありえ、それは決して「悪」・「非難されるべきもの」でなく「正しい」ものだ、という認識を多数国民がもつ必要がある、と考える。
 「戦争」イメージと安倍内閣を結びつける社民党(共産党も?)の戦略は戦争一般=「悪」の立場で、適切な「戦争」観とは出発点自体が異なる、と整理しておく必要がある。この社民党的立場だと、「戦争」を仕掛けられても「戦力」=軍隊による反撃はできず、諸手を挙げての「降伏」となり(ちなみに、これが「2.0開発部」改正案の本来の趣旨だった筈なのだ)、攻撃国又はその同盟国に「占領」され、のちにかつての東欧諸国政府の如く外国が実質支配する傀儡政府ができる等々の「悪夢」に繋がるだろう。
 繰り返せば、「正しい戦争」はあり得る。「「正しい戦争」という考え方そのものを否定」するのは、表向きは理想的・人道的でインテリ?又は自らを「平和」主義者と考えたい人好みかもしれないが、外国による軍事攻撃を前にした日本の国家と国民を無抵抗化し(その過程で大量の生命・身体・財産が奪われ)、日本を外国の属国・属州化するのに寄与する、と考える。
 社民党の福島瑞穂は北朝鮮の核実験実施を米国との対話を求めるものと捉えているくらいだから、日本が「正しくない」戦争を仕掛けられる可能性はなく、それに反撃する「正しい戦争」をする必要性など想定すらしていないのだろう。これには的確な言葉がある-「社会主義幻想」と「平和ボケ」。
 これに対して日本共産党はきっともう少し戦略的だろう。かつて野坂参三が言ったように「正当な戦争」がありうることをこの党は肯定しているはずだ。だが、この党にとって「正当な戦争」とは少なくともかつてはソ連・中国等の「社会主義」国を米国等から防衛するための戦争だった。「正しくない」戦争を「社会主義」国がするはずがなく、仕掛けるのは米国・日本等の「帝国主義」国又は資本主義国というドグマを持っていたはずだ。かかるドグマを多少とも残しているかぎり、「九条の会」を背後で操り、全ての戦争に反対の如き主張をさせているのも、党勢拡大のための一時的な「戦略」=方便にすぎないと考えられる。
 なお、宮崎哲弥の上掲書には、個別の辛辣な短評をそのまま支持したい箇所がある。例えば、愛敬浩二・改憲問題(ちくま新書)につき-「誤った危機感に駆られ、粗笨(そほん-秋月)極まりない議論を展開している」、「現行憲法制定時の日本に言論の自由があったって?、…9条改定で日本が「普通でない国家」になるだって? もう、突っ込みどころ満載」(p.282-3)。ちなみに愛敬氏は名古屋大学法学部教授。
 いつぞや言及した水島朝穂氏等執筆の、憲法再生フォーラム編・有事法制批判(岩波新書)につき-「最悪の例。徹頭徹尾「有事法制の確立が戦争国家への道を開く」という妄想的図式に貫かれている。進歩派学者の有害さだけが目立つ書」(p.105)。私は水島朝穂氏につき「妄想的図式」とまでは評しなかったように思うが…?。同氏の属する早稲田大法学部には他にも「進歩派学者」が多そうだ。
 私は未読だが、全国憲法研究会編・憲法と有事法制(日本評論社)につき-「理念先行型の反対論が主で、実効性、戦略性を欠いている」(p.105)。さらに、戒能通厚監修・みんなで考えよう司法改革(日本評論社)につき-「古色蒼然たるイデオロギーと既得権益維持の欲望に塗り潰された代物」(p.103)。これら二つともに日本評論社刊。この出版社の「傾向」が解ろうというもの。後者の戒能氏は愛敬氏と同じく名古屋大学法学部教授だ。
 宮崎哲弥という人物は私より10歳は若い筈だが、なかなか(いや、きわめて?)博識で公平で論理的だ。宮崎哲弥本をもっと読む必要がある。
 (余計ながら、「日本国憲法2.0開発部」の基本的発想と宮崎哲弥や私のそれとが大きく異なるのは、以上の叙述でもわかるだろう。また「2.0」の人々は勉強不足で、樋口陽一氏の代表的な著書又は論稿すら読んでいないと思われる。きちんと読んでいればあんな「案」になる筈はない。)

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