一 産経新聞・阿比留瑠比のブログによると、民主党・鳩山由紀夫幹事長は、こう発言した、という。順番に、一部抜粋。
 1.「永住外国人地方参政権付与問題、日本人にどういうメリットがあるのか」との問いに対して
 ・「日本人が自信を失っていると。自信を失うと、他の国の血が入ってくることをなかなか認めないという社会になりつつあるなと。それが非常に怖い」。
 ・「定住外国人」は「税金を彼らが納めてるわけですよね。地域に根が生えて一生懸命頑張ってる人たちがたくさんいるわけです。度量の広さをね、日本人として持つべきではないか」。「自信があれば、もっと門戸を開いていいじゃないか」。
 ・「出生率1・32とか低いところにあるわけですから、この出生率の問題だけ考えても、もっと海外に心を開くことを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、また日本の国土を守ることもできなくなってくる」。
 2. 「地方参政権と国政参政権は違う」ことに関して
 ・「地域に根ざして頑張ってる」、「彼らが地域の行政、参政をする、参画をする必要がある」。「ただ、国政になると、まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがあると思うので、そこまでいま広げる必要はない」。
 3.その他
 ・「アメリカの良さはそういう度量の広さ、色の白黒の問題もありますけども」。
 ・「自信のあるなしの問題なんですよ。自信があれば、もっと度量を広く持てば、日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから。もっと多くの方がたに参加してもらえるような、喜んでもらえるような、そんな土壌にしないとダメです」。
 ・「日本人がアメリカに何か憧れたりするわけでしょ? 私は例えばオバマ大統領を生んだアメリカってのはすごいと思いますよ。絶対にそのようなことは日本では起こりえないですよ、今のような発想では。もっともっと心を広く持たないと。仏教の心をね、日本人が世界でもっとも持っているはずなのに、なんで他国の人たちが、地方の参政権一つを持つことが許せないのかと。少なくとも、韓国はもう認めているわけですよね。彼らが認めていて、我々が認めないというのは非常に恥ずかしい」。
 阿比留や百地章のコメントは省略。
 二 以上を知って、こんなことを言う、又はこんなことしか言えない人物が民主党の幹事長であることに(そして政権を担う一人になる可能性があることに)慄然とする。細かなことには触れないで、基本的なことのみまず指摘する。
 具体的なことを言えば、第一に、この人は外国人(の一部)が<帰化>して日本人になること(そして日本人として参政権をもつこと)と、外国人のままで(地方)参政権をもつことを混同しているか、同様のことと考えている。つまり、概念的・論理的に上の二つが区別できていない。すなわち、例えば、以下のごとし。
 ①出生率に言及しているのはおそらく人口減を防止するために…、という理由づけだろうが、それは<帰化>者増加による「日本」国民の数の減少防止に関する話で、外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 ②アメリカへの言及があるが、アメリカが多様な人種から成り立っているとしてもそれは基本的には全て「アメリカ」国籍者の出自の多様性を意味しているだけで、「アメリカ人(国籍者)」から見て外国人の参政権の問題とは全く関係がない。
 第二に、国政参政権と地方参政権の区別がきちんと整理されていない。すなわち、鳩山由紀夫がいう、①税金支払い、②日本人は自信(包容力)をもて、という根拠は、地方参政権のみならず、国政への参加権の付与の根拠になりうる。
 なぜなら、外国人でも(少なくとも「定住」者は)所得税や消費税という<国税>を納めている。彼らが負担しているのは、住民税・固定資産税等の<地方税>だけではない。
 また、「度量の広さ」をもて、「心を広く持たないと(いけない)」と主張するならば、国政参政権も認めないと論理的には一貫しない。
 したがって、国政参加権は別だという鳩山の理由づけは、次のように曖昧になっている。
 「まさに国益の議論をもっと深刻に議論しなければいけないときがある」と思うので、そこまで「いま」広げる必要はない。
 国会議員による議論・法律制定等は全て「国益」に関係するのであり、「…ときがある」というような程度・範囲ではないだろう。また、鳩山は、「いま」広げる必要はない、と述べて、将来的には認めても構わない、認める可能性がある、という含みを残している。
 最高裁判決を確認しないが、一定の外国人への国政・地方参政権の法律上の否定は違憲ではない、但し、地方参政権に限っては法律で(現行法上は地方自治法ではなく公職選挙法の改正により)それを認めることもできる(「立法裁量」の範囲内)、という重要な傍論つきだった、と思われる。
 上の国政参加権に関する鳩山由紀夫の発言のニュアンスは、 この最高裁判決に反対する趣旨を含んでいる(最高裁判決批判自体が悪いわけではないが)。
 三 鳩山由紀夫の上記発言は、マクロ的にみると、結局、日本は開放的で寛容な<国際主義>に立つべきで、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>を持つべきではないという、戦後日本の<主流>派的な、空気のように感じられている、独特の<意識>にもとづくものと考えられる。
 戦後教育を受け、自民党にかつていて共産主義(・社会主義)社会を目指すわけではないが、「さきがけ」を結成したように、とりわけ大都市部の「市民」の<進歩的な>(そして「国際主義的」な>)意識を鳩山(兄)は無意識にせよ形成してきたものと思われる。
 閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>こそがかつての日本を「戦争」に追いやり「敗戦」をもたらした、と(GHQらの史観と基本的に同様に)思い込んだままなのではないか。おそらくはこのとおりなので、鳩山(兄)は、いくら批判されても、疑問視されても、基本的な考え方を変えないだろうと思われる(鳩山由紀夫と同様の地方参政権付与賛成者の多くもそうだろう)。
 したがって、基本的な問題は、現在において、開放的で寛容な<国際主義>と、閉鎖的で偏狭な<ナショナリズム>(あるいは「愛国」主義・「国益重視」主義)、という対立軸を潜在的な意識の上で立ててしまってよいのか、にある。
 あるいは、<国際主義>は「開放的・寛容」で善、<ナショナリズム>は「閉鎖的・偏狭」で悪、という基本的な考え方・意識そのものに問題はないのか、をまず問わなければならない。この点を解きほぐして、基本的な立脚点たる<イメージ>と称してもよいと思われる意識を変えさせないと、鳩山由紀夫は変わらないし、自らの議論の非を認めることはないだろう。
 上のようなア・プリオリな価値判断は抜きにして、<国際主義>か<ナショナリズム>(愛国主義・国益優先主義)かが、それぞれの意味内容自体の議論も含めて、きちんと検討されなければならない(この区別は従来にいう「左翼」・「保守」の区別と必ずしも一致するわけではないと考えられる)。