秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

官僚制

2049/L・コワコフスキ著第三巻第11章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.410-p.415。合冊版、p.1115-p.1119。 
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第4節・自由に反抗する革命(The revolution against freedom)。
 (1)インチキの必要を増大させてその必要を充足させる手段を提示する、そして虚偽の意識の呪文で多数の人々を縛る、このようなシステムから逃れる方途はあるのか?
 ある、とマルクーゼは言う。
 我々は、現存する世界を完全に「超越」し、「質的変化」を追求しなければならない。
 我々は、現実の「構造」そのものを破壊し、人々が自由のうちに要求を発展させるようしなければならない。
 我々は、(現在あるものを新しく適用するだけではない)新しい技術を持ち、芸術と科学、科学と倫理の統合を再び獲得しなければならない。
 我々は、自由な想像力を発揮し、科学を人類の解放のために用いなければならない。//
 (2)しかし、人々の多数が、とくに労働者階級が、システムに囚われて既存秩序の「世界的な超越」に関心をもたないとき、これら全てのことをいったい誰がすることができるのか?
 <一次元的人間>によると、答えはこうだ。
 「保守的な民衆的基盤のすぐ下には、浮浪者と外れ者の、異なる人種と異なる肌色の被搾取者と被迫害者の、失業者と雇用不能者の、下層界がある。
 彼らは、民主主義諸過程の外部に存在している。<中略>
 彼らがゲームをするのを拒むことから始めるということは、この時代の終わりの始まりを画しているということだ。」(p.256-p.257.)//
 (3)そして、アメリカ合衆国の人種的少数者のルンペン・プロレタリアートは、エロスとロゴスの統合を回復し、新しい科学技術を生み出し、そして形式論理、実証主義および経験論の僭政体制から人類を自由にするための、中でもとくに選ばれた人間たちの部門だ。
 しかしながら、マルクーゼは別の箇所でこう説明する。我々はまた、他の諸力を頼みにすることができる。すなわち、学生たちと経済的かつ技術的に後れた諸国の人々だ。
 これら三つのグループの同盟は、人間性の解放のための主要な希望だ。
 反乱する学生運動は、「変革のための決定的要素」だ。彼ら自体では完成させることはできないけれども(<五つの講義録>の中の「暴力の問題と急進的反対派」を見よ)。
 革命的勢力は暴力を用いなければならない。彼らは高次の正義を代表しており、現在のシステムはそれ自体が制度化された暴力の一つなのだから。
 合法的な範囲内に抵抗を制限することを語るのは馬鹿げている。いかなるシステムも、最も自由なシステムですら、自分に向かう暴力の行使を是認することができない。
 しかしながら、目的が解放であるならば、暴力は正当化される。
 さらに、学生たちの政治的反抗が性的な解放に向かう運動と結びついているのは、重要でかつ勇気を与える兆候だ。//
 (4)暴力を避けることはできない。現在のシステムは、虚偽の意識でもって多数民衆を苦しめており、僅かな者たちがそれから免れているにすぎないからだ。
 資本主義は、文化と思想の全てを同質化する手段を作り出してきた。その結果として、システムの一部に批判を変質させることで、批判を骨抜きにすることができている。すなわち、そのゆえにこそ、必要なのは暴力による批判なのであって、これはそのようにしては弱体化され得ない。
 言論と集会の自由、寛容および民主主義諸制度は全て、資本主義的価値による精神的支配を永続化する手段だ。
 従って、真の、惑わされていない意識をもつ者はみな、民主主義的自由と寛容からの解放を目指して闘わなければならない、ということになる。//
 (5)マルクーゼは、この結論を導くことを躊躇しない。彼はおそらく最も明確に、「抑圧的寛容」に関する小論でこれを述べている(Robert Paul Wolff 等による<純粋な寛容性への批判>(1964年)で)。
 彼は過去には、寛容は解放のための理想だ、と主張する。しかし今や、それは抑圧のための道具だ。多数派の同意を得て核兵器庫を建設し、帝国主義政策を追求する等々の社会を強化するために役立つとして。
 この種の寛容は、解放主義の理想に対する多数者の僭政だ。
 さらに、間違っていて悪であるがゆえに寛容であるべきではない教理や運動に対して寛容だ。
 全ての個別の事実と制度は、それらが帰属する「全体」の観点から判断されなければならない。そして、この場合の「全体」とは本来的に邪悪である資本主義システムであるので、このシステム内の自由と寛容は、それら自体が同様に悪(evil)だ。
 ゆえに、真の深い寛容は、虚偽の思想と運動に対する不寛容さを伴っていなければならない。
 「自由の範囲と内容を拡大する寛容は、つねに党派性がある(partisan)。-抑圧的な現状の唱道者に対しては不寛容だ」(p.99.)。
 「新しい社会(これは将来の事柄であるために現在とは反対のものとして以外には描写したり定義したりすることのできない)の建設が問題となっているときに、無限定の寛容を許容することはできない。
 真の寛容は、解放の可能性と矛盾したり反対したりする虚偽の言葉や間違った行為を擁護することができない」(p.102.)。
 「生存のための充足、自由と幸福自体が危うくなっている場合には、社会は無差別的であることができない。この場合には、寛容を隷従状態を継続するための道具にしないかぎりは、一定の事物を語ることぱできず、一定の思想を表現することはできず、一定の政策を提案することはできず、一定の行動を許容することができない」(同上)。
 言論の自由は肯定されるが、それは、客観的な真実を含むがゆえにではなく、そのような真実が存在し、かつそれを発見することができるからだ。
 従って、言論の自由は、真実でないものを永続ためのものであるならば、正当化することができない。
 このような自由が想定しているのは、全ての望ましい変化はシステム内部での理性的な議論を通じて達成される、ということだ。
 しかし、実際には、このようにして達成することのできるものは全て、システムを強化することに役立つ。
 「自由な社会はじつに、非現実的で叙述し難いほどに、現にある社会とは異なる。
 このような環境のもとでは、『事態の正常な行路を経て』、破壊されることなく生起するものは全て、全体を支配する特有の利益が支配する方向での改良になりがちだ」(p.107.)。
 多様な意見を表現する自由は、表現される意見は既得権益層(establishment)の利益を反映するということを意味する。既得権益層には意見を形成する力があるために。
 たしかに大衆メディアは現代世界の暴虐ぶりを描写する。しかし、無感動に、偏りを示すことなく、そうする。
 「かりに客観性が真実と何がしかの関係があるとすれば、またかりに真実は論理と科学の問題以上のものだとするならば、この種の客観性は虚偽であり、この種の寛容性は非人間的だ」(p.112.)。
 教理化されるのと闘い、解放の勢力を発展させるには、「表向き明らかに非民主主義的な手段が必要だろう。
 こうした手段は、つぎのような諸グループが行う言論や集会について寛容であることをやめる、ということを中に含んでいる。すなわち、攻撃的政策、武装、狂信的排他主義、人種や宗教を理由とする差別、を推進する者たち、あるいは、公共サービス、社会的安全、医療等々の拡大に反対する者たち。
 さらに、思想の自由の回復は、必ずや学校教育制度での教育や実務に新しく厳格な制限をもたらすかもしれない」(p.114.)。この制度の内部に囲い込まれて者たちは、本当の選択する自由を持っていないのだから。
 どの場合に不寛容と暴力が正当化されるのかを決定する資格をもつ者は誰なのか、と問われるとすれば、それに対する答えは、それをすることでどの根本教条に奉仕するか、にかかっている。
 「解放的寛容<中略>は、右(Right)からの運動に対する不寛容を意味し、左(Left)からの運動についての寛容を意味するだろう」(p.122-p.123.)。
 この単純な定式は、マルクーゼが主張する「寛容」の性格を典型的に示している。
 彼が明瞭に述べるところでは、彼の目的は独裁制を打ち立てることではなく、寛容という観念と闘うことで「真の民主主義」を達成することだ。巨大な多数派は、その心性が情報の民主主義的淵源によって歪められているために、正しい判断をすることができないのだから。//
 (6)マルクーゼは、共産主義者の見地から書いているのではなく、彼の思想が共有する「新左翼」のそれから書いている。
 共産主義の既存の形態に関するマルクーゼの態度は、批判と称賛の混合物の一つであり、きわめて曖昧で両義的な言葉で表現されている。
 彼は、アメリカ合衆国とともにソヴィエト連邦に適用されるように、「全体主義的」や「全体主義」という語を用いる。しかし一般的には、前者と比べると、後者を軽蔑している。
 マルクーゼは、あるシステムは多元主義的で、別のそれはテロルにもとづくことを承認する。しかし、この点を本質的な差違であるとは見なさない。
 すなわち、「ここでの『全体主義的』とは、テロルによってのみならず、定立された社会によって効果的な反対の全てを多元主義的に吸収することをも意味するよう、再定義される」(<五つの講義録>, p.48.)。
 「『全体主義的』とは、社会によるテロルを用いる政治的調整のみならず、与えられた利益による必要物の操作を通じて働く、非テロル的経済技術的な調整もそうだ」(<一次元的人間>, p.3.)。
 「文化の領域では、新しい全体主義は厳密には調和させる多元主義として出現するのであり、そこでは最も矛盾する労働と真実とが無関心なままで平和的に共存する」(同上, p.61.)。
 「今日では、先進的産業文明の活動過程の中に、権威主義体制のもとにはない社会は存在するのか?」(同上. p.102.)。//
 (7)要するに、テロルは、テロルとしても、民主政、多元主義および寛容によっても、いずれによっても行使される。
 しかし、テロルが解放のために用いられれば終焉に到達するだろう約束がそこにはあり、にもかかわらず、自由の形態で用いられるテロルは、永遠に続く。
 一方で、マルクーゼは、つぎの考えを繰り返して表明している。すなわち、ソヴィエトと資本主義体制は、産業化という同じ過程の類型として、ますます似たものになっている、との見方を。
 彼は<ソヴィエト・マルクス主義>で、マルクス主義の国家教理を鋭く批判し、それにもとづくシステムはプロレタリアートの独裁ではなく、プロレタリアートと農民に対する独裁の手段を用いた産業化の加速のための手段であり、マルクス主義はその目的のために歪曲されている、と主張する。
 マルクーゼは、マルクス主義のソヴィエト版が幼稚な知的水準にとどまることや、マルクス主義が純粋に実用主義的(pragmatic)な目的のために使われていることを、認識している。
 他方で彼は、西側資本主義とソヴィエトのシステムは、中央集中の増大、官僚制、経済合理化、教育の編成、情報サービス、労働の気風、生産等々の方向で、一つに収斂していく顕著な兆候を示している、と考える。
 しかしながら、一方で、彼がより大きい希望を認めるのは、資本主義よりもソヴィエトだ。ソヴィエトでは官僚制はその利益を完全には囲い込むまたは永続化することをしていないからだ。すなわちそれは、「究極的には」、抑圧による統治体制とは比較しようもない、全てに及ぶ技術的、経済的および政治的目標に対する第二次的地位を占めるに違いないからだ。
 階級を基礎とする国家では、合理的な技術的経済的発展は搾取者たちの利益と矛盾する。
 同じような状況はソヴィエト社会でも発生している。官僚制は、それ自体の目的のために進歩を利用しようとしているのだから。しかし、将来にこの矛盾は解消される可能性がある。それは、資本主義では生じないだろう。//
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 第4節、終わり。第5節・最終節の表題は<論評(Commentary)> 。

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
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 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
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 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

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