秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

官僚主義

2583/R・パイプス1994年著第9章第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第二節へ。
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 第二節・国家の官僚主義化
 (01) 党官僚制について、多くのことを書いた。
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 (02) 国家官僚機構も、より目ざましい早さで膨張した。
 国全体のソヴェト組織は、ボルシェヴィキの政策で有していたわずかの影響力も急速に失い、1919-20年までに、人民委員会議とその支部から伝えられる党の決定にゴム・スタンプを捺すだけの機関に変質した。
 ソヴェトの「選挙」は、党に選抜された者たちを承認する儀式となった。適格さを考えて投票する者は4人に一人もいなかった。(注44)
 ソヴェトは、国家官僚機構に権能を奪い取られた。その背後には、全能の党があった。
 1920年、ソヴェトが公開で討論することが許された最後の年、官僚主義の蔓延に関する不満が語られるのは、ふつうのことだった。(注45)
 1920年2月に労働者農民調査局(Rabkrin)が、国家機構による濫用を監視するために、スターリンを長として設置された。
 しかし、二年後にレーニンが認めたように、この機関は期待に応えなかった。(注46)//
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 (03) 政府官僚機構の膨張は、まずはとりわけ、1917年十月以前は私人の手中にあった諸装置の運営を政府が行なうようになった、ということで説明され得る。 
 金融や産業に私企業が関与するのを排除することで、またzemsivoや市議会を廃止することで、さらに全ての私的団体を解散させることで、政府は、代わりに、それに応じた役人層の膨張が必要となる諸活動について責任を担うようになった。
 一例で十分だろう。
 革命前の国民の諸学校は一部は公教育省によって、一部は正教会や私的団体によって監督された。
 1918年に政府が全ての学校を啓蒙人民委員部のもとに国有化したとき、従前は非政府系の学校に職責があった書記的または私的な人員を埋め合わせる職員を作り出さなければならなかった。
 やがて、啓蒙人民委員部は、従来はほとんど全く私人に任せられていた田舎の文化生活の指導や検閲についても責任を担わされた。
 その帰結として、1919年5月に早くも、有給の3000人の職員がいた。—これは、対応する帝制時代の省の職員数の10倍だった。(注47) //
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 (04) しかし、行政上の責務の増大は、ソヴィエト官僚機構の膨張の唯一の理由ではなかった。
 公務に従事する最も下の階梯にいる被雇用者にすら、ソヴィエト生活の過酷な条件のもとで生き残るための貴重な有利さがあった。ふつうの市民では利用できない物品を使え、賄賂や心づけを受けとる機会があるのはもちろんのこととして。//
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 (05) 結果は、大量の水増し要求だった。
 ホワイト・カラーの業務は、生産が落ち込んでいたときでも、ソヴィエト経済を指揮する多様な機構で膨らんだ。
 ロシアの工業界で雇用される労働者の数は1913年の85万6000から1918年には80万7000へと下がった一方で、ホワイト・カラー被雇用者の数は5万8000から7万8000へと増えた。
 かくして、共産党体制の最初の年にすでに、産業労働者のうちホワイト・カラーのブルー・カラーに対する割合は、1913年に比べて三分の一増えていた。(注48)
 その次の三年間には、この割合はもっと劇的に高くなった。1913年には100人の工場労働者に対して6.2人のホワイト・カラー被雇用者がいたが、1921年の夏には、この割合は15パーセントに上がった。(注49)
 運輸の部門では、鉄道輸送は80パーセント減退し、労働者の数は変わらないままだったが、官僚機構の人員は75パーセント増加した。
 1913年に鉄道路線の一キロ(一マイルの8分の5)に対してホワイト・カラーとブルー・カラーともに12.8人の被雇用者がいたが、1921年には、同じ仕事を20.7人で行なうよう要求された。(注50)
 1922-23年に実施されたKursk 地方のある農村地区の調査によると、帝制時代に16人の被雇用人がいた地方的農業部門には、今では79人がいた。—これは、食料生産が落ちていた時期のことだった。
 同じ地区の警察官署は、革命前と比較して、二倍の人員を有していた。(注51) 
 最も凄まじかったたのは、経済運営を所掌する官僚機構の膨張だった。1921年春、国家経済最高会議(VSNKh)は22万4305人の職員を雇用しており、そのうち2万4728人はモスクワで、9万3593人はその地方機関で、10万5984人は地区(〈uezdy〉)で勤務した。—これは、職責のある工業生産性が1913年のそれよりも5分の1低くなっていた頃のことだ。(注52) 
 1920年、レーニンが驚きかつ憤慨したことには、モスクワは23万1000人の常勤職員を雇っており、ペテログラードでは18万5000人だった。(注53)
 全体としては、1917年と1921年半ばの間に、政府職員の数は、5倍近く、57万6000から240万へと増加した。
 その頃までに、ロシアには労働者数の二倍の官僚たちがいた。(注54)//
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 (06) 役人の需要が増大し、かつその自分たちの働き手の教育レベルが低いとすると、新体制は、多数の帝制時代の元職員、とくに省庁を運営する能力のある人員を雇う以外には選択の余地はなかった。
 以下の表は、人民委員部での1918年時点でのそのような職員の割合を示している。(注55)
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  内務人民委員部/48.3%。
  国家経済最高会議/50.3%。
  戦争人民委員部/55.2%。
  国家統制人民委員部/80.9%。
  運輸人民委員部/88.1%。
  財務人民委員部/97.5%。
  ****
 「示されているのは、人民委員部の中央官署の職員の半数以上、そしておそらく上層の管理的職員の90パーセントが、1917年十月以前に何らかの行政的地位に就いていた、ということだ」。(注56) 
 チェカだけは19.1パーセントが元帝制時代の職員であり、外務人民委員部では22.9パーセントがそうだった(この二つは1918年の数字)。これらでは、主として新しい人員が配置された。(注57)
 このような証拠資料を根拠にして、ある西側の研究者は、ボルシェヴィキにより最初の5年間になされた政府職員の変化は「おそらく『猟官制度』(spoils system)が全盛のワシントンで起きたことと同様だと見なせるだろう」という驚くべき結論に到達した。(注58)//
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 (07) 新しい官僚制度は、帝制時代をモデルにしていた。
 1917年以前のように、役人たちは、敵対的だと見なしたnation ではなく、国家に奉仕した。
 アナキストのAlexabder Berkman は1920年にロシアを訪問して、新体制のもとでの典型的な政府官署をこう描写した。
 「(ウクライナの)ソヴィエト機関は、モスクワ型のよくある光景を示している。疲れきった人々の集まり。空腹で、無感動に見える。
 特徴的で、悲しい。
 廊下や事務室は、あれこれの行為やその免除の許可を求めている申請者で混み合っている。
 新しい布令の迷路は、とても難解だ。役人は困惑する問題を解消する安易な方法を好んで選び取る。彼らの『良心』にもとづく『革命的方法』を。そしてふつうは、申請者の不満となる。/
 長い列が、どこにでもある。そして、どの事務室にも多数いるハイ・ヒール靴を履いた〈baryshni〉(若い女性)による『用紙』や文書の書き込みや処理。
 彼らは煙草をふかし、ソヴィエトの存在の象徴である、配られるpaek (手当)の量で推測する、一定の官署の有利さを熱心に議論している。
 頭がむき出しの労働者や農民が、長い台に近づく。
 丁重に、卑屈にすら、彼らは情報を求め、衣類についての『指示』や長靴用の『切符』を嘆願している。
 『分からない』、『隣の事務室で』、『明日来い』は、いつもの回答だ。
 抗議や愁嘆があり、注意や指導を乞い求める姿もある。」(注59)//
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 (08) 帝制時代のように、ソヴィエトの役人制度は精巧に階層化されていた。
 1919年3月、当局は公務を27の範疇に分け、各々を細かく定義した。
 俸給の違いは、比較的大きくなかった。かくして、若いドアマンや掃除人のような最下級の被雇用者は、毎月600(旧)ルーブルを受け取り、第27等級の者たち(人民委員部の部局の長など)には、2200ルーブルが支払われた。(注60)
 しかし、基本給与は大して重要ではなかった。ハイパー・インフレがあったからだ。
 意味のある俸給は、臨時収入だった。その中で、食料配給が最も重要だった。
 かくして、レーニンは1920年、その給与月額である6500ルーブルでは生きていけなかった。その額では、ふつうの市民が利用できる唯一の場所である闇市場で、30本のキュウリが買えただろう。(注61)
 Paek に加えて、最下級の役人たちにすら、賄賂という手段で基本給を補充する方法があった。賄賂は、厳しい法律に違反していたにもかかわらず、さかんに行われていた。(注62)//
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 (09) レーニンは、ソヴィエトの国家組織の不満足な状態の原因を、それが雇用している元帝制時代の官僚層に求めようとした。そして、こう書いた。
 「外務人民委員部を例外として、我々の国家機構には、そのほとんどに古い機構が残存しており、わずかの変化すら認められない。
 少しばかり最頂部が飾られているだけだ。他の部分は、我々の古い国家機構のうちの最も典型的に古いものだ。」(注63)
 しかし、この主題に関するとりとめのない混乱した言及が示しているように、レーニンは、何が間違っていてなぜそうなのかについて、全く何も理解していなかった。
 官僚制度の規模は、彼の政府がしようとしていることによって決定される。それが腐敗しているのは、民衆による統制から自由だからだった。
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 後注
 (44) Pethybridge, One Step, p.158.
 (45) V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, Pt. 2 (1929), p.57, p.68, p.97-p.100.
 (46) Pethybridge, One Step, p.161-8; Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (47) Sheila Fitzpatrick, The Commissariat of Enlightenment (1970), p.24.
 (48) L. N. Kritsman, Geroicheskii period Velikoi Russkoi Revoliutsii (1926), p.197.
 (49) E. G. Gimpelson, Sovetskii rabochii kiass, 1918-1920 gg. (1974), p.122.
 (50) Gimpelson, Ibid., p.81; Kritsman, Geroicheskii period, p.198.
 (51) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.121.
 (52) V. P. Diachenko, Istoriia finansov SSSR (1978), p.87.
 (53) SV, No. 1 (1921.1.1), p.1. Cf. Alfons Goldschmidt, Die Wirtschaftsorganisation Sowjet-Russlands (1920), p.141; Lenin, PSS, LII, p.65.
 (54) Izmeneniia sotsial'noi struktury sovetskogo obshchestva: Oktiabr' 1917-1920 (1976), p.268; Kritsman, Geroicheskii period, p.198; EZh, No. 101 (1922.5.9), p.2.
 (55) M. P. Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva v pervye gody sovetskoi vlasti: Sbornik Statei (1973), p.54.
 (56) T. H. Rigby, Lenins' Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), p.62.
 (57) Iroshnikov in Problemy gosudarstvennogo stroitel'stva, p.55.
 (58) Rigby, Lenins' Government, p.51.
 (59) Berkman, Bolshevik Myth, p.219-220.
 (60) Dewar, Labour Policy, p.179-180.
 (61) Alfons Goldschmidt, Moskau 1920 (1920), p.62, p.88.
 (62) SUiR, 1917-18, NO. 35 (1918.5.18), Decree No. 467, p.436-7.
 (63) Lenin, PSS, XLV, p.383.
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 第二節、終わり

2582/R・パイプス1994年著第9章第一節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化③。
 (15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
 Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
 「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
 最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
 上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
 そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
 Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
 民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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 (16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
 ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
 ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
 ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
 革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
 今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
 1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
 1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
 地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
 このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
 これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
 当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
 これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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 (17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
 1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
 今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
 1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36) 
 政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
 調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
 1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37) 
 書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
 こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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 (脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
 1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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 (18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
 1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
 この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
 かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
 二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
 その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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 (19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
 権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
 これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43) 
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 後注
 (32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
 (33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
 (34) Carr, Interregnum, p.278n.
 (35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
 (36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
 (37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
 (38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
 (39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
 (40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
 (41) Desiatyi S"ezd, p.137.
 (42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
 (43) Desiatyi S"ezd, p.881.
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 ③、終わり。第一節も、終わり。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
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 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
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 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
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 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
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 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
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 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
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 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
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 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
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 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
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 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
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 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
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 第一節①、終わり。
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