<宗教>という概念はむつかしい。
西尾幹二らに倣って曖昧にさせたまま始めると、これについて、少なくとも次の二つは言えると思われる。
第一。かつては、「哲学」や「学問」そのものだった、またはこれらの一部だった。
神道でも仏教でもないと(明治以降に?)される陰陽思想・陰陽五行思想(説)というのも「宗教」であり「哲学」・「学問」だったようだ。
時間・日々ををどのように区切るかをヒト・人間はずっと昔から考えてきたようで、その中に年・月のあとに「週」がある。
これを7日とするのは古代からあったようなのは不思議だが(例外的にフランス革命暦では10日、ソ連暦では5日だったようだ)、これを今の日本のように、日・月・火・水・木・金・土の各曜日に分けるのは、正確には各曜日にこういう名称を付けるのは何故なのか。
「日」曜と「月」曜は英語・ドイツ語でも同じだが〔これも不思議だ)、残る5つは、太陽・月・地球を除く可視的な惑星の数によるともされる。火星・水星・木星・金星・土星。
だが、そもそも各惑星をこう呼称するのはどうしてなのか。日・月以外については欧米と同じではきつとないだろう(確認しない)。
素人的発想なのだが、<陰陽五行説(・思想)>と関係がある。
「陰陽師」・安倍晴明を祭神とする晴明神社〔京都市)の鳥居の額には<五芒星>と全く(かほとんど)同じ<晴明紋>が堂々と?掲げられている。
欧米でもあるという五芒星紋と晴明紋(とされるもの)が同じだというのも不思議だ。先端が五つとなる星形で中央に逆正五角形が残る。
この五つは、<陰陽五行説>のいう五つの要素だろう。強い〔後者を弱める)順に、水→火→金→木→土→水→…、弱い(後者を強めて発生させる)順に、木→火→土→金→水→木→…。
しかし、またそもそもだが、何故、この五つ、つまり、「火」、「水」・「木」・「金」・「土」なのか。火(炎)・水・樹木・金属・土(土地・土壌)なのか。
素人的発想だが、昔の中国大陸や(いまでいう)日本の人々は、<世界>またはヒト・人間を中心とする(これを主体として除外する)<自然界>・<外界>は、これら5要素で構成されている、と理解・認識したのだ、と思われる。世界・自然界・外界は(人間以外に)、火・水・木・金・土でできている、構成されている。これら五つに、分類される。
これは、むろんその当否は別として、立派な世界観・自然観だ。「学問」であり、「科学」(だった)だろう。
第二。ヒト・人間の「生と死」を問題にすること。
ヒト・人間は生まれてやがて死ぬことを大昔から人々は当然に知っていて、<どこから来て、どこへ行くのか>と、生きていくのに忙殺されることはあっても、ときには思い浮かべただろう。「死生観」だ。
生前・死後に関心が及ぶと、当然に、いまをどう生きるかという<生き方>を考える人も出て来たに違いない。
この点では「仏教」は明らかに<宗教>だが、はて日本の「神道」において人間の「生と死」とは何か。どのように説かれているか、が気になってくる。
だが、そもそも神道には明確な「教義」がないとされるのだとすると、神道における「生き方」以外を詮索しても無意味かも知れず、立ち入らない。
以上のようなことをふと考えたのも、以下の書物から受けた刺激によるかもしれない。直接の内容的な関係はない。
——
松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(角川書店、2018)。
5名による共著だが、シンポか研究会の記録のようで、「開会の辞」を松岡正剛が述べ、出版に際しての「おわりに」を佐藤優が書いているので、二人の名だけを挙げた。
全体にわたって「宗教」が関係している。その中で、佐藤優が面白い(興味深い)ことを述べている。
「宗教」の意味に立ち入らないが、途中で佐藤優は、「拝金教」(貨幣・信用にかかわってマルクスも出てくる)、「出世教」、「お受験教や学歴教」、「国家主義教」に触れている。p.37〜p.40。これらの<宗教>だ。
佐藤優は「おわりに」では、つぎの三つに整理?している。p.195。
①「拝金教」、②「出世教」、③「受験教」。
これらのうち、秋月が近年もっとも関心を持って来たのは、③「受験教」、あるいは途中に出てきていた「学歴教」だ。これは他者と無関係ではなく、大まかには、③→②→①という関連があるかもしれない(この部分は佐藤の説ではない)。
なぜ関心をもつかというと、日本の現代または現在を覆っている「空気」、現在の日本の人々における<自己認識>(<他者認識・評価>)、あるいはA·ダマシオのいう「自伝的(歴史的)自己」、これと少し異なる意味での「アイデンティ」に、「受験」やその結果としての「学歴」は大きく関係している、と感じているからだ。
見えない「空気」が、意識しつつも大っぴらにはあまりされることのないかもしれない、人々の「意識」がある。それは「学歴」であり、明治維新以降の「知識」教育、換言すると西欧(・欧米)「文明」の急速な吸収過程から始まって戦後も一貫して培養されてきた、と考えている。むろん<仮説>だ。
その現在の「知識」教育、ひいては「学歴」意識(・<宗教>)は、本当は衰亡していかなければならないのではないか。戦後・現在の学校・教育制度や教育内容に関係する。これらにおける「知識」の扱い方を問題にしたいのであり、一般に「知識」・「知性」・「知」を排除するつもりはない。
西尾幹二らに倣って曖昧にさせたまま始めると、これについて、少なくとも次の二つは言えると思われる。
第一。かつては、「哲学」や「学問」そのものだった、またはこれらの一部だった。
神道でも仏教でもないと(明治以降に?)される陰陽思想・陰陽五行思想(説)というのも「宗教」であり「哲学」・「学問」だったようだ。
時間・日々ををどのように区切るかをヒト・人間はずっと昔から考えてきたようで、その中に年・月のあとに「週」がある。
これを7日とするのは古代からあったようなのは不思議だが(例外的にフランス革命暦では10日、ソ連暦では5日だったようだ)、これを今の日本のように、日・月・火・水・木・金・土の各曜日に分けるのは、正確には各曜日にこういう名称を付けるのは何故なのか。
「日」曜と「月」曜は英語・ドイツ語でも同じだが〔これも不思議だ)、残る5つは、太陽・月・地球を除く可視的な惑星の数によるともされる。火星・水星・木星・金星・土星。
だが、そもそも各惑星をこう呼称するのはどうしてなのか。日・月以外については欧米と同じではきつとないだろう(確認しない)。
素人的発想なのだが、<陰陽五行説(・思想)>と関係がある。
「陰陽師」・安倍晴明を祭神とする晴明神社〔京都市)の鳥居の額には<五芒星>と全く(かほとんど)同じ<晴明紋>が堂々と?掲げられている。
欧米でもあるという五芒星紋と晴明紋(とされるもの)が同じだというのも不思議だ。先端が五つとなる星形で中央に逆正五角形が残る。
この五つは、<陰陽五行説>のいう五つの要素だろう。強い〔後者を弱める)順に、水→火→金→木→土→水→…、弱い(後者を強めて発生させる)順に、木→火→土→金→水→木→…。
しかし、またそもそもだが、何故、この五つ、つまり、「火」、「水」・「木」・「金」・「土」なのか。火(炎)・水・樹木・金属・土(土地・土壌)なのか。
素人的発想だが、昔の中国大陸や(いまでいう)日本の人々は、<世界>またはヒト・人間を中心とする(これを主体として除外する)<自然界>・<外界>は、これら5要素で構成されている、と理解・認識したのだ、と思われる。世界・自然界・外界は(人間以外に)、火・水・木・金・土でできている、構成されている。これら五つに、分類される。
これは、むろんその当否は別として、立派な世界観・自然観だ。「学問」であり、「科学」(だった)だろう。
第二。ヒト・人間の「生と死」を問題にすること。
ヒト・人間は生まれてやがて死ぬことを大昔から人々は当然に知っていて、<どこから来て、どこへ行くのか>と、生きていくのに忙殺されることはあっても、ときには思い浮かべただろう。「死生観」だ。
生前・死後に関心が及ぶと、当然に、いまをどう生きるかという<生き方>を考える人も出て来たに違いない。
この点では「仏教」は明らかに<宗教>だが、はて日本の「神道」において人間の「生と死」とは何か。どのように説かれているか、が気になってくる。
だが、そもそも神道には明確な「教義」がないとされるのだとすると、神道における「生き方」以外を詮索しても無意味かも知れず、立ち入らない。
以上のようなことをふと考えたのも、以下の書物から受けた刺激によるかもしれない。直接の内容的な関係はない。
——
松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(角川書店、2018)。
5名による共著だが、シンポか研究会の記録のようで、「開会の辞」を松岡正剛が述べ、出版に際しての「おわりに」を佐藤優が書いているので、二人の名だけを挙げた。
全体にわたって「宗教」が関係している。その中で、佐藤優が面白い(興味深い)ことを述べている。
「宗教」の意味に立ち入らないが、途中で佐藤優は、「拝金教」(貨幣・信用にかかわってマルクスも出てくる)、「出世教」、「お受験教や学歴教」、「国家主義教」に触れている。p.37〜p.40。これらの<宗教>だ。
佐藤優は「おわりに」では、つぎの三つに整理?している。p.195。
①「拝金教」、②「出世教」、③「受験教」。
これらのうち、秋月が近年もっとも関心を持って来たのは、③「受験教」、あるいは途中に出てきていた「学歴教」だ。これは他者と無関係ではなく、大まかには、③→②→①という関連があるかもしれない(この部分は佐藤の説ではない)。
なぜ関心をもつかというと、日本の現代または現在を覆っている「空気」、現在の日本の人々における<自己認識>(<他者認識・評価>)、あるいはA·ダマシオのいう「自伝的(歴史的)自己」、これと少し異なる意味での「アイデンティ」に、「受験」やその結果としての「学歴」は大きく関係している、と感じているからだ。
見えない「空気」が、意識しつつも大っぴらにはあまりされることのないかもしれない、人々の「意識」がある。それは「学歴」であり、明治維新以降の「知識」教育、換言すると西欧(・欧米)「文明」の急速な吸収過程から始まって戦後も一貫して培養されてきた、と考えている。むろん<仮説>だ。
その現在の「知識」教育、ひいては「学歴」意識(・<宗教>)は、本当は衰亡していかなければならないのではないか。戦後・現在の学校・教育制度や教育内容に関係する。これらにおける「知識」の扱い方を問題にしたいのであり、一般に「知識」・「知性」・「知」を排除するつもりはない。