秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

大震災

1040/朝日新聞・「政治活動家」集団について久しぶりに。

 〇朝日新聞社の存在を意識すると、この国に住みたくなくなる気分が生じるほどだ。
 こんな社の作る新聞が700万部も発行され、2000万人程度には読まれ、評論家類は必ず目を通し、マスコミ関係者も参照してテレビでもワイドショー類を通じて拡散されていく。恐ろしい現実だ。
 その「左翼・売国」ぶりは相変わらずで、「野田佳彦財務相が、靖国神社に合祀されているA級戦犯について、戦争犯罪人ではないとの見解を示した」ことについて、8/18付朝日新聞社説はさっそくいちゃもんをつけている。そして、「首相になれば過去の歴史を背負い、日本国を代表して発言しなければならない。行動を慎み、言葉を選ぶのが当然だ」などと説教を垂れている。さすがに、「歴史認識」問題に関して、中国・韓国(政府・マスコミ)に対して「ご注進」してきた新聞社だ。
 〇3.11あるいは6.02以降、「政治」的話題に事欠かなかった。
 震災対応への不手際や内閣不信任頓挫等の事象・事件は、自民党(中心)内閣下のものであれば、朝日新聞はもっと大きくとり上げて騒いでいただろう。大震災への「政治」の誤った作為・不作為を問う姿勢に乏しく(むしろ原子力政策を推進したのは自民党内閣だったという自民党への批判が記事作りにも感じられた)、政府にむしろ暖かかったのではないか(他紙に比べて)。
 また、民主党出身議長による菅直人首相への辞職要求発言は客観的には大きな話題とされてよいとてつもない「事件」の筈なのだが、朝日新聞は大きくとり上げた気配がない(他紙も問題の大きさのわりには、話題を大きくしなかった。菅直人の不人気ぶりが極まっていたので、それに埋没した感もある)。
 震災への対応、不信任頓挫事件、参院議長発言等々、これが自民党(中心)内閣下のものであったなら、朝日新聞はまったく異なる報道ぶり・紙面づくりをしていたと思われる。なぜなら、この新聞社は「政治活動家」団体であり、自民党内閣打倒のためならば、いかなる誇張もデマ宣伝まがいのことも平気でしてきた新聞社だからだ。
 〇安倍晋三内閣のもとでの2007年参議院選挙の前後の朝日新聞や「週刊朝日」の報道ぶり・誌面や記事作りは、産経新聞が「何たる選挙戦」との連載記事に含めたほどのヒドい、悪辣なものだった。
 と思いつつ最近の「週刊朝日」の表紙のタイトルを見ていると、面白いことに気づく。3/11以降、一号(6/17号)だけを除き、08/19号の「菅直人が3.11以後のすべてを語る」まで、すべて「政治」性を直接には感じさせないテーマ・タイトルが選ばれている。以下のとおり。
 110812 プロ13人が注目する31銘柄
 110805 あの店の肉は大丈夫?
 110729 社長の年収
 110722 食品から解毒法まで・放射能の疑問に答える
 110715 忍び寄る放射能から家族を守れ!
 110708 放射能・震災からペットを守る!
 110701 食べてはいけない!夏の食材・見分け方
 110624 あなたの街の放射能汚染
 110617 今度の総理はだ~あれ?
 110610 放射能汚染・食べてはいけない見分け方
 110603 放射能から身を守れ!
 110527 浜岡原発停止はフクシマの「罪滅ぼし」
 110520 ビンラディン射殺作戦の全貌
 110506・13 東電が公表しない放射線量データ
 110429 響け!負けないで
 110422 復興への祈り(両陛下)
 110415 福島原発のデス・ロード
 110408 東北振興で始まるニッポン復活のへの道
 110401 日本は必ず復興する!
 110325 東北関東大震災・奇跡の生還
 110318 元「暴」系タニマチが豪語・前原は総理になる<震災以前の発行と思われる>
 2007年の安倍晋三内閣時代との違いは大きい。
 本来は「政治」が好みの朝日新聞が、上のごとく「政治」的話題をできるだけ避けていることは明白だ。「政治」状況が、「歴史的な政権交代」をなしとげた民主党には不利で、それに輪をかけるような報道・記事作りをしたくなかった、というのが本音だろう。
 さすがに、「政治活動家」組織の朝日新聞社だ。この新聞社が消滅するか大きく弱体化しないと、「戦後」は終わらないし、終わらせることもできないだろう。

1032/新保祐司の産経7/05「正論」-文芸評論家は文章に「厳密」か?

 産経新聞7/05の「正論」欄の、新保祐司の論考。「文芸批評家」等の肩書きで、文学部畑だろう。少なくとも、法学部出身者ではないだろう。
 「決起」と天皇との関係に関する三島由紀夫と福田恆存の対談内容の一部についても感じたことだが、「法的」思考の残る三島と<勝ってしまえば法的理屈など後からどうにでもつく>旨を語っていた福田とを較べれば、やはり法学部出身者でもあった三島由紀夫の思考方法になじみがある。三島由紀夫は<法的連続性>あるいは<法的正当性>というものを意識していたと思われる。
 以上は以下に書くことと直接の関係はない。ただ、「文芸」評論家なるものにあまり信頼を置いていない、という日頃の感想を記しただけだ。さらに贅言すれば、石原慎太郎は小説も書き文芸評論のようなこともしているが、法学部出身で、かつ国会議員でもあったし、さらには東京都知事という<行政実務>すら経験し、熟知している。たんなる文芸評論家や大学教授の言よりは、総じていって、石原慎太郎の発言の方に信を寄せたい(と書きつつも、あまりこの欄で取り上げていないが)。
 さて、上記の新保祐司論考についてだが、違和感があるし、また文章・「論理」も相当に奇妙なのではないか。
 ①新保によると、3月大震災以降の「今日」・「現在」において、日本人の生き方の根本的見直しが必要になっているが、それは、「戦後的な国家観や人間観は、破綻したからである」。
 また、新保によると、「東日本大震災は、まさに時代を画するものであり、『戦後民主主義』の息の根を止める威力を持つものであった」。
 以上は、(自らが客観的な事実だとするところの)客観的な「認識」の叙述のはずだ。つまり、新保において、「戦後的な国家観や人間観」は「破綻」し、「戦後民主主義」は「息の根を止め」られた、と認識されているのだ(直接引用のとおりで、そう理解して誤っていないはずだ)。
 ②しかるに、新保はこうも書く。「戦後民主主義」に対する批判あったし、「戦後レジームからの脱却」を唱えた政治家もいたが、「『戦後民主主義』というものはなかなかしぶとく、結局、今日まで慣性の法則で惰性的に続いている」。
 あれれ? 「戦後的な国家観」等は「破綻」し、「戦後民主主義」は息の根を止められたのではなかったのか? ①とは矛盾する「認識」が叙述されている。
 ③さらに、新保はこういう書き方もする-大震災が「結果として『戦後民主主義』を終わらせることになるのは間違いない」。
 これは、主観的要素を含まざるをえないと通常は考えられる、<将来予測>だ。
 ④つぎを読んで、ますます(少なくとも私は)混乱する。新保はこうも書く-「この非常時には、それを支えてきた現行憲法や戦後的な諸制度が虚妄であることが暴露された……。だから、『戦後民主主義』はできる限り早急に退場すべきである」。
 これは<将来予測>でもなく、現時点での<べき>論を語っている。新保の主観において、「戦後民主主義」を「退場」させるべく、彼や読者(国民)は努力あるいは運動す「べき」なのだ(そう理解して、大きく誤っているとは思えない)。
 何となく感じられる言いたいだろうことの当否は別として、上のような、「論理」の次元の異なる、率直に言って<矛盾した>文章を読まされると、とてもついていけない。
 「文芸評論家」だから許される、というものではないはずだ。むしろ「評論家」を名乗るからには、一体何を言っているのかを、曖昧にして言外に覚らせるようなことをすることなく(これにも失敗しているが)、明確にすべきだ。
 A客観的な現在の事実・事態の「認識」と、B将来の事実の「予測」とC現在から将来にかけてこう「あるべき」・「すべき」という論とは、それぞれ別のものであり、明確に区別すべきだ。
 これらの混淆した文章を一流の?新聞で読まされたのでは、たまったものではない。
 かつて習ったものだ。Sein (存在)と Sollen(当為) の区別を知らなければならない。二つのいずれを語っているかを理解しなければならず、自ら語る(叙述する)場合には、二つのいずれの次元の問題を扱っているかを明瞭にしておかねばならない。
 「戦後体制」・「戦後民主主義」は終焉しておらず、なおも続いている。その点では、大震災自体が画期になるものではない。かかる「認識」にかかわって他に言及したいこともあったが、長くなったのでやめる。
  

1031/片山杜秀「ヒトラーの命がけの遊び」新潮45/8月号と菅直人。

 産経新聞7/24の稲垣真澄「論壇時評」は、新潮45の2011年8月号の、片山杜秀「国の死に方2/ヒトラーの命がけの遊び」にほとんどを費やして注目し.要約的な紹介もしている。
 この書評記事を読む前に上記の片山杜秀の新潮45論考を読んで感心していたので、あらためて印象に残った。
 稲垣真澄の文章から離れて(それに依拠しないで)片山の文章の一部を紹介してみるが、菅直人・菅内閣という言葉はどこにもないにもかかわらず、つまりヒトラーに関する文章であるにもかかわらず、菅直人・菅内閣を強く想起させるものになっている。以下、一部の要約的紹介。
 ・ナチス時代のドイツは無統制的で責任の所在不明確で役割分担が曖昧だった。平時にも非常時にも徹しきれず、中途半端。ヒトラーは何か失敗したのか。いや、すべてが計算づくだった。「ヒトラーは意図的に国家を麻痺させていった」。ハンナ・アレントはこれを(のちに)「無秩序の計画的創出」と呼んだ(p.83-84)。
 ・なぜそんなことをしたのか。「ヒトラーは一日でも長くドイツ国家の頂点に居座りたかっただけ」だ。しかも、自らの権力を単なる調整ではない実のあるものにしておきたかった。それには、「ワイマール共和国の作り上げたいかにも近代国家らしい複雑精緻で能率的な機構」が邪魔だった。政治・経済・文化・科学の専門組織がきちんと機能すれば、各分野の専門家が実権を握る=「官僚等が幅を利かせる」。独裁者・権力者も調整役に甘んじ、専門家たちを統制できず、権力の上層は空洞化する(p.84)。
 ・いやならば専門組織を機能させなければよいが、「いきなり壊しては国家が即死する」だけなので、近代国家の「精密なメカニズムを怪奇なポンコツへとわざとゆっくり時間をかけて」変貌させる。党と政府の組織をすべて「二重化」し、党と政府の中に「似た役割の機関を増殖させる」(p.84)。
 ・その果ては「国家の死」だが、ヒトラーにはそれでよかったのだろう。彼は中下層の実務家に降りていた権力を上へと回収し、裁量権を拡大した。「法律の裏付けも実現可能な根拠もない思いつきの命令」を「唐突に」発しても、組織が多すぎて批判すべき部署が分からなくなり、「権力の暴走」を止められなくなった(p.84)。
 ・ここに「ヒトラーの政治の肝腎かなめ」がある。古代ローマの「一時的独裁」とはまるで異なる「ファシズム」なのだ。軍国主義・戦争を連想するように、平時にはファシズムは成立し難い。しかし、非常時は戦争に限らず、軍隊が登場しなくてもよい。「経済危機でも大災害でも電力不足」でもヒトラーの掲げた「共産主義の恐怖」でも何でもよい。そうした「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ、世の中が刹那的な気分で運ばれてゆく」ようになれば、もう「立派なファシズム」だ(p.85)。
 ・ヒトラーは「命がけの遊び」を続けた。「日々に新しい組織を仕立て、次々と非常事態的新事態を引き起こした」。何が根本的問題でどう解決すべきなのか、彼はナチス党員にも国民にもゆっくり考える暇を与えなかった。そして、「目先の混乱状況をエスカレートさせては、それだけでいつも人々の頭を一杯にさせた。そうやって一日一日と綱渡りで延命した」(p.85)。
 以上、どう考えても、どう読んでも、菅直人(・民主党内閣)が念頭に置かれていないはずはない文章だ。
 例えば、大災害・原発不安等々の「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ」ているのは菅直人そのものであり、ほとんどのマスメディアも本質的なことは報道しないで、ヒトラー、いや菅直人のお先棒を担いでいるだけではないのだろうか。
 思えば、ナチス党の正式名称は「国家(民族)社会主義労働者党」なのだった。ナチスあるいはファシズム=「右翼」と多くの人々は理解している(感じている)のかもしれないが、「社会主義」・「労働者」を冠した、立派な<左翼>政党だったとも言える。
 もともとハイエクやハンナ・アレントが指摘したように、あるいは旧民社党が「左右両極の全体主義を排し…」などと言っていたように、コミュニズム(共産主義)とナチズムは「全体主義」という点で共通性がある。
 「左翼」・菅直人がヒトラーによる「ファシズム」的政治・行政手法を採っていても、何の不思議もない。

1030/原子力損害賠償法・エネルギー政策基本法と菅直人・マスメディア。

 〇原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項は、次のように定める。
 
「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない」。
 ここでいう「原子力事業者」とは原子炉等規制法〔核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律〕23条・23条の2・13条第一項・43条の4第一項・44条第一項・51条の2第一項・52条第一項のいずれかの「許可」を受けた者をいうので(同法2条第三項)、福島第一原発等の事故にかかる事業者は東京電力となる。
 さて、この規定は、損害賠償につき一般的・原則的な過失責任主義を採っていない(=無過失責任主義を採る)ことを明らかにしている、とされる。但し、完全な無過失・結果責任を要求しているわけでもなく、上記のとおり、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責されるものと定めている。
 かねて不思議に思ってきたのは、この規定の解釈が政治・行政界でまともに議論されたことはなく、マスメディアにおいて話題にされたこともほとんどないと見られることだ。
 むしろ、おそらくは上にいう免責される場合にはあたらないことを当然に前提として、早々に、原子力損害賠償法自体にもとづく「原子力損害賠償紛争審査会」が発足し、議論を始めている。
 上の免責規定には該当しない、すなわち、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたもの」ではない、ということを内閣も各政党も、そしてマスメディアも十分に納得したうえで、損害賠償に関する細かな議論は進めてほしかったものだ。
 たぶん4月中の毎日新聞だっただろう、与謝野馨が上の免責条項に該当するので東電は免責される旨を言ったら、枝野幸男がそんな解釈には法律改正が必要ですよ(=今の法律のままだと東電は免責されない)と反論した、というような記事を読んだ。見出しになってもおらず、記事本文中の一部だったが、じつに基本的・根本的な問題に触れていたのだ。
 結論としてはどちらでもよい、と言えば語弊はあるし、最終的な決定権者は裁判所なのだが、政府として、上の法律の重要な関係条項をどのように解釈して損害賠償関係事務を遂行していくかは、きちんと明確にして国民(・マスコミ)に対して公表しておくべきだっただろう。
 ひょっとすれば、それはなされていたのかもしれない。そうだとすると、この点について重要な報道対象としなかった日本のマスメディアは、いったいいかなる「法的」感覚をもっているのかと、恐怖に近いほどの感想をもたざるをえない。
 東京電力を擁護する意図はないが、「異常に巨大な天災地変
」による損害か否かは、議論するに足りる論点だったと思われる。
 また、この法律の裏付けをもって被害者が権利として要求(請求)できる損害賠償(金銭による償いの一つ)と、東電や国等が<見舞金>的に行う、被災者=弱者救済という目的も含めての、政策的な金銭給付とは、論理的にはきちんと区別されなければならない。
 これらは、「法的」議論のイロハなのではないか?
 こうしたことが曖昧にされたまま?何となく事態が進行するのは、<法的秩序感覚>を不快な方向に動揺させる。
 〇産経新聞7/30付社説は、以下のことを述べている。
 菅直人内閣の「エネルギー・環境会議」が「原発への依存度を下げていく」ことを目指し、2050年までに原発を減らす工程表を作る方針を打ち出したが、「そもそも、首相は本来あるべき手続きを無視している。エネルギー政策は『エネルギー政策基本法』に基づき策定され、変更する場合、エネルギー基本計画を変えなければならない。策定者は経済産業相と決まっている。だが、首相は原発を推進してきた経産省の影響力排除を狙い、国家戦略室による見直しにこだわっている。その結果が今回の中間整理である」。
 菅直人とその内閣が<法律を誠実に執行>しているのか疑問を呈したところだが、阿比留瑠比の産経新聞7/30付「日曜日に書く/順法精神見あたらぬ菅首相」とともに、産経新聞だけは(?)、「本来あるべき手続」等の表現でもって、菅直人・同内閣の政治・行政スタイルの異様さを指摘し始めた(?)ようだ。
 上の産経社説が指摘している例は、<法律を誠実に執行>していないどころか、明らかに<違法な法令執行>をしているのではないか。左であれ右であれ、(現行の)法律に従っていない内閣・行政権は、それだけで厳しく糾弾・指弾されるべきではないのか??
 阿比留瑠比の文章の中に出てくる片山虎之助(たちあがれ日本)の発言を探してみたりしたのだが、長くなったので、次回以降に委ねる。

1028/菅内閣は「法律を誠実に実施」したか-その3。

 菅直人および同内閣の<法的>感覚は少なからず異様であり、その点を問題にしないマスメディアもまたどうかしているのではないか。
 前回までの続きで第三に、中西輝政も言及している災害対策基本法にもとづく措置に触れる。
 災害対策基本法24条によると、内閣総理大臣は「非常災害が発生した場合において、当該災害の規模その他の状況により当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「臨時に内閣府に非常災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならず、同法28条の2によると、内閣総理大臣は「著しく異常かつ激甚な非常災害が発生した場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「閣議にかけて、臨時に内閣府に緊急災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならない。後者が設置されたときは、前者は廃止される(28条の2第三項)。
 今時の東日本大震災のときは発生日の3/11に、後者の「緊急災害対策本部」が正式に設置されたようだ。
 原子力災害対策特別措置法にも同様の規定があり、福島第一原発事故発生後に、同法16条にもとづいて、「原子力災害対策本部」が3/11に設置されたようだ。なお、災害対策基本法の場合と違って、これの設置には前提として内閣総理大臣による「原子力緊急事態宣言」が必要なので(同法16条)、この宣言もなされたものと見られる。
 「原子力災害対策本部」が置かれる前提となる「原子力緊急事態宣言」にかかる原子力緊急事態」については、災害対策基本法にもとづく「緊急災害対策本部」に関する諸規定は適用されないので、原子力(原発)災害とこれ以外の地震・津波災害について、「原子力災害対策本部」と「緊急災害対策本部」という二種の<対策本部>があった(今でもある)ことになる。
 地震・津波災害にかかる災害対策基本法のシステムと原子力災害対策特別措置法のそれとの大きな違いは、前者には「災害緊急事態」の布告という制度が上記の災害対策本部の設置とは切り離されて存在することだ(原子力災害の場合は、「原子力緊急事態宣言」→「原子力災害対策本部」で、一体化されている)。

 すなわち、災害対策基本法105条第一項によると、「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる」。
 この布告は「区域」・それを「必要とする事態の概要」・「効力を発する日時」 を明記して行われなければならず(同条第二項)、また、事後的な国会による承認が必要等の定めもある(106条)。
 この「災害緊急事態の布告」を、現菅内閣は行なっていない。「当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」に該当しない、との判断をしたことになるが、はたして適切だったのかどうか。安全保障会議の招集・開催に関して書いたことと同様の問題を指摘することができるだろう。
 次に述べるように、この布告がいかなる法的意味をもつかが問題であるとはいえ、この布告だけをしておくことも法的には可能だったはずだ。
 さて、「災害緊急事態の布告」の重要な法的意味は、それを前提として、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができ、かつその政令(内閣が制定する)は次の事項を定めることができる、とされていることだ。以下は、109条第一項各号。 
 
 その供給が特に不足している生活必需物資の配給又は譲渡若しくは引渡しの制限若しくは禁止

   災害応急対策若しくは災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格又は役務その他の給付の対価の最高額の決定
   金銭債務の支払(賃金、災害補償の給付金その他の労働関係に基づく金銭債務の支払及びその支払のためにする銀行その他の金融機関の預金等の支払を除く。)の延期及び権利の保存期間の延長

 これらの制限(権力的規制)に対する違反には罰則を定めることも可能だと定められている(同条第二項)。
 中西輝政は、前々回に言及したウェッジ7月号p.9で、次のように書いている。
 首相が105条にもとづき「災害緊急事態」を布告すれば、「生活必需品の配給や日本中のガソリンを1カ所に集めて東北に送ることも、物資の買占めを制限することもできたにもかかわらず」、政府は布告せず、不可欠の各種制限をしなかった、と。
 だが、このような中西輝政の理解と叙述は誤っている、と考えられる。
 以上では意識的に省略したのだが、109条は、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができる場合を、「災害緊急事態に際し国の経済の秩序を維持し、及び公共の福祉を確保するため緊急の必要がある場合」とするほか、次の限定を加えている。
 「…の必要がある場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置をまついとまがないとき」。
 つまり、国会開会中等の期間には<緊急政令>を発することはできないのだ。3/11から今日まで、国会は開会され続けている。従って、「政府」>内閣かぎりでの判断によって、各種制限をすることはできないことになる。
 だからといって、「災害緊急事態の布告」をしない、という決定的な理由になるわけではないだろう。また、上記のような諸事項(各種制限)は、<緊急政令>によってではなく開会中の国会による法律制定によって行うことができるのは当然で、内閣はいうまでもなく法律案を作成して国会に提出することはできた。
 法的性格のあいまいな要請・お願い等々の弱腰の(?)措置を多用するのではなく、必要ならば、きちんと法律を改廃したり、新法律を制定すればよかったのだ。
 はたして、それだけの見識と十分な意欲があったのかどうか、はなはだ疑わしい。そういう状況になった理由・背景の大きな一つはおそらく、<政治主導>とやらで、行政官僚が有している関係法令についての専門的知識とそれにもとづく「補助」を、菅直人らが嫌悪し忌避したからではないかと思われる。行政官僚を軽視した、彼らの意欲をそぐ<政治主導>とやらは、大災害に際して、国民をより<不幸な>状態に追いやってしまっているのではないか。

1026/菅直人・民主党内閣は「法治行政」ではない「権威による行政」志向?

 一 よく分からないことが多すぎる。菅直人は、あるいは民主党内閣そのものが、そもそも<法律にもとづく又は法律にしたがった>行政活動という考え方を理解していないか、無視する傾向にあるように感じる。法律(やそれ以下の政令等)の制定・改廃そのものが<政治>でもあるが、法律や政令等(以下、法令)があるかぎりは、それを内閣総理大臣をはじめとする行政部は遵守し、きちんと実施・執行すべきものだろう。また、既存の法令に不備・不都合があれば、淡々と改正や新法令の制定をすべきものだろう。
 現憲法73条は、「内閣」の事務の一つとして「法律を誠実に執行」することを明記している(第一号)。
 はたして菅内閣は「法律を誠実に執行」しているのだろうか、あるいはそもそも、そういう姿勢・感覚を身につけているのだろうか。菅直人にあるのは、<法的権限にもとづく政治・行政>よりも<権威による政治・行政>をより重視しようという感覚ではないかと思われる。法律は「国家」権力そのものなので、それをできるだけ忌避したいという<反国家>=<反法律>心情を有しているのではないかとすら疑いたくなる。あるいは、何となく国家中枢が溶融していて、シマリがないように感じてしまうのは、法令を遵守した行政とそうではない政治的に自由な(具体的な法令が存在しないために法令から自由な)行政との区別がきちんとついていない、ということにも原因があるのではないだろうか。
 以下、専門的な議論に立ち入る能力はないが、いくつかの具体例を紹介し、またはそれらに言及する。こうした諸問題があるにもかかわらず、テレビの報道系番組はもちろんのこと、一般全国紙もまた、以下のような<法的>議論・問題についてほとんど論及することがないのは、いったい何故なのだろうか、というのも、最近感じる不思議なことでもある。
 二 安倍晋三らもすでに批判的に指摘していることだが、今時の大震災・原発事故に関して、法律上の「安全保障会議」が召集・開催されなかった、という問題がある。

 安全保障会議設置法(法律)によると、同会議は内閣に設置され、議長と議員で組織され、議長を内閣総理大臣、「議員」を総務・外務・財務・経済産業・国土交通大臣・防衛の各大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長およびこれら以外に内閣総理大臣の臨時の職務代理者(内閣法10条)があるときはその者、が担当する(4条・5条)。
 内閣総理大臣は、次に記す事項については、この会議に「諮らなければならない」と定められている(2条1項。 また、諮問なしにでも「意見を述べる」ことができる-2条2項)。
  その法定の事項のすべてを列挙するのは省略して、今時の震災・事故が該当する(または、その可能性がきわめて高い)のは、9つの事項のうち最後に明記されている以下の事項だ。
 「
 内閣総理大臣が必要と認める重大緊急事態(武力攻撃事態等、周辺事態及び前二号の規定によりこれらの規定に掲げる重要事項としてその対処措置につき諮るべき事態以外の緊急事態であつて、我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態をいう。以下同じ。)への対処に関する重要事項 」。
 一~八に列挙されているのは大雑把には国防(・防衛)の基本方針・大綱類あるいは「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」、「周辺事態」に関する重要事項であり、今時の大震災・原発事故に直接の関係はなさそうだ(但し、この災害を奇貨としてのテロ・内乱等が予想されれば、全くの無関係ともいえないことになろう)。
 さて、今時の大震災・原発事故は、その地域的な広さおよび原発事故の深刻さの程度からみて、上にいう「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」に該当するように考えられる。一~八号は別としても、今時のような災害発生が上の九号に該当しないとすれば、そもそもいかなる事態が九号に該当することになるのか(何のために九号があるのか)、きわめて疑わしいものと思われる。
 たしかに上の事項には「内閣総理大臣が必要と認める~」という限定が付いており、内閣総理大臣の判断の<裁量>性が認められ、内閣総理大臣が「必要と認め」なければ安全保障会議に諮るべき事項ではないということに形式的にはなりそうだ。
 しかし、今時の大震災・原発事故は、「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」だと、内閣総理大臣が認めてしかるべき事態ではないかと思われる。すべてが内閣総理大臣の<政治的・政策的>な、自由な判断に委ねられている、とは考え難い。
 そうだとすると、安全保障会議が招集・開催されず、「重要事項」についてその会議に諮ることなく震災や原発事故への対処がなされたことは、菅直人首相による「必要と認める」ことの懈怠を原因とする、安全保障会議設置法の基本的な趣旨に違反した違法な対応だったのではないか、と考えられる。
 むろんその「違法」が法的にまたは裁判上どのように、またはどのような形で問題にされることになるのかはむつかしい問題があるだろう。だが、かりに訴訟・裁判上の問題に直結しなくとも、たんなる<政治>領域に押しやることができず、客観的には<違法=法律違反>を語ることができる場合のあることを承認しなければならないだろう。
 まだあるが、長くなったので、第二点以降は、次回へと委ねる。
 なお、上記法律7条には、「議長は、必要があると認めるときは、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させ、意見を述べさせることができる」とも定められている。

1011/佐伯啓思のリスボン大地震・カント・「近代」への言及を受けて。

 佐伯啓思が1775年にリスボンで大地震があり、カントが影響を受けて著書まで書いた〔『美と崇高の感情の観察』→『判断力批判』)、ということを初めて記したのはおそらく新潮45(新潮社)5月号だ(p.231-)。最近の表現者37号(ジョルダン、2011.07)の座談会「文明内部の危機」でも、同旨のことが語られている(p.39-)。
 佐伯によると、ヴォルテールはアウグスティヌスやライプニッツの<神の創造した世界は最善>とかの「神学的」世界観を疑う契機とした。また、カントは、壮大な自然現象の恐怖・脅威を人間は理性と構想力で克服しようとし、そのような人間は「人格性」をもち、かつ「崇高」だ、と論じた。これは「近代的な理性中心の発想」に連なるもので、「ちょっと極端にいえば」、「リスボン大地震を一つのきっかけ」にして「自然を人間がコントロールできる」、そこに人間の「素晴らしさ、崇高さがある、という近代的なヒューマニズムのようなものが力を得てくる」。要するに、リスボン大地震はそういう(「近代」に向けての)「大きな価値観の転換をもたらした」。そして、佐伯啓思によると、今回の日本の大震災は、かかる「近代的な考え方」が限界を迎えたことを意味する、という(表現者37号p.40)。また、新潮45の5月号では、カントのような欧州近代(またはそれを用意した欧州啓蒙主義)の自然観とは異なるものとして、宮沢賢治の詩に見られる(日本の)自然観・死生観に言及している(p.234-)。
 なかなか興味深いし、別のどこかで誰かが、ルソーの人間不平等起源論の「自然に帰れ」との反文明観の吐露もリスボン大地震の影響があったと書いていたこともついでに思い出す。
 だがむろん、完全に釈然としているわけではない。ヴォルテールとカントだけを持ち出して、「欧州近代」へのリスボン大地震の影響は論証できるのだろうか、という疑問がある。「一つのきっかけ」程度で、リスボン大地震の影響を過大評価してはいけないとの議論もできそうだ。
 また、自然災害を前にして自然と闘おうとする欧米(西洋)「近代」思想と、自然と「共生」しようとする日本的自然観・死生観との対比も上の佐伯啓思の論調には見られるようだが、そもそも「自然」環境そのものが、欧州と日本では異なる、ということが出発点なのではないか、という気もする。すなわち、自然観・死生観が異なるから大地震等々の「自然」現象への対処・対応が異なるのではなく、逆に「自然」環境が異質だからこそ、欧州と日本では自然観・死生観も異なるに至ったのではないだろうか。
 1775年といえば明治維新から100年近く前の江戸時代・安永年間。その頃以降も日本ではいくたびも大地震・津波を経験したのだが、欧州については1775年の大地震まで遡らなければならないということ自体に、自然<大災害>の多寡が示されているようにも見える。
 地域によって違うだろうが、土地の肥沃度では日本の方が総じて豊かなような気もする。しかし、地震、津波、台風といった自然現象による災禍は、古代からして欧州よりも日本の方がはるかに多く、そこから、日本(・日本人)には欧州とは異なる独自の自然観・死生観が育まれてきたのではないだろうか。
 というようなことを考えていると、なかなかに面白い。

1010/中谷巌は産経6/14「正論」で<脱原発>と言うが…。

 〇中谷巌が、産経新聞6/14の「正論」欄で最後にこう主張している。
 「文明論的にいえば、『脱原発』は、自然は征服すべきものだというベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想を乗り越え、『自然を慈しみ、畏れ、生きとし生けるものと謙虚に向き合う』という、日本人が古来持っていた素晴らしい自然観を世界に発信する絶好の機会になるのではないだろうか」。
 知識人らしく?「文明論」的に語るのはけっこうだが、これはあまりにも単純でナイーヴな議論ではなかろうか。
 少しだけ具体的に思考してみよう。原子力(発電所)によるエネルギー供給が「ベーコンやデカルトに始まる西洋近代思想」の所産で、今やそれを「乗り越え」、日本古来の「素晴らしい自然観」を発信するときだ、と言うのならば、日本では毎年少なくとも1万人程度は死亡者(事故後3日を超えての死亡者を含む)を生む<凶器>でもある自動車の発明も「近代」の所産で、今やその製造も止めるべきではないのか。
 正確な統計は知らないが毎年必ず少なくない人命を奪っているはずの事故の原因となっている航空機の発明も「近代」の所産で今やその製造も止めるべきではないのか。きりがないが、交通事業に供されている鉄道という近代文明の利器もまた、殺人凶器になりうる「近代」の所産で、今やその供用も利用も止めるべきではないのか。さらにまた、IT技術自体も「近代」の最先端のものかもしれないが、<秘密の私的事項>の狭隘化とでもいうべき危険も内包しているというべきだろう。他にも<危険性>が(本来的・内在的に)付着した、「近代思想」の所産はあり、中谷巌も産まれたときからそれらの恩恵を受けているだろう。
 <脱原発>と言うならば、そしてそれを<西洋近代思想>の限界(または終焉の兆し?)と結びつけて何らかの<文明論>を語るならば、原発と自動車・航空機・鉄道等との<質的な>違いをきちんと明らかにしたうえで主張すべきだろう。
 もともと中谷巌の書いたものをまともに読んだことはなく、信頼するに足る人物とは全く思ってはいないのだが。
 〇脱原発・反原発といえば、西尾幹二(月刊WiLL7月号)や竹田恒泰(新潮45・7月号)はこちらの側の論者であるらしい。きちんと読んだうえで、何かをメモしよう。
 〇小林よしのりの変調とともに隔週刊・サピオ(小学館)を読まなくなったあと、その代わりにというわけでもないが、月刊・新潮45(新潮社)を読むことが多くなった。佐伯啓思の「反・幸福論」の連載があるからでもある。その他、月刊WiLL(ワック)や月刊正論(産経新聞社)も毎号手にしているので、すべてを読むことはできていないにしても、佐伯啓思の論考とともに、何がしかの感想をもち、コメントしたくなった点もあったはずだが、けっこう重たい、簡単にはコメントしたり概括したりできないものもあるので、この欄にいちいち書き込めてはいない。隔月刊・表現者(ジョルダン)の諸論考等も同様。

 それにしても、日本の政治(・政界)の、あるいは「国家中枢」の<溶解ぶり>(メルト・ダウンだ)の中で、上に挙げたような雑誌の<言論>はいったいいかなる程度の影響力を現実的に持っているのだろうか、という虚しい気分もなくはない。そんな現実的効用とは別に、何かを語り、論じたくなるのが、知的生物としての人間の性なのかもしれないが。但し、各雑誌(・発行会社)の<そこそこの>収益のための原稿・論考にすぎなくなっているのであれば、それに付き合わされる読者は何というバカだろう。 

1005/資料・資料-2011.06.01菅内閣不信任決議案理由全文。

 2011年6月1日
 自民党・公明党・たちあがれ日本共同提出/菅内閣不信任決議案提案理由全文

 「菅内閣は、国難のときにあって明確な指針を示せないまま迷走を続け、わが国の復興と再生に対して大きな障害となっている。
 とりわけ東日本大震災をめぐる対応については、初動の遅れを招いた判断、曖昧で場当たり的な指揮命令など、その迷走ぶりがさらなる混乱を招き、取り返しのつかない状況を生み出してきた。被災者や関係者への配慮を欠く発言、マニフェストにこだわりバラマキ政策を財源に充てようとしない姿勢、意志決定が複雑を極める対策本部の乱立、唐突な連立政権呼びかけなど、未熟で軽率な行動に寄せられる厳しい非難は、菅総理が政権を担当する資格と能力に著しく欠けている実態委を明確に示している。
 また、被災地の再生に道筋をつけようともせず、今国会の会期や二次補正予算の提出につき明言を避け続ける不誠実な対応は、危機感や現場感覚を持たず、震災よりも内閣の延命を優先する無責任極まりないものである。
 昨年の通常国会において、菅政権に対する内閣不信任決議案が提出された。それは、民意によらない「正当性なき内閣」、「不作為内閣」、国民の選択肢を奪う「政策隠し内閣」、政治とカネの問題に背を向ける「疑惑隠し内閣」、自覚に欠け努力を怠る「責任放棄内閣」、国民の期待にそむく「国民愚弄内閣」との理由からである。今日、その状況はますます悪化し、菅内閣は明らかに機能不全の様相を呈している。
 未曽有の災害を前に、われわれは危機克服と復旧に猶予がないものとして政府与党に協力し、菅内閣の継続を黙認してきたが、もはや容認することはできない。菅総理に指導者としての資質がない以上、難局にあたって、菅内閣とともに新たな政策体系を積み上げていくことは到底できないからである。国民の不安を払拭し、国家を挙げて被災地の復興と被災者の生活再建を実現していくためにも、菅総理は一刻も早く退陣すべきである。」

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

1002/大地震・大津波後2週間余-風土と思想、朝日新聞と岩波。

 〇レマン湖畔生まれのJ・J・ルソーは地中海や大西洋を見たことがあるだろうか。あったとしても、津波を知らず、大地震を経験したこともなかっただろう。

 マルクス、エンゲルスも同様。彼らに限らず、スコットランドのアダム・スミスもエドマンド・バークも(コウクも)、ドイツのヘーゲルやカントも、オーストリア(出身)のケルゼンもハイエクも、大地震や津波を経験することなく、これらによって不意に多数の人々が生命を喪うことがあることを知らないままで「思考」しただろう。

 農耕民族と狩猟民族という対比のほかに、相対的には日本の方が温暖で、欧州は(イタリア南部等を除いて)日本人な感覚では寒冷地だということも日本と欧州の差異として指摘しうるだろう。この後者は、日本の自然の方が恵まれている、という趣旨でも指摘されてきた。四季があり、美しい山と平地と海とを一箇所からでも望見できることは、日本の誇りでもある(あった)だろう。

 だが、地震と津波をおそらく全く(またはほとんど?)経験することのない欧州人と、何十年かに一度はそうした自然の「襲撃」を受けてきた日本人とでは、寒冷地と温暖地という差異も含めて、自然観、死生観、人間観、そして宗教や「思想」が異なって当たり前だと思える。

 いかに魅力的な?「欧州近代」の思想も理念も、そのままでは絶対に日本に根付くことはないと思われる。「日本化」されて吸収されてこそ、あるいは吸収されたのちに「日本」的な変容をうけてはじめて、日本と日本人のものになる、というべきだろう。
 「風土」は<思想>(や<宗教>)と無関係ではない。それぞれの「風土」ごとに<思想>や<宗教>は成り立つ、というべきだろう。
 というような、当たり前のことかもしれないことを昨今、感じている。欧州産の「思想」を理解した気分になって<偉そうに>日本(・日本人)への適用を説くエセ知識人、日本人ではなくなっている(とくに人文・社会系の)学者・研究者たちを、軽蔑しなければならない。(かつてはマルクスが…、ルソーが…、)ルーマンが…、ハーバーマスが…、レヴィ=ストロースが…などとさかんに言っているような人々は、「日本」と「日本人」をいかほど理解しているのだろうか。日本国憲法もまた「欧州近代」の思想・理念を継受して(によって作られていて)いるが、その憲法を欧米の思想・理念・原理によってのみ理解する日本の憲法学者は、はたして「日本人」だろうか。

 〇大震災・原発問題を表紙とする雑誌・週刊誌類に混じって、「日本破壊計画」と銘打った週刊朝日増刊・朝日ジャーナル2011.03.09号(朝日新聞出版)が書店に並んでいるのを見て、朝日新聞が進めている「日本破壊計画」がまさに実現しているようで、ゾッとする。この時点で、「日本破壊計画」を特集する週刊朝日増刊を出版するとは…。

 むろん偶然ではあろう。「左翼」政治活動家・編集長の山口一臣は巻頭言は、今の日本にある「アンシャン・レジーム」を解体・破壊せよとの旨を書いているが、じつに興味深い倒錯が(やはり)見られる。戦後「平和と民主主義」のもとで日本国憲法を戴きつつ「アンシャン・レジーム」を形成・維持してきた中心にあったのは、朝日新聞(社)そのものではないか。また、「アンシャン・レジーム」というフランス革命時代に愛用された語を使っていることも、山口一臣の「革命」願望を示しているに違いない。

 これまた偶然だろうが、月刊世界の別冊-2011年819号(岩波)も並んでいて、「新冷戦ではなく、共存共生の東アジアを」という大きな見出しを表紙に掲げている。掲載されているシンポジウムのテーマは「2050年のアジア―国家主義を超えて」(日本側の基調報告者は東京大学名誉教授・坂本義和。また東京大学だ)。
 尖閣問題のあとでなお「共存共生の東アジアを」と叫びつづけるとは、さすがに朝日新聞とともに「左翼(・反日)」の軸にある岩波書店、というべきだ。「国家主義」が(厳密にどう定義・理解されているのか読んでいないが)<悪>として描かれているのも、相変わらずの<反ナショナリズム>(「ナショナル」なものの否定)を明瞭にしていてうんざりする。
 大手メディアはきちんとは報道していないようだが、自衛隊とともに在日米軍は被災地で奮闘してくれてくれているようだ。
 一方、「東アジア」の中国が日本に派遣したのは東南アジアの小?国と同程度の15人らしい。これで反米・非米の「共存共生の東アジアを」と叫んでいるのだから、異様な感覚だ。今さら指摘するまでもないのだが。
 〇月刊WiLL5月号(ワック)に掲載の諸氏の「東北関東大震災/私はこう考えた」の文章のうち、(全部読んだわけではないが)最も印象に残ったのは、つぎの西部邁の文章だ(なお、西部邁を<保守>派の第一位と位置づけているわけではない)。
 「この大震災は日本国家の沈没を告げる合図だ、と感じないほうが不思議といってよい」(p.50)。
 そのような「合図」に少なくとも結果としてはなったと、後世の「日本」史学者あるいは世界の歴史家が叙述しない、という保障はまっくないだろう。西部邁はこう続けている-「そのことについての率直な感想が、どのTVのどの番組においても、ただの一言もなかったのである」。
 西尾幹二らも、また別に山際澄夫「国難を延命に利用/菅総理の卑しい魂胆」(p.233-)も縷々指摘していることだが、「戦後」のなれの果ての、「左翼」民主党政権下で大震災を被ってしまったことは、なんという悲痛なことだろう。

1000/菅直人内閣は「ある程度、落ち着いたところで」総辞職せよ。

 ・この欄1/27に紹介したが、今年1月中に執筆したとみられる屋山太郎月刊WiLL3月号(ワック、2011)の連載で屋山はこう書いていた。
  「…総選挙をやって、自民党が政権を取れば、ましな政府ができるのか。…自民党は国民から見離されて大敗し、野党に転落したのである。一年四ヶ月の間に、大いに反省して生まれ変わったという証拠もない。/一方、『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない。…」(p.22)。
 屋山太郎は、しかし、2カ月ほどのちの 産経新聞3/15付「正論」欄でこう書く。
 「民主党の命脈は6月までと考えていた。…失政で政局は行き詰まり、菅直人首相は総選挙を打つ構えだった」。
 解散・総選挙をすべきではないし、するはずもないという趣旨の1月(菅直人改造内閣発足後)から3月半ばまでの間に、屋山の認識・見解を変えさせるような何があったのか?

 屋山の論述は、こうつづく。
 「菅氏のこれまでの政治には全く不満だが、当分この人物に大仕事を任せるしかない」。「非常時だから解散は求めない。その代わり…間違った路線の転換も同時並行的に進めなければならない」。
 「間違った路線」とは、屋山にとってはまずは公務員制度改革の懈怠にあるのだろうから、この点でもじつは「お笑い」(重点・優先順序の判断の誤り)だ。だが、それよりも、屋山太郎は「菅氏のこれまでの政治には全く不満」だと言いつつも、「国民から見離されて大敗」した「自民党が政権を取」るよりは<マシ>だと考えていたのだろう。その旨が、この3/15付文章では伝わってこない。

 また、「非常時だから解散は求めない」と書くが、それでは、「非常時」ではなかったら、屋山太郎は「解散」を求めたのか? 1月には「『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない」と書いていたにもかかわらず、3/15付では「民主党の命脈は6月までと考えていた。…」と書いている。

 この人の頭の中には、どこかに誤魔化し、自己撞着があるかに見える。結局のところ、「非常時だから解散は求めない」というあたりで後づけ的に自己の見解の矛盾を隠蔽しているかに見える。

 このような感覚は、つぎの東京大学教授・御厨貴のそれと大きくは異なっていないようだ。御厨はむろん<保守派>ではない、<親民主党>のイデオローグ(デマゴーグ)だ。

 ・朝日新聞3/17付で御厨貴はこう発言している。

 「あの日、大きな揺れに立ちつくしながら思ったのは、『これで菅直人政権は続く』だった。政治休戦は当然だ。…野党が与党の足を引っ張ることは許されない」。
 とりわけ今回の大震災の被災者には、とくに上の太字部分の、東京大学現役教授の言葉をしかと憶えておいていただきたい。

 ・しかし、こんな見解もある。産経新聞3/16付「正論」欄で、佐々淳行はこう書く。
 「野党の良識ある『政治休戦』で、土肥隆一…の…も、菅首相の…献金問題も吹き飛んだ感があり、『これで菅政権の寿命が延びた』との声もあるが、とんでもない話だ。菅氏は、ある程度、落ち着いたところで、東日本大震災の危機管理の失敗の責任を取って、総辞職すべきである」。

 「『これで菅政権の寿命が延びた』との声」の中には、屋山太郎や御厨貴の<便乗的>な声も実質的・結果的には含まれているのではないか。

 「東日本大震災の危機管理」の実態についてはなおも検証が必要かもしれない。しかし、大震災以前の政治的問題が消えてしまったと考えるのは、むろん誤りだ。
 どのような時点で「ある程度、落ち着いた」と言えるかはむつかしいかもしれない。しかし、佐々淳行の言っていることはまさに「正論」だろう。

 ・それにしても、村山富市社会党委員長が首相になった翌年に1995年の阪神淡路大震災は起きた。自民党所属の経験のない、かつ与党に自民党がいない初めての首相である菅直人政権発足の翌年に今回の大震災は起きた。

 理性的・合理的ではないことはよく分かっているつもりだが、これははたして偶然なのか?

 被災者から見れば不適切な発言なのだろうが、石原慎太郎東京都知事が言ったという<日本に対する天罰>というのは、当たっているような気もする。日本人の「我欲」(戦後「個人主義」→エゴイストの大群の発生)が原因であるとともに、<左翼化>する日本に対する大自然の<警告>なのではないか。

 週刊新潮3/24号の連載記事を、高山正之はこう締め括っている。
 「二昔前の村山富市政権…。/今回の菅政権…。/単なる偶然とも思えない。罪深い政権はもうこれきりにしろという暗示か」(p.154)。

 上の「正論」中で、佐々淳行は、より合理的に、湾岸戦争(海部俊樹首相)、サリン事件(村山富市首相)も含めてこう書いている。心して記憶しておいてよいものと思われる。

 「…のように、弱い首相の時に、大事件が起きるという危機管理ジンクスがまたまた当たってしまった」。

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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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