佐伯啓思・<現代文明論・下>-20世紀とは何だったのか・「西欧近代」の帰結(PHP新書、2004)をp.149(第五章の途中)くらいまで読んだ(半分を超えた)。
第二章はニーチェ、第三章はハイデガー、第四章はファシズム、第五章は「大衆社会」が主テーマ。論旨は連続して展開していっているが、省略。
前回書いたことにかかわり、「大衆社会」における、又は大衆民主主義のもとでの「世論」なるものを佐伯が次のように表現・説明しているので書き記しておく。
「世論」とは「国民の意思」=「民意」と言い換えてもよいだろう。昨年の参院選後に<ミンイ、ミンイ>と叫んでいた者たちに読んで貰いたい。佐伯の本を聖典の如く扱っているわけでは全くないが。
①「世論」は、「人々の個性的な判断や討議の結果というよりも、もともとはひとつの情報源から発したものが多量に複製された結果というべきもの」(p.140-1)。
②「世論」は、「人々のさまざまな独自の意見の結集ではなく、人々がお互いに相手を模倣しているうちに、ひとつの平均的な意見に収斂してしまったものにすぎない」(追-「発信源になるものは多くの場合、新聞やラジオといったメディアでしょう」)(p.145)。
③「世論」は、「人間がある集団のなかで、その集団に合わせるために、その集団の平均的見方で物事を考えているだけだ」(p.148)。
以上。なお、佐伯は、これらを現代日本を念頭に置いて書いてはいない。20世紀に入って生成した「大衆社会」(大衆民主主義)の時代における「世論」について一般論として(欧米の議論を参照しつつ)書いている。だが、むろん、現代日本もまた「大衆民主主義社会」だ。
大衆社会
産経新聞3/23の書評欄で高杉良が佐高信・田原総一朗への退場勧告(毎日新聞社、2008)をとり上げている。
田原総一朗の評価について、高杉は佐高信と同じようで、「田原総一朗の見当違いの驕慢は続き、それに踊らされている人たちもいる。この本は、そんな田原へのレッドカード(退場勧告)である。もちろん、それは間違って彼を「ジャーナリスト」と思っている人たちへのイエローカードを含む」と書いている。
田原の評価は私自身はよく分からない。だが、佐高信から見れば、たいていの者が批判・罵倒の対象になるのではないかと思うくらい、佐高信の立脚点は相当に偏っているので、佐高信による評価も高杉良の同調も、にわかに首肯することはできない。
それよりも、高杉良が「権力に追従する者はジャーナリストではない。早々に退場すべきだ!」とのこの書の帯の惹句をそのまま肯定的に紹介・引用していることが気になる。
<ジャーナリストは権力の監視役>とかの、教条的な、あるいはステレオタイプ的な権力観・ジャーナリスト観が、古くさいまま、そのまま提示されていると思えるからだ。
「権力」をさしあたり「国家」と理解すれば、「国家」はつねに<悪>ではないしつねに<悪>になろうとする傾向があるわけでもない。<必要悪>という見方も間違っている。
「追従」とは言わなくとも、優れた、又は適切な「国家」活動はジャーナリストも遠慮なく?讃えるべきだ(と私は思う)。
加えて、現代の大衆民主主義社会においてジャーナリスト・マスメディア人が果たしている役割を見るとき、<有力なマスメディア(という「権力」)の監視>もまた、ジャーナリストの重要な仕事であるべきだ。そのような発想を、佐高信や高杉良は少しは持っているのか。
少し飛ぶが、政府・与党等(・これらの政治家)に対しては遠慮なく監視し批判するが、<有力なマスメディア(という「権力」)>に対しては舌鋒を鈍らせる、という傾向がジャーナリストの中にはないだろうか。
国家・官僚・政治家を批判し揶揄するのは<進歩的>で当然なことと考えつつ、一方で、偏った、問題の多い報道ぶり等をしていても、例えば朝日新聞(社)については、当該マスメディアから原稿執筆の依頼が来なくなることを恐れて、正面から批判することを避ける、という心性傾向をもつジャーナリストあるいは文筆家(売文業者)はいないだろうか?
物事は客観的に、公平に論じてもらいたい。佐高信がいう「権力」とはおそらく「国家権力」のことだろう。「国家」以外にも、「国家」に働く人々よりも実質的には「権力」をもつ「私的」組織・団体があることを忘れるな。
<国民主権>のもとでは「国家」のために直接に働く人々-議員(政治家)・政府関係者(・官僚)等は主権者・国民の<従僕>であるとも言える。そして、「国民」の<気分>や<意見>を反映する、あるいは(場合によってはそれらを<誘導>してでも)創り出すマスメディアの「権力」は、「国家」・政府関係者・議員等よりも大きいとも言える(少なくともそのような場合がありうる)のだ。
本の内容を読まずだが(佐高信の本を読む気はない)、高杉良のあまりに単純な佐高への同調を異様に感じて、書いた。
田原総一朗の評価について、高杉は佐高信と同じようで、「田原総一朗の見当違いの驕慢は続き、それに踊らされている人たちもいる。この本は、そんな田原へのレッドカード(退場勧告)である。もちろん、それは間違って彼を「ジャーナリスト」と思っている人たちへのイエローカードを含む」と書いている。
田原の評価は私自身はよく分からない。だが、佐高信から見れば、たいていの者が批判・罵倒の対象になるのではないかと思うくらい、佐高信の立脚点は相当に偏っているので、佐高信による評価も高杉良の同調も、にわかに首肯することはできない。
それよりも、高杉良が「権力に追従する者はジャーナリストではない。早々に退場すべきだ!」とのこの書の帯の惹句をそのまま肯定的に紹介・引用していることが気になる。
<ジャーナリストは権力の監視役>とかの、教条的な、あるいはステレオタイプ的な権力観・ジャーナリスト観が、古くさいまま、そのまま提示されていると思えるからだ。
「権力」をさしあたり「国家」と理解すれば、「国家」はつねに<悪>ではないしつねに<悪>になろうとする傾向があるわけでもない。<必要悪>という見方も間違っている。
「追従」とは言わなくとも、優れた、又は適切な「国家」活動はジャーナリストも遠慮なく?讃えるべきだ(と私は思う)。
加えて、現代の大衆民主主義社会においてジャーナリスト・マスメディア人が果たしている役割を見るとき、<有力なマスメディア(という「権力」)の監視>もまた、ジャーナリストの重要な仕事であるべきだ。そのような発想を、佐高信や高杉良は少しは持っているのか。
少し飛ぶが、政府・与党等(・これらの政治家)に対しては遠慮なく監視し批判するが、<有力なマスメディア(という「権力」)>に対しては舌鋒を鈍らせる、という傾向がジャーナリストの中にはないだろうか。
国家・官僚・政治家を批判し揶揄するのは<進歩的>で当然なことと考えつつ、一方で、偏った、問題の多い報道ぶり等をしていても、例えば朝日新聞(社)については、当該マスメディアから原稿執筆の依頼が来なくなることを恐れて、正面から批判することを避ける、という心性傾向をもつジャーナリストあるいは文筆家(売文業者)はいないだろうか?
物事は客観的に、公平に論じてもらいたい。佐高信がいう「権力」とはおそらく「国家権力」のことだろう。「国家」以外にも、「国家」に働く人々よりも実質的には「権力」をもつ「私的」組織・団体があることを忘れるな。
<国民主権>のもとでは「国家」のために直接に働く人々-議員(政治家)・政府関係者(・官僚)等は主権者・国民の<従僕>であるとも言える。そして、「国民」の<気分>や<意見>を反映する、あるいは(場合によってはそれらを<誘導>してでも)創り出すマスメディアの「権力」は、「国家」・政府関係者・議員等よりも大きいとも言える(少なくともそのような場合がありうる)のだ。
本の内容を読まずだが(佐高信の本を読む気はない)、高杉良のあまりに単純な佐高への同調を異様に感じて、書いた。
一ヶ月以上前に読んだはずだが、西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」(正論10月号p.48以下)において、憂色は濃い。
同趣旨の文章が、たぶん次の3つある。
①「平成デモクラシーの紊乱は、…民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失するに至るまでは、止むことがないのである」(p.49)。
②「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握されたという意味での『高度』な大衆社会は、大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入るまでは出口なしなのだと、諦めておかなければならない」(p.53)。
③「大衆にできるのは『有能な人材をすべて引きずり下ろしたあとで、”人材がいなくなった”と嘆いてみせる』ことくらいなのだ。大衆の演出し享楽する『残酷な喜劇』には終わりがない。そうなのだと察知する者が増えること、それだけが、大衆喜劇としての民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である」(p.58)。
そして、①「民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失する」こと、②「大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入る」ことはあるのだろうか、という想いに囚われざるをえない。ある程度はレトリックなのだろうが、③「大衆喜劇としての民主主義」が「衰弱死」することなど、未来永劫ありえないのではないか、と思わざるをえない。
だとすれば、私の人生などいつ果てても不思議ではないとしても、日本人は末永く、③「大衆喜劇としての民主主義」と、多少は工夫を凝らして、かつ「民主主義」を神聖化することなく、付き合っていかざるをえないのではないか。
なお、この西部邁の文章を読んでも、デモクラシーとは「民衆政治」と訳す、又は理解するのが適切のようだ。
長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書)にも書かれていたと思う(確認の手間を省く)。イズムではないのだから<-主義>ではなく<民主制>又は<民主政>の方がよいのだろうが、さらには「民主」という語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう。もっとも、概念は語源・原意にとらわれる必要はなく、日本には、「民主主義」という、デモクラシー(democracy、Demokratie)とは異なる、日本産の概念・言葉がある、というべきか。
同趣旨の文章が、たぶん次の3つある。
①「平成デモクラシーの紊乱は、…民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失するに至るまでは、止むことがないのである」(p.49)。
②「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握されたという意味での『高度』な大衆社会は、大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入るまでは出口なしなのだと、諦めておかなければならない」(p.53)。
③「大衆にできるのは『有能な人材をすべて引きずり下ろしたあとで、”人材がいなくなった”と嘆いてみせる』ことくらいなのだ。大衆の演出し享楽する『残酷な喜劇』には終わりがない。そうなのだと察知する者が増えること、それだけが、大衆喜劇としての民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である」(p.58)。
そして、①「民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失する」こと、②「大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入る」ことはあるのだろうか、という想いに囚われざるをえない。ある程度はレトリックなのだろうが、③「大衆喜劇としての民主主義」が「衰弱死」することなど、未来永劫ありえないのではないか、と思わざるをえない。
だとすれば、私の人生などいつ果てても不思議ではないとしても、日本人は末永く、③「大衆喜劇としての民主主義」と、多少は工夫を凝らして、かつ「民主主義」を神聖化することなく、付き合っていかざるをえないのではないか。
なお、この西部邁の文章を読んでも、デモクラシーとは「民衆政治」と訳す、又は理解するのが適切のようだ。
長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書)にも書かれていたと思う(確認の手間を省く)。イズムではないのだから<-主義>ではなく<民主制>又は<民主政>の方がよいのだろうが、さらには「民主」という語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう。もっとも、概念は語源・原意にとらわれる必要はなく、日本には、「民主主義」という、デモクラシー(democracy、Demokratie)とは異なる、日本産の概念・言葉がある、というべきか。
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