秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

大月書店

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
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 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
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 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1813/江崎道朗2017年8月著の無惨⑮。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 前回に触れたように、後掲の邦訳書の「付録資料」の冒頭に訳者・萩原直が注記を施して、この「付録資料」の大半の翻訳は村田陽一の編訳書によることを明記している。
 つぎのものだ。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)。
 従って、江崎道朗は日本語によるこの6巻本が30年以上も前までに「公開」されているのを、(仮に以前は知らなくとも少なくともこの注記によって)当然に知ったはずなのだ。
 しかし、詳細で網羅的ふうに感じられるこの<コミンテルン資料集>に江崎がいっさい接近しようとした気配がないのは、何故なのだろうか。
 <コミンテルンの陰謀>を主題の一つとするかのごとき表題を付けながら、コミンテルンについて、この村田陽一編訳書を参照しようとせず、「コミンテルン」に関する叙述で萩原直の訳書に最も依拠しているのは、何故なのだろうか。
 日本の読者を馬鹿にしているか、本人の「無知」によるとしか考えられない。
 ちなみに、村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻~第6巻(大月書店、1978-1985)は、この数年内の私でも簡単に入手できている。
 コミンテルンそれ自体が作成・発表した文書・資料がすでに日本語になっていることは何ら不思議ではない。おそらくは戦前から存在しており(日本に関する有名な27年や32年テーゼもある)、戦後のスターリンの死やフルシチョフ秘密報告があってもまだスターリンが日本の(トロツキストら以外にとっての)<容共・左翼>の「輝きの星」だった時期に、(レーニン全集やスターリン全集等もそうだが)スターリン期を含む戦前の<国際共産主義組織>の諸文書・資料の邦訳がないと想定すること者がいるとすれば、よほどの「無知」か「しろうと」だろう。
 萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(1998)の「付属資料」の大半が本当に村田陽一の訳と同じなのかを確認する手間はかけない。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻/1918-1921年(大月、1978)の概要は、つぎのとおり。
 資料件数-総数101。江崎道朗が<抜粋>だけの邦訳を見て、とんでもない誤解・無知をも示している全てで計4の文書の<全文>を含む。これらを江藤が一見すらしていないことは明白。
 以下、前回に記した江藤言及の4資料と対照させておく。右端はこの資料集第1巻での最初の頁と最終の頁だけから見た総頁数。
 ①1919.01.24/招待状-資料2(4頁)
 ②1920.07.28/民族植民地テーゼ-資料45a, 45b(8頁)。
 ③1920.08.04/規約-資料40(4頁)
 ④1920.08.06/加入条件-資料39(5頁)。
 その他、資料部分総頁-二段組み、538頁。「注解」総頁-54頁、「解説」総頁-24頁。数字つき最終頁-628(横書の頁が他にp.12まで)。
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 江崎道朗がコミンテルンについて最も依拠した、つぎの本・邦訳書の原著者はいったいどういう人物なのか。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。

 まず明確なのは、日本語版の<ウィキペディア>には、いずれの氏名でもヒットしない。
 不十分、不正確なところはあっても、L・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリックは、日本語版の<ウィキペディア>にも出てくる。
 つぎに明確なのは、英米語版<Wikipedia>でもKevin McDermott または Jeremy Agnew はの項目または欄はない。前者より著名らしき同名の者が、football-player や singer-song writer にはいる。後者と同名のより著名らしき、映画関係著述者はいる。
 結局のところ、Jeremy Agnew(ジェレミ・アグニュー)の現在については、かつて上の著の共著者らしいことは分かっても、それ以上に明らかにならないようだ。
 つぎに Kevin McDermott は少し前にどこかの高校の歴史の教師という知識を得たのだったが、<Kevin McDermott+historian>で、現在探してみると(といっても今日ではない)、つぎが分かった。<Wikipedia>ではなく、イギリスの大学教員紹介のサイトからだ。
 イギリス・シェフィールド大学とは別のシェフィールド・ハラム大学の「上級講師」(senior lecturer)。「20世紀東欧・ロシアの歴史家。共産主義チェコスロヴァキアとスターリニズムソ連が専門」とある。出生年不明。所属学部等には面倒だから立ち入らない。
 1998年刊行の邦訳書にはどう紹介されているかというと、K・マクダーマットは「チェコ労働運動史」、G・アグニューは「イタリア共産主義運動」の各「研究家」とカバー裏にあるだけで、訳者自身の文章(訳者あとがき)でも(本の内容ではなく)二人に関しては何も触れられていない。
 以下で触れる点も参照すると、1998年時点ではおそらく、二人ともに大学、研究所等の正規構成員ではなかったように見える。当時の推定年齢は30歳台だ。G・アグニューは20歳代後半だった可能性もある。
 いずれにせよ、K・マクダーマットは「博士」の学位はあるようだが、おそらくは50歳台以上でも(イギリスの教育・研究制度をよく知らないが)<教授職>を有しない。
 要するに、<コミンテルン史>を共著として刊行しているが、イギリスおよび英米語圏諸国でさほどに著名な、あるいは評価の高い研究者ではなく、当時はほぼ全く無名だったように推察される。
 原書刊行1996年以降のロシア革命やコミンテルン関係書物について詳しくないが、少なくとも今のところ、この著が参照されているのに気づいたことはない。
 それに、内容にもかかわるが、二人が書いている冒頭の「謝辞」によると、「まえがき」と「おわりに」を除く計6章のうち第5章は別の人物(原書によって正確に綴ると Michael Weiner, シェフィールド大学東アジア研究センター所長)が執筆しており、およそ二つの章は(二人の共同執筆なのかどちらかのものなのか不明だが)既発表の論文を修正・追加等をしてまとめたものだ。二人にとって最初の書籍公刊だった可能性が高い。
 したがつて、いちおうは年代を追って「コミンテルン史」を叙述しているが、この書で初めて体系的に整理して叙述したものでもなさそうだ。
 追記すると、20歳代(または30歳代)の若い研究者が論文類をまとめて初めて一冊の本にするのは日本でもあることだと思うが、共著というのは珍しいだろう。しかも、かりに指導教授だつたとはいえ?、一部をその別の人物が書いているのも、日本ではあまり例を知らない(「まえがき」くらいで意義を語る、というのはあるかもしれない)。
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 こんなことを書いても、江崎道朗は本文を何ら読まず、「付録資料」だけを(致命的な誤読・誤解をしつつ)利用しているにすぎないと思われるので、江崎道朗にはきっと、何の意味もないだろう。
 ただ、関心を惹くのは、第一に、大月書店が、なぜこの本の訳書を刊行したのか、ということだ。これはこの本の内容にかかわる。
 また、第二に、日本共産党直系の新日本出版社や学習の友社でなくとも、(マル・エン全集、レーニン全集等の出版元で)<容共・左翼>であって、1990年以前は明らかに日本共産党系だったと思われる大月書店の刊行物を、なぜ簡単に?江崎道朗が利用したのか、というのも不思議だ。
 加藤哲郎が<左翼>であることを多分知らないほどだから、大月書店という出版社名を何ら気に懸けなかった可能性はある。しかし、この邦訳書の巻末には、同社刊行のマル・エン全集CD-ROM版等の宣伝広告も載っていて、この社の<左翼>性に-常識的には-気づかないはずはないのだが。
 より決定的で明確な、江崎道朗の<反・反共>インテリジェンスに対する<屈服>、したがって、江崎に<共産主義者のインテリジェンス活動>を警戒すべきとするような文章を書く資格はないだろうという、江崎のこの著に現にある叙述については、さらに別に書く。

1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。

1577/レーニン主義①-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
 その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
 第16章・レーニン主義の成立。
  第1節・レーニン主義をめぐる論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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 第16章・レーニン主義の成立
 第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
 マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
 問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
 この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
 この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
 スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
 この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
 他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
 このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
 運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
 この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
 結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
 分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
 ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
 他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
 しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
 逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
 彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
 ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
 1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
 レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
 彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
 『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
 いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
 (全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
  ----
 秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
 ---
 ②につづく。


0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0956/マルクス・レーニンとフランス・ジャコバン独裁。

 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によれば、レーニンは1915年に、「ロベスピエールの名前をあげ」つつ、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたらしい。また、「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」とされる(p.193)。

 実際のところ、レーニンは、ジャコバン派・ジャコバン独裁あるいはフランスの1793年の時期について、どのように語って、または書いていたのだろうか。

 平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)という450頁を超える書物がある。これは、日本共産党員だったと見られる平野義太郎が、ほぼロシア革命の段階の順に、およびテーマ・論点ごとにまとめて、レーニンが種々の論文(・演説)等で記した(・語った)ことを整理して紹介したものだ。ある程度は、レーニン自身の言葉・文章の辞典的な役割も果たし、便利だ。

 この書物から、索引を主として手がかりにして、上記の関心に応えてみよう。レーニンは次のように述べた(「」は各論文等からの平野による抜粋的引用の部分。「…」はこの欄での省略部分。引用部分自体には平野による簡潔化・修正は加えられていないと見られる)。

 ①「ジロンド派は、フランス大革命の事業の裏切り者であったろうか? そうではない。しかし彼らは、この事業の、一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、革命的社会民主主義者が、二十世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいているのと同様に、十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもりぬいたジャコバン派は、彼らとたたかったのである。だから、…あからさまな裏切り者・王党派・立憲主義的僧侶等々は、ジロンド派を支持し、ジャコバン派の攻撃にたいして、彼を弁護したのである」(1905.03.08)。

 ②「国民の大多数の利益のために革命的暴力を用いることに、反対するものではない。…/問題はただ『ジャコバン派』にも、いろいろあるということだ」。「機知に富んだフランスの格言は『人民ぬきのジャコバン派』をあざわらっている。/真のジャコバン派、一七九三年のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、…とともにあるジャコバン派だったことにあった。/…ただジャコバン派ぶっているだけの連中、…はこっけいであり、みじめである」。「プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、…当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を…人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(1917.06.10)

 ③「民主主義的独裁は、…『秩序』の組織ではなくて、たたかいの組織である。…ペテルブルクを占領して、ニコライをギロチンにかけたとしてさえ、われわれは若干のヴァンデーに当面するであろう。マルクスも、一八四八年に…ジャコバン派のことを回想したとき、このことをみごとに理解していた。彼は、『一七九三年のテロルは、絶対主義と反革命とを片づける平民的なやり方にほかならなかった』と言っている。われわれも『平民的』なやり方でロシアの専制をかたづけるほうをえら」ぶ(1905.04.08。「ヴァンデー」とは、抵抗した農民に対する革命軍の大虐殺があった地域名-秋月。以上、p.44-45)。

 ④1849年のドイツでの「反動」期に、「マルクスは、…労働者が自主的に自分自身の組織をつくるように勧告し、とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、『武装解除の試みは、すべてこれを必要とあれば暴力を用いても、阻止しなければならないこと』を主張している」。「マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(1906.03.20。p.82)。

 以上を、平野義太郎編著を使ってのレーニンの叙述紹介の第一回とする。

 レーニンやマルクスが、「1793年のジャコバン派」をどのように評価していたかは、すでに明瞭だろう。

 くり返しておくが、そしてまた再度述べるだろうが、フランス1793年憲法・ジャコバン派を研究した辻村みよ子が、このようなマルクス、レーニンによる評価にまったく(ほとんど?)言及することがないのは一体なぜなのか? 全く知らなかったはずはないのだ。

 付記すれば、既述のように、樋口陽一も、ルソーやジャコバン派を肯定的に評価していた憲法学者だ。樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)p.170は、「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験すること」が「重要なのではないだろうか」とすら書いていた。樋口陽一も、マルクスやレーニンがジャコバン独裁(・テロル)を肯定的に評価し、実践的な「模範」としていたことに言及していない。一体なぜなのか?

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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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