産経新聞10/04の「書評倶楽部」で、伊藤謙介(京セラ相談役)が山折哲雄・信ずる宗教、感じる宗教(中央公論新社)を紹介・論評している。
 この本の引用又は要約的紹介なのか評者自身の言葉なのかを自信をもって区別できないが、おそらくは前者の中に、印象的な叙述がある(それ自体はほとんどは評者の文章だ)。
 山折哲雄のこの本によると、次のように整理されるらしい。
 ①A「信じる宗教」は<一神教>で、B「感じる宗教」は<多神教>。
 ②A一神教は「砂漠」の産で、B多神教は「緑なす山野」のもの。
 ③A「信じる宗教」は「天上の絶対的存在」を信じることで、「自立する声高に主張する『個』がキーワード」。
 一方、B「感じる宗教」は「地上の豊かな自然の中に神や仏の気配を感じること」で、「寂寥のなかで静かに耳を澄ます『ひとり』がキーワード」。
 私が挿入するが、日本の神道・仏教が(とくに神道が)Bであることは明らかだ。日本人の殆どは無宗教ではなく、本来は、「信じる」<一神教>ではない、「緑なす山野」の、「感じる」<多神教>の宗徒ではないか。
 山折哲雄はさらに次のように主張・警告しているらしい。
 <現代は「信じる宗教」にのみ「憧れと脅威の眼差しを注ぐ」「個の突出した時代」なのだが、「人間を越えた存在の気配を感じ取ることこそが必要」だ。それが「個、自己中心主義の抑圧に繋がるから」。
 以下は私の文による書き換えだが、欧米の一神教を背景とする「個の突出した時代」が現在日本の中心・本流にあるようだが、「個、自己中心主義の抑圧」のために、「感じる」<多神教>をもとに、「人間を越えた存在の気配を感じ取る」ことが必要だ、と主張しているようだ。
 多分の共感をもって読んだ。「信じる」<一神教>を背景とする、欧米的「個」は、本来、日本人にはふさわしくないのではないか。そして「自立する声高に主張する『個』」、「個の突出」、「個、自己中心主義」こそが、戦後の日本と日本人をおかしくしてしまったのではないか。
 樋口陽一を引き合いに出して語ってきたこともある欧米的「個人主義」批判と通底する部分が、山折の本にはありそうだ(まだ入手していないのだが)。
 以下は、評者・伊藤謙介の文章だと思われる。なかなかに<美しい>。
 「私たちは今、個が我が物顔に振る舞う、喧騒と饒舌の時代を走り続けている。/だからこそ、ときにたち止まり、星月夜を眺めつつ、悠久の時の流れに身を投じ、生きることと死ぬことに思いをはせたい」。