山門をくぐって、さらに何段か下った、日射しの少ない暗い参道をまっすぐ歩いたことがあった。四国八八所巡礼の82番、高松市にある根香(ねごろ)寺だ。
 もう一つ、宮崎・日南市の鵜戸神宮も、下っていくように作られている。
 バス停から少し登った所を(トンネルの方にいかないで)さらに登ると、海の方向へと下っているやや古くはなっている参道がある。
平地まで下ると神社の雰囲気が漂っているが、この神社の特徴は、さらにそのあとにあった。つまり、海に面した岩壁に作られたハシゴのような人工の石段を何度か曲がりながら行き着いたところが、岩壁中に30~40度ほど口が開いた洞窟になっていて、その中に、拝殿と本殿が収まっている。最初はぎょっとして、のちに不思議なかつ神々しいものに思えてくる。
 こんな社殿は、おそらく他にはないのではないか。
 この神社はふつうの参道自体も下向きだ。但し、波が吹き込んでくるかもしれないほどの岸壁中に貝の蓋のように開いた空間内の社殿の位置は、参道の上がり・下がりの違いという論点からはすでに離れている、独特のものだ。
 海に対して切り立った岩の中の隙間に、昔の人々はきっと、不思議さ、異様さを感じるとともに、「神」の存在を感じていたのだろう。
 例の如く余計なことを書くと、四国82番の根香寺の前の81番の札所は白峯寺で、それぞれ高松・坂出両市にまたがる五色台という丘陵の東部と西部にある(従って今では、平地から歩いて登るのはかなり厳しいようだ)。
さて、この白峯寺のすぐ近くには崇徳上皇の墓陵があり、当該墓陵独自の参道もあるが、白峯寺から簡単に行ける。墓陵の前に立つと(又はしゃがむと)石製の墓碑以外には、緑の木々しか見えない。
 竹田恒泰がひざまづいている写真を扉とする、崇徳上皇に関する本を彼が出版している。同・怨霊になった天皇(小学館、2009)。また、僧・西行も一度は実際に訪れたようで(12世紀だろう)、江戸時代に入ってからの上田秋成による雨月物語の最初の話は「白峯(しらみね)」という題。そこでは、崇徳(の霊)と西行が会話を、あるいは議論をしている。
 この会話・議論は実際のものに近いのかどうか、西行がこれについての何かの記録を残しているのかは知らない。物語では、保元の乱あたりの崇徳上皇の行動とその後の朝廷側の彼に対する措置について、崇徳と西行の間で、一種の「歴史認識」論あるいは「正義」論が交わされる。江戸時代にまで、そして雨月物語を通じて今日まで、崇徳と西行にかかわる話が残っているのは興味深いことだ。
 麓にも、崇徳が実際に流刑され隔離されて生活していた辺りに、「天皇寺」という寺があり、79番の札所だ(これを神宮寺としていたはずの神社も同じ境内かとすら思うほどに近接して存在している)。崇徳上皇と無関係なはずはない。
 京都市・今出川通り堀川東入るに、明治改元の直前に、「白峯神宮」が設置され、崇徳上皇はこの神社の祭神になった。この神社へ明治天皇や昭和天皇は、とか書き出すと、テーマから離れてしまうし、長くなりすぎる。この白峯と冠する神社自体は、楼門も拝殿・本殿も同じ平地上にあるはずだ。