一 若宮啓文(朝日新聞)という人は、元論説主幹とかで何やらエラそうに見えるが、いかほどの見識をもち思考の鍛錬を積んだ人なのか。
馬脚を現わす、という表現がある。これにピッタリの次のような文章が2003.11.30に書かれている。若宮啓文・右手に君が代左手に憲法(朝日新聞、2007)による。
「市民と国民はどう違うのか」。「市民運動と国民運動」を比べると分かり易い。前者は「国家や行政への対抗心がにじむ」のに対して、後者は「政府のきもいりなのが普通」。「市民革命はあっても国民革命」はほとんど聞かない。一方、「地球市民の連帯」という言葉ができるのは、「市民」が、「職業ばかりか国家や民族を超える概念だから」だろう(p.28)。
「市民と国民はどう違うのか」、この問題設定はよい。だが、すぐさま感じる。この人はアホ、失礼、馬鹿ではないか。
「市民」や「国民」という概念・議論にかかわる幾ばくかの文献に目を通したことが一度もなさそうだ。
国家等への「対抗心」が滲む「市民運動」概念に対して、「政府きもいりが普通」の「国民運動」概念。「市民」概念は(「国民」と違い)<職業・国家・民族>を超えている。
こうした<感覚的>理由で、この人と朝日新聞は「市民」がお好きなのだ。なるほど「市民運動」は朝日新聞と若宮にとってたいてい<左翼>運動であり、朝日新聞と若宮が嫌いな「国家」を避けたい、「国家」を意識から外したいためにこそ、「地球市民」という言葉を愛好しているのだ。
もう一度、馬鹿ではないか、と言いたい。しかも、「市民革命はあっても国民革命とはほとんど聞かない」などと書いて、まるで<歴史(近代史)>又は「市民革命」という概念の(「左翼」が理解する)意味を理解できていないアホさ、いや無知かげんを暴露している。
上のことから若宮は(この当時)民主党は「市民政党」から「国民政党」になっていると不満を呈し(p.26-27)、「市民派感覚を生かすことは大事」で、菅直人は「市民派首相」を目指すべきだ、という(p.29)。
この「市民(派)」へのこだわりは、「反・国家」意識、「反・日本(国家)」意識がすこぶる強い、ということだろう。この「国家」嫌いの若宮は、自分が日本「国民」であるという意識がないのではないか、あるいは自分がそうだということを当然に知ってはいても、日本「国民」意識を嫌悪しているのではないか。お気の毒に。
二 全部を読む気はもともとないが、若宮啓文・戦後保守のアジア観(朝日新聞社、1995)の前半を通読して感じる一つは、東京裁判(通称)の①A級戦犯容疑者全員がきちんと裁かれなかったこと、②A級戦犯のうち被処刑死者以外の者がのちに「釈放」され政界復帰等をしたことに対する、若宮啓文の<悔しさ>だ。
上の①の代表者は岸信介。②は、賀屋興宣・重光葵ら。そして、①の免責や②の「釈放」は<冷戦構造>・<東西対立>の発生による米国の方針変換による旨を何度か書いて(p.48など)、明示はしていないが、A級戦犯者が「戦犯」でなくなったわけではないこと、罪状は消えるのではない旨を強く示唆している。また、明言はしていないが、岸信介も訴追されるべきだった旨の感情が背景にあることも窺える。
そしてまた、東京裁判の罪状の中心は対米戦争開戦の責任で「アジア侵略の責任」ではなかった等々と書いて(p.92など。この部分の見出しは「東京裁判の欠陥」)、いわば<左から>、東京裁判を批判している、又はその限界を指摘している。
若宮啓文によれば、東京裁判それ自体は何ら法的にも問題はなく、被告人の選定や訴追事由に問題があった、つまりもっと多くの「戦争責任者」を裁くべきであり、「アジア侵略」の観点も重視して被告人を選定すべきであった、ということになるのだろう。また、生存「A級戦犯」者を刑期どおりにきちんと拘禁し続けるべきであり、簡単に?(といっても日本社会党議員を含む、「戦犯」者の「釈放」運動があったのだが)一般社会に「釈放」すべきではなかった、ということになるのだろう。
なかなか面白い東京裁判論だ。もっときちんと拡大して被告人を選定し裁いておいてくれたら、そして刑(死刑を除く拘禁刑)の執行を判決どおりに行っていれば、戦後の「保守」は実際よりも弱体になっていたのに、というような感情が見え隠れしている。
さすがに、<左翼>・<自虐>だ。米国の助けを借りてでも、<悪いことをした日本の要人(軍人・官僚・政治家)>を徹底的に裁き、排除しておきたかった、というわけだ。
若宮啓文の文章はあまり読みたくない。精神衛生にはよくない。だが、また読むことがあるだろう。
地球市民
一 産経新聞6/15の潮匡人のコラム「断」(何故か電子情報になっておらず「関連づけ」できない)によると、結構な各界トップが名を連ねた「地球を考える会」が、5/21に福田首相に対して「日本国内で地球愛確立の国民運動を起こす」等を提言した。また、その1週間後の政府広報は、「【日本人=地球人】として誠実に」という見出しの福田首相発言を掲載した。
潮匡人が指摘するように、「地球人」も「地球愛」も意味がよく分からない。潮いわく-「地球愛も地球人も無意味で軽薄な偽善である」。
二 不誠実で軽薄な偽善であるくらいならよいが、日本人・日本国民を素通りさせた「地球人」・「地球市民」・「世界市民」等の強調は、<日本人・日本国民>意識の涵養を抑制し又は軽視・否定するための<左翼>の戦術であることに注意しなければならないと思われる。上の潮の叙述のとおりならば、政府広報もこの戦術にひっかかっている。
樋口陽一・ほんとうの自由社会とは(岩波ブックレット、1990)は、ロマン・ロランが言ったという次の言葉を肯定的に引用している(p.60)。
「私がフランス人であることは偶然だが、私が人間であることは必然だ」。
樋口は、<私が日本人であることは「偶然」だが、人間(=地球人=地球市民)であることは「必然」だ>とでも言いたいのだろう。
しかし、これらの言葉は誤っている。
フランス人として生まれるか日本人として生まれるかは、たしかに「偶然」かもしれない。しかし、「人間」として生まれてくるのかどうか、他の生物として生まれてくるのか、それそも何としても<生まれてこない>のかも、全くの偶然にすぎない。
「私が人間であることは必然だ」というのは人間として生まれた者だからこそ言えるのであって、そうでない者(?)も含めれば、全くの偶然にすぎない。人間に限っても、何かの偶然で生まれなかった人間は生まれた者の何億倍も無数に存在しているはずだ。
樋口の人間観は、けっこう底の浅いものだ。
人間、そして「人権」というものの<普遍性>を語るために、「人間」であることの「必然」性などを語るべきではない。
三 そもそも私は樋口陽一という人物の基本的発想を疑問視、危険視しているので、上の点だけに限りはしない。これまでも書いたし、今後も書きつづけていくだろう。戦後日本の<風潮>を形成した「左翼」憲法学者の代表的一人と目されるからだ。
「きっこの日記」を見てみたら、何とアクセス9万人。
書き込みの中には、どうでもよいような文章に混じって、「オトトイの日曜日は、東京都民が全世界の笑い者になった東京都知事選…」という、東京都民を愚弄する表現がある。
また、この人は日本のこと「ニポン」と書く習慣があるようだ。
こういう書き方をする人は、国籍不明者で、自己が帰属する共同体としての「国家」というものを持たない可哀想な人だ。井上ひさしと同様に日本国民というよりも「地球市民」の感覚なのだろう。日本の国内法制・政治・行政によってこそ、この人の個人的・趣味的な生活も守られ、確保されているのだが、そうした現実を、こういう人は客観的に認識することはできない。その意味では、「うつろに」生きている人だとも言える。
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