司馬遼太郎がその晩年、土地の投機的取引あるいは土地の「商品」化を憂慮し、強い警告を発していたことはよく知られている。
 昨年に読んだ本なので言及したことはなかったが、いずれも1997年刊の佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス)、同・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問い直す(PHP新書)は「戦後」・「民主主義」を考えさせてくれる知的刺激に満ちた本だった。その佐伯啓思が、やや古いが産経新聞4/10の「正論」欄で、土地等の「土地の度を過ごした市場化」等を批判又は警戒している。
 私はいまだによく分かっていないのだが、小泉「構造改革」とは厳密には何を意味したのだろう。今でも自民党は「改革の続行」とか主張しているが、靖国や慰安婦問題等とは無関係の経済・社会分野での「改革」とはいかなる意味と目的をもつ「改革」なのだろう。
 佐伯は、都市圏の特定地域で「不動産バブル」が今起きているのは「構造改革の帰結だとは断じないが、そのひとつの産物ではあろう」としつつ、「資本」・「労働」・「土地」は「もともと通常の商品のように市場化できるものではな」く、規制と管理がなされてきたが、その規制がとり外され、これらの「市場を著しく不安定化し、また格差をうみだすこととなる」と言う。
 また、もともと「パトリ」とは「祖先伝来の土地」を意味するローマ起源の言葉で、パトリオット(愛国者)の「愛国心」は「自分の住んでいる場所への愛着から始まる」とし、土地は公共性と愛着・記憶の基礎なのに、「度を過ごした市場化、ましてや投機的利益を生み出すための土地バブル」は「「パトリの破壊」、「亡国」への愚行以外の何ものでもない」と結んでいる。
 土地バブル(「泡」)とその霧散によって、平均的国民にとっての土地・住宅取得の困難化、金融機関に残った厖大な不良債権、国税の投入による救済、金融機関の統廃合等々、日本の関係者は1985年以降の経緯から貴重な教訓を得た筈なのだが、似たようなことを繰り返すようであれば、日本人(国家・行政の関係者を含む)はあまり「賢くない」と評されても仕方がないだろう。
 それにしても、農地売買に(とくに市街化区域以外では)強い規制がかかったりしているとしても、現行制度は(恐らく憲法も)、たしか1990年に土地基本法という法律ができて土地に関する「公共」性等が語られてはいるが、「土地」もまた私的所有権の対象であり、自由な処分(売買)が可能であることを前提としている。私もまた「度を過ごした市場化」には反対であり、例えば、佐伯が言及しているわけではないが、大都市圏内の都心部の「商業地域」の高い容積率を利用した高層マンションの林立(という程ではないかもしれないが)には-その前提には当然に従前の、長年かもしれない所有者との「土地」取引がある-、本来の都市計画構想や都市景観等、総じて所謂「街づくり」の観点からの問題があると思うのだが、土地の全面的国公有化があり得ない以上、完全な(無規制の)「市場化」との間のどこかに、適切な「解」を求めなければならない。
 土地(取引・利用)の規制の問題に限らないが、いつか簡単に触れたように、許容される、又は要請される、公権力による「自由」の統制・「自由」への介入の程度態様の問題は、「自由主義」国家の<永遠の>課題・論点なのだろう。ここでの「自由」とは個人・法人という主体の区別を問わないし、<政治的・精神的>自由と<経済的>自由の両者を、相対的に上の「程度」の差異が語られうるとしても、ともに含む。
 えらく一般的な話になっているのだが、本来は、上の基本的問題を意識しての政策的議論が、国会で、議員たちによって<建設的に>なされるべきなのだ。だが、そうした議論の共通の土俵を築けない、日本共産党、社会民主党という政党や民主党の一部の議員の存在は、不毛な、あるいは「神学的」とも称されてきた議論を生じさせており、大多数の日本国民にとっては不幸なことだ。
 軍事・安全保障政策での与野党の基本的一致を(独・仏・英国のように)前提として、具体的な政策論議を、具体的な法制度的議論を、本当はしてほしいものだ。
 少し離れるが、議席数では自民党の1/10に満たない小政党がテレビの討論会等で自民党や民主党と対等の人数を与えられ(つまり各党一人ずつ)、堂々と(生意気に?)喋っているのを観ているとき、形式的平等は小政党に有利で不合理だと思うとともに、基本的な所では咬み合わない非生産的な議論をしている、と感じることがある。何とかならないものか(考え方が違っても「建設的」・「生産的」議論の可能な政党ばかりになるのが解決策なのだが…)。