秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

国谷裕子

1215/ジャパニズム14号の井上太郎「ヘイトスピーチと在日特権」。

 一 「ヘイトスピーチ」なるものに前回触れたのだったが、関連する文章に、井上太郎「ヘイトトピーチと在日特権」ジャパニズム14号(2013年8月号、青林堂)p.108以下があった。

 井上は言う-「日本でのヘイトスピーチは批判するが、南朝鮮の国家レベルの無礼な反日活動はスルーするマスコミの存在…」。「南朝鮮や在日朝鮮人に対し一切批判を行ってこなかった日本のマスコミにも、在日問題に関し責任は全くないといえるの」か。「ヘイトスピーチを生み出しているのは、日本だけを悪者にするダブルスタンダードのマスコミの存在と在日自身にもあるというのは間違った意見」なのか。

 韓国・韓国人等は日本・日本人に対して立派な「ヘイトスピーチ(+ビヘイビア)」をしているではないか、特定の(非左翼の)日本人だけを批判して一部の近隣諸国(国民も含む)を批判していないとすれば、NHKは偏向しており、「自虐的」なままだ、というのは前回に書いたことだったが、同旨の指摘が「日本のマスコミ」について発せられていることになる。

 また、日本のマスコミが「在日特権」を問題にせず、「在日」に甘いがゆえにこそ「ヘイトスピーチ」が生じているのではないかという論理も、私には思いつかなかったが、成り立ちうるもので、よく分かる。

 二 井上が上の論考で三段組み2頁以上にわたって列挙している「在日特権」はたしかにすさまじいものだ。

 「自治体」の裁量と書いているが(p.109)、生活保護は実施主体は地方公共団体であっても国の法令と「通達」等に依っているとみられ、特定範囲の「在日」には日本国籍はなくとも日本国民を対象とする生活保護法という法律を「準用する」という、国のかつての厚生大臣か局長かの一片の「通達」にもとづいて日本人に対するのとと同じ生活保護がなされているにすぎない。「全てに法的根拠はなく」という叙述は正しいと考えられる。

 詳細には知らないが、他にも法律上の根拠なくなされている「在日」優遇は多いようだ。これは「法治行政」の中に政治的・外交的・裁量的判断を持ち込むもので、一般的な行政スタイルとしても問題がある。

 民主党・小宮山厚労相の命令により、生活保護を受けている「在日」は申請しさえすれば国民保険料が免除され、「満額の国民年金」を受け取れるようになった、らしい(p.111)。これはベラボーな話ではないか。ただでさえ年金財政は苦しいというのに、こんな「在日」優遇は認められるべきではなかろう。憲法25条がプログラム規定としてであれ最低限度の文化的生活をする権利を認めているのは「国民」であり、生活保護のみならずその他の福祉行政についても国籍の有無で「区別」するのは、何ら憲法違反ではないし、かつ法律レベルの政策判断としても不合理なものではまったくない。

 「在日」を差別する(不当・不合理に区別する)必要はないし、そうしてはいけないだろうが、<国籍の有無による差別はいけない>とか<要求または抗議が激しいので穏便に>などという誤ったかつ事なかれ主義の発想で行政はされてはならないだろう。

 表現方法や言葉遣いが問題だ、「レイシズム」だ、などと論難する前に、NHKは「在日特権(優遇)」の実態をきちんと調査して、大越健介演番組でなくとも国谷裕子の7時半からの番組でもよいから、報道し検証してみたらどうか。という期待は、きっと甘すぎるかもしれないが。

0556/サピオ6/11・6/25の小林よしのり、1998年の小浜逸郎の本-沖縄・大江健三郎。

 〇やや遅いが、サピオ6/11号(小学館)。小林よしのりは、私は見ていない(その予定もない)映画「靖国」を観て書いて(+描いて)いる(p.55-)。
 靖国神社のご神体を知らず、かつ「剣」と「(日本)刀」の区別もついていない、要するに<神道>一般に関する知識のない中国人監督の作ったものものだから、その「作品」のレベルも容易に想像がつく。もっとも、恥ずかしくも、三種の神器の一つでもある「剣」(諸刃でまっすぐ)と「日本刀」(片刃で反っている)の区別を私も知らなかったのだが。
 そういえば、胡錦涛がちょうど来日していて東京宿泊中の夜に、NHKの「クローズアップ現代」は、<表現の自由>への圧迫問題として、この映画問題を取り上げたのだった。司会者・国谷裕子が一生懸命、上映中止圧力は<表現の自由>への圧迫ですよね、とコメンテイターに質問していたが、希望にそった回答ではなかったことを記憶している。
 ネットで調べてみると、コメンテイターは吉岡忍。この人は、少なくとも、<単純な左翼>ではなさそうだ。
 また、この放送(5/07)の意図は、「去年末の週刊誌記事で"反日的"と指摘されたことをきっかけに、国会議員向けの試写会、右翼の街宣活動、さらにネットでの抗議活動などの"見えない圧力"へと波紋が拡大。映画館は相次いで上映中止を決定し、「表現の自由」をめぐる議論が巻き起こった。その後名乗りをあげた映画館も妨害活動などを警戒し、緊張した空気の中で準備を進めている。なぜ中止は広がったのか、公開までに何を乗り越えなければならなかったのか、関係者の証言や配給会社の密着取材などをもとに検証。『靖国』をめぐる波紋が、いまの社会に何を問いかけているのか、考えていく」と書かれている(NHKのウェブサイト内。現在時点で読めた)。
 NHKは下請けに相当程度任せているのだろうが、国費による助成の当否には全く触れていないこのような制作「意図」は、中立的・客観的と言えるだろうか。
 〇同じくサピオ6/25号(小学館)。小林よしのりは、沖縄集団自決訴訟や大江健三郎に触れている。
 ①私は大阪地裁判決の全文を読んでいないが、小林は読んだのだろう。同感できるところが、少なくない。
 とくに、大江が岩波新書・沖縄ノートを初めて刊行した時点では、日本軍(隊長)による「命令」があったと信じた合理的根拠がかりにあったとしても、その後30年以上の間、反証も出てきたり実際に訂正・削除した本もあったりしたのにそのまま刊行し続けた合理的根拠こそがさらに問われる必要があった旨の指摘はそのとおりだ。しかし、小林によると「裁判長は、今後の出版について、何も触れなかった」のだという。
 ②小林によると、15000超の大江支持の署名が沖縄から(大阪地方)裁判所に届けられた、という(p.58)。法的判断の枠組みの中での心証形成過程にこうした「外圧」は影響を与える可能性がある(それを実証するのはほぼ不可能だが)。それ以上に、結論それ自体に早々に影響を与えていたのだとすると、この訴訟の地裁の裁判官たちは自ら、憲法上保障された「独立」を放棄していることになる。
 第二次大戦や沖縄問題について、戦後教育の<優等生>の裁判官たちがまともに(幅広く)勉強している筈がない。裁判官たちの殆どは<何となく左翼>の心性から仕事の経歴を歩んでいると見てほぼ間違いない。この人たちが明瞭な<左翼>、そして<アジア諸国や沖縄地域への贖罪意識>の持ち主ならば、いくらまともな法的議論をしても無駄になるだけだろう。控訴審を担当する裁判官たちがまともであることを期待する。
 ③小林によると、岩波書店は、判決後に大江・沖縄ノートを増刷したのだ、という(p.59)。岩波は大江とともに被告だったが、名誉毀損等の疑いがかけられている(但し、基本的には損害賠償請求の要件の一つとして)というのに、無神経で傲慢なものだ。この岩波書店に<良心的>などという形容詞を絶対に使ってはならない
 ④小林は、大江・沖縄ノートを「究極の差別ブンガク」だと規定する。「土民」・「屠殺」といった語が平気に使われているということもある。
 小林いわく-「すでに大江は日本人ではないところの何かになっている!」(p.61)。
 現在73歳の大江健三郎は<晩節を汚しまくっている>のだが、そうとも知らずにいずれ死んでいくのだろう…。
 〇もう1カ月ほど前に読んだ部分だが、小浜逸郎・いまどきの思想、ここが問題。(PHP、1998)の第二章にあたる、「自虐するあいまいな私―現象としての大江健三郎批判」(p.36-61、初出・月刊正論1995年5月号(産経新聞社))は、読み応えがあり、大江という人物の理解・分析のために参照されてよい、と思う。
 要約はしない。印象に残った文章を一部省略しつつ、列挙しておく。
 ①「晦渋な文体と教養主義的な観念の連鎖によって埋めつくされた、驚くべき饒舌の合い間にいつも露出しているのは、…押しつけがましくかつ単純な、サヨクの政治主題以外のものではなかった」(p.42-43)。
 ②ノーベル賞という「より普遍的な」賞は受け、文化勲章という「村落的」栄誉を拒否することで、「自分が『日本国家』という村落よりも優位なところに立っていることを示そうとした」(p.46)。
 ③大江は、「日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省」を行うべきだが、していない、と言った(p.54。岩波新書・あいまいな日本の私所収の講演録にあるようだ)。〔何という自虐!、あの戦争についての何という対米批判意識のなさ!〕
 ④「内に向かっては…無責任に日本国家を批判して自分の反体制的スタンス」を示す一方で、中国・韓国からの日本非難に対しては「たちまち日本国家の罪を自分の罪であるかのようにひっかぶってみせること」により、「少しも自分が日本国家から自立していないことを暴露している」(p.55-56)。
 ⑤大江はある時期から、「核や障害者やエコロジーといった倫理的主題」によるしか「文学的活路」を見いだせなくなり、彼の「天才的な空想力は、これらの主題の奴隷として酷使」された。かくして、大江作品は「物語としても面白くなくなり、表現や文体も、みずみずしい初発の文学的感性の欠落をただ教養主義と饒舌で覆い隠すためだけのようなこけおどしの性格をますます深めていった」(p.59-60)。
 以上。なお、小浜逸郎の姓はオバマではなくコハマ。上記の本のタイトルの末尾の「。」は、原書のまま。

0308/民主主義はつねに「正しい」結論を出すか-読売7/31河野博子コラムに寄せて。

 7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
 それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
 日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
 <しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
 ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
 また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
 そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
 元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
 安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
 最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
 民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
 民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
 民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
 このような観点から、読売新聞7/31夕刊編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
 この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
 これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
 第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
 第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
 さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
 上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
 朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
 第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
 問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
 こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
 読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
 読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。

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