秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

国民の歴史

2452/西尾幹二批判037。

 西尾幹二の個人全集第17巻(2018年)の特徴は、前回に書いたことのほか、いくつかある。
  一つは、この巻が対象としている自分の文章等についての、読者が恥ずかしくなるほどの自画自賛ぶりだ。「後記」から、例を挙げる。なお、別巻収載の同『国民の歴史』にも言及がある。
 ①「それよりも今一番見逃せないのは、私の最大の長所が、日本史のトータルを歪曲した勢力との思想的格闘にあったことだ」。p.748。
 ②「(この巻の)第一部は従来の歴史思想を挑発し、徹底的に論破しようとしている。
 第二部は学問的に内省し、自分の立場を固めようとしている。」p.749。
 ③「ことに第三部の最後の三篇」は「…全国規模のドキュメントで、推理小説のようにスリリングであり、最後に思いもかけない『犯人』が暴露されるいきさつをお楽しみいただきたい」。
 ④「『国民の歴史』『地球日本史』その他によって遺産として遺された著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう」。
 この点を除けばつくる会運動の意義はない、と言えば「運動の具体的関与者」は不満だろうが、「歴史哲学の存在感は大きい」。p.751。
 (『国民の歴史』等は「歴史哲学」書だと西尾本人が言っている!—秋月)
 ⑤「『国民の歴史』の前半」を…に力点を置いて「読まれるようお願いしておきたい」。「これからの時代にその必要度は増してくると思われるからである」。p.752。
 ⑥上の理由はつぎのとおり。「中国を先進文明とみなす」病理が巣食っているが、「この点を克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 以上。
 ④での「歴史哲学」という言葉の使い方にも驚くが、この⑥は、呆れかえる、「精神・神経」の健全さすら疑う、というレベルのものだ。
 本当に喫驚する。
 仮に万が一適切だったとしても、自分の著について、「グローバルな文明的視野を備えてい」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命」がある、と書くことのできる日本人文筆者は他にいるだろうか。
 そして、その内容、自己主張に適切さは全くないとなると、いったいこの人はどういう「精神・神経」の状態にあるのだろうか。
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  日本人ではない、「哲学者」とされるニーチェ『この人を見よ』は、その傲岸さを感じつつ(各文献を知らないままで)戯れに読むと、面白い作品だ。
 あくまで一部の紹介だが、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」等の他に「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と題する章があり、さらにその中に、つぎの文章がある。
 「『悪意』のある批評を書かれた事例」はほとんどないのに反して、「まるでわたしの著書がわからないという純なる愚かさの実例となると、これは多すぎるくらいにある!」
 ドイツ以外には「至るところに読者」があり、「選り抜きのインテリゲンチアで、高い地位と義務の中で教育された信頼すべき人物ばかりだ」。
 「要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんできなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。」
 「およそ書物のうちで、これ以上に誇り高い、同時に洗練されたものは絶対にない。」
 長くなるから、これくらいにする。訳は、手塚富雄:岩波文庫(1969年)によった。
 西尾幹二は、ニーチェを基準とすると、まだ可愛いのかもしれない。
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  もう一点、西尾個人全集第17巻については、指摘しておくべき重要な点がある。つぎの機会に回す。
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2402/西尾幹二批判029—ドイツに詳しいか②。

  西尾幹二・国民の歴史(1999)の第33章<ホロコーストと戦争犯罪>(全集版p.605-)は、ドイツ1980年代後半のErnst NolteやJürgen Herbermas らによる、ホロコーストに対するものを含むドイツ「人」・「民族」・「国家」の<責任>に関係する<ドイツ・歴史家論争>に一切触れていないこと、ノルテの名もハーバマスの名も出すことができていないことは、前回に触れた。
 あらためてこの章を読み返して、すぐに気づくのは、上の点を容易に確認することができることのほか、西尾幹二における法的素養、ドイツの歴史に関する素養の欠如だ。
 前回からの本来の論脈からずれるし、立ち入ると長くなるので、簡単にまず前者から簡単に触れよう。
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  西尾はJaspers による「良心的」責罪論を批判する中で、「責任」に該当する語をドイツ語のVerantwortung ではなく、「法律用語」としては「損害賠償責任」に適用されるHaftung を「用いているのも気になる」とする。全集版、p.613。
 この部分はじつは、西尾自身による、朝日新聞記者による注記を西尾が疑問視しないでそのまま紹介している箇所と矛盾している。
 同記者はヴァイツゼッカーの<政治的な責任>とはドイツ語でHaftung で、<道徳的な責任>とはVerantwortung だと両語の区別を明記している、とする。全集版、p.614。
 西尾はHaftung は法律用語として「損害賠償責任」に適用されると前者では書き、後者では平然と「政治的な責任」だと紹介している。
 この<法的>と<政治的>の区別は、西尾のこの章では重要なはずなのだが、ここでは無視してしまっている。
 いいかげんだ。
 なお、法律用語として「損害賠償」に最も該当するドイツ語はSchadenersatz(またはs を間に入れてSchadensersatz)で、「損害賠償をすること」という名詞としては、Ersatzleistung という語もある。
 有限会社のことをドイツではGmbH と略すが、これはG(会社) mit geschränkter Haftung(有限責任会社)のことで、この「責任」は損害賠償責任に限られはせず、もう少し広い意味だ。
 このあたりのドイツの諸概念の分析だけで、一つ、二つの研究論文はかけるし、現にある。
 立ち入りたいがほとんど省略すると、損害倍賞責任のみならず、土地収用のような意図的かつ適法な権利侵害(収用は権利剥奪)に対する「補填」=損失補償もまた、国家のHaftung の一種とされることがある。
 もちろん、西尾幹二は素人だから、そんなことは知らないし、知らなくてもよい。問題は、シロウトだという自覚があるか、だ。
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  西尾の論調の前提は、①ヒトラー・ナツィスはホロコーストという「大犯罪」を冒した(この点で揺るぎがないのは、世界の通念らしきもの、かつ日本共産党等と全く同じ)。②戦後ドイツは「国家として」、<集団的>かつ<法的責任>がある、というものだ(これも日本共産党らとほぼ同じ)。
 これを前提として、「集団的」責任を認めようとしないワイツゼッカー1985年演説を姑息とし、ドイツの「戦後補償」は「法的」ではなく「政治的」なものにすぎない、とする。
 日本とドイツの<戦後補償>の異同について、種々の専門的文献がある。西尾が書いているのは、そのうちの簡単な一説にすぎないだろう〔何といっても、西尾はこの問題についての法学者・歴史学者ではなく、ただのシロウトにすぎないのだから)。
 このあたりで感じる法的な基礎的素養のなさは、<国家の(法的、とくに賠償)責任>というものの理解についてだ。
 日本ではしばしば国を被告とする損害賠償請求訴訟が提起され、原告国民の側が勝訴することも少なくないから、そういう<国家の責任>は当然にありうる、と一般に理解されているのかもしれない。
 しかし、第二次大戦終了まで(つまりいわゆる戦前までは)、<君主に責任なし>とか<国家無答責>という原則らしきものがあって、損害賠償責任にせよ、国家が「直接に」その責任を負うことはない、と考えられてくきた。
 したがって、民法上の不法行為責任を問う場合でも、公務員にある不法行為責任を「使用者」としての国(・公共団体)が「肩代わり」=代位する、という構成をとらざるをえない。そして、民法の特別法とされる国家賠償法という法律の第一条(国家の公権力責任)も、少なくとも文理上は「代位」責任説で成り立っているような条文になっている。これに対して、直接の加害者として「直接に」責任を負うのだ(国家賠償法一条もそう「解釈」すべきだ)という論もあるが立ち入らない。
 ドイツで、「集団的」=国家的、「個人的」かという区別が重視されるのはおそらく日本以上であり、いまだに国(連邦、州等)の賠償責任は民法+憲法(基本法)に依っている。つまり、官吏(公務員)個人の職務上の義務違反(違法・不法行為)の存在が少なくとも論理的、抽象的には必要なのだ。
 責任はまず(国家ではなく)「個人」(公務員であっても)、という考え方は欧米では(「個人」主義だから?)今も強いように推察される。
 ドイツ「国家」・「民族」の<責任>に関する議論も、大統領演説の理解も、こうしたことをふまえておく必要があるだろう。
 むろん、シロウトの西尾は知らない。この人は、日本での常識的理解から出発している。
  もう一点、法的素養についてとは関係なく感じるのは、この章の文章作成過程のいいかげんさだ。
 長くは立ち入らない。要するに、のちの櫻井よしこにも江崎道朗にもよく似て、要領よく関係文献を探し、引用・紹介しつつ(そして文字数を稼いで)、自説を挿入し結論らしきものを述べる、というスタイルだ。
 この章で引用・紹介されているのは(つまり文章執筆の際の素材になっているのは)、①Sebastian Haffner というジャーナリストでもある者の一著、②ランダムハウス英和大辞典、③<共産主義黒書>、④ブリタニカ国際大百科事典、⑤Karl Jaspers の本のたぶん一部、⑥ Weizsecker 大統領演説、⑦朝日新聞1995年1月3日記事(同大統領Interview)、⑧朝日新聞1995年1月1日付特集(図表を含む記事の写真まで載せている)。
 これらによって、西尾幹二が自らの生涯の主著の二つのうちの一つと自称しているものの一つの章が執筆されているわけだ。ああ恐ろしい。
 熟読して、いかほどに参考になるのかは、主張らしきものは単純だが、きわめて心もとない。
 なお、ついでに。つづく最後の第34章<人は自由に耐えられるか>について、この章の「骨格」をすでに分析している。
 →2307/『国民の歴史』⑥(2021.03.05)。
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  本筋に戻ると、西尾幹二はヒトラー・ナツィス時代についてもだが、ドイツの歴史に関する基礎的な素養に欠けている、と見られる。
  したがって、ナツィスの「犯罪」に触れても、これと別個にソ連・ボルシェヴィキ体制による「大量虐殺」に論及することはあっても、ヒトラーと共産主義、ヒトラーとレーニン・ロシア革命、ナツィとボルシェヴィズムの関係、異同を問うという姿勢とそれにもとづく分析は、全くと言ってよいほど存在しない。
 西尾はナツィのホロコーストは「大犯罪」だと当然視するが、「歴史」家らしく装いたいならば、いったいなぜそのような事象が起きたのかを、とくに先行したロシア革命やボルシェヴィキ体制の確立との関係にも目を向けて、もっと関心を持って追及すべきではなかったのだろうかか。
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  さて、<歴史家論争>の有力な当事者だったErnst Nolte には、この論争に関係する、さしあたりつぎの二著がある。邦訳書はないが、刊行年で明確なように、西尾幹二が1999年著で<ホロコーストと戦争犯罪>を書いたときよりも前に出版されている。
 ① Ernst Nolte, Das Vergehen der Vergangenheit -Antwort an meine Kritiker im sogenannten Historikerstreit (Ulstein, 1987). 計493頁。
 (直訳—<過去の経緯・いわゆる歴史家論争での私の批判者たちへの回答>)
 ② Ernst Nolte, Streitpunkte -Heutige und künftige Kontroversen um den Nationalsozialismus (Propyläen, 1993). 計191頁。
 (直訳—<争点・国家社会主義をめぐる今日と将来の論議>)
 上の二つと違って所持はしていないが、この論争の個別論考等を一巻の書の中にまとめている資料的文献として、つぎがあるようだ(正確には知らない)。
 ③Piper Verlag(Hrsg.=編), Historikerstreit: Die Dokumentation der Kontroverse um Einzigartigkeit der nationalsozialistischen Judenvernichtung, 3.Aufl. 1987.
 西尾の1999年の文章よりも前。「国家社会主義によるユダヤ人絶滅の
Einzigartigkeit(唯一性、独自性、特別性)」に関する論争だったとこの書の編集者は理解しているようだ。
 なお、表題からすると、どちらかというとErnst Nolte の支持者によるようだが、つぎの書物(冊子)も、のちに刊行されている。
 ④ Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Nolte über Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980(Grin, 2015). 計16頁。
 これには、Ernst Nolte とJürgen Herbermas の主張の「要旨」または「要約」が掲載されている。
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  西尾幹二がドイツの新聞や雑誌に日常的に接していれば、この<歴史家論争>に気づかなかったはずはない。実際には彼は、1980年代〜1990年代のドイツ国内での議論に全くかほんど関心を持っていなかった、と推測できる。
 戦後直後のK. Jaspers の本(1946年)に比較的長く言及しているくらいだから、主題に関する資料的・文献的素材の限定性・貧困性ははっきりしている。
 なお、すこぶる興味深いのは、西尾の基本的論調は、ドイツの中ではErnst Nolte(保守)ではなくJürgen Herbermas〔左・中)により親近的・調和的だ、ということだ。
 上の点はさておき、本来の副題は「ドイツに詳しいか」だった。
 西尾幹二は、ドイツに全く詳しくない。ついでに、これは、川口マーン恵美についても同様。
 西尾という「ハダカの王様」に対しては、「ハダカ」だ、と正確に、きちんと指摘しなければならない。<いわゆる保守>にもあるに違いない「権威主義」らしきものを無くさなければならない。「知的に誠実」であろうとするかぎりは。
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  Ernst Nolte はホロコーストの存在自体を否定しているのではない。
 例えば、1917年・ロシア革命の「成功」、1923年・ヒトラーのミュンヘン一揆の「失敗」という時系列的な関係がある。そしてノルテは、ドイツ(・ナツィス)に対するソ連(レーニン・スターリン)の影響を、より多く問題視したいのだ(少なくとも一つはこれだと)と勝手に推察している(ある程度は読んでいるが)。
 第三帝国とロシア革命・ソ連の間には、1917年4月のレーニンのスイスからのドイツ縦貫「封印列車」によるロシア帰還を含む財政援助等から始まる長い歴史がある。また、ロシア革命前後に、国際的ユダヤ人組織の陰謀についての「偽書」がドイツでも流布され、現実的影響をもった、ともされる(<シオン賢者の議定書>)。さらに、コミンテルン指揮下のドイツ共産党が社会民主党<主敵>論をとって共闘・統一行動しなかったことは、ヒトラーの政権掌握を「助けた」。
 むろん、西尾幹二にはこの時代の歴史に関する基礎的素養はない。
 少しでも記しておこうかと、すでに試訳しているR・Pipes の書物の一部(ボルシェヴィキの「戦術」をヒトラー・ナツィスは「学んだ」という旨の叙述を含む)を見ていたりしていたが、長くなるので、ロシア革命とその後のロシア・ソ連全体を振り返る場合のために、残しておこう。
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2366/西尾幹二批判025b/『国民の歴史』⑦b。

 つづき。
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   これまた既に指摘したことだが、「歴史」と「神話」という語の意味がそもそも不明なので、両者の「等価値」とか、「解釈の自由」の存否を説かれても、何ら心に、あるいは知的関心に、訴えるところがない。
 また、これも既述のことだが、そもそも、漢書・魏志倭人伝=「歴史」、日本書記・古事記=「神話」という、西尾における一般的印象または通念らしきものから出発していること自体に問題がある。日本書記・古事記は、決して、全体として「神話」ではないからだ。そんなことを主張しているのは、西尾が忌み嫌う日本の日本史学者にも一人もいないだろう。
 西尾幹二は、日本書記も、古事記も、全体を読まずに執筆している。おそらくは、今日に至るまで、両文献の全体をきちんと読んでいないだろう。
 そうでありながら、あれこれと論じている傲慢さは、いったいどこから来ていたのだろうか。
 2 さて、日本書記・古事記は全体として「神話」で、それを「解釈する自由」はなく、「全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」というのだとすると、非常に面白い帰結が出てくる。
 西尾幹二は知らないのだろうか、日本書記には、「一云」(一説では)とという書き方をしている箇所がしばしばあり、断定はしてはいないが、有力な「事実」または「伝承」として採用していると解されている。
 興味深い第一は、「神功皇后」と邪馬台国女王とされる卑弥呼との関係だ。邪馬台国・卑弥呼をめぐって、有名な記載がある。1300年前の日本人による「神話」が、中国史書を利用している例でもある。
 日本書記神功皇后39年の条には、面倒くさいからそのままの引用は避けるが、「魏志」に「明帝景初3年6月」に「倭女王」が〜を派遣して「朝貢」を求めたとある、等が記述されている。
 他にも魏志に依拠しての「倭王」への言及はあるが、ここではとくに「倭女王」とされ、そしてその人物は、元の魏志倭人伝の記述と照合すると「卑弥呼」と呼ばれた女王ということになる。
 つまり、日本書記は(年次の点はここでは省略するが)、「神功皇后」=卑弥呼と理解しているようだ。
 8世紀の日本書記、西尾の言う「神話」が、中国文献上の「卑弥呼」とは日本の文献に出てくる人物の誰かについて論及している。そして、日本で最初に、<神功皇后説>を主張したのだ。
 新編日本古典文学全集・日本書記1(小学館、1994)p.450.参照。
 西尾幹二はもちろん、神功皇后の実在を否定しないだろうし、その記載も「自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い」という「認識」として支持するに違いない(論理的に、そうなる)。
 そうだとすると、西尾は、邪馬台国=大和説にすでに立っていることになる。日本書記は「神武東遷」以降、「大和朝廷」は大和盆地を根拠としていた、という書き方をしているからだ(今の明日香村内部・近辺で位置は変わり、のちに難波、大津への移転?はあるが)。
 第二に、今でも「箸墓」と称されている古墳があるが、日本書記によると孝霊天皇の皇女とされる倭迹迹日百襲姫の墓が「箸墓」だと、同じく日本書記は明記している。崇神天皇10年の条。これも有名な記載部分。
 「即ち箸に陰を撞きて薨ります。乃ち…。故、時人、其の墓を号けて箸墓と謂ふ。」 
 同上日本書記1(小学館、1994)p.284.参照。
 「解釈を許さない」西尾幹二によれば、現在も墓らしく存在している「箸墓」の被葬者は、紛れもなく、倭迹迹日百襲姫になるはずだ。もちろん、この人物は孝霊天皇の娘として実在していた(はずだ)。
 とすると、「卑弥呼」の墓が箸墓だとするのは誤っているか、または「卑弥呼」=倭迹迹日百襲姫だということに論理的にはなるだろう。なお、神功皇后の「陵」に関する記載は日本書記にあるが(「狭城盾列陵」)、これと「箸墓」の関係は日本書記上は明瞭でない。
 と、このように、日本書記自体が魏志を含む中国の「史書」を読んでそれを参考にして「解釈」を加えたり、現在にまで続く問題にすでに一定の回答を与えたりしている。
 しかし、西尾幹二は日本書記(・古事記)をおそらくまともには読みすらしないで、「アホな」ことを書いている。
 ①「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているともいえる」。
 ②1753年の『明史日本伝』の誤った叙述からして、それよりも1500年も古い「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」という叙述は「もう終わってもいいくらいだ…」。
 以上、全集版『国民の歴史』、p.132-3。
 まことに余計で失礼ながら、西尾幹二という人物は—さすがに<文学>畑らしく情緒・レトリックはあっても?—、「推論」能力がないのではなかろうか。
 第一に、答えが出ないのは問題を提示する文献がそもそも信用できないからだ、ということにはならない。文献自体の問題とは別に、問題提示の全体の文章自体が完全に明瞭な解答を得られるだけの要素・ヒントを与えていない、ということもありうる。そもそも、当時の「邪馬台国」付近?の人々が「女王」の所在地を外国人に明確かつ正確に語るだろうか、という問題もある。
 第二に、同じ国の、と言っても全く違う王朝なのだが、より新しい国家的文献に誤りがあるからと言って、より古い文献も誤っている、ということには絶対に(論理的に)ならない。
 日本語能力と「論理」性があれば、高校生でもこんなことは書かない。
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 佐伯啓思監修・季刊雑誌『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2365/西尾幹二批判025a—『国民の歴史』⑦a。

  西尾幹二・国民の歴史(1999年)を手にしたのは発刊直後ではなく、2000年代半ばから後半で、このブログサイトを始める前だった。
 その頃は今から思えば単純に<反朝日新聞>・<反日本共産党>・<反共産主義>だったから、そのような自分の立場?と同じ陣営?にいる人の書物として入手した。
 そして、そのような基本的立場にだけ満足して、少しはじっくり見てさすがに「日本的」だと感じたのは挿入されている仏像の写真だけで、本文にはほとんど目を通さなかった。
 それが近年までつづいたのだが、最近に少しは熟読してみようと捲ってみると、10数年の時の経過もあってか、<粗さ>が目につき、ひどい。
 10数年前にじっくりと読んでいたら、この奇妙さ、単純に<つくる会>は立派なことをした(している)とは言えないことに、気づいただろうか。
 年寄りになっても、間違いを冒すものだ。
 自分もまた、二者択一的、二項対立的な思考、いや「思い込み」をしていたものだと、きわめて恥ずかしくなるし、貴重な日々と時間を西尾幹二らの文章を読んで無駄にしてきた、とも思う。
 しかし、責任はあげて自分自身にある。全てを自分が「引き受け」なければならない。
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  朝日新聞・日本共産党・共産主義に最も積極的に反対し、「闘って」いそうだ(そうに違いない)といわゆる<保守>について思い込んだのが、そもそも間違いだった。
 <保守>=反共というのは大いなる「錯覚」だった。この点が不満で、「反共」意識、「反共」性が乏しいか曖昧だと、この欄にしきりと書いていた時期があった。
 しかし、日本の<保守>の中枢点は決して「反共」、その意味での(江崎道朗の造語とは異なる意味での)「自由主義」ではないようだ。
 そのあたりを表現するために「観念保守」とか「原理保守」という言葉を作ってみたりもした。最近では「いわゆる保守」という語を用いている。
 「いわゆる保守」の結節点は「反共」・「自由主義」ではない。「日本」であり、「愛国」、そして「日本民族主義」だ。かつてのイメージの「右翼」に近い。
 「天皇」も挙げてよいかもしれないが、この点では「いわゆる保守」は、男系天皇制度死守で一致している。櫻井よしこも、西尾幹二も同じ。
 「保守」派といっても、「女性」・「女系」天皇容認派とは、かなり思考の仕方が異なる。
 かつて「生長の家」活動家によって、あるいは「つくる会」を追いかけるように設立された日本会議の活動家によって、例えば八木秀次を引っこ抜かれたりして?、「つくる会」が撹乱されて分裂に至った責任の重要な一つは、初代会長・西尾幹二にある。
 ある程度は推測になるが、そのような活動家の事務局や理事の中への浸透に気づかなかった西尾幹二の「政治的音痴」ぶりは甚だしいものがあるように思える。
 しかも、今日ではこちらの方が重要だが、そのような「痛い目」にあったにもかかわらず、日本会議主流派、櫻井よしこ、八木秀次等と同じく「男系」天皇は日本の伝統とうそぶいて、彼らと歩調をともにしているのが西尾幹二という「知識人」あるいは「売文業者」(=文章執筆請負自営業者)のなれの果てだ。
 かつて八木秀次等や日本会議に対して激しい批判をしたにもかかわらず、また櫻井よしこついても皮肉っぼい言辞を吐きながら、なぜ「仲間」でいるのか。それは、「正論」欄に原稿発表の場を設けてくれる(そして全てをまつめて一冊の本にしてくれたりする)産経新聞社に恩義を感じているからだろう。
 「恩義」というより、「寄生して拠り所としたい」という気分だろうか。
 西尾幹二は<産経文化人>にとどまることを選び、そこに最後の「身の置き所」を見出しているのだ。文章執筆を依頼してくれるところがあり、文章「発表」の場をもつというのは、経歴からしても<骨身に染み込んだ最低限の希求>であるに違いない。
 秋月瑛二には想像し難いことだが、誰からも、どの新聞社からも、どの雑誌編集部からも「お呼びがかからない」という状態には、この種の「知識人」・「売文業者」にはきっと耐えられないのだろう。
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  西尾幹二『国民の歴史』(1999、2009、2017)の最初あたりで、西尾はしきりと「神話」と「歴史」の関係等に関心をむもって叙述しているが、疑問も多いこと、のちの叙述と矛盾もあることはすでに触れた。
  すでに、一定の「矛盾」もこの欄で指摘してきた。
 ①1999年『国民の歴史』第6章にはこんな見出しがある。
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」。
 文章を引用すると、例えばこうある。
 ・「古事記」や「日本書記」の「ばかばかしいつくり話に見える神話は歴史ではない」と決めつけてよいのか。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 ・漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」。
 以上、全集版(16巻)、p.105-6。
 ②しかし、2017年の「つくる会」20周年集会への挨拶文にはこうある。全集第17巻、p.715。
 「歴史の根っこ」の把握のためいきなり「古事記」に立ち還ろうとする人がいるが、「そのまま信じられるでしょうか」。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。
  ついでに記すと、上の前者には、こんな文もある。「歴史」に対してというより、「科学」と対比しているようでもある。
 ①「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」。
 上の後者も「神話を前にして」「解釈の自由」はないと述べて、神話の「対象認識」性を否定しているようにも見えるが、以下のようにも語る。約20年を隔てて、共通性がないとは言えない。
 ②「神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」。
 このあたりの論述の趣旨はよく分からない。というのは、西尾が100パーセント自分の頭から生み出した考えではなく、誰か別の者の著書を参照しているに違いないと思われるが、詳細な議論はなく、「認識」や「解釈」等の語についての立ち入った意味説明は全くないからだ。
 <歴史>に対しては「解釈の自由」があるが、<神話>に対してはない、というのが西尾の主張の骨子のようだ。しかし、その根拠・論拠は不明だ。
 なお、ニーチェがかつてもったこの人への影響力から思い切って推測・憶測だけすると、「悲劇」→「ギリシア悲劇」→「ギリシア神話」という連想が生まれる。
 西尾は、<ギリシア神話>に関するヨーロッパ(の誰か)の議論を、日本の「神話」へと単純に当てはめているのではないだろうか。もちろん、「日本の神話」に関する日本人文筆家に許されることでは全くないが。 
 さて、さらに言うと、1999年の文章の一つで、漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」と述べるとき、この文のかぎりでは、「神話」も「広い意味での歴史解釈の材料」であることを前提にしているようだ。そうだとすると、「解釈」の対象にならないという言明と、矛盾している。
  どうせ<書きなぐっている>文章だとして、あまり詮索しない方がよいかもしれない。
 ただ、さらについでに、指摘しておくべき価値のあることがある。
 上の1の②の後半は、月刊Will2019年4月号の対談(11月号別冊・歴史通)でもそのまま使われている。
 西尾幹二は、同じ文章を<使い回している>。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。

 月刊WiLL2019年11月号別冊・歴史通、p.219。(=全集第17巻、p.715。)
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 (この項、つづく)
 季刊雑誌・佐伯啓思監修『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2307/西尾幹二批判019—『国民の歴史』⑥。

  西尾幹二・国民の歴史(1999、2099、2017)は「歴史」に関する随筆・評論(時事評論を含む)の寄せ集めにすぎない。むろん、「(歴史)学術書」、<思想書>では全くない。
 概念の不明瞭さと、単純なことを長々と(レトリックを使って)書いている冗長さがひどい。現実の認識自体にも奇妙なところがある。
 これら等を、この書の最後の章「34/人は自由に耐えられるか」に即して指摘してみよう。
 西尾幹二・国民の歴史(全集版、2017)。p.619〜。
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  西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)でこの人は、こう書いた。 
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました」(p.120)。
 「完全な」、「素っ裸の自由」などないと「生涯かけて…言いつづけてきた」。
 しかし、そう言うわりには、既述のように、西尾幹二は「自由」を基本概念とする法学または憲法学の本を一冊も参照していないと見られる。また、<自由>を主題とする哲学書を古典的なものも含めて一冊もまたはほとんどきちんと読んでいないと見られる。
 さらに、上の2018年書での Freedomと Libertyの違いの西尾の理解は、日本の高校生でも冒さないような幼稚な間違いである、旨もすでに述べた。
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  2018年書でも上のとおりなのだから、1999年『国民の歴史』の最後の章の「自由」の意味が全く不明瞭であることは、当然のことなのだろう。
 西尾幹二は、何となくの、常識的感覚?でもって、「自由」という語・概念を用いている。
 その何となくの常識的感覚での言葉だと理解しても、その「自由」に関する叙述の<論理展開>の前提となっているつぎの認識は、すでに基本的に間違っている、と考えられる。
 ①「社会に枠がない。だから、…」。全集版、p.627。
 ②「現代においては、言葉によるにせよ上映像によるにせよ、われわれはあまりに自由に自己表現できる状況下に生きている」。p.629。
 ③「日本に限らない。現代の文明社会に住むすべての人間は、あまりに自由であり、空中浮遊の状態におかれている…」。同上。
 ④「われわれを直接的に拘束し抑圧するものは、今はなにもない」。p.633。
 ⑤「共産主義」と張り合った時代があったが、「私たちは否定すべき対象さえもはや持たない」。p.632。
 これらは、西尾の叙述の<前提>になっている。
 a 自由だ→だから<自分の枠>を作っている、あるいは、b 自由だ→本当は「不自由」だ、あるいは、c 自由だ→「自由だけでは、自由になれない」=ひどく「退屈」している。このc が、最終の節のハイデッガーの「退屈」論へとつながつていく
 さらに言うと、少し既に触れたが、「退屈」しつつ何も信じられないという「人間の悲劇」の前で立ち尽くしている、という「自覚」がある、というのが、最終章の、かつこの書の最後の一文だ。
 このような論理?の前提がそもそも間違いだったら、どうなるだろう?
 「自由」の意味が不明瞭だから断定し難いとはいえ、上の①〜⑤のように<単純に>論定できるだろうか、いやできないだろう(詳論は省く)。
 西尾は、「論述」しているのではなく、レトリックを用いて自己の「思い」・「ひらめき」を表現しているのだ、と反論するかもしれない。そうだとすると、まさにこの点に、概念の意味や論理展開を可能なかぎり明確にまたは厳格にしようという姿勢が欠けた、<随筆・評論>文書であることが明らかになるだろう。
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  西尾の最終章の論脈の骨子は、要するに、上のa +b +c に「退屈」論を経ての「人間の悲劇」の前に立ち尽くしている、という結語を加えただけのものだ。
 これを言うために、長々と全集版二段組で18頁、文庫版で27頁も使っている。
 西尾の文章の<飛び跳ね>、<連想づけ>、あるいは衒学趣味を含むレトリックに惑わされてはいけない。没入し、吸い込まれてはいけない。
 以下、もう少し細かく、その叙述の「論理」らしきものを追ってみよう。
 節番号はないが「0/」にあたる序言らしきもののあとの第一節にあたるのは、「1/理性への期待と未来への不安」だ。p.620〜。
 ここで西尾が書いているのは、最も簡単には、現在の日本はギリシャの「ヘレニズム時代」に似ている、ということに尽きる。あれこれの衒学(たぶん何らかの書物の要約・コピー)や<飾り>はある。
 何が似ているか、いうと、つぎの文章がある。
 ①「開かれた」社会へと変化し「理性の時代に向かっているかにもみえる」が、「自由の不安が、人々の心をひたひたと襲っていた」。p.622。
 ②「一方に理性への信頼があるのに、他方に個人が自由の孤独にどう対処してよいかわからないという不安がどこかで漂っている」。
 これらはこの章の基調のようなもので、すでに書いてしまっているのだ。ここから「退屈」や「人間の悲劇」はさして遠くない。
 また、何のためにギリシャ「ヘレニズム時代」を持ち出すのか。似ている時代は他にもきっとあるだろう。
 上の類似性を根拠づけるものとして、西尾は「占星術」の流行を挙げる。p.624。
 日本でのそれは何かというと、「経済や政治の行く手をめぐって絶え間なく占星術がまかりとおっている」、「株屋の予想のような…経営指南書」、「成功の秘訣を教えるこの傾向は教育論にまで及ぶ」。「人は現代のスタイルにおける星占いに狂奔しているのである」。
 ふーん? そもそも「占星術」の意味の問題でもあろうが、これで、ヘレニズム時代と現代日本の類似性を論証した、とでも思つているのだろうか。「論証」でなくとも、少なくとも「説明」をしたつもりなのだろうか。どこかおかしい。
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  つづいて第2節にあたる、「2/自分を閉ざす『仕切り』を欲する心理」
 冒頭からやや唐突に、歴史書でも哲学書でもない、少年を主人公とする一小説(日野啓三、1980年)の内容紹介がある。
 そして、西尾が何を言いたいかと言うと、結局のところこうだ。
 この小説は「現代の人間は中学生の少年だけではなく、多かれ少なかれガレージの四壁の中に閉じこもる少年と同じような、意図的な自己閉鎖の試みによって、かろうじて精神のバランスを保っているのではないか」と問うているようだ。
 このように一小説を用いて、「社会に枠がない」、「自由」だから「自分の周りに小さい枠をつくって、その中に入ってしまわないと安定しない」という、西尾の「自由」→「自己閉鎖」論が説かれる。
 「自由」も「自己閉鎖」も意味がそもそも明瞭でないのだが、西尾は心理学者でもも脳科学者でもない。「多かれ少なかれ」という副詞も挟んで、けっこう長々と叙述して、何が言いたいのか。
 さらに、自分が作った「枠」に衝突して攻撃しようとする「破壊衝動」が生まれる、そしてこれが基礎にしている「自閉衝動」を含む二つの衝動を満たそうとして中学生少年による<酒鬼薔薇事件>も起こったのだ、と言う。p.627 。
 文芸評論家になったり時事評論家になつたりしているが、ふーん?、それで?、という印象だけが残る。西尾はひよっとすれば得意になって、自分の文章の運びに酔っているのかもしれないが、冷静な読者はそうはいかない。??と感じるだけだ。
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  つづいて第3節にあたる「3/生活の中に増えていく間接体験」
 一つの章全体がさらに小さな随筆・「小論」の並びで(寄せ集めで)構成されているが、この節では、すでに提示されている主題を執拗に繰り返すこともしている。引用が一部重複するが、つぎのごとし。p.629。
 「現代においては、言葉によるにせよ上映像によるにせよ、われわれはあまりに自由に自己表現できる状況下に生きている」。
 しかし、自分の真意は「実際には言葉も映像も、ともに事実を表現するには無力であり、不自由だということなのである」。
 お得意の「自由」=「不自由」論であり、そして<人間は「自由」に耐えられるか>へとつながっていく。しかし、上でいう「無力」がなぜ直後に「不自由」という語に置き換えられるのかの理由・論理はさっぱり分からない。
 種々の事故・事件・異常犯罪を現場にいた者または当事者でなければ「直接に」経験することはできないのは明らかなことで、わざわざ言うほどのことではない。
 にもかかわらず、西尾は一頁以上を使って叙述する。 p.627-8。
 表題にも「間接体験」という語を用いているのだが、この語を思いついて、得意になったのだろうか。しかし、文章・映像、新聞・テレビ等を通じて「間接体験」しかほとんどできないのは、常識のことではないか(truism という語もある)。
 馬鹿馬鹿しくも、西尾はこの<言うまでもないこと>を長々と叙述する。
 ①「事実の異例さに驚くことはあつても、事実そのものに本格的に戦慄するところまでいくことは、じつは滅多にない」。p.630。
 ②「どっちにしてもわれわれは事実そのものを共体験することできないのだ」。p.631。
 自分の思いつきやひらめき、そしてそれらを言葉にしたものは「思想」だ、あるいは「優れた指摘」だ、などという狂っているとしか思えない傲慢さがないと、こういう文章を公にすることはできないのではなかろうか。
 また、この節でも最後に、「不自由」・「空虚」・「不安」に「じつと耐える」べきだ、という思想?、主張?が語られている。その中に、「事実」そのものを「共体験」できないのたから、という理由づけ?も入っている。
 レトリックとしては、何やら美しい文章なのかもしれない。しかし、いかなる具体的内実をもち得るだろうか。何度も、それで?と問わなけれはならない。
 ①「なぜ人は、ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままにじっと耐えつづけようとしないのだろうか。そうしない限り、…なにも経験したことにならない…」。p.631。
 ②「われわれは事実の前に言葉を失って立ち尽くし、ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままに風にさらしつづける不安に耐える勇気を持っていなくてはいけないのではないだろうか」。同上。 
 「ポッカリ開いた心の中の空虚を、空虚のままに風にさらしつづける不安に耐える勇気」を持て。何だ、これは??
 自然科学や社会系の学問分野で、こんな余計なことを冗長に書けるはずはない。歴史学分野でも同じ。「思想」だとかりにして、いかなる「思想」か??
 西尾はこの節の最後の一文として、「空虚を簡単に言葉や解釈で埋めてはならないのではないだろうか」と書いて、終えている。
 少しは笑ってしまう。この書物刊行後も、しきりと「言葉や解釈で埋め」る作業をして、雑誌論考を書き、書物を刊行してきたのは西尾自身ではないか。
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  長くなったので、「4/明るさのなかのあてどない生のさ迷い」、「5/ハイデッガーの三つの『退屈』」はもう省略する。似たようなことを指摘し続けなければならないからでもある。
 「5/」にはすでにこの欄No.2299〔批判018)で言及した(その際に「4/」としたのは誤り)。

2287/西尾幹二批判012ー『国民の歴史』④。

 西尾幹二2009年に『国民の歴史』(1999年)への反応について、「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」と書いた(全集第18巻p.695掲載)。
 この人は自分を「思想家」だと自認している(いた)フシはある。 
 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)のオビに、<新しい思想家の出現>という推薦の言葉を載せていた。ということは、自分は古い、または現在の「思想家」だと考えていたようにも思える(これは2016年のこと)。そうでないと、「新しい思想家」とは形容しないのではなかろうか。なお、この部分は福井義高に対する私の皮肉や批判を何ら含むものではない。
 西尾幹二にとって「思想家」だと自称しなかったとしても、他者からそう見られることはきわめて嬉しいことだったに違いない。一部には、そう形容した人や編集者がいたかもしれない。何といっても、全集刊行出版社の国書刊行会によると、西尾は「知の巨人」なのだから。
 一方、すでに紹介したことだが、2011年、全集刊行開始とほぼ同時期に、こんなふうに発言していた。一文ずつ改行。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。<『西尾幹二全集』刊行記念・特別対談>「私の書くものは全て自己物語です」(聞き手・遠藤浩一)。
 「遠藤さんもご存知のように、私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした
 …を皮切りに、ソ連文学官僚との対話や西ドイツの学校めぐり、…や新しい歴史教科書をつくる会の会長時代の体験記、…、はては自分のガン体験まで、『私』が主題でないものはありません
 私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。」p.245。
 ここで対象となっている「私の書くもの」の範囲は明確ではないが、すでに刊行されたか刊行予定のいくつか(11巻・自由の悲劇、13巻・全体主義の呪い等)は間違いなく含んでいると見られる。そして、どの程度の範囲までこの発言の趣旨が及んでいるかを明確にしていないようだ。
 しかし、聞き手の遠藤浩一は、つぎのようにまとめており、西尾も特に異議を挟んでいない。p.246-7。
 「全集の全てが先生の個人物語であり、これまで私小説的な自我で生きてこられたということでした。
 この私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないかと思います。」
 『国民の歴史』等の全ての執筆物が「自己物語」であり「私小説的な自我の表現」だと論評するのは、おそらく行きすぎだろう。しかし、少なくとも1999年の『国民の歴史』以前の西尾にとって重要だったはずの仕事が『私』を主題とする「自己物語」だと2011年に語られていることは、やはり無視することはできない。
 つまり、「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした」と少なくとも1990年前後までの自分の仕事について2011年に発言した同じ人物が、1999年の『国民の歴史』を「研究」書・「学術」書として執筆できるはずはなかったのだ。
 したがって、2009年の「私の思想が思想としては読まれず、…遺憾」だったという文章は、「私の思想」というかたちで示した「自己表現」・「自己物語」が理解されなかった、という意味で理解することができる。
 あるいは、西尾は傲慢に、<自分の思いつき・考え>を<私の思想>と同一視して、言い換えているのかもしれない。
 これらのとおりだとすると、理解されなかったのは当たり前のことだ。
 西尾幹二の「私の思想」に込められた、「我」の表現、「自己物語」を第三者が(少なくとも容易に)理解できる筈はない。あるいはまた、<自分の思いつき・考え>をそのまま理解しろと言うのは傲慢極まりなく、むしろ自分の文章の論理展開等に原因があったかもしれない。この人においては、<自分を認めよ>という意識・感覚が強すぎるのだろう。それほどの<超人>なのか。
 さて、もともと「思想」がどこにあるのか、と前回に本欄で書いたところだが、「私の思想」を『国民の歴史』というタイトルの「歴史随筆」として、非体系的に、「随筆」・「散文」の寄せ集めとしてまとめたのが、1999年の『国民の歴史』ということになるだろう。
 しかし、西尾において、2018年には、『国民の歴史』は突然に?、「歴史哲学」を示したもので、「グローバルな文明史的視野を備え」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担」ったものに変化(転化?)してしまう。
 もともと西尾幹二が書いたものを真剣に(真面目に)読むのは時間の無駄だ(全集も。かりに所持しても誰も真面目には精読・熟読していないのではないか)。その根本原因の一つは、一貫性のなさであり、ほぼ同趣旨だが、「概念」の曖昧さやその動揺だ。
 これは「自然科学」的知性とも、西尾のいう「社会科学的知性」とも異なる「文学的」知性なのかもしれない。
 だが、「思想」といいつつ、日本での「思想」や「哲学」に関する議論状況をほとんど知らず、「我流」で「自己表現」として「私の思想」なるものを展開しているにすぎないだろう。また、<概念の曖昧さ・動揺>は当然のことだ(これが「文学」的、「文学部」的知性なのか?)、と考えているようでもある。
 これら二点には、また別に論及することにする。

2285/西尾幹二批判011—『国民の歴史』③。

 西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)について、<歴史随筆>・<広義での歴史読み物>にすぎない、とすでに書いた。
 これの「随筆」ぶりは、第27章に該当するだろう「27・終戦の日」(全集版p.516-)が「私の父には異母弟が二人おり」から始まって、終戦直後に西尾が父親に出したという文章の<原文写し>までが掲載されていることでも容易に知られる。
 そのあとには「29・大正教養主義と戦後進歩主義」と題する戦後<進歩派>知識人批判とか、「31・現代日本における学問の危機」「32・私はいま日韓関係をどう考えているか」などの「国民の歴史」を扱う<歴史書>らしくはない主題が続き、最後の章(らしきもの)は「34・人は自由に耐えられるか」という表題だ。
 それぞれ、「随筆」または「評論」(・「時事評論」)に該当するとしても、もちろん「学術書」とか「研究書」と言われるものに該当しない。
 したがって、西尾がつぎのように2009年に書いた(ようである)のは、勘違いも甚だしい、と考えられる。
 「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」。全集第18巻p.695。
 いったいどこに、「思想」があるのだろう。いろいろな書物の何らかの複写・西尾の脳内での「編集」があるとしても、「思想」はない。
 あるとすれば、この書がもともと<新しい歴史教科書をつくる会>の運動を背景として出版された、という背景を考えると、強いていえば<日本主義>・<日本民族主義>・<愛国主義>、きわめて曖昧な(頻繁には使いたくない一定の意味での)<保守主義>ということになるのだろうが、これらの<主義>は至るところに、あるいは現在の「いわゆる保守」や日本会議という活動団体の中や周辺にはどこにでも見られるもので、一般的・抽象的・観念的に語ることはできても、詳細な研究に値する「思想」ではない。
 言い換えると、西尾幹二はもともと一つの「社会運動」のためにこの書物を書いたのであって、自分の「思想」うんぬんを語るのは、相当に<後付け>的説明だ。
 西尾の表現によるとまるで少なくとも本質的には「思想」書のごとくだが、一方で、「学術」書とか「研究」書とかは自称していない(ようである)ことは興味深い。
 「学問」よりも「思想」が、したがって「学者」よりも「思想家」の方がエラい、と考えているのかどうか。もちろん、この人は「思想家」ではなく、「評論家」または「時事評論家」、もっと明確には、一定の出版業界内部での<文章執筆請負自営業者>にすぎない、のだけれども。
 少し戻ると、第二代の「つくる会」会長だったらしい田中英道は、「月報」ではなく西尾幹二全集の中に本文と同じ活字の大きさの「追補」執筆者として登場して(このような「編集の仕方」の異様さはまた別に触れる)、西尾著のかつての批判者・永原慶二の文章をつぎのように紹介・引用している。原文を探しはしない。
 「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示することは学者に許されることではない」。全集上掲巻p.735。
 日本共産党の党員だった、または少なくとも完全に<容日本共産党>の学者だった永原慶二を全体として支持する気持ちはさらさらない。
 しかし、「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示」しているとの批判?は、おそらくは相当に適切だ。西尾幹二には「直感」と「弁舌」がある。
 だが、この永原の指摘が決定的に奇妙なのは、「学者に許されることではない」と批判?していることだ。
 すなわち、西尾は「学者」として『国民の歴史』を執筆したのではない。
 西尾幹二は、「学者」ではない。「学術」書・「研究」書として『国民の歴史』を刊行したのではない。
 したがって、上の表現を借用すれば、「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示」しているという批判は、当たらない。なぜならば、西尾幹二は「学者」ではないからだ。「学者」ではない西尾には、そのようなことはもともと「許される」ことなのだ。
 西尾よりも神がかり?しているらしい田中英道が書いている永原に対する反論・批判や西尾擁護は、当然に的確ではない。
 なお、アリストテレスによる<学問分類>に孫引きで言及して、西尾幹二のしていることは<制作的学問/弁論術>に該当し、隣接させている<制作的学問/詩学>ではない、等と指摘したことがある。No.2251ー2020.07.09。
 その際アリストテレスの<学問>体系によると学問・科学は大きく三分類されるが、「制作的学問」はつぎのとおり、最も下位に位置づけられる(らしい)。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。
 「弁論術」・「弁舌」あるいは「レトリックの巧みさ」は、もともと「学問」性の低いものだ。今日の常識的な語法では、創作=詩・小説・映画・音楽・演劇等々とともに「学問」ではそもそもない。相手や読者・公衆を「説得」する、「その気にさせる」ことはできるものではあっても、<事実>・<真実>を追及するものではない。
 さらになお、アリストテレスが「詩学」に含めているとみられる詩・小説・演劇・音楽等々は人々の「こころ」を「感動」させる力が十分にあり得るが、西尾幹二が生業としてきた「弁論術」には、そのような力はないか、あっても、上記のものよりは程度が小さい、と言えるだろう。
 

2280/西尾幹二批判010・『国民の歴史』②。

  前回(批判009)の補足。
 西尾が書いているとおり、『国民の歴史』の「14」は表題自体が「『世界史』はモンゴル帝国から始まった」となっていて、最初から19頁め(全集18巻版)に、こうある(p.289)。
 「以上、『モンゴルと中国の関係略史』(一)(二)は岡田英弘氏から直かにご教示いただいて記述したが、文責は私にある」。
 「文責」、つまり文章化・要約・作文は西尾にあるが、計5頁ほどの「内容」は岡田英弘に依っていることを認めている。長々とした一連の文章群の内容は西尾幹二自身によるものではない。
 二 『国民の歴史』の「6 神話と歴史」から、気になる点をさらにいくつか挙げておこう。まず、第一。
 その11「神話の認識は科学の認識とは逆である」p.128(全集版)にこうある。
 「すでに神を感じない社会」に生きる我々が「神々によって宇宙が支えられていると感じる古代社会の言葉と感性と同じはずはない」。
 何となく読み過ごしてしまいそうな文章だが、このような「古代」の人々の「感性」の理解・認識は適切なのだろうか。
 つまり、彼らはほんとうに「神々によって宇宙が支えられていると感じ」ていたのだろうか? 西尾の一見「深遠な」言明は、じつは「適当に」発せられていることが少なくないのではないか。
 古代の人々はどういう「感性」で生きたのだろうと想像することは、私には楽しい。しかし、「神々」の意識・感覚はかなり高度なもので、なかなか発生しないのではないか、と考える。
 生きていること、そのための呼吸と心臓の鼓動を意識し、死とそれが訪れるとやがて身体は腐敗していくことを知っていたに違いない(なお、もっとのちの日本の文献によく出てくる「もがり」は再生・蘇生しないことを確認するための儀式だったように思われる)。
 また毎日昇って消えていく太陽、およそ(今でいう)一月ごとに形の満ち欠けを変えながら「この地」を回っている月、日の出・日の入りの太陽の位置が寒暖の季節ごとに異なりおよそ(今でいう)一年ごとに同じになることを、早くから知っていただろう。
 さらに、むろん、生きていくために「水」・「食料」が必要であることも。「空気」(中の酸素)はひょっとすれば所与のものとして意識しなかったかもしれないが、海中や高山では生き難いことは知っていたはずだ。
 これはヒト・人間をとり巻く「自然」にかかわることであって、いつの時点から「神」なるものを意識したのかは、よく分からないことだ。
 だが少なくともヒト・人間は、縄文時代の人々も、「神々によって宇宙が支えられていると感じ」てはいなかっただろう。「宇宙」=地球全体の感覚はまだないはずだ。「宇宙」=「自然」という意味では「宇宙」を感じていただろうとしても。
 繰り返すが、「神」という意識・感覚の発生はかなり高度の精神作用を必要とするのであって、古代の人々が何となく自然に身につけるようなものではないのではないか。むろん、「必然」ないし「規則・法則」的なことと「偶然」・「事故」的なことの区別くらいのことは当然に意識し、知っていただろうが。
 第二。西尾はもっぱら「言葉」と「文字」の関係一般に着目して、日本文明(縄文原語)と中国文明(漢字)を記述しているように見えるが、私の関心は他にもある。
 日本書記における「年」の表記の仕方には十干十二支を利用したもの、「天皇」の在位年数を利用したもの、年号(大化等)を利用したものの三種あるとされる。最初の<十干十二支>は、令和日本の現在でもなお用いられることがあるが、どのようにして、いつ頃から、日本列島の人々は利用し始めたのだろう。中国からの「輸入」以後でないとすると、それまではいったいどのようにして「年数」を数え、記憶・記録していたのだろうか。
 西尾の著書には、これに関する叙述はないのではないか。のちのちの、<陰陽五行説>についても。これらは、「仏教」・仏教典の一部にあるのではないはずだ 。
 より重要な第三は、以下。
 既述のとおり、「6」章の節名を利用すれば、この章での西尾幹二の出張したいことの重要な一つは、章名とともに以下にあると理解しても決して誤りではない。 
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」
 しかし、この書物(全集版)が刊行された2017年とまさに同じ年に、西尾幹二は、つぎのように明言している。そして、翌年2018年刊行の全集の別の巻(17巻)に収載している。一文ずつ改行する。
 「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、…そのまま信じられるでしょうか。
 神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。
 神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018年)p.715、「『新しい歴史教科書をつくる会』創立20周年記念集会(2017年1月29日)での挨拶文」の一部(原出、月刊正論2017年4月号)。
 西尾幹二に真面目に訊ねたいものだ。『国民と歴史』のうちの6章「神話と歴史」に関する叙述と上の「挨拶文」の内容は、矛盾しているのではないか。少なくとも、どういう関係に立っているのか。
 つづけて、第四
 西尾幹二のために、「助け船」を出すことはできる。すなわち、歴史と神話の関係・異同に関する言明は真反対のように見えてもいわば<レトリック>であって、主眼はそれぞれの「解釈」の方法の違いの指摘にあるのだ、と。
 たしかに『国民の歴史』には、こういう文章もある。18巻、p.129。
 「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」
 後者の「自分が神の世界と一体となる」は、前者の「神話」を前にしては<解釈の自由はない>という指摘と似ているとは言える。
 しかし、前者は(西尾によくあることだが)突然に「科学」という言葉・概念を持ち出し、「歴史」=「科学」(の一部)という前提に立っているようだが、「歴史」、「科学」等の概念の丁寧な説明はない。そして「逆の認識の仕方」とだけ述べて、<解釈・選択の自由がある>という旨を明確に語ってもいない。
 少なくとも、同じ2017年の発言と刊行書の内容の間の齟齬・矛盾を指摘しても、何ら厳しすぎることはないだろう。
 なお、<「神話」は解釈を許さない>という言明がなぜ、どのように根拠づけらるのか?
 これは、バカバカしいので、省略する。「神々」の時代も含めて、それ以降についても、日本書記、古事記の種々の「解釈」がなされており、議論があることは、高校生でも知っていることだろう。西尾幹二の「解釈」にはこの人に独自の(ほとんど誰も理解できない我流の)意味があるのだろうか。
 第五。そもそも、日本書記、古事記は、全体として「神話」なのか。
 西尾幹二は上の二つとも「神話」だという前提に立って、中国の「歴史」書との「等価値」性を指摘し、後者も広義では「神話」だとする。
 しかし、そもそも論として、日本書記、古事記のいずれも、全体として「神話」だ、という認識は決定的に誤っているだろう。
 よく知られるように、日本書記は計30巻から成るが、そのうち巻第一は「神代上」、巻第二は「神代下」とされ、巻第三以降・巻三十までが「天皇」を中心とする叙述になっている(神武〜持統)。   
 今日の目で見て、「史実」とは感じられないような叙述があるのだとしても、作者・編纂者は、巻第三以下は真面目に?日本国家の「歴史」書だとして記述したと考えられる。そして、彼らが「神」の時代の「話」=「神話」だと明瞭に意識して記述したのは、巻第一・第二の「神代」だけだ。
 これに関連して、日本書記の今日の「解説」者は、こう記す。
 「巻三以下巻三十まで、すべて天皇名で標題とすることは、明らかに中国史書の『帝紀』に相当するわけで、『日本書記』という書名は『日本書の帝紀』の意であることも首肯できる」。「ただ異なるのは、巻一・二が『神代』となっている点である。中国の史書は『神代』を語ることはないからである」。
 この文は巻第三以下を「人皇代」と称してもいる。
 日本書記・上(小学館日本古典文学全集、1994)「解説」の西宮一民担当部分
 一方、古事記は上つ巻・中つ巻・下つ巻の三部に分かれるが、中つ巻が神武〜応神、下つ巻が仁徳〜推古の各天皇の時代を叙述しており、上つ巻が日本書記の用語では「神代」に当たる。
 こう区別されているところを見ると、また内容から見ても、上つ巻だけは「神たちの時代」と意識されているとしても、それ以下は、作成者の「主観」においては古代の日本「歴史」だった可能性が高いものと思われる。
 このような日本書記、古事記を、例えば仁徳天皇以下も含めて、西尾幹二はすべて「神話」だ、ということから出発しているわけだ。
 全てが「史実」を記述しているとは秋月も考えないが(なお、安本美典は熱心な応神天皇実在論者だ)、「史実」であって、またはそれをかなり反映していて、決して簡単に「神話」だと認定できない部分をいずれも含んでいる、と考えられる。これは、常識ではないか。
 しかるに、西尾幹二は最初からこれらが「神話」だとしている。それから出発している。
 日本書記も古事記も実際には、全くまたはほとんど「読んだことがない」西尾の面目躍如というところだろう。
 西尾幹二はこれらの「歴史」書性をできるだけ否定しようとしする戦後「進歩的」歴史学に、最初から屈服している、とも言える。
  ついでに、ということになるが、上に二の第三で引用した2017年の「挨拶文」の一部は、一部を除き(古事記うんぬんの部分)全く同文で、対談中の発言であるはずの以下でも用いられている。
 実際の対談後の「原稿化」の過程で追加されたように思われる。
 西尾幹二は、一つながりの文章群を<使い回し>ているのだ。一粒で二度おいしい。<古事記>への言及は欠落しており、元来は別の論脈の中での文章だ。
 「神話は歴史と異なります。
 「歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません。
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。 
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」月刊WiLL2019年4月号(ワック)
 西尾幹二という人物は、こういう<文章の使い回し>を(こっそりと)平気で行う人物だ、と知らなければならない。言いたいことがたまたま?同じだから、という釈明は成立しない。

2256/池田信夫ブログ018・西尾幹二批判005。

 
 池田信夫ブログ2020年7月14日付は同20日予定の「ブログマガジン」の一部のようなので、全文を読んでいるわけではないが、すでに興味深い。
 タイトルは「『皇国史観』という近代的フィクション」
 ときに、またはしばしば見られるように、紹介・論及する書物に書いてあることの紹介・要約なのか池田信夫自身の言葉・文章なのか判然としないが、片山杜秀・皇国史観(文春新書、2020年4月)を取り上げて、池田はまずこう書く。そのままの引用でよいのだが、多少は頭の作業をしたことを示すために箇条書きするとこうだ。
 ①「万世一系の天皇という概念」ができたのは明治時代だ。
 ②「天皇」は「古代から日本の中心だったという歴史観」は徳川光圀・大日本史に始まるが、一般化はしていなかった。
 ③その概念・歴史観を「尊王攘夷思想」にしたのは「19世紀の藤田東湖や相沢正志斎などの後期水戸学」だ。
 ④明治維新の理念はこの「尊王攘夷」だったという「話」は「明治政府が後から」つくったもので、「当時の尊王攘夷は水戸のローカルな思想」だった。
 ⑤この思想を信じた「水戸藩の武士は天狗党の乱で全滅」、長州にこれを輸入した「吉田松陰も処刑」。そのため、戊辰戦争の頃は「コアな尊王攘夷派はほとんど残っていなかった」。
 ⑥「水戸学」=尊王攘夷思想の最大の影響は、徳川慶喜(水戸藩出身)による「大政奉還」というかたちの「政権」投げ出しだったかもしれない。
 ⑦これは「幕府の延命」を図るものだったが、「薩長は幕府と徹底抗戦した」。
 以下、省略。
 こう簡単にまとめて叙述するのにも、幕末・明治期以降の「神・仏」・宗教・「国家神道」や戦後の神道の「宗教」化あたりの叙述と同様に、かなりの知識・素養・総合的把握が必要だ。
 片山なのか、池田信夫なのか、相当に要領よくまとめている。
 仔細に立ち入らないが、上のような叙述内容に、秋月瑛二も基本的に異論はない。
 少し脱線しつつ付言すると、①水戸藩スペア説・水戸出身の慶喜が一橋家養子となっていたため「最後の」将軍になった、という偶然?
 ②「大政奉還」は全面的権力放棄ではなく(1967年末には明治新政府の方向は未確定で)、とくに「薩長」が徳川家との全面対決と徳川権力の廃絶を意図して「内戦」に持ち込み、勝利してようやく<五箇条の御誓文>となった(ついでに、この第一項は決して今日の言葉での「民主主義」ではない)。
 ③尊王攘夷の「攘夷」は<臆面>もなく廃棄されたが、それは「長州ファイブ」でも明らか。-上に「コアな尊王攘夷派ほとんど残っていなかった」とあるのは、たぶん適切。
 
 明治維新を含んでの、上のような辺りに関する西尾幹二の<歴史観>を総括し分析するのは容易ではない。これは、日本の歴史・「天皇」についての理解の仕方全体にも当然にかかわる(容易ではない原因の一つは、同じ見解が継続しているとは限らないことだ)。
 だが、西尾幹二にも、明治期以降に「作成」された、あるいは本居宣長等以降に「再解釈」された「歴史観」・「天皇観」が強く反映されていることは明瞭だと思われる。
 <いわゆる保守派>によくある、明治期以降の「伝統」が古くからの日本の「伝統」だと思い込んでしまう(勘違いしてしまう)という弊害だ。
 西尾幹二自身も認めるだろうように、「歴史」の<認識>は少なくともある程度は、<時代の解釈>による。明治期あるいは大日本帝国憲法下の「歴史観」(=簡単には「皇国史観」)という一つの「解釈」に、西尾幹二も依拠しているものと思われる。
 この点は、いくつかの西尾の書物によって確認・分析するだろう。
 上のブログ叙述との関係でいうと、池田信夫が、①藤田東湖ら「後期水戸学」の尊王攘夷思想は「ローカルな」ものだったが、②明治政権が明治維新の理念に関する作り「話」として「後から」作った、③但し、真底から?これを実践したわけではない、と述べている部分は(最後の③は秋月が創作した)、西尾幹二とかなり関係している。
 「自由」を肯定的意味でも用いることのある西尾幹二によると、藤田東湖の父親の藤田幽谷は、こう叙述される。あくまで、例。
 ①藤田幽谷が幕府と戦ったのは「あの時代にして最大級の『自由』の発現でした」。
 ②「徳川幕藩体制を突き破る一声を放った若き藤田幽谷…」。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.205、p.379。前者に先立つp.181~に「後期水戸学」に関するかなり長い叙述がある。
 また、つぎの著は本格的に?、藤田父子を挟んで、水戸光圀から天狗党の乱までを叙述している。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封11-維新の源流としての水戸学(徳間書店、2015)
 このように西尾は藤田幽谷・東湖を高く評価している。但し、つぎの書には「水戸学」関係の叙述は全くないようなので、西尾が藤田幽谷・東湖らに関心を持ったのは、どうも2000年-2010年より以降のことのように推察される。
 西尾幹二・決定版/国民の歴史-上・下(文春文庫、2009/原著1999)。
 (ところで、西尾幹二全集第18巻/国民の歴史(国書刊行会、2017)p.765によると、「新稿加筆」を行い、上の「決定版」の三文字は外した、という。西尾『国民の歴史』には、1999年・2009年・2017年の三種類がある、というわけだ。「最新」のものだけを分析・論評の対象にせよ、ということであるなら、まともな検討の対象にはし難い。<それは昔書いたことで、今は違う>という反論・釈明が成り立つなら、いったん活字にしたことの意味はいったいどこにあるのか?)。
 さて、西尾幹二によるとくに「後期水戸学」の評価にかかわって、つぎの疑問が生じる。
 第一。西尾幹二は別途、「豊穣な」江戸時代、「すでに近代だった」江戸時代という像も提示していると思われる。
 西尾幹二・江戸のダイナミズム(文藝春秋、2007)。/全集第20巻(2017)。
 この書は本居宣長をかなり扱っている。しかし、珍しく「索引」があるものの、「水戸学」も「藤田幽谷」・「藤田東湖」も出ていない
 それはともかく、江戸幕藩体制を「突き破る」精神・理念を提供したという後期水戸学・藤田父子への高い評価と、上の書の江戸時代の肯定的評価は、どのように整合的・統一的に把握し得るのだろうか? 必ずしも容易ではないように思えるのだが。
 第二。池田信夫ブログにあるように、「尊王攘夷」思想が現実化された時期があったとしても、ごく短い時代に限られる。
 したがって、藤田幽谷ら→明治期全体、という捉え方をすることは全くできない。ましてや、藤田幽谷ら後期水戸学→「近代日本」という(少なくとも直接の)連結関係もない。
 余計ながら、明治時代こそ、現在の西尾幹二等々が忌み嫌う「グローバリズム」へと突き進んだ(またはそうせざるを得なかった)時代だった。「鹿鳴館外交」とはいったい何だったのか。
 したがって、今日において藤田幽谷らを「称揚」することの意味・意義が問われなければならない、と考えられる。西尾において、この点はいかほどに意識的・自覚的になされているのだろうか。
 そんなことはどうでもよい、と反応されるのかもしれない。とすれば、いかにも「西尾幹二的」だ。

2187/西尾幹二の境地-歴史通・WiLL2019年11月号別冊⑤。

  言葉・概念というのは不思議なもので、それなくして一定時期以降の人間の生活は成り立ってこなかっただろう。というよりも、人間の何らかの現実的必要性が「言葉・概念」を生み出した。
 しかし、自然科学や医学上の全世界的に一定しているだろう言葉・概念とは違って(例えば、「脳」の部位の名称、病気の種類等の名称のかなりの部分)、社会・政治・人文系の抽象的な言葉・概念は論者によって使用法・意味させているものが必ず一定しているとは限らないので、注意を要する。
  面白く思っている例えば一つは、(マルクスについてはよく知らないが)レーニンにおける「民主主義」の使い方だ。
 レーニンの「民主主義」概念は多義的、あるいは時期や目的によって多様だと思われる。つまり、「良い」評価を与えている場合とそうでない場合がある。
 素人の印象に過ぎないが、もともとは「民主主義」は「ブルジョア民主主義」と同義のもので、批判的に用いられたかに見える。
 しかし、レーニンとて、-ここが優れた?政治運動家・「革命」家であったところで-「民主主義」が世界的に多くの場合は「良い」意味で用いられていること、あるいはそのような場合が少なくともあること、を十分に意識したに違いない。
 そこで彼または後継者たちが思いついた、または考案したのは、「ブルジョア(市民的)民主主義」と対比される「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」という言葉・概念で、自分たちは前者を目ざす又はそれにとどまるのではなく、後者を追求する、という言い方をした。
 「民主主義」はブルジョア的欺瞞・幻想のはずだったが、「人民民主主義」・「プロレタリア民主主義」(あるいは「ソヴェト型民主主義」)は<進歩的>で<良い>ものになった。
 第二次大戦後には「~民主共和国」と称する<社会主義をめざす>国家が生まれたし、恐ろしくも現在でも「~民主主義人民共和国」と名乗っているらしい国家が存続している。
 似たようなことは「議会主義」という言葉・概念についても言える。
 マルクスやレーニンについては知らない(スターリンについても)。
 しかし、日本共産党の今でも最高幹部の不破哲三は、<人民的議会主義>と言い始めた。
 最近ではなくて、ずいぶん前に以下の著がある。
 不破哲三・人民的議会主義(新日本出版社、1970/新日本新書・1974)。
 「議会」または「議会主義」はブルジョア的欺瞞・幻想として用いられていたかにも思われるが(マルクス主義「伝統」では)、日本共産党が目ざすのは欺瞞的議会主義ではなく「人民的議会主義」だ、ということになった。現在も同党の基本路線のはずだ。
 <民主主義革命・社会主義革命>の区分とか<連続二段階革命>論には立ち入らないし、その十分な資格もない。
 ともあれしかし、そうだ、「たんなる議会主義」ではなく「人民的議会主義」なのだ、と納得した日本共産党員や同党支持者も(今では当たり前?になっているかもしれないが)、1970年頃にはきっといたに違いない。
  しかし、元に戻って感じるのだが、これらは「民主主義」や「議会主義」という言葉・概念を、適当に(政治情勢や目的に合わせて)、あるいは戦術的に使っているだけではないだろうか。
 <反民主主義>とか<議会軽視=暴力>という批判を避けるためには、「人民民主主義」・「人民的議会主義」という言葉・概念が必要なのだ。
 たんに言葉だけの問題ではないことは承知しているが、言葉・概念がもつ<イメージ>あるいは<印象>も、大切だ。
 人間は、それぞれの国や地域で用いられる<言葉・概念>によって操作されることがある。いやむしろ、常時、そういう状態に置かれているかもしれない。
 自明のことを書いているようで、気がひける。
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 四 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 p.222で、西尾幹二はこう発言する。
 ・「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神」だ。「自然科学ではない科学」を蘇生させる必要がある。
 ・日本人が持つ「神話思想」は、「自然科学が絶対に及び届くことのない自然」だ。
 ここで西尾は、「自然科学」(または「科学」)と「日本的な科学(の精神)」を対比させている。
 これは、レーニンとて「民主主義」という語が~と上に記したように、西尾幹二とて?、「科学」という言葉・概念が<良い>印象をもつことを前提として、ふつうの?「自然科学」ではない「日本的な科学」が大切だと主張しているのだろう。
 民主主義または欧米民主主義とは異なる「日本的民主主義」というのならば少しは理解できなくはない。しかし、「自然科学」またはふつうの?「科学」と区別される「日本的な科学」とはいったい何のことか?
 これはどうやら日本の「神話(思想)」を指す、又はそれを含むようなのだが、しかし、このような使用法は、「科学」概念の濫用・悪用または<すり替え>だろう。
 ふつうの民主主義ではない「人民民主主義」、ふつうの議会主義ではない「人民的議会主義」という語の使い方と、同一とは言わないが、相当に類似している。
 五 西尾幹二・決定版国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 これのp.169に、つぎの文章がある。この部分は節の表題になってもいる(p.168)。
 「広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 つまり、「神話」は、<狭義の歴史>ではなくとも<広義の歴史>には含まれる、というわけだ。
 「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.166)中で語られているのだから、西尾としては重要な主張なのだろう。
 あれこれと論述されていて、単純な議論をしているのではないことはよく分かる。
 しかし、上の部分には典型的に、「神話」と「歴史」の両概念をあえて相対化するという気分が表れていると感じられる。
 つまり、「歴史」概念を曖昧にし、その意味を<ずらして>いるのだ。
 こうした概念論法を意識的に用いる文章を書くことができる人の数は、多いとは思えない。
 言葉・概念・文章で<生業>を立ててきた、西尾幹二らしい文章だ。
 相当に単純化していることを自覚しつつ書いているが、このような言い方を明瞭な形ではなくこっそりと何度でもするとすると、こうなる。
 ああ言えばこういう、何とでも言える、という世界だ。
  <文学>系の人々の文章で、フィクション・「小説」・<物語>と明記されて、あるいはそれを当然の前提として書かれているものならばよい。
 そして、いかに読者が「感動」するか、いかほどに読者の「心を打つか」が、そうした文章または「作品」を評価する<規準>となる、ということも、フィクション・「小説」・<物語>の世界についてならば理解できなくはない。
 しかし、そうではなくノン・フィクションの「学問」的文章であるならば、読者が受けた「感動」の質や量とか、どれだけの読者を獲得したか(売れ行き)の「多寡」が評価の規準になるのではないだろう。
 何となしの<情感>・<情緒>を伝えるのが「学問」的文章であるのではない。
 <文学>系の人々の文章も様々だが、言葉の配列の美しさとか思わぬ論理展開とかがあっても、それらはある程度は文章の「書き手」の巧拙によるのであって、「学問」的著作として評価される理由にはならない。
 これはフィクション・「小説」・<物語>ではない、「文学」つまり「文に関する学」または「文学に関する学」でも同じことだろう。
 何となく<よく出来ている>、<よくまとまっている>、<何となく基本的な趣旨が印象に残る>という程度では、小説・「物語」とどこが異なるのだろうか。
 <文学系>の人々が社会・政治・歴史あるいはヒトとしての人間そのものについて発言する場合の、評価の規準はいったい何なのか。
 長い文章を巧く、「文学的に」?書くか否かが規準ではないはずだろう。
 長谷川三千子もきっとそうだが、西尾幹二もまた、日本の社会・政治、あるいは「人間学」そのものにとっていかほどの貢献をしてきたかは、全く疑わしい、と思っている。今後も、なお書く。
 江崎道朗、倉山満ら、上の二人のレベルにすら達していない者たちが杜撰な本をいくつか出版して(日本の新書類の一部またはある程度は「くず」の山だ)、論理的にも概念的にも訳の分からない文章をまとめ、「その他著書多数」と人物紹介されているのに比べれば、西尾幹二や長谷川三千子はマシかもしれない。
 しかし、学者・「学術」ふうであるだけ、却ってタチが悪い、ということもある。
 <進歩的文化人>ではない<保守的文化人>と自認しているかも知れない論者たちの少なくとも一部のいい加減さ・低劣さも、いまの時代の歴史の特徴の一つとして記録される必要があるだろう。

0915/「物語」としての歴史、そして「憲法」?

 歴史は「私たちの社会や国家についての物語的な問題解決や課題達成の願望を引きうけ、それを一つの『筋』のなかに表現する物語となって示される」と書き、歴史の「物語」性を書物の冒頭で宣明したのは、坂本多加雄だった。
 そして坂本は、「マルクス主義の歴史観」を批判し、マルクス主義、とりわけ日本の講座派のそれは世界最初に「社会主義革命」を実現したソ連の「世界革命本部であるコミンテルン」の見解に依っていたのでかつては「知的権威」を持ったが、「資本主義社会から社会主義社会へという歴史発展の展望は……もはや現実性を持たないものとなった」と述べつつ、「過去についてのある特定の物語を絶対化して、それをもとに、特定の未来像に拘束されるといった隘路に陥る」べきではない、等とする。

 以上、坂本多加雄・日本の近代2-明治国家の建設(1999、中央公論社)の「プロローグ」p.9-15。

 同旨のことは西尾幹二・国民の歴史(1999、産経新聞社)でも語られていたと思うが、再確認はしない。

 このような主張にもかかわらず、日本の歴史学界(=アカデミズムの世界)、とりわけ近現代史のそれは、なお圧倒的にマルクス主義、親講座派(日本共産党系)の学者たちに支配されているように見える。なおもマルクス主義史観を<「社会科学」としての歴史(学)>と妄信している気の毒な人たちが多そうだ。

 その点はともかく、「憲法の<物語>性」を語る憲法学者もいるようで、興味深い。

 佐藤幸治(1937~、前京都大学教授)は上に挙げた二著よりも早い1990年(初出)に、次のように書く。

 われわれが要求されているのは、「憲法と日常の具体的生活との深いかかわり合いを自覚せしめる”物語”(Narrative)を構築し、”善き社会”の形成に向けて努力するための筋道を提供する基盤とすることではないか」、「と痛切に思う」。「戦後改革」としての新憲法は「ある種の役割を果たし終えた」かもしれない、「しかし、日本国憲法は、新たな”物語”性の上に再生しなければならない」(下記p.63)。

 以上は、佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)による。
 「新たな”物語”性」の具体的意味・内容は明瞭ではない。だが、教条的な<左翼>憲法学者の議論とは異なるようなので、機会を見つけて、再び上の佐藤著に言及しよう。

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